本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『最後の証し』(その2)――バルトの「大嫌いな言葉」

 バルトは、次のように述べています。
1)「自ら自由主義者を任じている人びとよりも、もっと自由である」。このことは、次のことを意味するでしょう。
2)バルトにとって、「真の自由とはいつでも、責任に関わる問題である」。したがって、それは、完全に「開かれた存在」であることを意味する。すなわち、それは、一つの言説・「一つの思想にせよ」、現在においても、過去においても、未来においても、完全に開かれたものでなければない。党派的であってはならない、それ自体に自己相対化の視座を持ったものでなければならない、終末論的限界の自覚を持ったものでなければならない。したがって、バルトは、「わたしは、自分の思うところを思うままに考えかつ語っていながら、なお、自分の言行が正しいはずだ、などと考え」ない、と述べます。このようにバルトが述べる場所は、イエス・キリストにおける神の啓示=神がこの私に・私たちすべてに語ることをされるがゆえにその語ったことを聞くことで得られるキリストにある自由の場所である。したがって、それは、キリストの奴隷となる場所である。また、それは、徹頭徹尾全面的に人間の側の全くの無力さを自覚させられる場所である。すなわち、それは、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」=その「死と復活」=インマヌエルの出来事=イエス・キリストにおける啓示の場所である。したがって、この自由は、神自身においてのみ「実在であり真理」であり、また啓示自体が神の自由な決断による人間に対する「贈りもの」であるから、この啓示認識に依拠した啓示の比論を通して得られた人間の自己認識における自由のことである。したがってまた、この自由は、人間自身・自己自身の自信・過大評価から自由になること、人間自身・自己自身の無力さの自覚、自己相対化の自由、終末論的限界の自覚、、特定の思想や特定のイデオロギーや特定の支配構成・社会構成・文明や文化からの自由、自由主義からの自由、宗教性としての科学(実証)主義や歴史(実証)主義からの自由、を意味する。
 さて、バルトが、「新正統派神学者」と呼ばれることを嫌悪・警戒するのは、その概念がバルトのそれと、その他の多くの自然神学の系譜に属する神学・神学者・説教・説教者・教会の宣教・キリスト教との、根本的かつ究極的な差異性を言い表してはいないからである。正統主義、自由主義、新正統主義等々の概念では、多くの党派的な信仰・神学・思想・教会の宣教・キリスト教を根本的かつ究極的に把握することができず皮相的な理解に陥っていくほかないからである。すなわち、根本的かつ究極的な差異性の把握の可能性は、ローマ書やガラテヤ書にある「イエスの信仰」の属格に対する、主格的属格としての「イエスの信仰」理解(信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を完全に開くことができ)と、目的格的属格としての「イエスの信仰」理解(信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を完全に開くことは決してできない)との差異性の把握にあるからである。素直に単純に根本的に考えれば、その認識方法や概念構成において、完全に開くことができるのは、バルトのそれと、カンタベリーのアンセルムスのそれだけであることが分かります。アンセルムスは次のように述べています――「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。この「客観的根拠」の概念は、バルト神学の概念であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性と同じ位相のものです。それは、アンセルムスにおける思想の言葉・還相の言葉です。
3)バルトの「大嫌いな言葉」――「神学の素人」という言葉である。「あなたは今、私の大嫌いな言葉を口になさいました。それは古い古い、全く誤った区別の仕方です」。「わたしもまたひとりの素人なのです」。なぜならば、「全人類をその中に含む『神の民衆、神の民』……の中では、上も下もなく、人は皆『相並んで』立っているのです。ひとりの人は神学を学び、他の人はこれを学びませんでした。が、だからとって、神学を学んだ人、あるいは今学びつつある人が、そうではない、ただの素人とは別種の、すぐれた者ではないのです」。『教会教義学 神の言葉』には、こうあります――「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである」(『教会教義学 神の言葉』)。
 したがって、バルトは、次のように述べるわけです――「わたしなら、神の啓示としてわたしの聞き取り得たと信ずるところのものを、そっくりそのまま、包括的な形で書き著すことを試み」る。「『わたし』の聞き取り得たと思うところをものを」、「わたしは自分自身のために語ることしかできません」。この場合の「わたし」は、個人としてのそれではなく、キリストの「教会」に属する「一教会員としての」「ひとりの人間としての『わたし』」である。