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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述2)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述2)
 神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界(Tコリント13・8以下)の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して信じる者は、信じるために「知解シヨウ」と欲するのではなく、「信じるが故に、知解シヨウと欲する」のである、この場合「信じるということ」は、神の「自存性」、神の「自足性」、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」神の完全な自由性に「参与すること」である。したがって、このような<非>自然神学の段階における「神学的問いには、その対象である真理(≪啓示の真理≫)そのものに対する敬虔さが残る」のである。したがってまた、そのような仕方で「知解を要求するもの」は、「実存ではなく」、「信仰の本質(Wesen)」である。「『私ハ知解スルタメニ信ジマス』とは、……(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられた≫)私の信仰自身が、私にとって知解するようにとの呼び出し(Aufruf)であることを意味している」。 

 

(1)アンセルムスの「神論の簡潔な命題」
 「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、啓示者である父なる神の子、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、「思考ノ真理ノ原因であり給う」、「神ハ感受シ得ル、換言すれば認知シ得ル者であり給う」(何故ならば、「啓示自身」が、あの「啓示に固有な証明能力を持っている」から)。「この神は、明らかに、マコトノ認知(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の創始者」であるから、この神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づかなければ、「われわれ」は、この神を、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において、換言すれば聖霊の注ぎによりわれわれ人間的主観に実現された神の恵みの出来事において信じることはできない。このような訳で、キリストにあっての神を信じる信仰は、その神の知解(「マコトノ認知」)を要求するのである。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、このことは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である(それ故に客観的対象として可視化された)それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、われわれの教会の宣教、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「マコトノ」純粋なキリストにあっての神、「マコトノ」純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(このような「神への愛」に根拠づけられた「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えとの関連における)を要求するということである、組織・制度としての教会ではなくイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」(教団)を志向し目指すことを要求するということである。
 因みに、前述したようなバルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対 して、逆にバルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように根本的原理的な批判を加えている――(ア)信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識(啓示信仰)の可能性は、啓示という「認識対象の特性」から、この「対象を認識する認識概念」が、「ほかの諸対象を認識する場合」の「一般的な認識概念に照らして……最後的に決められてしまってはならず」、あくまでもその認識対象から規定されるものでなければならない。すなわち、信仰としての神認識、啓示認識(啓示信仰) は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、啓示者である父なる神の子、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事と神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能である。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいてのみ可能である。 (イ)また、そうして得られた人間が人間的に所有する人間の啓示認識、概念、教義、言葉性であっても それは、啓示の実在そのものではない。何故ならば、啓示は、神の隠蔽性・神の不把握性において、人間の「言葉性に縛」られることはないからである、換言すれば逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」からである、神の言葉性によって限界づけられているからである。したがって、終末論的限界の下にあるわれわれ人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・「啓示の実在」そのものの「認識を問うことはできない」のである、換言すればわれわれの教会の宣教、その一つの機能としての神学(教義学)、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。こういう事柄を認識し自覚していない現存する「すべての大学社会の神学」は、それが欧米の神学であろうと、日本の神学であろうと、どこの神学であろうと、それ故に一流大学・二流大学におけるどのような神学者の神学であろうと、現存する時流・時勢や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠するであろうから、すべて「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)となるのである、総括的に言えば<必然的>に自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学となるのである。(ウ)トラウプは、啓示の「概念の実在」(起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学的な常道に従って誤解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのである。すなわち、トラウプは、バルトとは全く違って、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって直接的無媒介的に対象化された啓示認識、概念、教義と「啓示の実在」そのものとの一致の可能性について論じたのである、換言すれば神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまって、「啓示の実在」を、人間が人間的に所有する人間の啓示認識、概念、教義の<此岸・内>に求めようとしたのである。(エ)カンタベリーのアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は「合理主義」だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定しているのであって、アンセルムスは、神学を人間論的人間学的な「一般的真理」としてではなく、それ自身が固有な証明能力を持つ「啓示から得られた認識」、啓示の「概念の実在」(聖書的啓示証言)としての「イエス・キリストの実在から啓示認識の可能性について考えた」のである、換言すれば啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)について考えたのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。

 

(2)アンセルムスの「心理学」における信仰
 「信仰は、本質的には、主として、意志の運動である」。すなわち、この「意志の運動」は、前述したような仕方で、「神ニ向カウコト」、「マコトノ」純粋なキリストにあっての神、「マコトノ」純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」のことである。この場合、「理性的被造物の意志することは、選ぶことを意味している」、「それは、正シイモノト不正ナモノ、真ナルモノト真デナイモノ、善イモノト善クナイモノを区別することに基づいている」――前述した(1)の事柄を認識し自覚した「この区別することは、……われわれが知解することと呼んでいる根本的な行為である」、換言すればこの「区別すること」は、包括的に言えば<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教における「根本的な行為」である。

 

(3)アンセルムスの「人間論」における信仰
 「信仰は、アンセルムスによれば、人間に外から出会い、人間の身に及ぶ新しいものなしには起こ」らないものである。言い換えれば、先ず以て神の側の真実として、神の側からやって来る新しい出来事である。何故ならば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」からである(『教会教義学 神の言葉』)。すなわち、「ソレ独自ノ種ト苦シイ耕作ナクシテハ決シテ孕ムコトモ、発生スルコトモナイ」――ここで「受け取られるべき種は、説教され聞かれた『神の言葉』であり、それがわれわれのところに来、われわれがそれを受け取ろうとする意志ノ正直サを持つことが恵みである」、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に感謝をもって信頼し固執し固着しようとする「意志ノ正直サを持つことが恵みである」。この時、「神の言葉は、……生来的能力ヲ通シテ刻ミコマレタ最高本質(神の聖なる三位一体ノ像)」、「三位一体の痕跡」、「スベテノモノノウチで最善デ最大ノモノに対する(一)記憶、(二)知解、(三)愛」と「出会う」。この「三位一体の痕跡は、われわれを動物と区別し、われわれを人間とする」。あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)――この「信仰の中で、今や明らかに、この可能性の実現化が起こる」、「アナタハ、アナタヲ思イダシ、アナタニツイテ考エ、アナタヲ愛スルヨウニ、ソノ像ヲ私ノウチニ創ラレタ……。シカシ、ソノ像ハ、罪過ニヨッテスリヘリ、罪ノ煤煙ニヨッテ黒ズミ、アナタニヨッテ新シク創リカエラレナケレバ創造目的ヲ果タシ得マセン」。人間は、「先行する恵みなしに」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力なしに、キリストの霊である聖霊の証しの力なしに、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動なしに、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)なしに、「信じることはない」のである。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちあの「啓示と信仰の出来事」に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・その「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼 し固執し固着する「認識」・信仰、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰である、その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、したがって、人間論的あるいは人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念、ある概念の実体化である「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないのである、何故ならば神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験普遍、人間論的な直接的無媒介的な理性や意志、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないからである、キリストにあっての神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、「肉であっ て、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」からである、と、また何故ならば、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であろうと、われわれ人間は、「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」からである(『福音主義神学入門』)。このような訳で、われわれ人間は、「先行する恵み」によって、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力によって、キリストの霊である聖霊の証しの力によって、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動によって、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)によって、「(一)神を『記憶する』こと、(二)神を『知解する』こと、(三)神を『愛する』ことが起こる」のである。あくまでもこのようにして、神のその都度の自由な恵みの決断による<聖霊の注ぎにより更新された>「表出」段階にある内在的な「神ノ像」は、「今や生来的能力ヲ通シテ刻ミコマレテイルモノから(≪あの聖霊の注ぎによって更新されたそれとして≫)意志的行為ニヨッテ表現サレタモノとなる」のである、外在化されるのである、客観的現実性を、可視性を持つのである。このようにして、他の人々にとって存在するとともにそのことによってはじめて私自身にとっても実際に存在するところの現実の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)となるのである、またこのようにして、キリスト教に固有な類としての信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に、キリスト教に固有な時間性(歴史性)に連帯するのである。このような訳で、前述した仕方における「神の知解」は、あの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる「信仰の出来事の中で、神の愛と同じように」、すなわちあの父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の全き自由の愛の行為の出来事としての神の存在と同じように、「キリスト者の中で、人間の(≪あの聖霊の注ぎによって≫)更新された神の像の完全性がそのこをそのように要求するが故に、(≪必然的に≫)起こらなければならないのである」。
 ここで注意すべきことは、次の点である――第一に、たとえ聖霊の注ぎによって更新された「理性」や「理性的意志」や「神の像」であっても、それらは、聖霊そのものではないし、神の意志そのものではないし、神そのものでもないという点である。ここでも、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)は、徹頭徹尾貫徹されているのである、「聖霊は、人間精神と同一ではない」 ・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、更新された人間理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)。第二に、アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであった。しかし、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかったという点である。すなわち、アンセルムスの「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰」を前提条件としていたという点である。

 

(4)アンセルムスの「終末論的な線」
 アンセルムスにおいては、前述した信仰からして、「知解スル(intelligere)」は、終末論的限界(Tコリント13・8以下)の下における「必然的」な「渇望」である。このアンセルムスは、「コノ世ニオイテ得ラレル知解を、ある時、信仰ト至福直観ノ中間ニ位置スルモノと呼んだ」し、「彼にとっては、見ることに相対して知解することは、……信じることよりも高く立ってはいない」し、「恵ミノ国と栄光ノ国の間の境界を知解スルことを通して突き破ることについては何も語れ得ない」としている。このアンセルムスの「知解の中間的な性格についての命題」は、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した「信じることと見ること(≪感性的認識≫)の間にあるというように解釈しなければならない……」。したがって、「知解スル」は、「人間を……信じることの限界のところへと導くが故に」、「努力に値し、到達し得る可能性として、祝福された見ることのの方向にある」、「主ヨ、アナタハ未ダニソノ光ト至福ニウチニアッテ、私ノ魂カラ隠レ、ソノタメ魂ハ闇トソノ悲惨ノウチニ留マッテイマス」。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。このことが、「私ハ知解スルタメニ信ジマスの根拠である」、「それは、……(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰に依拠して≫)信じられた神が認識ニオケル真理ノ原因である、ということである」。「信仰の中に含まれている」(1)で述べられた「神への愛と認識」は、「有無を言わさぬ仕方で、並列的に順序良く付け合わされている」、信仰の中に含まれる「知解」も、「信仰の中で起こっている神ノ像の実現化」に、「有無を言わさぬ仕方で、並列的に順序良く付け合わされている」。信仰の中に含まれる「知解は、……信仰に対して終末論的に対応している見ること」の「前段階である」。「それであるから、本質からして、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰に依拠した≫)信仰は、知解を求める信仰である」。したがって、「われわれは、まさに信仰の確信を持ちつつ、信仰ノ根拠(fidei ratio)を渇望しなければならない」のである、前述した(1)で述べたような仕方でのあの「神への愛」を渇望しなければならないのである。

 

 バルトは、キリストにあっての神に、イエス・キリストに、すなわち「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、すなわちその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯したアンセルムスの神学に、最善最良の水準にある神学を見出し、そしてまた連帯すべきキリスト教に固有な歴史性における最善最良の水準にある<非>自然神学としてのあるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教としてのキリスト教に固有な類を見出しているのである。