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『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-6)-3

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-6)(80-93頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-6)-3
 前述したような訳で、「正しく理解するならば」、「われわれは、その創造(≪神が創造された全被造物≫)の中での神の現臨の、この第三の本来的な形式」――すなわち「イエス・キリストの中での神の現臨の確認」において、「いわばわれわれの出発点、換言すれば神がご自身に対して三位一体なる方として、その天の彼方のみ座(≪常に、「地」、「天と諸天」の彼岸・外にある、あり続ける神のみ座≫)を占める方として、現臨し給う現臨の確認に戻った」と言うことができる。この「イエス・キリストの中で現臨し給う神は、(≪ご自身の中での神として、「神がご自身に対して現臨される際の現臨」として、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする≫)天と地の彼方にみ座を占める……方として、それからまた(≪われわれのための神として、「失われない差異性」におけるその第二の存在の仕方における≫)その啓示と和解の業(≪性質・働き・行為≫)の中で特別な仕方で、そして世界の中で一般的な仕方で、現臨される神である」。キリストにあっての「神が、この被造物(≪まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、ナザレのイエスという人間の歴史的形態、イエス・キリストの名≫)に対して、ただ単に(≪神とは異なる≫)すべてのそのほかの被造物に対してと同じように、神ご自身の造られざる創造的な場所の満ち溢れからして造られた場所を与え給うばかりでなく、同時にこの神ご自身の場所を与え給うことによって、神がこの人間と一つとなる(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」≫)ことによって、この神ご自身の場所そのものを与え給うことによって」、それ故に「神がこの人間(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト≫)をその右手の座につかせ、天を超えるみ座(≪このみ座の場所は、常に、地、天・諸天の、外・彼岸にある、あり続ける≫)を占める者とし給うことによって、神は被造物に対して、現にあるところのものであり、現にあるところのものとしてご自身を啓示し給う。すなわち、(≪ご自身の中での神として≫)ご自身の中で遍在され、そのようなものとして、それからまた(≪われわれのための神として≫)ご自身の外でもその特別な業」――「それの中心は、まさにこの被造物、人間イエス・キリストの中でのその行動である特別な業」(三位一体の神の第二の存在における全き自由の神の愛の行為の出来事全体、啓示・和解――と、「一般的な業――「あの特別な業に対して奉仕し、あの特別な業の中で、それ故にまさにイエス・キリストの中において、そ目標とその完成を見出し、それ故にまたその意味と起源を持つ一般的な業」(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰に依拠した、「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連環性における純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音の告白、証し、宣べ伝え)――の中で現臨する方であり、またそのような方としてご自身を啓示し給う」。

 

 前述した「循環」を、「その段階の脈絡の中に」、「また相違性の中に」、「保持し続けるならば」、それ故に「神の遍在の実在の区別を念頭に置き続けるならば」、「人は、……かつて福音主義の神学を激しく揺り動かし……また何らかの新しい形でもう一度現実となることがあり得るであろう……十六世紀と十七世紀においてルター派の者と改革派の者との間で聖餐論争と関連して不幸な仕方で為されたキリストの人間性の、特にからだの遍在についての論争」――すなわち「ルター派の者たちは循環の段階の区別」の認識において、「改革派の者たちは循環の段階の関連性」の認識において、「真理をこじつけつつ狭く見ることによって縮小と一面性の過ちを犯し」、「不幸な無益な神学論争」を惹き起こしたのであるが、そのような「不幸な無益な神学論争」を包括し止揚し克服することができる。
 「J・ゲルハルトの記述」に依拠して言えば、「ルター派の者たち」は、「マタイ一八・二〇(『ふたりまた三人が……』)、マタイ二八・二〇(『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる……』)、エペソ四・一〇(『……同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上まで上げられた方……』)、コロサイ一・二八(『自らは、そのからだ……のかしら』)をその証言として引き合いに出し」、神と人間との無限の質的差異を後景へと退けたその「縮小と一面性の過ちを犯して」、「受肉(≪その存在の本質としての神性の受肉ではなく、言葉の受肉である≫)の中で為された創造主が被造物と結ばれるあの結合に視線を向けて、……イエス・キリストの人間性の遍在を、キリストゴ自身トリ給ウタ人間的性質ガ言葉ノ無限ノ実体ヘト高メラレ、高クアゲラレツツ天ノ父ナル神ノ右ニオカレタ限リ、と主張した」。このことは「一般的に言って正しい」。しかし、「世界の中でのイエス・キリストの現臨について確認しているこれらの言明から、イエスの人間的な性質の現臨」が、それ故に「そのからだの現臨」が、「聖餐のテキストの言明」を、神と人間との無限の質的差異を後景へと退けたその「縮小と一面性の過ちを犯して」拘束することとなったのである、ちょうど「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「神性を天上に求めず 地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった」ように。「ルター派の教説の積極的な命題、人間ノ性質ノ中デノ、マタ人間ノ性質ヲモッタ言葉ハ、……現臨シナイママデハナク、現臨シツツ、天ト地ノスベテノ被造物ヲ支配シ給ウは正しい」。しかし、そのような神性と人間性との区別をしないで解釈した、すなわち「キリストがいます場所としての『神の右』(≪常に、「地」、「天と諸天」の彼岸・外にある、あり続ける「神の右」≫)という決定的な概念を区別しないで……解釈した」「全キリストの……現臨の理解」においては、「キリストハ、神ノ右ニイマス時、イタルトコロ現臨サレルノデアッテ、決シテドコカニ閉ジコメラレタリ、ドコカカラ排除サレ給ウコトハナイ、確カニキリストハ、神ノ右ニオカレテ、アラユル場所ニ現臨サレルデアロウ」――この「神の右についての解釈」においては、換言すればご自身の中での神として「神がご自身に対して現臨される際の現臨は、すなわち神の天の彼方の場所」(常に、「地」、「天と諸天」の彼岸・外にある、あり続ける「天の彼方の場所」)は、われわれのための神としての「一般的な神の現臨、その創造(≪神が創造された全被造物≫)の中での神の現臨の中で消滅し、埋没してしまう」から、その解釈は、「聖書的に正しいものとみなされることはできない」のである。すなわちその解釈は、「明らかに昔の神学全体のあの宿命的な、ここでは暴力的に適用されるようになった……神の本質は無場所的な無限なるものであり、神はこの無場所的な無限なるものとして遍在し給うという前提と関連している」のである。このような訳で、「ルター派の者たちは、……論争のどの段階においても、どの程度まで彼らがキリストの単性論の中で、またおそらくは仮現論の中で終わることを避けることができたかを明らかにすることができなかった」。このような訳で、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるから、その「人間的性質の中での遍在についての正しい命題は、……その人間的な性質に従っても、イエス・キリストの場所である神的な場所の本来性が、……またイエス・キリストの、あの神的場所を占める人間の被造物性」が、それ故に「まことの制限された場所性が、それと共にまことの神にしてまことの人間としての仲保者、啓示者(下記の【注】を参照)、和解者としてのイエス・キリストの立場全体が、守られ続けられるような仕方で解釈されなければならない」のである。バルトは、ルター(ルター派)の信仰論と受肉説の問題点について、次のように述べている――「(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化された信仰・神学・教会の宣教における神、その神の啓示、その神の名と呼びかけによる救いと平和の企ては、≫)……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは、≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」(≪ヘーゲルは、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見した、『ヘーゲル』によればわれわれは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にある「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」≫)という定式で簡明に表現し(≪たが、それは、≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハ(≪の根本的原理的なキリスト教批判≫)を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の無神性は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す議論≫)が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。(≪その場合、≫)われわれは、かれと共に『その世紀の忠実な子』なのである」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった(『バルト自伝』)。「人間は自分の本質(≪人間の自由な自己意識の類的本質≫)を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、また「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

【注】『教会教義学 神の言葉』によれば、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」としてのイエス・キリストの父と、その父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち啓示(語り手の言葉、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)はその「存在の仕方」として厳密に区別されているから、ここにおける「啓示者」の概念は、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのものとしての「啓示者」という意味において使用されていると言うことができる。因みに、次のようにである――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、「和解ないし啓示」は、神の三つの存在の仕方の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」(性質、働き、行為)である。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の三つの存在の仕方の「失われない差異性」における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父」に先行することはできない。しかし、父、子は「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している、ようにである。

 

 さて、「ポラーヌスに依拠して」言えば、「改革派の者たち」も、「キリストの神性を、それと共に全キリストの遍在を、否定しようとするつもりはなかった」し、「彼らも、受肉を創造主が被造物と結ばれる結合としてみていた」が、彼らのその「理解」の仕方は、「受肉をほとんどこの(≪結合の≫)強調の中でだけ理解しよう」とする「一面性」(抽象的な形而上学性)にあった。したがって、「彼らは、到ルトコロをキリストの人間性そのもの」、それ故に「キリストのからだ性そのものに適用することに対して抵抗した」。したがってまた、彼らは、「神の右」を、「聖書的に正しく!」、「それとして、それ自体(≪神の場所以外の場所と≫)区別された一つの場所」として、それ故に「単にすべての場所の場所であるだけでなく、そのようなものとしてまたすべての場所を超えたところにある場所(≪神の場所は、常に、それとは異なるすべての場所の、彼岸・外にある、あり続ける≫)として理解した」。「彼らは、他方また、ベツレヘム、ナザレ、エルサレム、そしてイエスがその人間性に従って場所的にいましたすべてのそのほかの場所が、実際の被造物的場所として理解されているのを……知ろうと欲した」、「特に、キリストの人間性の場所性が、そのまことの人間性の場所性として」、それ故に「これこれの場所へと制限された場所性として理解されているのを知ろうと欲した」。このように、「改革派の者たちのところでは、聖書的な歴史を念頭においても高揚のキリストを念頭においても、キリストの具体的な、問題化され得ない人間性に、その限り神と人間の間でキリストが仲保者(≪まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」から≫)であり給うことがまことであるということにとどまり続けている」。しかし、「改革派の者たち自身も、別な空隙を持って」いた。すなわち、彼らが、「マタイ一八・二〇」および二八・二〇の中でキリストのからだ的な現臨について語ら」ず、「キリストは例えば……肉体ニオイテハ去ッテ行カレタガ、神性、霊ノ力、効能、尊厳サニオイテハ、彼ラト共ニトドマラレタ、簡単に言ってただその神性の故にだけ彼ラト共ニトドマラレタと……主張した時」、「あるいは彼らが、エペソ四・一〇を、キリストハ、聖霊ノ恵ミト賜物ヲモッテ教会ノスベテノ肢体ヲ満タスタメニ、天ニノボラレタと解釈した時」、「あるいは彼らがキリストのまことのからだは、聖餐を受ける時でも、ただ天上にだけあることを知ろうとし、それに対応しつつ信者について、彼らはキリストのまことのからだを信仰ノ霊的能力によって、からだ的・精神的には地上にいるが、あのところ、天上において食すると主張しなければならなかった時」、「テキストに対しても事柄に対しても、明らかに暴力的な勝手な解釈を施さざるを得ないのである」(このような訳で、ルター派と改革派にある空隙を埋めるところに、すなわち「神の言葉の三形態」の還kりと構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯した立場において、両者の「縮小と一面性の過ち」(一面的固定的抽象的な形而上学的な過ち)からする空隙ある教説を包括し止揚し克服するところに、すなわち両者を架橋するところに神学における思想の問題は登場するのである、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、トータルに、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」というように、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実として、それ故に客観的現実性として、「成就と執行」として、「永遠的実在」として<すでに>ということであるというように)。そして、「キリストの人間性がキリストの神性と結ばれる結合について」、彼らの「教え」においては、「人間性の外で、人間性なしに働くキリストの神性がある」ことになる。この「教え」によれば、「われわれの仲保者であることができるものは、天(≪神性≫)に……閉じ込められ、そのほかの世界(≪人間性≫)から隔離されている」ことになる。

 

 このような訳で、ルター派の者たちも、改革派の者たちも、次のような認識と自覚を欠いていたと言うことができる――聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それ故に「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊という三つの存在の仕方の、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である、それ故にまた「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の「完全さ」・「自由さ」は、父、子、聖霊という「三つの存在の仕方」の「完全さ」・「自由さ」である(『教会教義学 神の言葉』)という認識と自覚を欠いていたと言うことができる。「人は、ハイデルベルク教理問答の中で問四七と四八に対して与えられている答えをよく聞くがよい、『それならば、キリストは、お約束になったように、世の終りまで、われわれとともに、おられるのではないですか。(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、父なる神の子、その存在の本質の受肉ではなく言葉の受肉であるまことの神にしてまことの人間≫)キリストは、真の人間(≪三位一体の神の第二の存在の仕方における言葉の受肉であって、その存在の本質である神性の受肉ではない真の人間≫)であり、また、真の神(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする真の神≫)であります。その人間性によれば、主は、今、この地上には、おられません。しかしその神性、尊厳、恩恵、み霊において(≪その神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において≫)、決して、われわれを、離れられることはありません。しかし、人性が、神性のあるところにはどこにでも、あるのでなければ、キリストのうちの両性は、分かたれるのではありませんか。決して、そうではありません。なぜならば、神性は、捕らえられるものではなく、(≪「キリストの人間的性質の場所の神性」、神性を本質とする「キリストの人間的性質」に従って「キリストが遍在される」ということにおいて、それと共に神性を本質とする「キリストの仲保者としての人格と行為の単一性の現実性」――「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の、人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」において、≫)到るところに、あり得るのであります。その結果、それがとった人性の外にもあり得るし(≪『教会教義学 神の言葉』によれば、神の言葉の第二の形態である聖書は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された、その人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である≫)、しかもなお、やはり、その人性の中にもあり、いつもこれと、(≪その神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において≫)人格的に結合する、ということであります』(竹森満佐一訳)」。

 

 このような訳で、われわれは、両者の教派的な対立を、すなわち党派的な対立を、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉・「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の聖書的証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に、絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で、次のように包括し止揚し克服しなければならないのである――
(1)「まさにイエス・キリストにあっての神の現臨が、世界にあっての(≪われわれのための神としての≫)神の本来的な現臨であるとするならば」、それ故に「その現臨は、イエス・キリストにあって(≪ご自身の中での≫)神の場所そのものが(概念の最も厳格な、本来的な起源的な意味で、……神のみ座が)、被造物的場所、人間的場所と同一となった(≪結合した≫)というように理解されるべきであれば」、「その時には、一つには」、「改革派の者たちと共に、(≪その「一面性」に依拠した≫)ルター派の者たちに反対して」、ナザレのイエスという人間の歴史的形態における「歴史的なイエス・キリストと高揚のイエス・キリストのからだ性も、イエス・キリストの場所としての神の右(≪常に、「地」、「天と諸天」の彼岸・外にある、あり続けるところの、神のみ座、天の彼方のみ座≫)も、それの規定された姿と他の場所との区別(≪差異、相違≫)を持っており」、それ故に「神性」を本質とする「イエス・キリストの人間性の真理のために否定されてはならない」ということに対して自覚的である必要がある、何故ならばイエス・キリストは、「真の人間」(三位一体の神の第二の存在の仕方における言葉の受肉であって、その存在の本質である神性の受肉ではない真の人間)であり、「真の神」(「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする真の神)であるから。
(2)また、「ルター派の者たちと共に、(≪その「一面性」に依拠した≫)改革派の者たちに反対して」、「ただ単に、その神性に従ってのイエス・キリストの遍在があるだけでなく、またイエス・キリストの人間的、からだ的な遍在がある」ということに自覚的である必要がある、と言わなければならない。あの「天の彼方のみ座の上での本来的な、起源的な現臨……の故にこそ」、「確かに、(特別に、一般的に)また他のところでの、相対的な、しかしリアルな、神の……現臨が存在する」、まことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストの中で神と結び合された人間の、世界での現臨が存在する」。
(3)「改革派の者たちと共に、ルター派の者たち反対して」、ご自身の中での神の「本来的な、起源的な現臨」と、われわれのための神としての「(特別に、一般的に)また他のところでの、相対的な、しかしリアルな、神の……現臨」・「イエス・キリストの中で神と結び合された人間の、世界での現臨」とを「そのまま一つにしてしまいはしない……」・「前者をそのまま後者の中で消滅させてしまいはしない……」。このような訳で、「人は、あの『キリストが神の右に座し給う』世界を超えた場所(≪本来的、起源的な場所≫)の規定と区別(≪差異、相違≫)を、それと共に(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリスト、この両性における≫)イエス・キリストの人間的性質の真理を、あらゆる事情の下で堅くとって離してはならないであろう」。
(4)「ルター派の者たちと共に、改革派の者たちに反対して」、ご自身の中での神として神性を本質とする「イエス・キリストの中で神と結び合された人間(≪人間性≫)の、世界での(≪われわれのための神として≫)遍在を否定してはならない」、と言わなければならない。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「イスラエルの中で、また教会の中で、特別に出来事となって起こり、世界の中で、一般的に出来事となって起こる神のみ座の住民としての全キリストの現臨を、その神性、その霊、その恵み等々にだけ制限してはならないであろう。キリストの霊と恵みが存在するところ、そこではキリストご自身が、全き仕方で存在し給う。すなわち、まことの神にしてまことの人間がいまし給う」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、啓示・和解、その神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体、まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストがい給う。「キリストご自身が、全き仕方で、神と人間の間のひとりの分けられない仲保者としています」が故に、「キリストの霊と恵みが存在する」。このような訳で、われわれは、「全イエス・キリスト」(下記の【注】を参照)が、ご自身の中での神として「あのところに、神の右に、そのように現臨し給うその同じ方」が、われわれのための神として「このところ、イスラエルおよび教会の中に」、「また世界の中に」、「それと(≪ご自身の中での神とは≫)違った仕方で(≪われわれのための神として≫)現臨し給う、と言うであろう」。「われわれは、(改革派の者たちと共に)区別を為し」、「イエス・キリストは、(≪ご自身の中での神として≫)あのところで本来的に、起源的に現臨し給い、(≪われわれのための神として≫)このところで(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)象徴的に、サクラメンタル的に、霊的に現臨し給う」と言うであろう。また、「われわれは、(ルター派の者たちと共に)(ひとつにまとめ)」、「イエス・キリストは、ここでもあそこと比べて何ら劣らない仕方で、すなわちあそこでもここでもリアルに現臨し給う」と言うであろう。何故ならば、、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊というその三つの存在の仕方の完全さ・自由さであるからである、「あそこでもここでも、その神的性質と人間的性質に従って(≪トータルな≫)キリストが現臨し給う」からである。したがって、「われわれがここであとづけることができない」「個々の注釈上の問題」は、「この線上で、……新しく取り上げられることができるし、新しく取り上げられなければならない……」のである。

 

【注】(ア)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストが信じる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、イエス・キリストにおける復活に包括された十字架の死(「律法の成就」・完了)、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた終末論的限界の下での信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与、
(イ)『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている。このキリストの復活(成就された時間)は、「新しい世」・時間のはじまりである。われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断によるその啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・世であるキリストの復活(成就された時間)によって、すなわちキリストにあっての「神の勝利の行為」によって包括され止揚され克服されて「そこにある」ことを認識し承認し確認することができる。また、その勝利の行為は、啓示の弁証法において、終末論的に、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し承認し確認することができる。言い換えれば、救贖――すなわち「完成」は、終末――すなわち復活したキリストの再臨を待たなければならないのである。
(ウ)『告白』において「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べた「アウグスティヌス」の時間概念、また自分の意志とは全く無関係に不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる、すなわち個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる、自然時間でも、歴史的時間でもない、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができるとし、時間を「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定」とし、人間的現実存在は時間性であること(時間化)、その時間性が存在を規定する(存在了解)とした「ハイデッガー」の時間概念、総括的に言えば「自分で時間を創造する」ことによって個の現存的な「時間」を持つとした彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、イエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本来的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」(「使徒行伝一・三のキリスト復活の四〇日」)である。ここに、「まことの現在まことの過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある、
(エ)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神としての「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの「受難と死」および「キリスト復活の四〇日」(「成就された時間」)であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である。また、その「成就の待望」と「成就の想起」を持った「成就された時間、啓示の時間」、「啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間」――それは、ご自身の中での神としての「神ご自身の時間」、「実在の時間」、「時間の主の時間」(神の時間、時間の主の時間は、常に、人間が人間的に所有する人間の時間、歴史の、彼岸・外にある、あり続ける)である。