本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述8)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述8)
(4)教会の一つの機能としての「神学的なもろもろの言明」は、「信仰の確実さとは、その相対性を通して区別された確実さをもってしか為されることができないということが結果として生じてくる」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示は、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己<啓示>は、その啓示自身に固有な証明能力を持っている、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っている、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与える力を持っている、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を持っているからである。言い換えれば、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、それ自身としては、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」神性・永遠性を本質とする三位一体の神に対して、神の不把握性の下に置かれているからである、すなわち「神に敵対し神に服従しない」、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」われわれ人間は、「『自分の理性や力によっては』」、自分の理性や意志力や感情力や自然を内面の原理とする身体的修行等々によっては「全く信じることができない」し、先ず以ては徹頭徹尾完全に自由な、「自己自身である神の自由」として「自存的」な、また神とは全く異なるわれわれ人間の自己意識・思惟・理性によって為される「すべての条件づけからの神の自由」として「独立的」な、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の側から神の不把握性の下に置かれているからである。したがって、われわれは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないのである。したがってまた、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語り、その一つの機能としての神学が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも(≪恣意的独断的な≫)怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項なのであって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがってまた、教会の宣教、その思惟と語り、教会の一つの機能としての神学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度」に対して、神が、その都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下でそれに「応じて下さるということに基づいて成立している」のである(Tコリント13・12)。したがってまた、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教(その思惟と語り、その一つの機能としての神学)は、先ず以て、「先ず第一義的に優位に立つ」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者の父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身によって唯一回的特別に直接的に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、その宣教(その思惟と語り)における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、すなわち<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(「律法の成就」・完了そのものであるイエス・キリストにおいては、福音と律法は対立しておらず、律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式である)――神の命令・要求・要請、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(『福音と律法』)ということであるから、<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指さなければならないのである。このように、イエス・キリストにおける神の自己「啓示は、(≪恣意的独断的に≫)例証されようとせず、解釈されることを欲する」のである、ここで「解釈する」とは、「別の言葉で同一のこと」――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」に信頼し固執し固着し連帯したことを「言うことである」、「別の言葉」で、起源的な第一の形態の神言葉、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト自身のことを、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言)のことを言うことである。しかし、現存する恣意的独断的な教会(その宣教、その思惟と語り、その一つの機能としての神学)は、そのことからいつも逸脱していくことを常としているように見える、それぞれの説教者、それぞれの神学者、それぞれのキリスト教的著述家たちは、その恣意性や独断性に逸脱していくことを常としているように見える。このような訳であるから、「神学的なもろもろの言明は、そのようなものとして攻撃されている言明」である。このことは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして説教は、必然的に、「どのような場合であれ、その形式と内容において聖書への絶対的信頼に基づく聖書講解であることの義務を負っている」にも拘らず、現存する恣意的独断的な説教は説教者本人の「自分自身の言葉から由来」する危険性に晒されているように見える、それ故に現存する恣意的独断的な説教が「そのようなものとして攻撃されている」のと同じである。「コノヨウニ私タチハ、同一ノコトヲ表現シナガラ表現セズ、見ナガラ見テイナイ。他ヲ通シテ表現シ、見テイルガ、シカシソノ特性ヲ表現セズ、マタ見テイナイ」。

 

 「神学的な言明がかかわっている」「啓示の絶対性こそ」が、すなわち教会の宣教、その思惟と語り、その一つの機能としての神学における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト自身(具体的には第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言)こそが、「思索する神学者」を、「相対的な確実サノ根拠しか自由に処理できない人間的な自己思索家」として(下記の【注1】を参照)、「ただ試みにするという仕方でしか作業することができないであろう自己思索家」として(下記の【注2】を参照)、「ほかのものを通しての矯正を待っており」(下記の【注3】を参照)、「また彼のよく考え抜かれた言説の信頼性のことをも最後から一つ手前の確実さをもって誇ることしかできない(下記の【注4】を参照)自己思索家」として、「その最も深いintelligere(≪知解スル≫)をも、ただアナタノ(≪啓示の≫)真理ヲ、イクラカデモ理解スルコトとして……(≪自分の≫)学問を常にただワタシノ知識の貧困としてしか理解しないであろう自己思索家」として、置くのである。

 

【注1】
何故ならば、「私ノ知性ハコノ光ニ達スルコトハ出来マセン」、「ソノ輝キハ強過ギ、私ノ知性ハソノ光ヲ把握セズ、私ノ魂ノ眼ハ長イ間ソノ光ニミイルコトニ耐エマセン」、「ソノ光輝ニクラミ、ソノ充溢ニ打チ負カサレ、ソノ無窮ニ圧倒サレ、その宏大ニ惑ワサレマス」、「至高デ近ヅキガタイ光ヨ。完全デ至福ノ真理ヨ。アナタニコノヨウニ近イ私カラ、アナタハナント遠イコトデショウ。コノヨウニアナタノ御前ニアル私カラ、アナタハナント遠ク離レテイルコトデショウ」という理由からである。このことから、神と人間(私)との無限の質的差異の認識と自覚を、それ故に一方での神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の可能性と他方での神の不把握性を読み取ることができる。

 

【注2】
 「私ハ……神ノ援ケ……ニヨリ」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造における起源的な第一の形態の神の言葉に、すなわち「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身に、具体的にはその第二の形態の神の言葉であるその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての聖書的啓示証言に、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、絶えず繰り返し、「可能ナカギリ、……試ミタイ」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、「そのことを人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)――この「啓示から得られた認識」、具体的にはその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」(第二の形態の神の言葉である書的啓示証言)から、もっと言えばそれに信頼し固執し固着し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義(全く人間的な教会の、恣意的独断的なそれではなく、第三の形態の神の言葉としての<客観的>なそれ)から終末論的限界の下で、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト)の認識(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)可能性について考えたのである。したがって、「モシ私ガ貴君ノ要請スルコトヲ少シデモ立証出来ルナラ、神ニ感謝ヲ捧ゲヨウ。シカシ、モシ出来ナイナラ、スデニ証明シタコトデ満足シテ欲シイ」。

 

【注3】
 「私タチノ語ッタコトニ訂正ヲ要スルコトガアルナラ、コノ訂正ガ理ニカナッテナサレテイルカギリ」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方としての啓示者の父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を、それ故に具体的には神の言葉の第二の形態であるイエス・キリスト自身によって唯一回的特別に直接的に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を原理・規準・法廷・審判者・支配者として「理ニカナッテナサレテイルカギリ」、それ故にそういう仕方で為された第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義に連帯して「理ニカナッテナサレテイルカギリ」、「ソレヲ拒ム者デハナイ」。

 

【注4】
 「ココニ記シタコトハ、神ガ何ラカノ方法デサラニ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)啓示ヲ私ニ与エラレルマデ、私ノ理解力ノ許スカギリ、……肯定スルトイウヨリモ、論理的ニ推論シテ簡単ニ述ベタモノデアル」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、われわれは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪ある、教派、学派、思想傾向、文化傾向、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制」、社会的政治的な言説や運動、様々な主義、人種・民族等≫)に仕えなければならないことはない……」、何故ならばわれわれは、あの「一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」からである、また何故ならば『ルドルフ・ブルトマン』および『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、「聖書註解者」は、「だれに対して」「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか?――「同時代の人たちの思考の前提に対して」ではないからである、「そこから形成された理解の規準に対して」ではないからである、すなわちわれわれは、十字架につけられ・復活されたイエス・キリストにおけるわれわれの「実存という場所」において、われわれの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、われわれのために「生きて、われわれを支配」し、われわれを「愛し給う」イエス・キリストを、すなわちその全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、終末論的信仰の下で「認識し、持つことができることを示すということが問題だからである。われわれが「救済」(平和の概念は、包括的な救済概念と同じである)を神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである(その「完成」は、終末、復活されたキリストの再臨を待たなければならない)。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 「ただ一つだけ……例外がある」――「神学者は、その言説が、本文の必然的な帰結と一致する時に」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で「本文の必然的な帰結と一致する時に」、「絶対的に語るのである」。したがって、「神学者は、聖書の権威をはっきりと言葉に出して自分を支持するものとして持っていない時には、絶対的には語らない」のである。何故ならば、それは、次のような理由による――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、あくまでも「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)、啓示者である神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾「限界づけ」られているからである。したがって、この「限界づけ」を認識し自覚していない神学者、それに類する者は、すなわちその「限界づけ」から逸脱して「自分で(≪自分には≫)それ以上」の「権威」・「自由」やそれに基づいた神学的知識(その知識の実体は、本当は、その神学者やそれに類する者の恣意的独断的な知識でしかない)があると自惚れている者は「愚か者」でしかないのである。

 

 アンセルムスによれば、教会の一つの機能としての「神学的な作業、より狭い意味での尋ね求められたintelligere知解スルは、正確に聖書の引用が終わるところで」、換言すれば「先ず第一義的に優位に立つ原理」であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉)と共に教会の宣教(その思惟と語りと行動)における「原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、それに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「始まるのである」。したがって、「まさに本来的に」、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の神の言葉である、それ故に起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「聖書は神の言葉となるところで聖書は神の言葉である」――この第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と一致したのではない」第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての「神学的な……言説(≪啓示、それ故に具体的にはその聖書的啓示証言における啓示を「解釈」し「別の言葉で同一のこと」を思惟し語った、神学的な言説≫)について」、すなわち第三の形態に属する全く人間的な教会の一つの機能としての神学的な……言説について――それは、「原則的に最上の知識と良心に従って為された中間的な言説であり」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を終末論的限界の下で与えられる「神、あるいは」起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の神の言葉であるその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「人間(≪それが人間に内在する「霊性」、「精神性」と呼ばれようと、それは徹頭徹尾人間に属するものであり、全く人間的なものであり、それ故に聖霊とは無限の質的差異があるものであり、それ故に信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰には啓示の出来事と神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎを必要とするから、その聖霊によって更新された人間の精神、人間の自己意識・理性・思惟≫)を通してのよりよい教示を待っているということが妥当するのである」(『教義学要綱』に即して言えば、それが霊性と呼ばれようと、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち愛に基づく父と子の交わりである聖霊は人間の自由事項・裁量事項の対象とは決してならないから、それ故に全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての信仰の出来事は人間の自由事項・裁量事項では決してないのであるから、<全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断>という事柄を後景へと退けてしまった自然神学的なR・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠した東京神学大学の実践神学者の小泉健の恣意的独断的な「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」という聖霊や聖霊の言葉の実体化は、自然神学者が常とする越権行為と言うことができるのである)――「神ガヨリヨイ啓示ヲ何ラカノ形デ私ニオ与エクダサルマデ、私ニハ一応ソノヨウニ見エルトイウ以外ハ、ドノヨウナ確実性ヲモッテシテモ、ソレヲ受ケトラナイトイウコト」、「ソレラハ私ニ明白ト思エル諸根拠カラ、アタカモ必然的デアルカノヨウニ結論ヅケラレテイテモ、ソノタメニ全ク必然的ダトイウノデハナク、サシアタリソウ考エルコトガ可能ダト言ッテイルモノトトッテ欲シイ」。「ソコデ、コノ問題ニツイテ、ドノヨウナ人ノ正当ナ意見ヲモ退ケズ、マタ私ノ意見モ真理ニ反スルコトガ理性的ニ立証可能ナラ、頑固ニ弁護スルコトヲ避ケナガラ」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)を、具体的にはその第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「ココニ私ノ考エヲカイツマンデ述ベタイ」。