カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトは本当に<新正統主義>神学者か?

カール・バルトは本当に<新正統主義>神学者か?
再推敲・再整理版です。

 

A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳、教文館に基づく

 

 「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述者は、神学者か誰かの知識をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりして、それ故にバルト自身の主要著作の精読とその神学の全体性の把握に基づくことをしないで、バルトを<新正統主義>の枠組みの中へと無理やり押し込んでいる。先ず以て、「新正統主義――Wikipedia」の記述者は、「バルトは、誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書」と書いているのであるが、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降のバルト自身は、このような思惟と語りは一度もしていないし、またこのように記述している「新正統主義――Wikipedia」の記述者は、『教会教義学 神の言葉』を精読し理解する作業を全く怠っていると言うことができる。それだけでなく、この記述者は、「カール・バルト」と「エミール・ブルンナー」を共に、同じ新正統主義の枠組みの中に無理やり押し込んでいる。言い換えれば、この記述者は、バルト自身が、『教会教義学 神の言葉』において、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したということを理解していないのである。さらに言えば、この記述者は、バルトが、『カール・バルト著作集2』「ナイン――エーミル・ブルンナーに対する答え」においても、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し循環するブルンナーを根本的包括的に原理的に批判していたということを理解していないのである。このような訳で、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトを新正統主義の枠組みの中に無理やり押し込めることは、客観的な正当性と妥当性のない、全くの誤解・誤謬・曲解でしかないのである。言い換えれば、バルトの神学の全体性から言えば、バルトの神学とそれ以外の神学との根本的包括的な原理的な差異性の基準は、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合神学」、二元論的なキリストの福音(言葉)とそれから独立させた社会的政治的実践(行為)との「混合宣教」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し循環する立場にあるものか、それともバルトのように、そのような段階を、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行させた立場にあるものか、という点にあるのである。

 

 また、「新正統主義――Wikipedia」の記述者が、「バルトは、誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書」と書いていることについて言えば、全くの誤解・誤謬・曲解であって、バルトは、次のように述べているのである――内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、まさに「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と共に「直接的な、絶対的な、内容的な」「自由」を持つところの、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者である。また、このイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)により直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書(啓示の「概念の実在」)、換言すれば「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「間接的・相対的・形式的」な「権威」と「自由」を持つところの聖書は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと共に、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である。このような訳で、バルトにとって神の言葉の第二の形態である聖書は、「誤りだらけの人間のことばに過ぎない」ということはあり得ないのである、またバルトが、聖書に、「客観的な権威を認めない」ということもあり得ないのである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 さて、ヘーゲルは、「中国の哲学(≪人類史におけるアジア的段階における≫)とエレア哲学(≪人類史における古典古代のギリシャ的段階における≫)とスピノザの哲学(≪人類史における西欧的段階における≫)が、おなじ一を原理とするといっても、肝心なのは一の内容がどうなのかです。一が抽象的な一か具体的な一か、精神的な一に達するほど具体的にとらえられているかどうか、そこに根本的なちがいがあるので(≪そこには人類史のそれぞれの段階における差異があるので≫)、それを無視して三つの哲学を同列にあつかうのは、みずから、抽象的な一しか知らないこと、哲学の関心がどこにあるかを知らないまま哲学について判断をくだしていることを、証明するようなものです」と述べている(『歴史哲学講義』長谷川宏訳、岩波書店)。このような認識の仕方ができないマクグラスは、バルトを「新正統主義」と規定し、おそらくは『教会教義学』を精読しないままに「二十世紀最大の神学的業績であろう」と評価し、おそらくは『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』や『福音と律法』や『カール・バルト著作集4』「ルター祭」や『カール・バルト著作集4』「カルヴァン祭」等を精読しないままに、即自的な近代主義的プロテスタント主義的神学者あるいは即自的な自由主義的プロテスタント主義的神学者(自然神学者)の立場から「これは既にカルヴァンやルターとしっかりと結び付いている主題の反復にしか見えない」としても「聖書を通してのイエス・キリストにおける神の自己啓示を真剣に受け取るという……自分の課題にかなりの創造性を発揮しており、それによって彼自身、大思想家としての地位を確立している」と述べている。このような単なる知識人としての神学者のマクグラスは、バルトを「思想家」と評しながら、その「思想家」の意味を理解してしないのである。「思想は物質ではなく外化された観念である」。したがって、「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、……亡びない……」のである、ちょうど暴力装置としての国家は暴力によってしか埋葬することができないように、観念の共同性(観念的な共同的形態)を本質とする国家は、その累積された時間を遡及するという仕方でその観念を無化し埋葬していく以外にないように(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」、勁草書房)。したがって、党派性、党派主義、党派的共同性、党派的多元主義のように「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」、筑摩書房)。このような意味で、即自的な近代主義的プロテスタント主義的神学者あるいは即自的な自由主義的プロテスタント主義的神学者(自然神学者)として、それ故に人間中心主義の原理を発見したヘーゲル以降(近代以降)において、その現実と時代が強いる思想の課題としての神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の必要性の認識と自覚を全く持たない自然神学の段階で停滞し続けるマクグラスは、知識人ではあるとしても思想家ではないのである。因みに、思想としての知識、思想家としての知識人とは、次のような思惟と語りにあるのである――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳、岩波書店)。この経済学的範疇に属する「先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力」という概念を、「性・夫婦、その共同性である家族」および「言語」という概念に入れ替えてみれば、個体的自己としての全人間の社会的関係を、その類と時間性を包括したすごい言葉であることが理解できるであろう。これらの思惟と語りにおける言葉は、現在にも生きる・生きている言葉であり、未来にも生きる言葉であることを理解することができるであろう。また、<非>自然神学の段階へと移行したバルトの思惟と語りに即して言えば、例えば、次のような思惟と語りにある――まさに神の側の真実としてある、ローマ3・26、ガラテヤ2・16等の主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)としてのイエス・キリスト自身(「イエス・キリストの名」)は、「律法の成就」・完了そのものとして、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとして、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものとして、信と不信、キリスト者と非キリスト者、キリスト教と非キリスト教、キリスト教世界と非キリスト教世界を、その類と時間性を包括し止揚し克服したすごい言葉であることが理解できるであろう。バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』「和解論の対象と問題」においては、「神性」を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているということを述べている。これらの思惟と語りにおける言葉は、現在にも生きる・生きている言葉であり、未来にも生きる言葉であることを理解することができるであろう。これらのバルトの思惟と語りにおける言葉は、まさに客観的な正当性と妥当性とを持った次のようなキリスト教批判を、根本的包括的に原理的に止揚し克服するという課題を引き受けたそれなのである。「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「もし君が無限者(≪神≫)を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性(≪宗教としての神、「存在者レベルでの神」、偶像神≫)を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者(≪神≫)を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性(≪宗教としての神、「存在者レベルでの神」、偶像神≫)を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性(≪対象化された自己の理性≫)であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情(≪対象化された自己の感情≫)である」「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化されたに過ぎない彼自身の物語的世界、意味的世界としての≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)――これらの客観的な正当性と妥当性とを持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判に対して、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降における「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したキリスト者として・牧師として・神学者として、バルトは、必然的に、次のような思惟と語りにおいて、その批判を根本的包括的に原理的に止揚し克服しようとしたのである(ここに、神学における思想の問題があるのである。シュラエルマッハー、ブルトマン、今回扱っているマクグラス等自然神学者たちすべては、このことが全く理解できていないのである、それ故に彼らは、井の中の蛙として自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す以外にないのである)。すなわち、『教会教義学』「神の言葉」および「神論」に即して言えば、その批判を根本的包括的に原理的に止揚し克服するための方法は、先ず以て完全性、また「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由)としての「自存性の概念」(神の自由の概念の「積極的側面」)と、それからまたわれわれのための神としての「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」(自由の概念の「消極的側面」)との全体性としてある自由性における、内的・内在的な三位一体の神の、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っており、それ故に第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)と、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」――この聖書が、教会に対して宣教を義務づけている)とを、その宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点にあるのである。もしそうでないならば、具体的には聖書的啓示証言に根拠づけられた固有なキリスト教ではなくなってしまうであろう、様々な偶像崇拝としてのキリスト教に堕落してしまうであろう、党派的多元主義の中の単なる宗教の一つとされてしまうであろう。この段落で前述したように、聖書的啓示証言におけるキリスト教に固有な方法で、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開くためには、また人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性を信奉する、そうした人間の自己運動を信奉する自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服するためには、先ず以て「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としたバルトのような<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に移行する以外にはないのである。キリスト教的な信仰・神学・教会の宣教における思想の問題を、前述したような仕方で根本的包括的に原理的に止揚し克服していったバルトは、神学における思想家なのである。このバルトは、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着して、その必然性において、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言うのである。したがって、このバルトは、次のように言うのである――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」、と(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社)。

 

 まさに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者(自然神学者)であるマクグラスは、「新正統主義」に対する批判ということで、重要なものとして次の三つを挙げている――第一に、「神の超越性や『他者性』の強調によって、神は遠くて、潜在的には無益なものと見られてしまう」。ここで、マクグラスは、ただ単なる知識人でしかないことを自己暴露しているのである。何故ならば、マクグラスは、客観的な正当性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判における神学における思想の問題を、全く認識し理解でき得ていないからである、それ故にその問題を、自らの立場において包括し止揚し克服するという作業を全く放棄してしまっているからである。それだけではなく、マクグラスは、バルトの『教会教義学』「神の言葉」および「神論」を精読し理解しないままに、「神は遠くて、潜在的には無益なものと見られてしまう」とただ単なる文句を並べているだけなのである。言い換えれば、マクグラスは、前の段落で述べたところのバルトの三位一体論を全く認識し理解していないのである。バルトのキリストにあっての神の三位一体論は、完全に教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。このことを、マクグラスは、全く認識し理解していないのである、第二に、マクグラスは、「神の啓示にのみ基づくという新正統主義」の「主張の正しさを検証するのには、同じ啓示によるしかない」から、「自らの領域の外部からのあらゆる批判を受け付けない信仰の体系である」という出鱈目な文句を並べるのである。ここでも、これが本当にキリスト教神学者なのかと全く情けなくなるのである。マクグラスと違って断然質のよい優れた哲学者のミシェル・フーコーが『フーコーと禅』で述べていたように、マクグラス等の自然神学者たちがそのことを認識し自覚しているかどうかは別として、客観的には「西欧思想の危機」と共にそれに全面的に依存してきた自然神学、マクグラスのような自然神学者も全面的な危機に瀕しているのである。いずれにしても、実際的事実的には、出鱈目な言葉で外皮的皮相的な批判をしかしないマクグラス等々の自然神学者たちとは全く違って、神学における思想家としてのバルトほど、前述したことからも分かるように、「自らの領域の外部からのあらゆる批判を受け付けた」神学者はいないのである、第三に、「新正統主義は、他宗教に惹かれる人々の助けになるような応答をしない。他宗教は歪曲・倒錯として退けられるしかない。(≪逆に、≫)他の神学(≪近代主義的あるいは自由主義的神学、総括的に言えば自然神学≫)の行き方は、キリスト教信仰と関連付けること」ができる。マクグラスは、ここで何が言いたいかと言えば、自分は自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指すということを言いたいだけなのである、そしてマクグラスの場合は、ただ単に自然神学を堅持するための外皮的皮相的な言葉でしかないのであるが、自然神学者の自分は、「他宗教に惹かれる人々の助けなる」、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、コミュニケーション論、近代主義的神学あるいは自由主義的神学、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合神学」等々を求める人々の助けとなる、ということを言っているだけなのである。言い換えれば、聖書的啓示証言に根拠づけられた客観的な原理・規準・法廷・審判者・支配者を全く持たずに、「わがまま勝手に」恣意的独断的に自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し続けているマクグラスは、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着するという仕方で、それを自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に「他宗教に惹かれる人々」にも、その現にあるがままの非キリスト者にも、非キリスト教にも、不信にも、非知等々にも完全に開かれたところの<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトとは全く異なっているのである。