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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述6)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述6)
(2)バルトは、次のように述べている――「神学者」(下記の【注1】を参照)は、「どの程度まで、キリスト者が事情はそうだと信じているその通りの事情であるのかということを問う」、すなわち「特定の限界(下記の【注2】を参照)を超えてしまっ」て、それ故に「神学」的にではなく「非神学」的に、換言すれば人間学的神学的に、宗教的に、総括的に言えば自然神学的に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神への信仰」における「『事実』を問う問いへと急変」させる。アンセルムスは、そのことに対して「見誤ることはなかった」。言い換えれば、アンセルムスは、バルトと同じように、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰としてのそれではなく、自然神学の段階におけるそれ≫)という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)ということについてよく認識していたし自覚していた。このアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、そのことを「人は合理主義だと批判した」が、前述したようにアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定」している。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示から得られた認識」としてのイエス・キリストの「実在」から、換言すれば<客観的>に存在している預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言(第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)から、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性について考えたのである。

 

【注1】「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ」、「やはりひとつの証しである」限り、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における証しである限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている」、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの、啓示者である父なる神の子としての啓示そのもの、イエス・キリスト自身)および具体的にはその第二の形態の神の言葉(聖書的啓示証言、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)から提起される「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている」。「この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)。したがって、「教授でないものも、牧師でないものも、(≪またキリスト教的著述家でない者も、≫)彼らの教授や牧師(≪やキリスト教的著述家たちの≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)。「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、何故ならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には」、すなわちそれが神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における証しである時には、「最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。したがって、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

【注2】「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性を存在の本質としているから、われわれは、ここで、神の不把握性を認識させられ自覚させられるのである。言い換えれば、われわれは、ここで、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、われわれのための神としての起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主なる神、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主なる神、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造)・救済主なる神ということを認識させられ自覚させられるのである。したがって、われわれは、ここで、教会の宣教(説教と聖礼典)、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的(≪思惟と≫)語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、(≪またそのような行動であるのか、≫)それとも怠惰な思弁でしかないかということは(≪また「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救い」や平和の「計画」と「救い」や平和の「方法が支配する」「最も洗練された支配行為」・支配行動≫)でしかないかということは、神ご自身の決定事項なのであって、われわれ人間の決定事項ではない」ということを認識させられ自覚させられるのである。したがって、教会の一つの機能である教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということを認識させられ自覚させられるのである。

 

 このような訳で、「ドノ程度マデ根拠ガ尋ネ求メラレルベキデアルカという点で、デキル限リ謙遜デアル」神学者は、「特定の限界」を、換言すれば<客観的>に存在しているそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)を「超えてしまうことはないであろう」。したがって、すべての教会の宣教、その思惟と語り、「すべての思索」は、「ただ、……肯定されたCredo(≪起源的な第一の形態の神の言葉、および具体的にはその第二の形態の神の言葉を、教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それに信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の言い換えであることができるだけである」。したがってまた、すべての教会の宣教、その思惟と語り、「すべての思索」は、「われわれの肯定を、あるいは肯定されたCredoを基礎づけること」ではない。何故ならば、「基礎づけ」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通した「Credo(≪客観的な、キリスト者である個体的自己の信仰的成果の世代的総和、すなわちキリスト教に固有な類、その類の時間性、すなわちキリスト教に固有な歴史性≫)とcredo(≪主観的な、キリスト者としての個体的自己の信仰的成果、その個の時間性、キリスト者としての個体史≫)の事実の中に、神的な啓示の事実の中にある」からである。このような訳で、「intelligere知解スルは、Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の諸命題の内的な必然性を確かめること」を、それらの諸命題に相応している「信仰にとっての必然的な存在を確かめること」を「超えてゆくことはないであろう」。聖書またそれに信頼し固執し連帯した教会の宣教において神は、イエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主なる神、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主なる神、父と子の霊である聖霊――啓示されてあること・<客観的>に存在する「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる神であり、このような三位一体の神として自己啓示・自己顕現されたが故に、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠であり、またこの三位一体論がキリスト教に固有な「神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理」であるから、「あの限界のところでの神学の課題」は、「ドノヨウニシテカトイウコトガ理解ヲ超エテイルコトヲ理性的ニ明示スルという課題……であるであろう」、換言すれば先に述べたあの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」等を「理性的ニ明示スルという課題……であるであろう」(下記の【注1】を参照)、換言すれば「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということ、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)ということであるであろう。したがって、「あの限界のところでさらに引き続いて問おうとする者」は、「再びただ愚か者……でしかあり得ないであろう」、換言すればその者たちは、恣意的独断的に、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)を後景へと退けてしまって、人間の自由な自己意識、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神への信仰」(偶像信仰)、その啓示について「『どのように』を問う愚か者でしかあり得ないであろう」(下記の【注2】を参照)。言い換えれば、自然神学の段階で観念的知的遊びをしているその者たちは、たとえ彼がバルト研究者だとしても、前述したような意味で、イエス・キリストの名にのみ、具体的には聖書的啓示証言にのみ信頼し固執し連帯するという仕方で、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの妥当性のある原理的な根本的包括的なキリスト教批判を包括し止揚し克服したバルトを決して理解することはできないであろう。

 

【注1】「三位一体について、『ソノヨウナ崇高ナ事象ノ神秘(≪神の側の真実としてある「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」≫)ハ、私ニハ人間ノ知性ノ全能力ヲモ超エタモノト思エ、コレガドノヨウナモノカ説明シヨウトシテモ、ソノ努力ハ放棄サレナケレバナラナイト考エル。ソモソモ、私ノ判断カラスルト、理解ヲ超越シタモノゴトヲ探求シテイル者ハ、推理ニヨッテソノ存在ヲ最モ確実ニ認メルニ至ッタナラ、タトエソレガドウシテソノヨウデアルノカヲ知性ニヨッテ究明出来ナイトシテモ、ソレデ満足スベキデアル。ソコデ、必然的証明ニヨッテ確認サレ、ドノヨウナ矛盾スル理由モホカニナイモノゴトニツイテハ、タトエソレラガソノ本性的崇高サノタメニ理解ヲ超エ、説明ヲ受ケ付ケナイトシテモ、ソレユエニソレラニ対シテ示ス信仰ノ確実性ガ低クナルコトガアッテハナラナイ(≪何故ならば、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、神の側から、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられたものであるから≫)』」。「受肉について、『一方、神ノ知恵ガドノヨウナ理由カラソウナサレタカヲ理解出来ナイトシテモ、ソレハ驚クベキデナク、ムシロソノヨウニ偉大な事柄ニハ、私タチノ知ラナイ神秘(≪神の秘義性≫)が潜ンデイルコトヲ敬意ヲモッテ認メルベキデアル』」(何故ならば、三位一体の神の第二の存在の仕方、受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その存在の本質である「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味しているからである)。バルトも、神の側の真実としてある受肉と神人性について、『教会教義学 神の言葉』において次のように述べている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書(≪第二の形態の神の言葉≫)からのみ、換言すればイエス・キリストの名(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、人類史のアジア的段階の日本において天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれたから≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。

 

【注2】神の側の真実としてある、ご自身の中での神、「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」、われわれのための神、イエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主なる神、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主なる神、父と子の霊である聖霊――啓示されてあること・<客観的>に存在する「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる神としての三位一体の神等、信仰にとって「必然的ニ存在スルコトヲ、ソレガドノヨウニシテ存在スルカヲ知ラナイトイウ理由カラ、不可能デアルト断定スル者ガイルナラ、ソノヨウナ人」は、「愚カ者ダト言ウベキデス」、何故ならば、その者たちは、前述した信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、客観的に存在する三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)を介して、神の側からやって来ることを認識し自覚していないからである。「一ツノ必然的立証ニヨッテ、マコトニ存在スルコトガ証明サレタコトニツイテハ、タトエドノヨウニシテソレガ存在スルノカガワカラナクテモ、イササカモ疑問視シテハナラナイカラデアル」。