本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『最後の証し』(その4)――キリスト者・教会の出発・自己還帰・告白の場所・拠点としてのイエス・キリスト

 これは、「手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたまま」亡くなったバルトが、その夜に講演のために書いていた「未完成の第一草稿」です。それは、先ず「親愛なるカトリックおよび改革派のキリスト者諸氏に」で始まっています。その内容は、次の通りです。
 私たちは、教会もその中に存在し、また教会の中にも存在する、世俗の世界、またその世界における「あまた」の「新しい出発」、「立ち帰り」・還帰、「告白」を、見聞している。これらのことに対して、私たちは先ず以て、「過大評価も過小評価も」すべきではない。しかし、キリスト教のほんとうの意味での世俗世界との「もっとも深い」「連帯」は、キリスト者・教会が「新しい」「出発」、「立ち帰り」・自己還帰、「告白」すべき場所・拠点にある。それでは、その場所・拠点は何か?
1)教会の出発の場所・拠点
 ここで、バルトが、新しい出発の場所・拠点という場合、何かオリジナルな神学や思想の構成や行動規範を考えているのではないことは、バルト自身が新しい出発とは「古代、中世、近世、そして現代に至る教会史」が示しているように、「無数の『新しい出発』の綿々たる歴史」である、と述べていることから明らかなことです。すなわち、神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる第一次的な神の自己啓示=イエス・キリストの名=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてあり、この啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてある、という『教会教義学 神の言葉』のバルトの言葉からも明らかなことでしょう。このことは、違った言い方に直せば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということである、ということになるでしょう。さらにもっと言えば、人間学領域の言葉でいえば、「歴史とは個々の世代(《個体的自己の成果の世代的総和》)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(《媒介・反復》)する」というマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』の言葉からも明らかなことでしょう。また、市民社会の経済学的概念である「材料、資本、生産力」は、「言語」等という概念に置き換え可能でしょう。
 バルトは、さらに続けて、その出発は、「危機的な運命の岐路において起こる」、と述べています。すなわち、キリスト者・教会は、その岐路において、終末論的キリスト論的集中による選択と決断を行った、と述べています。したがって、その新しい「正しい出発」とは、「未来に向かって『然り』を言うこと」・終末論的キリスト論的集中による「然り」を言うことである、と述べています。バルトは、ここで、ある牧師の集会におけるひとつの逸話を挿入しています――若い牧師が、「……歴史を築いてきた先生は、今や歴史になっておしまいです。われわれ若者はしかし新しい岸辺目指して出発しようとしているのです」と述べたのに対して、バルトは「それは結構だ、それを聞いてわたしもうれしいね。ところでその新しい岸辺についてわれわれに少し話してくださいませんか」と答えたました。しかし、「彼」は、「残念ながらそれについて何ひとつ語るすべを知らな」った、ということです。ここでバルトが言いたいことは、若い牧師や説教家が「声高に」恣意的主観的に口先だけであるいは行動だけで「ほとんど一切が変革されねばならぬ」「新しい岸辺」が必要であると叫ぶことではないのです。そうした皮相的な一面的部分的事実性のことではないのです。すなわち、バルトが言いたいことは、単純なしかし根本的なかつ究極的な、聖書に基づいた「新しい岸辺」・場所・拠点は何か、ということなのです。それは、バルトにとって、信仰的神学的確信に基づいた、ローマ書やガラテヤ書等の「イエスの信仰」の属格の主格的属格理解なのです。西洋近代を生き生活し喜怒哀楽し、唯一、そこでの根本的問題を自覚したバルトだけが、初めて、そう認識し信仰し神学し思想し説教し宣教したのです。バルト研究者たちも、バルトを論じた神学者や牧師や著述家たちも、このことを、全く理解しませんでしたし、今以て理解していません。したがって、彼らは、「イエスの信仰」の属格を、自然神学の系譜に属する旧態依然な目的格的属格として理解する立場なのです。旧来訳聖書も、現行訳聖書もそうなのです。したがって、ほんとうのところを言えば、キリスト者・教会は、その出発、その「立ち帰り」・自己還帰、告白の場所・拠点を持ちえないのです。したがってまた、皮相的な改革を声高に叫ぶだけなのです、根本的な改革に繋がらないのです、時流や時勢、時代的なある人間論やある人間学に左右されて、その盛衰と共に盛衰しているのです。なぜか? それは、彼らが、「過大評価も過小評価も」すべきではないにも拘らず、距離をとれない分、近代〈主義〉やその対極にあるエコロジー等を宗教として、骨肉にまで受け入れているからです。それでは、もうすでにその最初から、「新しい出発」になるわけがないのです。
2)教会の「立ち帰り」・自己還帰の場所・拠点
 論述の展開から言って、それは、1)の出発点・場所・拠点への「立ち帰り」・自己還帰のことでしょう。「あなた方の前に過ぎ去った日々に向かって問うて見るがよい」(申命記4・32以下)。「分れ道に立って、そして見るがよい。どれが救いの道であるのかと、いにしえの小径に尋ねるがよい」(エレミヤ6・16)。このことは、第一次的な啓示、それから与えられ得られた啓示の「概念の実在」の歴史性に連帯することの重要性を意味しているでしょう。したがって、終末論的未来に向かって次の新たな段階に向かっていく、ということでしょう。したがってまた、このことは、原始キリスト教への、また16世紀の宗教改革への復古を決して意味してはいないでしょう――「『古き時代に聞け!』というのは、……教会的な歌ではありません」(バルト)。すなわち、このことは、キリスト者・教会の、「原契約書に証言されている」、主格的属格としての「イエスの信仰」における「十字架につけられ死人の中から甦られたイエス・キリスト」への「立ち帰り」・自己還帰を意味するでしょう。もちろん一方で、人間学的領域のことで言えば、その信仰・その神学の認識方法や概念構成において、16世紀の「宗教改革」や19世紀の「自由主義神学や敬虔主義」等々を包括し止揚していく、ということでしょう。また、私たちは誰であれ、ある社会構成・支配構成・文明や文化の時代水準に規定されてしか、生き生活し労苦し思惟し感情し意志し行動することはできないわけですから、その信仰・神学・教会の宣教に、その大衆像と大衆的課題を自覚的に包括することが必要である、ということでしょう。もちろん、このことは、時流や時勢への迎合・同化、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙を全く意味してはいない、ことは全く自明なことでしょう。
3)告白の場所・拠点
 この夜、労苦や喜怒哀楽を背後に持った労働を歓び楽しんでいたバルトも、さすがにもう疲れたのでしょう。この告白の草稿は書こうとはせず、ペンを置いて、横たわり、「手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたまま」召されました――きっと間違いなく、バルト自身が確信を持って信頼し固執してきた名前・イエス・キリストに……。