22-21『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」
『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-21(170-181頁)
「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-21
【補注】
(ア)
われわれは、「自由」という概念によって、「古代教会の神学の中で神ノ自存性と呼ばれたもののことを言い表す」。それは、「神の属性と自己という言葉とを結びつけ」たところの、神の「固有」性としての「自己存在、自己生命、自己善」という概念である。この概念規定は、「ギリシャ教父たちのところで好んで為された」。「自己充足、自己支配者、自己神等々」という神概念の規定は、「カンタベリーのアンセルムスのところで初めて定式化されて用いられた」――「最高実体ハ、タトエソレガ何デアロウト、ソレ自身ヲ通シテ、ソレ自身カラシテ、ソレガ現ニアルトコロノモノデアル。最高ノ真理ハ、……イカナルモノニモ何モ負ウテオラズ、シタガッテソレガ存在スルコトヲ、タダソレガ存在スルトイウ理由ヲ徐イテハ、イカナル理由ニモ負ウテイナイ。汝ハ全ク自己自身ニ充足シ、イカナルモノヲモ要シ給ワヌガ、一切ノモノハ、ソレラガ存在スルタメニハ、汝ヲ要スルノデアル」・「ソレ故、彼ハ、ソレガ何デアレ、持チ給ウトコロノモノヲ、ゴ自身カラシテ持チ給ウ」。しかし、「古プロテスタントの教義学者たち」以降、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」が「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)に……置き換えられ」、それ故にその神の自由の積極的な側面が後景へと退けられ、その消極的な側面が前景化させられてしまった。言い換えれば、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」という「出エジプト三・一四(≪旧訳「わたしは、有って有る者」、新共同訳「わたしはある。わたしはあるという者だ」≫)を特に好んで引用したところで、……聖書的な神概念」に信頼し固執し連帯した神の自由の積極的な側面である「自己自身である神の自由」が後景へと退けられたのである。このような訳で、われわれは、「神の自由」という概念を、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との総体的構造(全体的構造)において定義しなければならないのである。すなわち、それは、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪例えば、人間的理性や人間的欲求やによって為される概念規定、「存在者レベルでの神」≫)からの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」との総体性(全体性)において定義しなければならないのである。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。しかし、その「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、われわれのための神としてのその三つの存在の仕方における「外に向かっての神の行為の本来的な積極性であるばかりでなく」、「また、(≪内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神としての≫)神ご自身の内的な本質の本来的な積極性である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの神の自由」に「相対しても自由であり」(自存性)、この全き自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由である、ご自身の中で自由である」ところの「神の自由」(自存性)の中で見ている。
バルトは、「神の完全性の多数性、個別性、相違性の真理」を、「その唯名論的な否定およびその半唯名論的な緩和……と対決しつつ」、次のような「三つの説明的な命題の中で展開」している。聖書的啓示証言「Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリスト」は、「<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認され」ている。しかし、このことは、「自明的ではない」。すなわち、このことは、「常に」、主と栄光とを切り離して認識する「切り離し」の「危険」性に曝されている、一方を拡大鏡にかけて全体化する「危険」性に曝されている、一面的固定的相対的抽象的な形而上学的思惟と語りの「危険」性に曝されている。
第一に、神は、その<栄光>を後景へと退けられた仕方で、「<主>として、点的にあるいは線的に見られ理解される……」というようにである、換言すれば神は、先行するわれわれ人間の人間的理性による「定義に従って、過度に愛し、過度に自由な仕方で存在」し、「そのようなものとして……集約的な……また無限に狭い本質」――すなわちそのようなものが、「多種多様の動きを持った世を、特に人間」を、「相対して持つようになり、それとの関係の中で(≪神は後続的に≫)自分自身動きを受け取ることでもって初めて生きたものとなり、そこで初めてわれわれにとって、内容充実、具象性、明瞭性、それと共に実在性を得て来る本質として見られ理解される」というようにである。したがって、ここでの「神的対処の仕方」は、「神の性質の中に基礎づけられ」た常に先行する神の「本来的な」「神的対処の仕方」ではないところの、換言すれば「経綸」――すなわち徹頭徹尾、存在的にも、認識的にも、内在的にも、外在的にも、その完全さ・その自由さにおいて常に先行するところの、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(啓示者・創造主、この神の愛の行為の出来事としての神の存在)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(啓示・和解主、起源的な第一の形態の神の言葉、この神の愛の行為の出来事としての神の存在)、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊(啓示されてあること・救済主、この神の愛の行為の出来事としての神の存在)なる神の「本来的な」「神的対処の仕方」ではないところの、われわれ人間「自身の性質の中に基礎づけられている一種の神的対処の仕方」(人間が、<主>として先行した、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」の対処の仕方、「対策的な経綸」、その神の名と呼びかけによる救い・平和・幸福の企て)なのである、それ故に常に先行する神の「本来的な」「神的対処の仕方」(性質、「動き」、働き、業と行為)を後景へと退けた停止させたそれなのである。このように、「もしも(≪自存性としてのキリストにあっての≫)神が栄光の主であり給わないならば」、またキリストにあっての神がわれわれ人間の「言葉のすべての比喩的な性質にもかかわらず、何の留保もなしに事実います」というのでないならば、またキリストにあっての神が「ただ単に(≪キリストにあっての神はご自身の中での神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」のその存在の仕方において「います」のであるが、われわれのための神として≫)われわれにとってだけでなく、また(≪ご自身の中での神として≫)自分自身の中ででもいます」というのでないならば(父なる名の<内>三位一体的特殊性、神の<内>三位一体的父の名、三位相互<内在性>として存在していないならば)、換言すればキリストにあっての神が、存在的にも認識的にも、内在的にも外在的にも、その自存性において「います」と言うのでないならば、「そのことは、神を信じる信仰にとって危険なことであり、最後的な根底において致命的なことである……」。したがって、「聖書は、われわれに対して」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストを、その完全さ・自由さにおいて、「<栄光>の<主>であり給う」というように、その「全体性」・総体性の中で証ししているのである。すなわち、聖書的啓示証言は、われわれに対して、「神の栄光を証しすることによって、まさに(≪イエス・キリストが≫)栄光に満ちた方……として本来的なまことの神(≪旧約聖書における「ヤハウェ」、新約聖書における神・「テオス」あるいは主・「キュリオス」≫)であることを証ししている」のである。このようにして、「聖書は、われわれを、(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神ご自身を信じる真剣な、本来的な信仰(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)へと呼び出す」のである。このような訳で、「<主>がその<栄光>と一つであるというこの聖書的な単一性(≪イエス・キリストは、「<栄光>の<主>であり給う」という「全体性」、総体性≫)を証しし記述することが、神的完全性についての教説の課題」なのである。
第二に、「神の<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)は、(≪われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求によって≫)分散され、解消され、(≪その一面を拡大鏡にかけて全体化され、≫)<主>のない仕方で、見られ理解される」というようにである、換言すれば「神の栄光」は、キリストにあっての「神自身と関わり」のない、その「神性と関わり」のない、「表向き」だけの「神の栄光」、すなわち「実際には」、「人間的な願望と恐れの客体化された投影としての世的な世」、「結局はそのほかの世および人間自身と比べて何ら遜色のない仕方での……世的な世」、人間自身による「理念の力、支配、支配の力、権力の世」というようにである。したがって、その「神は、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルの神」等を「主人」・主とする、それ故に主なしにも、「神なしにも、神的なものである」≫)あらゆる種類の表向き最高のもの、最後的なもの」でしかないものなのである、ちょうど例えば科学<主義>等々が近代の宗教的形態であるように、また法的言語・制度的言語・政策的言語を<絶対化>して宗教とするように。もしもこのような栄光が「神の栄光である」としたならば、それ故にその「名目上の礼拝、名目上の敬虔性」は、「奴隷的束縛を意味している……」と言うことができる、それ故にその場合「われわれの服従」は、その「背後に……(≪キリストにあっての神への≫)反逆」を潜ませている。したがって、「ここでもまた、もしも(≪キリストにあっての≫)神が栄光の主であり給わないならば」、また「天上においても、地上においても、まことに栄光であり給わないならば」、それ故に「力、善、義、知恵等であることができるすべてが神ご自身とは違っておらず、ほかならぬ神ご自身であるということに対する保証を持っていない」ならば、「そのことは(≪「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執し固着する≫)信仰にとって危険なことであり、最後的には致命的なこと」なのである。したがってまた、「聖書は、われわれに対して、神の栄光を証しすることによって」、「神のすべての栄光は、栄光の主としての(≪キリストにあっての≫)神ご自身の中に集中され、集約され、統一されている」ということを証ししているのである、それ故に人間の書かれた歴史に登場する「あらゆる種類の主権者」・「主人たち」、「世界史的個人」、英雄、さまざまな「神の代理者および奉仕者」を証ししているのではないのである(Ⅰコリント3・21-23――「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」および3・11――「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」、栄光の主としての<純粋>な「イエス・キリストの名」、その<純粋>なキリストの福音、その<純粋>なキリストにあっての神を証ししているのである)。このような訳で、われわれは、「聖書の中で、……神が全く特定の性質、完全性の満ち溢れを持ち給うことによって」、「決してそれとしてのそれらの性質あるいは完全性そのもの(≪内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の<内>三位一体的特殊性」、神の<内>三位一体的父の名、「三位相互<内在性>」≫)と関わるのではなく」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主・啓示者)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示)、第三の存在の仕方である父と子の交わりである聖霊(救済主・啓示されてあること)なる神の存在としての神の愛の行為の出来事全体――この「神の性質あるいは完全性としてのそれらのものと」、そして「そのようにして常に直接神ご自身と関わらなければならない」のである。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)を要求する啓示である。したがって、「聖書は、……(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)あらゆる種類の最高のものおよび最後的なもの(≪「存在者レベルでの神」≫)を肯定することから成り立って」いるのではないのである。そうではなくて、聖書的啓示証言は、われわれを、ただ起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開・時間累積、すなわちあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「唯一の、まことの、われわれに対して立てられた(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である」自由・≫)主権の肯定(≪それ故に「奴隷的な屈従とは何らかかわりのない、いかなる恐れをも、……また反逆のいかなる萌芽をも、自分の中に含んでいない肯定」≫)から成り立っている信仰へと呼び覚ますことができる」のである。したがってまた、「この主に対する反逆」は、「ただ奴隷状態、名目だけの礼拝、(神の栄光でないところの拡散した栄光にわれわれが捧げるべきだと考える)名目だけの敬虔性」に、総括的に言えば自然神学に、自然的な信仰・神学・教会の宣教に退行・逆行する形でだけ・「逆戻りする形でだけ存在する」のである。このような訳で、「すべての栄光がそれの主と一つであるという聖書的な単一性(≪イエス・キリストは、「<栄光>の<主>であり給う」という「全体性」・総体性≫)を記述してゆくこと」――このことが、「別な側面から見て、神の完全性についての教説の課題である」。
「われわれは、この事柄(≪前述した第一と第二の事柄≫)において、三位一体論の関心事と、正確に平行的な事象と関わらなければならない……」。したがって、「栄光の主」は、「三つの存在の仕方の中での一人の神」(換言すれば「三神」・「三つの神性」・「三つの対象」・「三つの神的我」では決してないところの、「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神)と「対応している」ということに、「よく注意」しなければならないのである。したがってまた、「三つの存在の仕方を、ただ単に様態論の意味で経綸的に理解」したら誤謬に陥るのであって、あくまでも単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主、啓示者)、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主、啓示)、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(救済主、啓示されてあること)なる神の存在としての神の愛の行為の出来事全体、「まさにそのみ業の経綸の中での神的現臨と働きの真剣さに対応しつつ、(≪三位一体の神として、すなわち「失われない単一性」を本質とする≫)一人の永遠的な神ご自身の(≪「失われない差異性」における父、子、聖霊という三つの≫)存在の仕方として理解することが決定的に重要である」ということに、「よく注意」しなければならないのである。このような訳で、キリストにあっての神のその栄光・その完全性は、「神に固有な」三つの存在の仕方のそれであるということを、また同時的に、その総体性・「全体性」において、「神に固有な」存在の本質の、すなわち「永遠の」それであるということを「認識することが決定的に重要」なことなのである。神の言葉の第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストをのみ主・頭とする教会にとっては、「神の栄光とその完全性を、ただ単にそれだけでそれとして理解する」だけでなく、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「(その方だけがその栄光とそれらの完全性をまことの栄光として構成させ、啓示し、確認することができる主の)栄光として理解することが決定的に重要」なことなのである。その教会にとっては、「神の性質あるいは完全性は、言わば神的な言葉の文字である。したがって、ただ(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた≫)それらの文字のつながりと統一を通してだけ」、「それらのつながりと統一の中でだけ」、「それらの文字は(≪起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開・時間累積における≫)言葉(≪起源的な第一の形態の言葉であるイエス・キリスト自身、それ故に具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したところの、第三の形態における全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)であることができる」のである。このような訳で、「神の完全性についての教説は、一歩ごとに、ただ神の本質についての教説の展開と確認から成り立っている……」。「われわれは、事実、ただ神は(≪あの≫)自由の中で愛する方であると続けて言うことができるだけである……。しかし、神の完全性についての教説の中では、まさに神の本質についての教説の、この展開と確認にまで、……来なければならないのである」。
さて、「失われない単一性」(神の存在の本質のそれ)と「失われない差異性」(神の存在の仕方のそれ)との総体性・「全体性」において存在するイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神について、差異性・「相違性が、客観的に神ご自身の中に存在しているということ」は否定されるべきだとして前者だけを抽象して(一面だけを拡大鏡にかけて全体化して)それだけが「唯一の本来的な(神の存在の)表示」であると理解したために、それ故に「神の完全性」の「差異性」・「相違性」としての「多数性」・「個別性」は、「非本来的なもの」として「キリスト教的神論の中で、広い戦線にわたって多かれ少なかれ、……事柄において明確に否定されてきた」。しかし、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)の完全さ・自由さにおいて「三度別様」にイエス・キリストの父(創造主・啓示者、神の愛の行為の出来事としての神の存在)、子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示、神の愛の行為の出来事としての神の存在)、父と子の霊である聖霊(救済主・啓示されてあること、神の愛の行為の出来事としての神の存在)なる神であって、その神の愛の行為の出来事としての神の存在は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それ故に決して「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」、「三つの神性」ではないのである。したがって、われわれは、「性質の多様性」を、「神の本質の単一性と対立」させ「非本来的なものとして」主張すべきではないのであり、また「神の本質の単一性」を、「それだけが唯一の本来的な(神の存在の)表示として主張」すべきでもないのである。
(イ)
「トマス・アクィナスは、……神ニツイテ語ルニアタッテ、ソノ自存性ヲ表示スルタメニハ、具体名辞ヲ用イルノデアッテ、ソレハ、ワレワレノ世界ニオイテハ自存シテイルノハ複合的ナモノノミデシカナイカラデアル。ソシテ、他方、神ノ単純性ヲ表示スルタメニハ、ワレワレハ抽象名辞ヲ用イルノガ常デアル。ダカラ、タトエ『神性』トカ『生命』トカ何ラカコウシタモノガ神ノウチニアルトイワレルコトガアッテモ、コウシタ措辞ハ要スルニ、ワレワレノ知性ガ神ヲドウ取ルカノ相違(≪人間的理性や人間的欲求やによる概念規定の相違≫)ニ起因スルモノと解サレルベキデアッテ、決シテ事柄ソノモノニオケル何ラカノ相違ニ基ヅクモノトサレルベキデハナイ」、「イマ、ソレ自ラニオイテ考エラレル限リ神ハ完全ニ一ナル者、単純ナル者であるが、然シナガラ、ワレワレノ知性ハ、神ヲソレ自ラニオイテアルガママニ見ルコトガデキナイタメ、様々ナ観念ニ従ッテコレヲ認識スル。ダガ、タトエ、神ヲ捉エルノニ様々なナ観念ノモトニオイテスルトハイエ、知性ハヤハリ、単一ニシテ同一ナ単純ナモノガコレラスベテノ観念ニ対応シテイルモノナルコトヲ認識シテイル」、「チョウド様々ナ事物ガ、神デアリ給ウ単一ナモノニ、様々ナ形ヲ通シテ似セラレルヨウニ、ワレワレノ理解ハ様々ナ概念ヲ通シテ、ヒトツノ単一ナモノニイクラカ似サセラレル。……ソレ故ニヒトツノモノニ関シテ多クノコトヲ理解スルワレワレノ理解ハイツワリデモナケレバ空シクモナイ。何故ナラバ、アノ単一ナモノガ神的デアル際ノ固有ナ在リ方カラシテ多種多様ノ形に従ッテソレラノ概念ハソノモノニ似サセラレルコトガデキルカラデアル」、と述べている。このような訳で、「ポラーヌスは、……神ノ本質的ナ性質ハ、(実際ニ区別サレルノデハナイヨウニ)事物の本性カラシテ区別サレルノデハナク、……理性ニヨッテ区別サレル。更ニモットヨイ言イ方ヲスレバ、ワレワレノ概念ト理解デモッテ、アルイハワレワレノ認識ノ仕方ニシタガッテ、区別サレル」、と述べている。また、「クエンシュテットは、ワレワレノ有限ナ理解ハ、神ノ無限ナ、最モ単純ナ本質ヲ、ヒトツノ全キ概念ヲ用イテ全キ仕方デ心ニ思イ浮カベルコトガデキナイノデ、ソコデワレワレノ理解ハ、ソレヲ不完全ナ仕方デ表示シテイル様々ナ、不十分ナ概念ヲ用イテ神ノ本質ヲ把握スル。ソレラノ不十分ナ概念ハ、神ノ性質オヨビ属性ト呼バレル」、と述べている。「ヴェークシャイダー」は、これらの不完全な仕方での、不十分な認識、概念構成について、人間的「精神ノ虚弱サ」に根拠づけている。これらの言明の「強調点は、……神ご自身が、その性質のあの多様性の中で認識されることによって、身を落としてわれわれに合わせ、われわれの認識能力に適合し給うたということの上に置かれた。「これらすべての命題の背後」には、「唯名論的な背景および意味」が隠れているのである(<半唯名論>命題)。「トマス・アクィナス」はもちろんのこと、「シュライエルマッヘルもそのことをしているのであり」、その「地盤の上に身を置いたプロテスタント正統主義はなおさらそうなのである」。これらの言明はすべて、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたところの、内在的な「失われない単一性」と「失われない差異性」との全体性(神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別)として存在している、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」を、後景へと退けているのである。したがって、それらの言明においては、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性ということに対する、それ故にそのことに基づく終末論的限界ということに対する認識と承認と自覚が欠けているのである。したがってまた、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開、その時間性としてのキリスト教に固有な歴史性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性)、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に対する認識と承認と自覚が欠けているのである。このような訳で、「ペトロス・v・マストリヒトも、……ワレワレガマズ第一ニ神ノ本質ヲ……ソコカラ属性ガ出テクル根ノヨウニ理解スル限リ、属性ハ神トアタカモ言ワバ第二ノ本質ニオイテ合致スルヨウニ、神ニ合致スル。何故ナラバ、ワレワレハ、神ハアワレミアリ、智恵ニ富ミ、正シイ方デアルト理解スルコトガデキル前ニ、神ハ存在スルト理解スルカラデアル」、と述べている。「この認識ノ方法は、<事柄ノ中ニ含マレルスベテノ基礎>(≪このことは、「トマスの後に続いたカトリックの教義の中でも……多くのことが語られた」≫)ヲ欠イテイナイ」・「ただ単に人間の情に合わせてだけでなく、マコトニ、固有ナ仕方デ、神の性質について語るべき権利と必然性を基礎づけた」が、「しかしながらこの基礎ということで何が理解されるべきであるかについて、人は、立ち入って説明しようとしなかった」し、「そのことを立ち入って説明することはできなかった」。何故ならば、「神の本質ということで……それとしての神の本質essentiaそのものが、換言すれば根本においては結局……それが単純なものであるということが概念的に見て第一のこと、最後的なこと、本来的なことであり、この事柄において語られなければならず、それに相対してすべてのそのほかの言明は、認容、単に副次的な意味でだけ有効な真理の性格以外の性格を持つことができない固有ナコトである神の裸ノ本質が理解されなければならないという前提が確立されていたからである」。「ポラーヌス、クエンシュテット、v・マストリヒト」たちは、「聖書が性質的に規定された神の本質について語った際の重要な意味づけに対して公正であろうと努力した」のであるが、すなわち「神ノ独自ナ性質は神の本質の属性アルイハ偶性ではなく、この本質そのものであるという命題は、まさに昔の属性論の中心命題として言い表わ」すことができるのであるが、「この命題の解釈は、……全線にわたって独自ナ性質に不利な仕方で為された」のである。言い換えれば、「独自ナ性質がその本来性(≪「失われない差異性」≫)を、最後的には本質(≪「失われない単一性」≫)を有利にする仕方で」喪失させてしまったのである。したがって、その「命題の解釈」は、「それに対するわれわれの関係の中に基礎づけられているとして説明されたのである」。「人が、神の本質を、あの純然たる存在の中に見出すと考えたということは、人が、彼の神概念を(≪「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」である聖書的啓示証言における≫)三位一体論から定義せずに、……一般的な神概念(人間的理性や人間的欲求やによって規定された神としての、すなわち「偶像」としての「古代ストアおよび新プラトン主義の神概念」、すなわち人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」)からして定義したということ」であり、それ故に「そのことが、……悪い報いを受けたのである」。「アウグスティヌスも、多様(≪「主的であること」、父、子、聖霊という「失われない差異性」の中での「三度別様」な「存在の仕方」――すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の父・子・聖霊なる神の愛の行為の出来事全体としての神の存在≫)ノ単純性(≪「主」、「本質」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神≫)あるいは単純ナ多様性についてのその言葉でもって、……主と主的であること、主的であることと主との間の神の中にあり勝利を収める単一性を実り豊かなものとすることはできなかった」。彼らは、その一面を形而上学的固定的に抽象し全体化(絶対化)する原理的な根本的包括的な誤謬に陥ってしまったのである。このように、「神的な性質」を徹頭徹尾内在的に神の側に神の自存性に根拠づけられずに、「非本来的ニ解釈」したが故に、「D・F・シュトラウスがあざけったように、『不幸な真中』に身を置いたということは、……否定されるべきもないことなのである」、ちょうどキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、「哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、……哲学的試みが終わるところから始まる」のであり、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」にも拘わらず、「新約聖書の釈義に役立つ新しい鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンが、当然にもハイデッガー自身から「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と「揶揄」・批判されたことには、妥当性があるように。