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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述15)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述15)
神学の道(3)
 前回の論述の論点について――
 「アンセルムスによって鮮明に強調された方法論的な原則」は、「intelligere知解スルこととprobare証明スルことが問題である時には聖書の権威を引き合いに出すことでもって作業が為されてはならない」という点にある。しかし、このことは、アンセルムスが、「信仰ノ知解(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義である「Credoの考え抜かれた理解」≫)を尋ね求めるために、そもそも聖書(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)の内容を知ることなしに、(≪それ故に≫)白紙で、Credo(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を、(≪生来的な人間的理性によって≫)ほかのところで得られた認識の諸要素から再構成するために、彼の考えの源泉および標準(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)としての聖書を用いないことにしたということを意味してはいない」。このような訳で、「一義的に、……聖書(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)とCredo(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)は、アンセルムスのところでは、……一瞬間たりとも彼の前提および対象であることをやめてしまうわけではなくて」、「ただ彼が……それに対し学問的に(≪教会の宣教における教会の一つの機能としての学問としての神学として≫)答える」べき「特別な問題に際しては、その答えを、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」、換言すれば一義的にはあくまでも第二の形態の神の言葉である聖書およびそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredoに「『このように書かれている』ということを舞台に登場させ、……朗読されたことが熟慮され・理解されることを欲している」ところで、「学問的に(≪教会の宣教の一つの機能としての学問としての神学として≫)答える」べき「特別な問題に際しては」、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」。このようなアンセルムスの「方法論的な定式」は、形而上学的に一面だけを固定的に抽象して理解したり、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して理解してはならず、その総体性・全体性において理解すべきものなのである。したがって、その「方法論的な定式」の総体性・全体性において、第二の形態の神の言葉である聖書(聖書的啓示証言)、すなわち預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)についての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉、啓示の「概念の実在」)および第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)の「権威を引き合いに出す」のではなく、「『理性ノミ』で検討され・立証され・確信させられ、ユダヤ人たちに対して、また異教徒たちに対してさえ、議論において満足が与えられるべきであると言う」アンセルムスに対して、アンセルムスが、形而上学的にその一面だけを固定的に抽象して、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して「理性ノミと書いていたかのように理解されてはならない」のである。何故ならば、その「方法論的な定式」の総体性・全体性における「アンセルムスの理性は、ちょうど(≪キリストの福音とそのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法という「福音と律法」の構成の仕方においてではなく、二元論的に福音と律法を対立させた仕方での「律法と福音」の構成の仕方においてであれ≫)ルターの信仰(≪「信仰ノミ」≫)が行いを結果として自分の下に持っているのと同じように、必然的に、(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言および第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredoの≫)権威を前提として自分の下に持っている」からである。またその総体性・全体性において、「ちょうどルターによれば、ただ信仰のみが義とするように、アンセルムスによれば、ただ理性(≪論理≫)だけが証明する(狭義のより厳密な意味でのintelligere知解スルことに奉仕する)法廷として認められるべきである」。

 

 さて、「『探究』の手段をもまた目標をも表示できる」「奪格(「『探究』の手段を表示することができる」それ)においても対格(「『探究』の目標を表示することができる」それ)においても用いられる」アンセルムスにおける「ラチオratio」(「根拠」、「原因」、「理性」、「理由」)は、「何を意味しているのか」。
(1)アンセルムスが、「ラチオratioニヨッテという時」、「あるいはスデニ理性ノ指導ノモトニ……あるいは理性ノ教エルトコロニ従イあるいは理性ノ……指導ニヨリあるいは理性的ニあるいは諸根拠カラあるいは必然的理由ニヨッテ」という時、「ラチオは尋ね求められた知解へのを表示しているように見える」。
(2)それに対して、アンセルムスが、「rationem esurire〔根拠ヲ熱望スル〕、quaerere〔求める〕、ostendere〔示す〕、intelligere〔知解スルこと〕について、meditari de ratione〔根拠ニ関シ黙想スル〕について語る時、それは、尋ね求められた知解そのものを表示しているように見える」。
 第一の場合には、「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)を、第二の場合には、「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)を「考えることがゆるされるであろう」。このことをバルトの『教会教義学』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教(説教と聖礼典)は、その一つの機能としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方としての啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を、それ故に具体的にはその最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を、その<理性的>思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――ここで「隣人愛」は、<純粋>なキリストの福音を内容とするキリストの福音の形式としての律法・神の命令・要求・要請のことである、換言すれば「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し宣べ伝えのことである――という連関においてイエス・キリスト(「啓示の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉)をのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していく決断と態度のことである。このことは、イエス・キリストにおける救いやその救済概念に包括された平和に関する<理性的>思惟と語りと行動においても言えることである(2019年12/6論述分――「来日したローマ教皇、カール・バルト、吉本隆明――「平和」の実現等についてのその思惟と語りと行動の差異性をめぐって」を参照)。アンセルムスは、「ラチオ」について、感覚と知識を内容とする「経験と取り組むに際して」の「概念能力および判断能力」と表示し、「人間ノ中ニアルスベテノモノノ原理オヨビ判断(≪このことは「異端的な詭弁化の肉欲主義に対して向けられている」≫)と呼び」、「人間(≪単なる「動物」と「区別」された、自己身体を座とする生来的に類的機能を有する理性を持った人間、理性的存在あるいは理性的動物≫)を、(天使と共通に、すべてのそのほかの被造物と区別して)理性的ナ本性と呼び」、その「理性性ということでもって、判断を形成してゆく能力」、すなわち「真なるものと真でないもの、善いものと善くないもの等々」を「区別する能力のことを理解した」――アンセルムスは、「天使と人間によって……構成されている……神の道の終りと目標を形造っている霊の国」は、「理性的デ至福ノ都」と呼んでいる。「客観的なラチオに対するその対立」、「人間的な(あるいは天使の)概念能力と判断能力についての思想」は、「探求ノラチオについて、……私ノ確信ノ根拠について、……神のもろもろの言葉と行為のラチオについて、それらの必然性と可能性のラチオについて語られる時、……超えられる」。「その結果、先ず第一に、信仰対象に固有な、……人間的な概念能力および判断能力の認識するラチオ(≪バルトの思惟と語りに即して言えば、聖霊そのものでは決してないが、聖霊によって更新された理性≫)を手段として、信仰の対象が啓示を通して与えられた後」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)に基づいて終末論的限界の下で与えられた後、「指示されるべきである存在的なラチオの表象が生じてくるのであるが、この表象は、アンセルムスが三番目に最高のこととして真理ノラチオを知っているということを付け加えて受け取る時」、「正しく解釈」することができる。その「真理ノ根拠(≪「あるいは真理ノ理性的根拠」≫)は、それとして……厳格に理解されるならば、最高ノ本性ノ理性と……同一である」、すなわち「父と同質である神的な言葉と同一である」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」におけるわれわれのための神としての「外に向かって」の起源的な第一の存在の仕方である「父は子の父」・「言葉の語り手」であり第二の存在の仕方である「子は父の子」・「語り手の言葉」である第三の存在の仕方である聖霊と同一である――この「真理ノラチオは、神のラチオである」(「神ハ何事モ理由ナクシテハナサラナイ……」)。「それがラチオであるが故に、それは真理を持つのではなく」、「神が、真理(≪啓示の真理≫)が、それを持つが故に、それは真理を持つのである」。このような訳で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)。「あの言葉」は、それとして「神的なのではなく」、「父によって語られた言葉であるが故に、あの言葉は神的なのである」。このことは、「すべてのそのほかの神ノラチオと同一ではないが」、「神の被造物のラチオとして、神ノラチオにあずかっているラチオについて言えることである」。したがって、啓示の「真理(≪「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉≫)がそのようなラチオに制約されているのではなく」、「ラチオが(≪啓示の≫)真理(≪「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉≫)に制約されている」のである――「最高真理(≪啓示の真理≫)ハソレ自体デ自存し、ドノヨウナモノノモノデモナク、ムシロアルモノガ最高真理ニ従ッテ存在スル時、ソノモノノ真理アルイハ正直ト言ワレルノデアル」・「真理ハ……ドノヨウナ始メニモマタ終リニモ制約ヲ受ケルコトハナイ」(このような訳で、われわれ人間の個・現存性と類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる場所」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの啓示の場所だけである。このイエス・キリストの啓示の場所は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教が、その一つの機能である神学が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラム(≪「わがまま勝手な」「独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」・独断的に考え出された平和の計画と平和の方法≫)へと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない神秘主義へと変わって行くこと」が見渡せる場所でもある)。

 

 前述したことは、「先ず第一に、認識的なラチオに対して、適用されるべきである」。すなわち、「認識的なラチオの使用を念頭に置いた」「ラチオの真理」は、「明らかに表示ノ真理」、「例えば、一つの命題の真理と同一であるであろう」。このことについて、人間に生来的な「自然的な思惟能力あるいは言語能力の『真理』以上のこと」、「〔ソレガ言イ表ワソウトシテイル目標ニ〕フサワシイコトが言おうとされている時」、「徹頭徹尾その表示が表示された対象と一致するということを通して、条件づけられている規則が妥当する」(対象的意識の段階においては、思惟が思惟したもの・対象の中にその具象性と抽象性の総体において意識された現実・現実の意識として思惟は現存する、また自己意識の段階においては、さらに思惟がその思惟の思惟をする、さらにその思惟の思惟の思惟をすることによって概念構成の高次化・抽象度の高次化へと向かう中に思惟は現存する、もっと言えば思惟が思惟に思惟を積み重ねて具体的普遍・その頂きへと高次化した思惟は、自然から完全に超出した<自由>な精神である)――「……在ルモノヲ在ルト(すなわち存在シナイモノヲ存在シナイト)命題ガ表示スル時、命題ニ真理ハアリ、真デアルトイウコト」。「この対象を通して規定された正しい使われ方の中で、……ワレワレノラチオノ真理について、まことに語られることができるかどうかが決定される」。何故ならば、「対象の存在と本質の真理」は、「ワレワレノラチオノ真理」「それ自身の中に基づいておらず」、「神的な言葉……を通して、その対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に」、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性を賦与する神的な言葉」、それ故に「厳格に理解された真理(≪啓示の真理、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉≫)ノラチオの中に基づいている」からである。言い換えれば、「対象の存在と本質の真理」の認識のためには、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断により与えられる更新された理性を必要とするのである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということを必要とするのである。もっと言えば、このような全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を通して、神とは全く異なるわれわれ人間は「『自分の(≪生来的な自然的な≫)理性や力(≪感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした身体的修行等≫)によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ということを、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』T/1・2)ということを認識させられ自覚させられるのである。このような訳で、「人間的なラチオが正しい使用へと定められていること」は、すなわち「対象から発する使用の定め」は、「ただいわば導き、それを手段にして、真理そのものが、すなわち神ご自身が、その決断を下し給う導きでしかない」。イエス・キリストにおける啓示は、啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉の出来事の自己運動を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力を持っている。その客観的現実性としての、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない差異性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、「イエス・キリストの名」を起源とした三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に<固有>な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)の現存である。このことでもって、「真理(≪啓示の真理≫)に関して、(≪生来的に有する≫)人間的なラチオが創造的な・標準的な意味を持っているということについては、いかなる意味においても語ることができない」のである――「……スナワチ思考ノ真理ト命題ノ真理……ハドノヨウナ真理ノ原因デモナイノデス」。これらのことは、啓示の真理に関しての、人間学的な哲学や歴史学や言語学等々に対する限界づけを意味している――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、(≪その一つの機能としての神学を含めて≫)教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語り(≪その理性的な思惟と語りと行動≫)の堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、それ故にその場合その混合神学は、神学でもない人間学でもない非自立的で「非学問的な神学」、非自立的で「非学問的な人間学」でしかなかった(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。
 「第二に、存在的なラチオに関しては、……真理(≪啓示の真理≫)へのそれの参与は、原則的に認識的なラチオの参与以外のものではないが」、「それよりもより高度な参与であるということ」、そしてこの「参与」は、「認識的なラチオ……の場合と同様に、すべてのラチオの真理としての真理そのもの(≪啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示の真理≫)によって存在的なラチオ(三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に現存する「神の言葉の三形態」、換言すればキリスト教に<固有>な類・歴史性の関係と構造・秩序性)が賦与されなければならないということが生じてくる」――「この賦与は、認識的なラチオの側においては、その都度下される決断(≪決断と態度≫)の事柄である一方」、換言すれば第三の形態の神の言葉に属する現存する全く人間的な教会(その一つの機能としての神学)の認識的なラチオの側においては、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの)、具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)、もっと言えば教会の<客観的>な信仰告白および教義を、自らの理性的思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が現実的に<純粋>なキリストの福音を所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関を志向し目指す決断と態度の事柄であり、「存在的なラチオについては、……それのラチオが存在的なラチオであるその対象の創造と共に、真理が賦与されているということが語られなければならない」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に現存する「神の言葉の三形態」(換言すればキリスト教に<固有>な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)が賦与されているということが語れなければならない。このことは、「アンセルムスにとって問題である信仰ノラチオについて妥当する」。したがって、この「信仰ノラチオratio」(根拠、原因、理性)は、「アンセルムスにとって、疑いもなく真理ノラチオと本来的な厳密な意味で同一である」。したがってまた、信仰ノラチオが「真理ノラチオであるかどうかについてではなく、それがそのようなものとして自分を知解(≪認識≫)させるかどうかについての決断(≪決断と態度≫)が問題である」。信仰ノラチオは、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した「Credo(≪第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の中に、すなわち」、第二の形態の神の言葉である「聖書(≪最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)の中に隠されており、それは、自分自身をわれわれに知らせるためには、自分自身を(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)啓示しなければならない」――「それ故に、『私タチガ真理(≪起源的な第一の形態の神の言葉である啓示の真理、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、もっと言えば第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)ニ根ザシタ理由カラ学ンダ……』」。この「信仰ノラチオ」は、「そのことを、ただ(≪啓示の≫)真理、(≪全き自由の≫)神ご自身が(≪その都度の全き自由の恵みの決断により終末論的限界の下で≫)そのことをなす時にだけ、なすことによってだけ、なす」。「したがって、知解することの出来事の中で、その都度、存在的なラチオと共にまた認識的なラチオが、(≪啓示の≫)真理と同形的であり、その限りマコトノラチオであるか(≪徹頭徹尾、聖霊により更新された理性であるのか、起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれであるのか≫)……あるいはないか、あるいは(そのことが実際的ニハ普通のことであるのだが)ある程度そうであるといった具合である」。「原則的に、……(≪啓示の≫)真理自身が、すべてのラチオの主であり、それ自身で、何がこことあそこで、その都度マコトノラチオであるかについて決定する。すなわち、信仰の対象のラチオが、また人間が自分の概念能力および判断能力について為す使用が、(≪啓示の≫)真理に(真理それ自身の決断の力によって)同形的であることによって、そのラチオ性のために決断が下され・求められた知解が出来事となって起こるのである」――『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、われわれの理性的な思惟と語りと行動が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。言い換えれば、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)に基づいて終末論的限界の下で、啓示に固有な証明能力に、キリストの霊である聖霊の証しの力に、起源的な第一の形態の神の言葉の出来事の自己運動に、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力に、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に現存する「神の言葉の三形態」(換言すれば、イエス・キリスト自身を、すなわち第一の形態の神の言葉を<起源>とするキリスト教に<固有>な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に依存して「そのラチオ性のために決断が下され・求められた知解が出来事となって起こるのである」。したがって、この場合、それは、「神の言葉の三形態」(換言すれば、イエス・キリスト自身を、すなわち第一の形態の神の言葉を<起源>とするキリスト教に<固有>な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し固着し連帯した「証明スルことと喜バスことにまで来なければならない」「信仰が『要求する』」「intelligere知解スルこと」、すなわち啓示の「真理を(≪啓示の≫)真理として理解すること」、「intellectus fidei信仰ノ知解」(教会の<客観的>な信仰告白および教義を内容とする「Credoの考え抜かれた理解」)である。この「intellectus fidei信仰ノ知解」(「Credoの考え抜かれた理解」)を手に入れるためには、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言)およびそれに信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である「教会の啓示されたCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すればそれらを終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復するという仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。