本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述7)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述7)
(3)「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の下にある「その対象」(キリストにあっての神、その啓示)にとって、われわれの側で為す人間の言語を介した「すべての描写」(「神学的な言説」)は、それが「最高の、最上の考えられたあるいは語られた描写」であっても、「不適当なものである」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉T/1・2』によれば、人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的な人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである、また『福音主義神学入門』によれば、われわれ人間は「『自分の理性や力(≪感情、意志、自然を内面の原理とする修行等々≫)によっては』――全く信じることができない」からである。しかし、「われわれに対して語られたキリストの言葉は、それとして、その対象にとって不適切ではない」。何故ならば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、キリストにあっての神の自己啓示・自己顕現、キリストにあっての神の自己認識・自己理解・自己規定そのものであるからである。「厳格な意味での神概念は、ただ神ご自身しか持ち給わない」――「……スベテノモノ(≪神とは異なる全被造物、宇宙を含めた全自然≫)ハ言葉ヲ通シテ創ラレタガ」、「コノ言葉ノウチニ」は、「ソレラノ形似ハ存在セズ」、「ムシロ真ノ純一ナ本質ガ存在」する、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現、神の自己認識・自己理解・自己規定における「真ノ純一ナ本質ガ存在」する。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、釈義神学による聖書的教えの認識や概念も、キリスト教的なキリストにあっての神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)と同一ではない、それ故に教会の一つの機能である教義学は、第二の形態の神の言葉である「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない、何故ならば「使徒や預言者たちが語ったこと」は、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」(イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)ではあっても、それとして「啓示の実在」そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって人間的言語を介して対象化された「存在者レベルでの神」、その啓示を問うことになってしまうからである、したがって教義学は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉としての聖書的啓示証言)――この「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない、その時だけわれわれの「キリスト教的語りは、今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され、命じられているかを知ることができる」、このように教義学そのもの・また神についての教会の語りは、「信仰のない人間の、信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準(≪・原理・法廷・審判者・支配者≫)を、(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)イエス・キリストの中で受けとる限り(≪具体的にはその第二の形態の神の言葉、預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して受け取る限り≫)、教義学は真理の認識として可能となる」のである、この時だけ教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。言い換えれば、このことは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が、<客観的>に存在している三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)および具体的には第二の形態の神の言葉(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、教会の宣教(説教と聖礼典)――すなわちその思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、このような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すということである、またそういう仕方でイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということである――「教会は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪あの神の側の真実としてあるインマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、 支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、したがって、そうでない場合は「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。
 「厳格な意味での神概念」は、「ただ神ご自身しか持ち給わない」。したがって、われわれは、「神とは同一でない諸対象の概念を持っているだけである」。したがってまた、「最も重要な表示も、神に対して、ただ相対的にふさわしいだけである」――「主ヨ、私ハアナタノ高ミヲキワメルコトヲ試ミマセン。私ノ理解ハ決シテソレト比較出来ナイカラデス」。また、神の自己認識・自己理解・自己規定と神とは異なるわれわれ人間の自己認識・自己理解・自己規定とが全く違うように、「神は、われわれが神について語ることができるすべてのことと、ただ単に全く違ってい給うだけではない」、すなわち「ただ神だけが、まことに、本来的にいまし、独一無比で、(≪完全な自存性におけるご自身の中での神として、「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」として、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在として、われわれのための神として、イエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主なる神、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主なる神、父と子の霊である聖霊――啓示されてあること・<客観的>に存在する「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる神、このような三位一体の神として≫)ただ彼にのみ固有で、またただ彼にだけ知られている在り方の中にいます」。
 このような訳であるから、「われわれにとって知られている在り方のうちのどれも、最後的に、また本来的に、彼の在り方でないことが確かである限り、神は、すべての三段論法を打ち砕き給う」――「ソコデ、最高ノ本性ガ時ニ他ノモノト共通ノ名デ呼バレルコトガアルトシテモ、ソノ意味ハ異ナルモノト理解スベキコトニ全ク疑イハナイ」、「コノ実体ガ……諸実体ノドノヨウナ一般的取リ扱イノウチニモ含マレナイコトハ確カデアル」、「最高ノ本質ハ他ノスベテノ本性ヲ超エテソノ外(≪・彼岸、無限の質的差異≫)ニアルカラ、ソレニツイテ他ノ諸本性ニモ共通ナ言葉ヲモッテ何カヲ時ニ語ルコトガアッテモ、ソノ意味ハ全ク共通デナイ。……タトエドノヨウナ名辞ニヨッテ人ガこの本性ニツイテ語リ得ルカノヨウニ見エテモ(たとえば知恵とか本質という名辞であっても)、コレラノ名辞は、コノ本性ノ特性ヲ私ニ示ス」ことはできない、全き自由の神的愛の完全性における「神の恵みと神聖性」、「神のあわれみと義」、「神の忍耐と知恵」、また神の自由な様々な完全性における「神の単一性と遍在」、「神の不変性と全能」、「神の永遠性と栄光」という神の本質全体の区別を包括した単一性(「単一性と区別」)を示すことはできない。しかし、「ちょうど神でないすべてのものが、神なしには無であるであろうが」、キリストにあっての「神を通しては何か」であり、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(イエス・キリスト自身、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、インマヌエルの出来事と聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の出来事≫)に基づいて「段階的な強度において、最高ノ本質ノ一種ノ模倣であるように」、「本来ただ神とは決して同一ではない諸対象にっとってだけ適当である言説が、アル形似あるいは像ヲ通シテ(タトエバ、アル人ノ顔ヲ鏡ノウチニ観察スル場合ノヨウニ)、口で言い表せない神に適用されて、まことの言説であることができるのである」――「モシ(≪聖霊によって更新された理性も決して聖霊ではないが、聖霊によって更新された≫)理性ノ教エルトコロニ従イ、他ヲ通シテ、謎ニオケルヨウニソレニツイテ何カガ推察サレ得ルナラ、ソレモ誤リデハナイ」。
 「すべての『思弁的な』神学が真理(≪啓示の真理≫)を語っているわけではない」が、啓示の「真理を語るところの神学」も、理性的な知的営為として「『思弁的な』神学である」。しかし、この「『思弁的な』神学」という概念は、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によれば次のような水準にあるそれである――アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、そのことを「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定」している。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、<客観的>に存在している、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示から得られた認識」としてのイエス・キリストの「実在」から、換言すれば<客観的>に存在している預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言(第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)から、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性について考えたのである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のアンセルムスは、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)および具体的には第二の形態の神の言葉(聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、Tコリント13・12)に信頼し固執し連帯することで模倣の模倣を、像の像を、形似の形似を構成することを目指したのである。このような「条件づけから」啓示の「真理を語るところの神学」は、「身を引くことはできない」、それ故に「神学は、この条件付けを忘れることはできないし、またそれを恥じることもできない」。このような訳で、啓示の「真理を語るところの」「『思弁的な』神学」は、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)から、自然神学としての混合神学、人間学的神学を志向し目指さないし、人間論や、人間学的な哲学原理・認識論・世界観にも与しない――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」。「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」。また、その場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。さらに言えば、戦争責任の告白等々を含めて焦点がぼけた皮相的で中途半端な身近な日本の教会の政治的言説と実践に引き寄せて言えば、それらは、やはり「教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」し・教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしないし、聖書的ではなかったし・聖書的ではないし、革命的でもなかったし・革命的でもないものである。