本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『最後の証し』小塩節・野口薫訳、新教出版(その1)

1 イエス・キリストについての証言
バルトにとってのイエス・キリスト
 バルトは、次のように述べています――イエス・キリストは、「わたしにとっては特別に、わたしより前に、わたしのほかに、わたしと並んで、すべての人、すべてのキリスト者、さらにはまた全世界、全人類にとって」、「かって在り、今在り、そして未来も在り続けたもうところのものにほかなりません」。したがって、ここに、バルトのその存在・その生と死・その仕事・その喜怒哀楽・その信仰・その思惟・その思想・その神学・その実践の、すべてと首尾一貫性があるでしょう。
この人(バルト)と音楽(モーツアルト)を聴く
 文芸批評家で思想家の吉本隆明は、「貴方(埴谷雄高)とちがってカントの先験的な形式論理よりも、ヘーゲルの観念の弁証論に惹かれる私には、臆病や弱さの対極に勇気や強さがあるような対立形式や、臆病や弱さの対極に勇気や強さの人間の存在するといったまやかしは一向に興味がありません。人間は臆病や弱さと同在に(≪基層から積み重なって重層的に≫)、勇気や強さを持つ存在なのです。臆病や弱さがたまたま表層に露出しているときには、基層に勇気や強さが存在している状態にありますし、勇気や強さが表層に露出しているときは、臆病や弱さが基層に存在している状態にあります。これがあらゆる人間の存在形式です」、と述べました。一キリスト者で神学者で説教者で思想家のバルトは、モーツアルト生誕二百年の日にモーツアルト宛に書いた書簡で、「若くあることも年老いることもでき」、「勤労にいそしむことも、憩うこともでき」、「歓び楽しむことも悲しむこともできる」「あなたの音楽的弁証法を耳にしていれば」、「生きることができるのです」、と書きました。思想家というものは、形而上学的思惟ではなく、弁証法的思惟を基本としていることが分かります。マルクスは現実性の概念を具象性と抽象性の総体性として把握しました、マルクスは革命を人間の一面的部分的相対的な法的・政治的な観念的解放としてだけでなく社会的な現実的総体的永続的な解放との同在的・構造的把握において構想しました、すべて、弁証法的思惟・認識方法でしょう。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べた宮澤賢治もそうでしょう。私たちは、この質の良い優れた弁証法的な思惟方法・認識方法からだけでも、多くの知識人の形而上学的で部分的な知識や部分的なメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしては駄目なことが理解できるでしょう。いずれにせよ、その「若くあることも年老いることもでき」、「勤労にいそしむことも、憩うこともでき」、「歓び楽しむことも悲しむこともできる」「あなたの音楽的弁証法を耳にしていれば」、「生きることができるのです」と書いた書簡等に対するインタビューに、バルトは、次のように答えています。
1)モーツアルトは、音楽的「勤労にいそしみ」「「歓び楽しむこと」の背後に、いつも「人生の厳しさ」や人生の「苦悩」・「個人的その他の不満」を隠し持っていた。モーツアルトの曲には、「善と悪」との「ひびき合」いがある。すなわち、モーツアルトには、音楽的弁証法がある、バルトには啓示の弁証法があるように。したがって、それは、作曲や教義学や説教の創造の根拠(場所・事柄)のことである。それは、モーツアルトの場合は、その作曲(創造)を促した彼自身の自己表出性・対自的意識・その自己表現欲求にあったし、バルトの場合は、その信仰・神学・説教・教会教義学の創造を促した、神の側の真実としての神の言葉=イエス・キリストそのもの、その主格的属格としての「イエスの信仰」=その「死と復活」の呼びかけ・要求にあった。
2)バルトの『ローマ書』は、「博士論文として考え」て書いたものではなかった。すなわち、それは、前記の根源的欲求と時代状況が強いる課題に促されて書かれたものであった。
3)労働問題等の社会的問題や政治との関わりは、バルトにとっては、前記の根源的欲求と状況が強いてくる不可避なそれであった。バルトにとって、「究極的には神学が故郷ではないし、政治の世界もそうではない、教会」もそうではない。バルトにとって、究極的な「故郷」は、「イエス・キリスト」、そのただ「一個の名前」だけである。
4)神性を本質(神の「存在の本質」)とするイエス・キリスト(まことの人間でありまことの神であるという神の「存在の仕方・神の子・神の言葉」)における啓示、終末論的観点、終末論的限界という啓示の弁証法における「全体を見る」観点が必要である。したがって、「世界の混乱」も、「神の救済計画」=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)の神の側の真実の段階から考え語るべきである。エキュメニカル運動は、このことに対して無自覚である。それは、丁度、バルトがイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識をその認識方法や概念構成としているにもかかわらず、ローマ・カトリック主義的神学・教会の宣教・キリスト教や近代主義的プロテスタント主義の神学・教会の宣教・キリスト教等は、神と人間との混淆・共働という人間の自主性・自己主張・自己欲求を目指す恣意性主観性に基づく人間の啓示認識、その啓示認識に依拠した存在の比論(人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍性)を通した人間の自己認識をその認識方法や概念構成としている、というようにです。
5)バルトは、インタビューの最後に、モーツアルトK194番の「おお、神の仔羊、世の罪を負いたもう汝、われらを憐れみ、われらに汝の平和を与えたまえ!」の言葉を語っています。