カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

22-8『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-8(121-134頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-8
 また「和解ないし啓示」という「新しい業の中での神の特別なこと」は、「この新しい業の中で、被造物自身が、人間」が、「ただ人間だけでなく創造そのものの領域と実在全体」が、「将来を見通した深さを得てき、この新しい業の中で二つのものが、すなわち今ここで信じられるべき和解といつの日かあのところで見て取られるべき救済」(終末、救贖、完成、復活されたキリストの再臨におけるそれ)が、それ故に「創造の暫時的な本質と決定的な本質」(過渡的な本質と究極的な本質)が、「もっと正確に言うならば、われわれにとって今知られている形態と性質の中でのこの生とこの世と」、「われわれにとって今ここでは知られておらず、ただ神にのみ知られており」、「いつの日かあのところで(≪終末、救贖、完成、復活されたキリストの再臨におけるその時そのところで≫)またわれわれにとっても知られるその完全性の形態と性質の中でのこの生とこの世、換言すればあのところでいつの日にか(≪終末、救贖、完成、復活したキリストの再臨におけるそのところでその日に≫)徹頭徹尾排他的にいかなる対立もなしに可視的」に「見て取られる神の国の形態と性質の中でのこの生とこの世」が、「離される(≪区別される≫)と共に互いに関連させられたままであるということの中で示される」(Ⅰコリント13・12および【注6】の前の前段にある『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』の引用文を参照)。「この将来の見通しの啓示そのもの」が、「神とその選ばれた相手役との間の交わりの意味と内容であり」、神の側の真実としてある「この交わりの必然的な形式としての奇蹟の意味である」。この時、「被造物にとって、神とのその関係が問題であることによって、また被造物自身の最後のこと」、すなわち「神にとっては今既に現在的であるが、被造物にとっては未来的な」最後的実在が、すなわち「未来において啓示されるべき被造物自身の最後的実在が問題である」。イエス・キリストにおける「和解が、われわれを、自分たちの既に起こった・既に成り立っている救済を待ち、望み見、そのような救済に向かって進むことがゆるされている者とするということの中で、和解は、実在の和解である」、「成就と執行」・「永遠的実在」としての和解である。イエス・キリストにおける「啓示が、われわれを、それが(≪全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)聞くようにとわれわれに与えるところのものを通して」、「今ここではなお不可視的であるが、いつの日かあのところで(≪終末、救贖、完成、復活されたキリストの再臨におけるその時そのところで≫)、われわれの救済が可視的になるであろうところへと視線を向けるよう強いることの中で、啓示は、実在の啓示である」、「成就と執行」・「永遠的実在」としての啓示である。「信仰が、Ⅰペテロ一・三によれば、新たに生まれさせて生ける望みを抱かせるものであるということの中で、信仰は、実在の信仰である」、「単なる知識」ではないところの信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰である(下記の【注7】を参照)。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「和解と啓示の業」は、「すべてのそのほかのことは、そのことの中で総括されているのであるが」、それは、「創造のこの将来の見通しのある深みを開示することから成り立っており」、それ故に「われわれにとってからだの甦り、永遠の生命、新しい天と地を望み見る展望を開示することから成り立っているということの中で」、「創造の業に相対して、徹頭徹尾新しい業である」。したがって、「創造がこの将来の見通しを持たなければならないということは、創造そのものの本質と概念の中に含まれていない」――しかし、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「和解と啓示の業の中」において、「まさに神が被造物の堕落と取り組み給う対決の中で、創造(≪神の起源的な第一の存在の仕方における業≫)が事実この将来の見通しを持っていることが示されるのである」。このような訳で、キリストにあっての「神は、この第二のこと(≪「和解と啓示の業」≫)でもって……まさしくもって忠実となり給うのである」。すなわち、キリストにあっての神は、「人間の堕落に対して、ただ単に原状回復をもって答えられただけでなく」、「(創造そのものの起源的な完全さの中で隠されていた)完全性の啓示でもってこたえ給うた」、「単に病人を癒されただけでなく、彼をして朽ちることのない生命の希望にあずからしめ給うた」。われわれは、キリストにあっての神が「ただ……事実そのような方であり給うということに信頼をよせることができるだけである」。キリストにあっての神が「事実そのような方であり給うのであるから」、われわれは、「そのことに信頼を寄せなければならないのであり」、また「(この将来の見通しが開示されることから成り立っている)あの第一のもの(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方の創造の業≫)からこの第二のもの(≪第二の存在の仕方の和解と啓示の業≫)に向かっての歩み、進行、道を、いかなる場合にも決して……否定してはならず」、また「神の不変なる生の中での特別なものが……すなわち神はわれわれの来るべき救済者であり給うということが、特別なこととして感謝をもって見られ・承認されなければならない」、「ご自身を(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方において≫)われわれに対してその創造者および救済者として啓示し給う方に対する正しい感謝の中で、見られ・承認されなければならない」。

 

【注7】聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の「救済主」である。しかし、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊は、「救済主」であるだけではなく、「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」としているから、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主であるという証言」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエスを、「事実の承認」として、「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」、「子を通しての父を、父を通しての子」を信じる「信仰」、神との出会いであるイエスとの出会い、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰――この「信仰の出来事」は、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」によるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」――すなわち「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事のことである。したがって、それは、「単なる知識」の授与ではない、すなわち「認識」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与である。「救済」を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すれば現存したあるいは現存している人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての、<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。

 

 「信仰の実践」の問題に即して言えば、「和解ないし啓示」という「新しい業の中での神の特別なこと」は、「神を信じることがゆるされ、また神を信じようとするものにとって祈りの聞き届けがあるということ」、それ故にキリストにあっての「神は、信仰の祈りを聞き届けようと欲せられ、また事実聞き届けるであろう方であり、そのような方として認識されることを欲し給うということから成り立っている」。したがって、キリストにあっての「神は、その選びに基づく朋友関係の中で、人間との間に持ち給う交わりは、……現実のことであり、……具体的にくすしきことであるので」、「人間は、ただ単に神が語り給うことを(≪全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて)聞き、神に向かって答え、祈ることがゆるされるだけでなく」、「また人間は、そのような祈りの中で、ただ単に慰め、平安、解明を見出すだけでなく」、「神に向かって全く明確に、人間が必要としていることを神が為し、彼に与えて下さるよう呼びかけることがゆるされるのである」、「しかも、神は、それに基づいてそのことを為してくださり、その知恵にしたがって彼に対し必要なものを事実与えて下さるであろうという待望(≪全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における待望≫)の中で、そのように呼びかけることがゆるされるのである」。このことが、「創造の将来の見通しを与える深さの開示を通して信者に与えられる希望の具体的な内容である」。キリストにあっての「神が、ご自身の自由に基づいて、(≪キリストにあっての神の対自性における<自存性>としての自由の概念と対他性における<独立性>としての自由の概念との総体的構造における神の完全な自由、それ故にあくまでも全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断によるのであるが、≫)神が信仰の祈りによって規定され給うことがあるという表現を恐れてはならない」、何故ならば「それは、あくまで神の自由に基づいてである」からである。このような訳で、前述したような仕方で「神がただ単に信仰の祈りを聞き給うだけでなく、聞き届けようと欲し給うということ、神が信仰に対して聞き届けられることを待つ祈りを、ただ単にゆるし給うだけでなく、また命じ給うということも神の絶対的主権の」、それ故に「神の変わることのない生命に満ちた姿の形態である」。このことを、「聖書は、……徹頭徹尾曖昧さなしにはっきりと語っている」――「主は……正しい者の祈りを聞かれる(箴言一五・一九)」、「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫び声を聞いてこれを救われます(詩篇一四五・一八以下)」、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう(詩篇五〇・一五)」、「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りをささげたところ、三年六ケ月のあいだ、地上に雨が降らなかったが、それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた(ヤコブ五・十六以下)」、「(中略)……天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあるだろうか(マタイ七・七以下)」、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいて下さるであろう(ルカ一八・六以下)」。「あきらめということは、(それが占星術を伴ってであろうと、伴わないものであろうと)あらゆる事情の下で、不信仰の慰めのない慰めである」、「キリスト教的なあきらめ」というものはない。しかし、「キリスト教的忍耐と忍従」はある、キリストにあっての「神を待つキリスト教的な待ち通すこと(≪キリスト教的なキリストにあっての神を待ち通すこと≫)はある」――これが「本当のものであるということ」は、「常に……いかなる瞬間においても、いかなる点においても、まさに神のもとに逃れ、神にはげしく迫る祈りのさしせまった緊迫感なしではないということの中で証明される……」。それぞれの諸個人の信仰体験を引き寄せて考えてみても、このバルトン思惟と語りに対して<然り>と言えるのではないだろうか。「祈り求めるやもめのはげしい祈り」、「その中で神の意志が人間の意志に対し断固として決定的に優位におかれているゲツセマネの祈りの性格(≪このような性格の「祈りだけが、聞き届けられるという約束を持っている」≫)を持っていないようなものは信仰の祈りではないであろう」――「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである(Ⅰヨハネ五・一四以下)」。「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう(Ⅱテモテ二・一二)」――ここで「共に支配者となる」ということは、「神は世界支配の手綱を信者の手に委ね給うということ」を、「あるいは信者は自分を神と共通の座を占める者として感じ・振舞うことがゆるされるということを意味してはいない」。すなわち、「共に支配者となる」とは、「信じる者たちが、ただ神だけが世界支配を実行したまうことによって、ただ単に神の僕として神の下に立つだけでなく、同時にまた神の友として(≪恣意的、独断的、「わがまま勝手」にではなくて、あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわちキリストの福音を内容と福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請に基づいて≫)神と並んで立つことがゆるされるということを意味している」。このような訳で、「モーセについて、『人がその友と語るように、主は彼と顔を合わせて語られた』(出エジプト三三・一一)と言われている」、また「イエスは、その弟子たちに向かって……『あなたがたにわたしが命じたことを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである』(ヨハネ一五・一四以下)」と言い給う。このように、キリストにあっての「神は、救いの歴史の中で、ご自身を示されるし・行動し給う」。「神は、ご自身を祈りを聞き届ける方として啓示し給うことによって」、「神は、かつてあったし、今もあるそのおなじもの、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、イエス・キリストの父、その業、働き、行為≫)すべての被造物の創造主および主であり続けつつ、今やまたなお別の仕方(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、父の子なるイエス・キリスト自身、その業、働き、行為≫)で」、「神はただ単にきくだけでなく、聞き届けることを欲し給い、事実聞き届け給うことの中で、ご自身を示されたのである」。キリストにあっての神は、神と人間との無限の質的差異の下で、それ故に「最後の根底において……最高に能動的に相対して立つことがゆるされ、神ご自身の命令に従って相対して立つべきである」友人(恣意的、独断的、「わがまま勝手」にではなくて、あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」を志向し目指す友人)として、信者たちを規定されたのである。「神が祈りを聞き届けられるところで、まさに……神はすべてのものの創造主および主であり給うということ……が明らかとなってくる……」。「神の永遠的な活動によって包含されて、神に相対して、その被造物のこの活動が存在するということは確かに全く新しい、また特別なことである」、「まさにこの新しい特別なこと(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なるイエス・キリスト自身、その業、働き、行為≫)こそが、どうしてもただ古くて一般的なことを、すべてを包含する神的活動の意味と意図、力と真理を明らかにするのである」。「この新しい、特別なこと」は、「確かに理解を絶したことである」が、このことが、「祈りの聞き届けを否定したり、……祈りの聞き届けを、信仰にとって欠け」てもよい「非本質的な……事柄として取り扱える根拠とはならない。何故ならば、ここで理解を絶しているものは、(≪神の側の真実としてある全き自由の≫)神の恵みだからである」。全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」にもとづいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰――この「信仰は、まさに神の恵みによって生きる以外に、ほかの何ものによっても生きようと欲しない」。したがって、「信仰にとって、それが、祈りを聞き届けられる神を信じる信仰であるということは、本質的なことである」。このことは、「信仰にとって、自由にわれわれを選び給う神、われわれに永遠の希望を与え給うた神を信じる信仰であることが本質的であるのと同様である」。したがって、「人は、信じる祈りを聞き届ける祈りの聴許を、……神の僕として謙遜に、また神の子供として感謝を持って、神の前に生きることがゆるされているのである」。「われわれはまさにこの一般的なことを実行にうつしつつ、特別なことにあずかるということをよく理解しなければならない」――「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがにできない事は、何もないであろう(マタイ一七・二〇)」。