本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『最後の証し』(その3)――カトリックとプロテスタントのラジオ説教

 バルトが亡くなったのは1968年12月ですが、足腰の弱った晩年は、毎日曜日の午前にはカトリックとプロテスタントのラジオ説教を聴いていたようです。その説教に関わることについて、次のように述べています。
1)バルトにとって「よい説教」の基準は、第一には「聖書に密着」していることであり、第二には「生活に密着」している点に在ります。
2)事実的には、そこでの説教は、宗派的対立に固執しない「『エキュメニカル』な性質」のものばかりだった、ということです。すなわち、両者には、「福音そのもの」・「イエス・キリストに焦点を合わせ」ることへの集中性があることを認識し実感した、そうです。しかし、ここで注意する必要があります。なぜならば、その度合については、最後まで読まなければ分からないようになっているからです。
3)プロテスタント改革派の「中核的要素」である説教の「重み」・「真剣さ」・「迫真性」が、カトリックの場合には「もっとも優れた説教」においても「欠けている場合がある」、と言います。しかし、この改革派の強みは弱みでもある、とも言います。なぜならば、改革派の礼拝は、「二つの中心点を持つだ円形」を持たないからだ、と言います。すなわち、改革派は、説教と聖餐式、という二つの中心点を持たないのです。言い換えれば、この点では、聖餐式に重みを持たせているカトリックには強みがある。しかし、それがまた弱みを含んでいる、と言います。すなわち、カトリックの強みの聖餐論には、ルターの聖餐論(ルターの聖餐式の「パンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった」)にもあるような弱みがある、と言います。それは、いわゆる化体説のことです。
4)さて、両者の説教における共通の弱みとは何か? それは、神自身のその都度の自由な決断に基づいて、聖書の言葉は「神の言葉となる」ところで聖書は「神の言葉」であるというその神の言葉の「出来事」の自己運動の中において、「聖書に密着」すること・聖書に「聴従」すること・わたしのために、わたしたちのために、「わたしの前にいるこの人々のために」、「キリストは死に、甦られた」という出来事=神罪深きわれらと共に(インマヌエル)という出来事を宣べ伝える説教をしていない点にある、と述べています。すなわち、「聖書講解」であるべき説教の「義務」を果たしていない点にある、というわけです(『説教の本質と実際』)。いわば、「聖書の字句はほんの口実で、事実上は誰の耳にも明らかに一つのテーマについての説教」・恣意性主観性に陥る「主題説教」となっている点にある、というわけです。すなわち、その場合、聖書の言葉は、説教者の自由事項・独占事項になってしまう点にある、というわけです。私が理解するには、バルトが主張する聖書に「聴従」する「聖書講解」説教によって、「会衆」「聴衆」に、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示し、人間にある労苦や情念や喜怒哀楽をも包括したうえで、お互いに慰安や励ましや心の響き合いや心の豊かさも享受され得るためには、そのための心からの祈りと惜しみない労苦と聖書の言葉への全面的な信頼と固執と深い洞察力を必要とするからだろう、と思います。この説教論を述べることで、バルトは、カトリックやプロテスタントの主題説教における「下から上へ向かう思考方法」を批判をしているのです。「聖書中心主義」の放棄を批判しているのです。したがって、バルトは、次のように述べたのです――「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(《人間の経験・感覚や知識を内容とする経験・情報が不足している》)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、と。また、バルトは、「下から上へ向かう思考方法」・人間から神へと向かう思考方法を、すなわちイエス・キリストにおける神の側の真実だけでなく、天然自然や人間的自然、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間の恣意性や主観性にも信頼し固執する啓示の主観的現実性に基づく人間の啓示認識、その啓示認識に依拠した「存在の比論」(人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍性)を通した人間の自己認識という思考方法・認識方法と概念構成(人間中心主義)を批判したのです。
5)「生活に密着」することについて、バルトは、独身主義のカトリックの説教者は、人生を、「自分の内側から」「自分の体験から」知らない、と言い、プロテスタントの説教者は「結婚」し「家内の機嫌もとりゃないかん」という重荷を知る者であるとしても、「彼の説教が『生活に根を下ろした』」ものである、という保証はない、とも述べています。この言い方でバルトは何を言いたいのでしょうか? 私は、こう理解します――バルトは、「教会のエキュメニカルな併存と一致」を述べたけれども、それはあくまでも「文字通り、『ふれる』ことができたのみ」だ、と述べています。すなわち、バルトは、根本的に解決はできていないのだ、と述べているわけです。両者とも、本質的な課題の設定をしていないのだ、と述べているわけです。カトリックにもプロテスタントにもある問題を本質的に設定すれば、前者の問題も後者の問題も、信を・知を・教会の共同性を完全に開く問題なわけです。党派的思想・党派性を止揚する問題なわけです。この問題の本質に目を向ければ、ローマ書やガラテヤ書等の「イエスの信仰」の属格を、徹頭徹尾全面的に、<上から下へ向かう>ベクトルとして、すなわち神の側の真実である主格的属格として認識し信仰し神学し思想する以外にはないでしょう。この時、初めて、全キリスト教の一切の教派・教会共同性は、解体します、党派的教派的全キリスト教・教会共同性は解体します。言い換えれば、キリスト教を、その信を、その知を、その教会共同性を、完全に開くことができます。ほんとうは、ここにのみ、ほんとうの信仰・神学・教会の宣教・教会共同性・キリスト教はあるわけでしょう。私は、バルトと同じように、そう考えます、そう認識し信仰し神学し思想します。その時初めて、信と不信、知と非知、を架橋することができます。日常と非日常、生活者と説教者を架橋することができます。この場所においてなら、「大変世俗的な内容を持ったモーツアルトのリート(『沈黙』ひめごとという題なのですが)のリフレインを借りるとすればわたしの論述の全体に関しても個々の問題についても、これ以上は<もう何も言うまいぞ!>」というバルトの最後のスピーチの言葉、すなわちその「沈黙」の意味と「何も」に秘めた意味を、理解できるでしょう。バルト自身が何を目指していたかを……。   
 バルトの最後について、秘書兼助手をしていたエーバーハルト・ブッシュは、『カール・バルトの生涯』で次のように書いています――1968年12月9日月曜日の午後9時頃、バルトは、電話でトゥルナイゼンと「暗い世界情勢について話し合った」。その時、バルトは、「しかし、意気消沈しちゃ駄目だ! 絶対に!≪主が支配したもう≫のだからね!」と言った。バルトは、「その夜半のある時点に、誰にも気づかれずに死んでいた。彼は眠っているかのように横たわっていた。手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたままだった」。決して、科学(実証)<主義>者でも、歴史(実証)<主義>者でもない私は、正直に言ってしまえば、この箇所を読んでいて、きっとこの時、イエス・キリストが一言「もう、わたしのもとに来なさい」と呼びかけてバルトに手を差し伸べたに違いない、と素直に思いました。私は、映画の「汚れなき悪戯」の世界もあり得ると思っている者ですから……。また、信仰的・神学的に、終末論的立場においては、そう言い得るでしょう、そう言う得ることが必然となるでしょう。私たちは誰であれ、別に、科学(実証)<主義>的・歴史(実証)<主義>的な進歩<主義>者に対して、全く媚びる必要はないでしょう。私たちは誰であれ、彼らから、全く自由でしょう。私たちは、他者を現実的に侵害したり・他者に現実的な危害を加えたりしない限りは、自分自身が考えていること・自分自身が思っていること・自分自身が感じたことを、全く素直に述べればいいでしょう。