本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述1)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述1)
 バルトは、アンセルムスの思惟と語りにとって、「本来的な、また事柄的な表示は、結局、証明スルではなく、……知解スル(intellegere)ということである」、そして「知解スル者が求め見出す根拠そのもの」、「信仰の根拠(ratio)」に、「有用サ」だけでなく、「も」、「喜び」も「固有なものとして含まれている」、と述べている。このことを、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。 したがって、アンセルムスにおける「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰」を前提条件としていた、と。言い換えれば、アンセルムスは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を前提条件としていた。このような仕方で、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すアウグスティヌスを紙一重で超える在り方に、アンセルムスの神学における<思想性>はあるのであり、バルトはそこに着眼したと言うことができる。言い換えれば、「単なる知識」ではなく、「知解ヲ求メル信仰」の内的必然性が問題である。すなわち、「啓示、恵み、信仰」を前提条件として「知解シヨウと欲するが故に、『証明』と『喜び』を欲するのであり、そして彼は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において≫)信じるが故に、知解シヨウと欲するのである」。アンセルムスにおいて「信じるということ」は、「神の自存性(≪神の完全な自由性≫)、独裁制、独裁的栄光」に、それ故に「神の自足性に参与することである」。したがって、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼する」「神学の目的は、人々を信仰へと導くことではあり得ない」、「また人々を信仰において強めることでもあり得ない」、「彼らの信仰を疑いから解き放つことでもあり得ない」。「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼する」「彼は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における≫)自分の信仰について、神ノ先行的恩寵ニヨリそれほどまでに確信しているので、彼をその堅持カラドノヨウナモノモヒキサクコトハ出来ナイ」、「たとえ、彼が、自分が信じていることを理性ニヨッテハ全ク理解出来ナイとしても」。このような訳で、「知解スル者が求め見出す根拠そのもの」、「信仰の根拠(ratio)」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、神の側の真実としてある、次の点にあると言うことができる――すなわち、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」という点にある、換言すれば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という点にある、と。
 「神は、ご自身を、彼〔アンセルムス〕の理解に対して対象として与え給うた」、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与え給うた。「そして彼は、神を理解することができた」、知解することができた、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を持つことができた。ここには、「いかなる哲学的な前提とも比較されることができず、また神学的・体系的にも把握され得ない」ところの、<非>自然神学的な「神学の基礎」がある。「神は、ご自身を、彼〔アンセルムス〕の理解に対して対象として与え給うた」、「また神は、彼を、神が彼にとって対象として理解し得るようになるために、照らし出し給うた」、神の自由な恵みの決断により彼に聖霊を注ぎ給うた。「この出来事なしには、神の存在の、すなわち神の対象性のいかなる証明もない」。「その出来事によって、感謝に値する証明が為された。真理(≪啓示の真理≫)が語ったのである」。「信じたいと欲する人間が語ったのではない。人間は、ただ信じたいと欲することさえできないであろう。人間は、また常に愚か者であることができるだけであろう。(中略)しかしまた、彼がそのような愚か者であるとしても、タトエ私がアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクテモ、真理(≪啓示の真理≫)は語ったのである」。真理(啓示の真理)は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力によって、自ら語ったのである。したがって、この出来事は、全き自由の神の愛の行為の出来事として、その神の存在として、「神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」。キリストにあっての神は、すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」において自己証明し給う。その歴史的形態は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性である。