本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『義認と法』論

『カール・バルト著作集6 政治・社会問題論文集<上>』「義認と法」等に基づく

 

 

 バルトは、「義認と法」・キリストの国と人間の地上の国家・教会と国家について、「新約聖書に関する試論」として述べている。様々な国家論や革命論がある中で、私たちは、この書物から、その聖書的神学的判断基準を、時代状況と思想的課題を念頭に置いて取り出せばいいだろう。

 

  教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(《政治的権力を無化していくこと》)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか。(カール・バルト『教会と国家』「キリスト者共同体と市民共同体」?見和男訳、新教出版社)
  (中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(《一切の国家・政治的権力》)のともがらと成ることができようか。 (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社)

 

 先ず以て私たちは、上記の引用文において、当時の西側イデオロギー・権力の同伴的知識人であり「幼稚な反共主義」者でもあった政治屋ニーバーとは根本的に違った不可避的な政治家バルトの政治に対する在り方を知っておく必要があるだろう。イエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済と平和の場所において、国家・政治的権力の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としては国家・政治的権力の無化を構造化させているのである。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、国家・政治的権力も無化されてしまうという究極的観点を持っているのである。
 このことについてバルトは、『義認と法』の「二 国家の本質」においては、次のように述べています。パウロ(ローマ13・1、テトス3・1)やルカ福音書(12・11)の「権威」・「支配」・「支配者たち」(「国家」)・「権力」・「王座」・「権勢」(類概念としては「御使」)は、「造られた力」でありながら、「不可見的・霊的・天的な力」(すなわち、実体ではなく、不可視な観念的・幻想的な共同性、集合的無意識と言えるでしょう)であり、人間の経済的物質的生活に対する人間の類的生活として、また「他の被造物(≪その存在様式の総体性でもって、現実的個別的私的に市民社会的生活を生きる人間≫)」に対する人間の類的生活として、すなわち自己還帰させることができなかった分だけ逆立的に対象化された市民社会の自己意識の類的本質・共同意識・観念の共同性における非現実的非現世的な公民の生活(観念的な公的共同体の一員の生活)を本質とする法・政治的国家として、「その上にありつつ」、「或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能」(現実的な市民社会内部における利害対立や諸矛盾の観念的・法的・政治的調整)を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである」。ここで、支配の側の制度としての官僚は、<法の支配>の下での<法>による行政に基づく法・政治的国家の職能団体である。したがって、ここでは、逆立した共同的な錯覚の下で、被支配に対して合法的に悪を行うことができるうシステムになっている。このことはシステム的必然としてそうなってしまうのであるから、諸個人の意志(倫理的態度)だけでは抑止することはできない。したがって、そうしたシステムから超出するためには、そのシステム、その観念の共同性を揚棄する以外には課題解決の方途はない。このバルトの神学的な「国家の本質」規定は、質のいい優れたものと言える。言い換えれば、私の知る限り、マルクス主義的神学者であっても、それ以外の神学者や著述家であっても、これ以上の神学的規定をした人はいない。
 バルトはさらに続けて、次のように述べています。国家は、「神の意志と定めによって定められた法の擁護者」であると共に、「皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神を涜し・全世界を征服する底なき所から上る獣にまで、成りうる」ものである。すなわち、「天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し・かくてデーモン的力となりうる」ものである。「イエスを十字架に付けたピラトの国家」は、それである。しかし、天使的力は、「もともと、自分自身に属するものでは決してなく、もともとイエス・キリストの処理にゆだねられているのである」。「キリストの御業」は、御使・天使たちの天使的力にも「向けられている」。その「反抗」も、「キリストの甦りと来臨における御国」の「根源的・究極的な秩序」の「限界内において、打ち砕かれてしまうものである」。政治的な天使的力、すなわち国家は、イエス・キリストにおいて起こった「罪人の義認に奉仕する」限りにおいてのみ、「教会に対して真実な正しい自由を与え」る限りにおいてのみ、過渡的形態として「正当な相対的な自主性」を持つことができる。したがって、私たちは、その限りにおいてのみ、国家の過渡的形態として、観念の共同性に過ぎない法・政治的国家を第一義・価値とする<国家>社会主義ではなく、人間の存在様式の総体性でもって生きる規模の大きい現実的な社会を第一義・価値とする<社会>国家主義を選びとることができる。したがってまた、私たちは、聖書から、「『もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者』と戦い抜く格闘を行えという呼び掛け(エペソ6・12)」と、同時に、「それらのものがキリストの愛からわれわれを引き離すことはできないという慰め(ローマ8・38以下)」の言葉と、「さらに、それらのものがキリストの再臨において、キリストによって究極的に『揚棄』されることに対する展望(Tコリント15・24)」の言葉を、聞かなければならない。この最後の「それらのものがキリストの再臨において、キリストによって究極的に『揚棄』される」という言葉から、バルトが、地上の国家の揚棄・国家の無化という終末論的観点を持っていたことを知ることができる。
 この終末論的観点からバルトは、権力を実体と考えヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践を行ったボンヘッファーとは違って、次のような良質な神学的実存における思想的原則を立てる。
ア)「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、先ず以て第一次的に、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである。
イ)「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである。
ウ)「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪民族国家・政治的近代国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」。この言葉だけからでも、多くの自然神学的な神学者や牧師や著述家や「大学社会の神学」者やそれに類する人たちとは違って、神学者で牧師で思想家でもあるバルトは、教条主義者でないことを知ることができる。
エ)「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」。
オ)「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」。
 バルトの場合は、神の側の真実である神性を本質とするイエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する説教や宣教の繰り返しの言葉が、「おのずから」状況に抗する神学的実存へと駆り立てて行く、というものであった。そのバルトにとっては、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にはなく、その福音にのみ信頼し固執する「言葉」にあった。それに対して、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの神学的実存の在り方は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」というところにある。しかも、そのボンヘッファーの信仰・神学のベクトルは、バルトとは違って、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論・「神人協力説」に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」にあったから、ボンヘッファーのそのイエスへの従順な服従行為は、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践にあった。しかし、それは、果たしてほんとうに従順な服従行為なのだろうか? 
 先ず最初に『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、私たちは、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する。このことから、次のように言うことができる。
 地上の「リアルな教会は、その将来と希望」を、終末論的な政治的秩序の「天におけるリアルな国家」・「神の国」・「天国」の中に、また政治的尊称である「メシア」・「主」の中に見る。この天の国・国家の「神性」は、「天のエルサレムの神性であって、そのようなものとして、地上の国家のものではない」。すなわち、神によって建てられた神性を本質とする天の国と人間が人間的に所有する人間の地上の国家との間には、無限の質的差異がある。また、教会は地上の国家に対して、「国家の中の国家」として対するのでもないし、「国家を超えた国家」として対するのでもない。義認の宣教と法の自由は相互保証の関係にあるから、教会は教会の課題である義認の宣教のために、「霊について何事も知らず、愛について何事も知らず、罪の赦しについて何事も知らない」「国家権力の担当者のための祈」りを行う必要がある。「天上の国家から、地上の教会へと投げ下ろされた光は、地上の教会から地上の国家へと投げやられた光の中に、反射される」必要があるからである。
 さて、「永遠の法」――それは、「その死において獲得され・その甦りにおいて宣言されたイエス・キリストの法」・「義認の使信」のことである。この「義認の教会」は、「神的義認の宣べ伝え」・「聖書にかなった正しい説教と問答教示、及び聖礼典の正しい執行」においてある。この「教会は神的義認を宣べ伝える自由を持たなければならない」という点に、すなわち国家を本来的な正しい「法の国家」・地上の国家・人間の法に向かわせるという点に、教会の国家に対する責任がある。このとき、「教会は、政治における連続体」である。すなわち、国家が正しい国家かそうでないかの監視体となる。それは、その国家が、人間的な「人権の基礎であり、保持であり、恢復である」「具体的な自由な法」(これは、神における永遠の自由ではない。自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である)を執行しているかどうかの監視にある。したがって、国家が「具体的な自由な法」を執行してる時、「神的義認」は、人間の「法における連続体」である。
 また、バルトは、「われわれは新約聖書の線」を、あくまでも人間的な過渡的形態においてであるが、国家形態を、一般市民・国民に最大限に開かれた国家、したがって直接民主制の憲法規定(長所・短所があるにせよ、バルトの場合は直接民主制のスイスをイメージしているに違いない。ただバルトは、武装中立におけるスイスの国防・兵役の在り方に疑念を懐いている)を有する、したがってまた「すべての国民の責任をもってする関与の上に建てられる」「『民主主義的』国家」に置く、と述べています。教会は、この自覚の下で、常に、国家から対象的になって距離をとっていなければならない。したがって、教会は、「諸国家が成立し、また消滅すること」・「様々な政治的観念が変転すること」・「政治そのものが人々の関心となり、或いは関心とならないということ」は「あっても良い」が、例えば「国家の力を増強するために、その被統治者・国民を、何らかの形において内面的に自分のものとし、したがって国家によって定められた世界観、……世界観的な感情や敵意を、彼らから要求する権利が、国家にはある」というような国家的要求・強要に対しては、断固として、否、を言わなければならない。