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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述5)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述5)
(1)「intelligere知解スル」ことが、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「fides信仰」によって「要求されており、可能とされるということから」、「今や、神学的作業の特別な課題を問う……前に……語らなければならない神学的作業の諸条件の一連の系列が結果として生じてくる」。言い換えれば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で個体的自己としてのそれぞれのキリスト者に与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰(「言葉を与える主」は、同時に「信仰を与える主」である)――このキリスト教に固有な世代的総和である類の時間性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、換言すればキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性)に信頼し固執し連帯して「intelligere知解スル」ことが、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「fides信仰」によって「要求されており、可能とされるということから」、「今や、神学的作業の特別な課題を問う……前に……語らなければならない神学的作業の諸条件の一連の系列が結果として生じてくる」。
 教会の一つの機能としての「神学的学問」は、「Credo(≪神の言葉の第三の形態に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)についての学問として」、<客観的>に存在している三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(啓示者である父なる神の子としてのイエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの)に感謝をもって信頼し固執し連帯して、それ故に具体的にはそのイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性も賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉(直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯して、それ故にそれを第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なわれわれ教会の宣教の、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(下記の【注】を参照)を志向し目指す「Credo(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、すなわちキリスト教に固有な類の時間性に信頼し固執し連帯する教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)との関連において、ただ積極的な性格しか持つことができない」。何故ならば、「私ハ、(≪そのように≫)『信ジナイナラバ、知解シナイデアロウ』トイウコトヲ信ジテイルカラデス」。「徳ヲ建テル謙虚ナ知識ヲ、アナタハ常ニ与エテ下サイマシタ」、このような訳で「神学は愚昧ナ傲慢とは正反対に、謙虚ナ知恵である」。したがって、「求められた知解」は、「いずれにしても、教会のCredo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉およびその直接的な最初の第一の第二の形態の神の言葉、換言すればキリスト教に固有な類の時間性に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉≫)」の「継続と説明以外の何ものでもないのである」――「キリスト教信仰ノ奥義ヲアエテ理性ニヨッテ討議スル前ニ、マズソレヲ信ジルコトヲ、正当ナ秩序ガ要求シテイル……」、それ故に「intelligere知解するは、前もって語られ……前もって肯定されたCredo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を後から考えることを通して生じる」。あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「黙想ハ知ヲ生ム」。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うことである」。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰を否定したり」・「教会のCredoを否定したり……あるいは疑う信仰の学問」は、すなわちキリスト教に固有な類の時間性における教会の<客観的>な信仰告白および教義を否定したりあるいは疑う信仰の学問は、「オノズカラ、ただ単に信仰的であることをやめるだけでなく、また学問的であることもやめる」のである、教会の一つの機能としての「教義学としては非学問的」なのである、総括的に言えば人間論的な、また人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に依拠した自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す人間論的人間学的神学としかならないのである、それ故に近代以降は人間の神化・神の人間化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を持った人間論的人間学的神学としかならないのである、それ故に「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「真理の事実に対しての厚かましい知ったかぶり」の人間論的人間学的神学としかならないのである。このような訳であるから、「キリスト者ハ誰デモ、イカニ公教会(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した公教会≫)ガ心デ信ジマタ口デ告白スルコトガ存在シナイカヲ論ジテハナラズ、ムシロ常ニ(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した≫)同ジ信仰ヲ疑ワズニ信奉シ、愛シ、マタソレニ従ッテ生キツツ、謙虚ニ、可能ナカギリ、ドウシテソウナノカトイウ理由ヲ求メルベキデス。(≪したがって、あの「啓示と信仰の出来事」の基づいて≫)モシ理解出来ルナラ、神ニ感謝スベキデス。モシ出来ナイナラ、角ヲ振リマワシテ追突スルコトナク、頭ヲ垂レテ敬意ヲ表ワスベキデス(エゼキエル三四・二一)」、「神ガ覆ッテシマワレルノデ、私ハコノ信仰ニツイテ決シテ論ジナイデアロウトイウ具合デハナク、神ガ与エテ下サルノデ(≪神ガ、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識を、すなわち啓示認識・啓示信仰を与エテ下サルノデ≫)、イツモ、信ジ、愛シ、生キルコトニヨッテ、ソレヲ論ジルデアロウトイウ具合デアロウ」、「ソレ故、(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としてのイエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのものを起源とするキリスト教に固有な類の時間性に信頼し固執し連帯して≫)信心深ク生キヨウトスル者ハ、(≪その直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である≫)聖書ヲ黙想スル。ソシテ、マダ理解シテイナイ事柄ヲ非難シタリ、ソレデ抵抗シタリシナイ。コレガ、柔和ニナル(マタイ五・五)トイウコトデアル」。

 

【注】あのような仕方で、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す「神への愛」は、そういう仕方における「神への愛」に根拠づけられた「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわち<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるところの、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを包摂している。したがって、あのような仕方における「神への愛」――その「神への愛」に根拠づけられた「神の賛美」としての「隣人愛」という連環が重要である(『福音と律法』)。