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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述3)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述3)

 

 神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)としての「信仰は、それが(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現における、神の自己認識・自己理解・自己規定における、キリストにあっての≫)を信じる信仰である限り」、それ故に「正しいものを信じるものである限り」、徹頭徹尾キリストにあっての「神に負うている」(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいている)ところの、「神によって要求され、救いに益となる『経験』(≪「単なる知識」とは異なる、「神の言葉の三形態」、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、教会の客観的 な信仰告白および教義を内容とする経験的普遍≫)と結びついた正しい意志的行為である」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉』によれば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」し、また『福音主義神学入門』によれば、「信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白」せざるを得ないし、また『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によれば、「ソレヲ信ジナイモノハソレニ向カウコトガ出来ナイ」(「ソレヲ信ジナイモノハ」、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連環を志向し目指さない)からである。この「信仰は、聞くことから来、聞くことは説教から来る」――「私ガ知ッテイル事柄、知ッテイルカラ主張シテイル事柄、ソシテ主張シツツ愛シテイル事柄ヲ、私ハキリスト教ノ学校デ学ンダ」、換言すれば『教会教義学 神の言葉』によれば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通して、すなわちの神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての起源的な第一の形態の神の言葉(啓示者である父なる神の子としてのイエス・キリスト自身)、「啓示の実在」そのもの、および具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、ならびに昔の教会の客観的な信仰告白および教義に信頼し固執し連帯することを通して学んだ。したがって、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいたこの信仰は、「キリストの言葉」を、「単なる知識」ではない信仰の認識としての神「認識」(啓示「認識」・啓示信仰)という「知識(下記の【注】を参照)として受け取ることと肯定すること」である。この時、「キリストの言葉は、『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一である」――「ローマ一〇・一三−一四および一七がよく注意されなければならない。『ダガ、コノ信仰ハ聞クコトカラト言ウコト(≪神の言葉の第二の形態、聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)(スナワチ、パウロが言ウコト)ハ、精神ガ聞クコトヲ通シテイダイタコトカラ来ルトイウ意味ニ理解スベキデ、サラニハ、精神的ニイダイタコトダケデ信仰ガ人ノウチニ生マレルトイウノデハナク、信仰ノ存在ニハ精神的ニイダクコトガ必要ダトイウコトデアル……』」、「『聞クコトハキリストノ言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)ヲ通シテ』、スナワチキリストヲ宣ベル者ノ言葉(起源的な第一の形態の神の言葉と共に先ず第一義的に優位に立つ原理としてのその第二の形態の聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、そしてもっと言えばこれに信頼し固執し連帯したその第三の形態に属する全く人間的な教会の客観的な信仰告白および教義≫)ヲ通シテ来ル」。「アンセルムスにとっては、聖書が、特に際立った仕方で、そのような人間の言葉(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)に属していることは確かである」。このアンセルムスは、「聖書ニオイテ学ブ修行をしきりにすすめた」。アンセルムスは、「教会の宣教の源泉としての聖書の意味について、原則的に(中略)……預言者ト使徒タチノ心ソシテ福音ヲ奇蹟的ニ、人間ノ教エナシデ、救イノ種デ肥沃ナモノトシタ。(中略)ソモソモ私タチノ説クコトデ救霊ニ役立ツコトハスベテ、聖霊ノ奇蹟ニヨッテ肥沃ニサレタ聖書ガ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の出来事」と「聖霊の注ぎによる信仰の出来事」に基づいて≫)語ッテイルカ、ソノウチニ含マレテイル」。
 しかし、アンセルムスによれば、「聖書という概念それ自体は、……原則的にもっと広く把握されるべきである」という。すなわち、「同様の威厳と標準性とをもって矛盾なしに聖書の本文から結果として生じてくるもろもろの帰結」(聖書に信頼し固執し連帯した、それぞれの世紀、それぞれの世代の、キリスト教に固有な類としての教会の客観的な信仰告白および教義、類の拡大・深化・豊富化)を、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」する、それ故に「聖書の本文」に信頼し固執し連帯するキリスト教に固有な類の歴史性(時間性)に「付け加わ」えることができる――「私タチハ、聖書ニ書カレテイルコトダケデナク、ソレラノコトカラ、ドノヨウナ反対理由モナク、理性的必然性ヲモッテ、結論ヅケラレルコトヲモ、確信ヲモッテ受ケ容レルベキデアル」。このキリスト教に固有な類の歴史性(時間性)は、『教会教義学 神の言葉』によれば、「例証」の歴史ではなく、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいた「解釈」の歴史であるからであり、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動から言って「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈するとは別の言葉で同一のこと(≪起源的な第一の形態の神言葉、「啓示の実在」そのものと、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言と同じこと≫)を言うことである」からである。このような訳で、アンセルムスは、「彼の『信仰』を、ローマ信条、ニケア・コンスタンティノポリス信条、アタナシウス信条に照らして告白した」――「コレハ、キリストがソノ上ニ教会ヲ建テ給ウタ岩デアッテ、冥府ノ門モソレニウチ勝ツコトハナイ。(中略)コノ岩ノ上ニ、私ハ家ヲ建テヨウ。コノ信仰ノ確カサノ上ニ建テル者ハ、キリストノ上ニ建テルノデアル。(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解そのものである≫)キリストヲ別ニシテ、他ノ基礎ヲスエルコトハ出来ナイ」。
 また「同時に……定式的に表現された(≪教会の客観的な≫)教義」に「必然的に信仰の要素を受け取ることに対しても余地を残した」――「私タチハ、信ジマタ告白スベキコトガスベテコノ信教ニ表明サレテイルワケデハナク、マタソレヲ発布シタ人タチガ、ソコニ書キ入レタコトダケヲ信ジマタ告白スコトデ、キリスト教信仰ガ満足スルコトヲ望ンダノデハナイコトヲ知ッテイル」。アンセルムスは、「さらに、公教会ノ教父タチノ、特ニ最モ多ク祝福サレタ聖アウグスティヌスノ書物を、思惟の源泉としてではないが、しかし規準として強調しつつ名指した」、すなわちそれを肯定的にあるいは否定的に媒介すべき契機として強調しつつ名指した。例えば次のようにである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした、それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、(ア)先に述べたような仕方で、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろう」とはしなかった、すなわちアンセルムスの場合、(イ)「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)を前提条件」としていた、このように(イ)において、アウグスティヌスの神学における肯定的側面と否定的側面に対する評価を媒介することで、自然神学の段階で停滞していたアウグスティヌスを紙一重で超えたのである、このような仕方で、すなわち「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する自らの立場において、アウグスティヌスの神学を包括し止揚していく仕方で、<非>自然神学超の段階へと超えていく在り方に、アンセルムスの神学における<思想性>はあるのである。
 「そして最後に」、アンセルムスは、「教会の中で起こった誤謬の神学的反駁をローマ教皇に提出してソノ賢慮アル検討ヲ仰グことを、最も安全なことだと明言した。簡単に言って、ここで教会が現われる」――「公教会ガ心デ信ジマタ口デ告白すること」(聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した公教会の客観的な信仰告白および教義)は、「いかなる場合でも決して否定の対象であることはできない」。すなわち、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会のわれわれは、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、それ故に具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、教会の宣教における、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち『福音と律法』によれば、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々が、純粋なキリストの福音を、現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え――を志向し目指していく必要があるのである、そういう仕方でイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していく必要があるのである。この時、われわれは、「世界の救い(≪・平和≫)を何かある国家的、(≪法的≫)政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待する」であろう(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。この時、われわれは、一切の権威、一切の権力に、決して与しないであろう、それ故にわれわれは「西の獅子」にも「東の獅子」にも決して与しないであろう、「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没したこと」があったし(『バルト自伝』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組み」になっており、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも」、どのような思想傾向にも、どのような時流や時勢にも与しないし、それらに対して決して「無条件に『然り』とは言わ」ないであろう(『啓示・教会・神学』)、「福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説を……決して承認」しはしないであろう(『バルト自伝』)。
 このような訳で、「アンセルムスの主観的なcredo〔ワレ信ズ〕」は、「教会の客観的なCredoを、換言すれば人間的な言葉で定式的に表現された諸命題の総和を、……関係点として持っている」。言い換えれば、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯し、それを媒介させた主観性を包括した客観性、すなわち教会の客観的なCredoを信じる信仰自身が、「既に知解スルこと」であるが、そのことが問題である。「キリストの言葉」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一であるといった具合に、そしてそのこと中で」、「(信仰が信じる)『正しいこと』である」。神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会における「キリスト教の宣教の、この人間的な言葉(≪あの「神の言葉の三形態」、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義、Credo≫)に対する関係の中で、信ジル(≪credo≫)ことは、知解スルことの前提である」。人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、『教会教義学 神の言葉』によれば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」し、また『福音主義神学入門』によれば、「信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白」せざるを得ないし、また「ソレヲ信ジナイモノハソレニ向カウコトガ出来ナイ」から、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信ジルこと」は、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して「信ジルことは、知解スルことの前提である」。

 

【注】バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「単なる知識」と「認識」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)とを厳密に区別している。すなわち、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、換言すればインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」、「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」・信仰、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解する」ことができる。したがって、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・単なる知識(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、学業的な「単なる知識」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された人間学的な「単なる知識」に過ぎないある理念、ある概念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」としての神概念、啓示概念は、あの「啓示と信仰出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰のそれではない。何故ならば、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないからであり、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」からである。したがって、神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、その隠蔽性と顕現性(イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」)において、「われわれのところに来」るのである、換言すれば神の隠蔽性、秘義性、それ故に神の不把握性において、すなわち終末論的限界において、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・「信仰の出来事」は、われわれ「人間自身の業」ではなく、起源的な第一の形態の「神の言葉自身」、すなわち「啓示の出来事」と「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて与えられるそれである。このように、「言葉を与える主」は、「 同時に信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの出来事(その死と復活、復活に包括されその死)の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。「われわれが哲学的用語(≪人間学的用語≫)をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」という認識と自覚は、神学的(教会の一つの機能である教会教義学的)営為の前提である、ちょうど「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異という認識と自覚が、神学的(教会の一つの機能である教会教義学的)営為の前提であるように、もっと言えばちょうど第三の形態の属する全く人間的なわれわれ教会の宣教(説教と聖礼典)が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、決してわれわれ「人間の決定事項ではない」(『教会教義学 神の言葉』)という認識と自覚が、教会の思惟と語りと行動の前提であるように。