カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

バルトは晩年、本当に「近代神学」・「近代主義神学」(自然神学)へ「回帰」したのだろうか?(その2−1)

『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか?
再推敲・再整理版です。

 

 この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記事における、最高度に問題である記述の仕方は、またその記述の内容は、バルト自身の主要著作を精読し理解をしようとする階梯を踏まずに為されているであろう、短絡的で折衷的雑学的な次のような記述にある。

 

 以下の引用は、『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』「思想と業績」による――
新プロテスタント主義から神学的影響を受け、新カント学派から哲学的影響を受ける。牧会に従事しながら聖書の中に証されている言葉を、具体的な人間に対して神の言葉として聞かせるべき、牧師の説教の課題として注釈と宣教の革新が必要であるとした。特に、シュライアマハーによって基礎が据えられ、アルブレヒト・リッチュルによって修正され、アドルフ・フォン・ハルナックの時代にエルンスト・トレルチによってその頂点に達した文化プロテスタント主義(近代主義神学。彼は最初期はこれに帰依していた)に対して猛烈な攻撃を仕掛け、神学のテーマが人間学に解消しているとして、神学の本来のテーマを回復しようとし、「言における神の啓示」(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」冒頭)を主張した。その神学は彼の著書『ローマ書講義』や『福音主義神学』、『教会教義学』という膨大な著書において記されている。彼の思想の変遷を表す著書として『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して、『教会教義学』前半では、特に倫理問題を扱うにあたり、「神」よりも「イエス・キリスト」という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった(「キリスト論的集中」)。教父たちから神学思想を引き出しつつ、そこに革命的な新しさを与え、体系を立てた。ただし「キリスト論的集中」は彼の晩年の思想とは異なり、キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻 (IV/3, § 69) などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している。未完の『教会教義学』(Kirchliche Dogmatik, 1932年 - 1968年)は、9,000ページを超える大著であるが、これが未完である事情は単に年齢の問題だけではなく、晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる。「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった。したがって、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである

 

(1)この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、三位一体の神について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならない――聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」(「区別」性)における「三つの存在の仕方」、すなわち「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父――この父は、その起源的な第一の存在の仕方において、子として自分を自分から区別するし、自己啓示・自己顕現する神として自分自身が根源である――、それから父が子として自分を自分から区別した「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身――起源的な第一の存在の仕方である父から区別された第二の存在の仕方である子は、父が根源である――、それから愛に基づく父と子の交わり(「完全に共存的な関係」)としての「第三の存在の仕方」である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――「父ト子ヨリ出ズル御霊」としてのこの聖霊は、父と子が根源である――、である内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。簡潔的に言えば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て、ご自身の中での神(「自己自身である神」)として、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である(「神の本質の単一性と区別」、神の本質の区別を包括した単一性)。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外的な・外在的なその「失われない差異性」(「区別」性)における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動。父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)において、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち啓示者・言葉の語り手・創造主なる神の存在、また第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)・和解主なる神の存在、また第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」としての聖霊――すなわち啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在、としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体である。このような訳で、このわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全性、自存性・独立性(自由性)は、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」の完全性、自存性・独立性(自由性)を根拠としている。これらのことが、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」である。

 

 このことを念頭に置けば、バルト自身が、教会の一つの機能としての『教会教義学』の構成の方法において、「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」を考察の対象としていることがよく分かるのである。すなわち、『教会教義学 神の言葉』において、「教義学の規準としての神の言葉」について、それからまた「神の啓示 三位一体の神」(内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」、「自己自身である神」)について、それからまたその内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉)としての「言葉の受肉」と第三の存在の仕方である「聖霊の注ぎ」について(これは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰の根拠である)、それからまた第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの、和解、「啓示の客観的側面」)と聖霊の業(「啓示の主観的側面」)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書」について、それからまたこの聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯する第三の形態の神の言葉である「教会の宣教」(説教と聖礼典)について、それからまた「神論の決定的な構成要素であり、啓示の認識原理でもある」三位一体論を前提として『教会教義学 神論』へと向かっている。それからまた、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主、なる神の存在としての神の愛の行為の出来事全体におけるイエス・キリストの父に関わる『教会教義学 創造論』、子としてのイエス・キリスト自身に関わる『教会教義学 和解論』(「断片」、1967年)へと向かっている。それからまた、もしもイエス・キリストにその生をゆるされたならば、当然にも必然的・不可避的に、未完に終わった愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊に関わる『教会教義学 救贖論』(終末論、『バルトとの対話』に即して言えば「完成」論)へと向かうはずであったのである――「『未完成ノ作品』……第五巻として予定されていた『救贖論』(終末論!)」(『カール・バルト 和解論W キリスト教的生<断片>』井上良雄訳、新教出版、1988年)。この『カール・バルト 和解論W キリスト教的生<断片>』「はしがき」で、バルトは、次のようなことを述べている――「聖晩餐(その自己犠牲におけるイエス・キリストの現在に答え彼の将来を待ち望みつつ為される感謝としての聖晩餐)」、「神の和解の業に対応する自主的性格を持つキリスト者の(人間的!)業」――この思惟と語りは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを前提とした思惟と語りであって、先行させた人間の直接性における神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との混淆論を述べているのではない――、「和解論を締めくくるキリスト教倫理の冒頭に述べられた洗礼」、「今日では、非常に好んで、そして非常にしばしば(あまりにも好んで、そしてあまりにもしばしば)、神に対して成人になったと称するについて、語られている。……そのような世よりも私にとって興味があるのは、神と世に対して成人になるべき人間である。成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れである。神に対して活きた希望を懐き、世において奉仕し、自由な信仰をし、絶えず祈る、彼らの思惟、言説、行動である。そして、私の考えでは、霊と火による洗礼において起こるのは、そのようなキリスト者また教会として責任を負うことの解放の開始であり、水による洗礼において起こるのは、そのような責任遂行へとキリスト者また教団が歩き始めることである」。これらのことから、「嬰児洗礼の風習ないし悪習に対する……反対」という結果が生じてくる。しかし、この問題のある「嬰児洗礼」(この風習ないし悪習は、「新約聖書によっては基礎づけられず、ようやく三世紀以降に認められるもの」である)に関する問いは、「特に、古い神学的自由主義の代表者たちに対しても、その『歴史的・批判的』方法の新発見を大声で自慢している最新の神学的自由主義の代表者たちに対しても、向けられ」ているにも拘わらず、自由主義国家が近代主義国家のことであるのと同じように、神学における自由主義者・近代主義者である彼らにおいては、「神とその現実存在の三一性に至るまで、すべてのものが、そこでは『非神話化』され得るのに、この問題に関して」は、彼らを「森の中の最も深い沈黙のようなものが支配している」、彼らは、この問題を、真剣に取り扱おうとはしない。これだけのバルトの思惟と語りを聞くだけでも、この最晩年に生きるバルトが、自由主義神学・近代主義神学(近代神学)に「回帰」・復古・逆行・退行していないことは確実であるということを、われわれは承認し確認することができるであろう。「私は、この嬰児洗礼の問題においてある種の突破が起こることによる全面的な恢復を、教会に期待してはいない。しかし、教会がすべてのより良い知識や良心に反対して、千何百年来そうして来たように、かたくなに洗礼の水をあのように恐れげもなく乱費することを続ける限り、教会がどうして、今日いろいろな方面から言われているように……その本質にふさわしく伝道的教会(したがって成人せぬ教会ではなく成人した教会)であり得るであろうか」・「教会が、神に対しても教会自身の使信に対しても、また外面的あるいは内面的に『壁ノ外ニ』いる人々に対しても、責任を負い得ないそのような仕方で、教会の人的構成の後継ぎについての心配を、静めることができると、かたくなに考えている限り、どうして教会が、他の世の人々に対して、信用できるものであり得るであろうか」・「この改革を回避することに固執しようとする限り、最上の教会論も、われわれにとって、何の役に立つであろうか」。

 

 これらの事柄を、バルトの処女作『ローマ書』「第2版序言」およびバルトの成熟の書『福音と律法』からこの『教会教義学』「和解論W キリスト教的生<断片>」および『シュライエルマッハー選集への後書』までの総体性・全体性において言い換えれば、どうしても次のような思惟と語りとならざるを得ないのである――神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有の証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すればその第一の形態の神の言葉である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解)を起源とするキリスト教に固有な類――すなわち預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉、この聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義としての第三の形態の神の言葉――と、その時間性(時間累積)としてのキリスト教に固有な歴史性を持っている。このように、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」のである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教(説教と聖礼典)は、その一つの機能としての神学は、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神言葉を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、「律法の成就」・完了そのものである純粋なイエス・キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである)――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるところの純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指さなければならないのである、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(啓示者である父なる神の子としての啓示、和解)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。そのような決断と態度が大切であり必要なのである――これが、「はしがき」に述べられた「神の和解の業に対応する自主的性格を持つキリスト者の(人間的!)業」であると言うことができるであろう。したがって、「神と世に対して成人になるべき人間」、「成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れ」は、(ア)「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての起源的な第一の形態の神の言葉としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、それ故に第二の形態の神の言葉としての聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に基づいて行わなければならないのである、(イ)それ故に「正しい注釈」を、「最終的に……(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な≫)教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う(≪人間学的な≫)歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことを終わらせなければならないのである、それ故にまた「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである限り、教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、(ウ)「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待すべきである」・「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべきである」・「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」から、それが欧米・日本等であろうが、中国やロシアであろうが、それら一切から対象的になって距離を取るという仕方で対応すべきである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」、無条件に「然り」と言うべきではない(『啓示・教会・神学』)、「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪現存する世界が、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いており、その民族国家が一部国家支配上層の意思によって動員することができる巨大で強力な軍事組織・国軍を持っている限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」ということを認識し自覚している必要がある(『バルトとの対話』)、(エ)「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことを終わらせなければならない、教会の「宣教の規準を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」、「哲学、道徳、政治」等に置くことを終わらせなければならない・「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすることを終わらせなければならない・ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」、「廃止」に貢献しようとすることを終わらせなければならない(『教会教義学 神の言葉』)。これらのことが、前述したバルトの思惟と語り――すなわち、「……私にとって興味があるのは、神と世に対して成人になるべき人間である。成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れである。神に対して活きた希望を懐き、世において奉仕し、自由な信仰をし、絶えず祈る、彼らの思惟、言説、行動である。そして、私の考えでは、霊と火による洗礼において起こるのは、そのようなキリスト者また教会として責任を負うことの解放の開始であり、水による洗礼において起こるのは、そのような責任遂行へとキリスト者また教団が歩き始めることである」と言える。

 

(2)それからまた、この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、「聖霊の神学」について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならない――バルトの処女作である『ローマ書』「第2版序言」における「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異という一貫したバルトの思惟と語りは、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(1968年、81歳、邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)にまで貫徹されている。バルトは、「第三項の神学」(「聖霊の神学」)――換言すれば彼の教会教義学で言えば未完に終わった終末論的な聖霊の業に関わる「救贖」論・「完成」論(『バルトとの対話』)を展開することが「夢」であったし、「霊的に精神的(≪神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」が聖霊論を書くことを衷心から切望したのであるが、その神学の動向は、現実的にはその最初から今に至るまで「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれに類する者たちの神と人間との混淆論、人間学と神学の混合学としての人間学的神学の段階(総括的に言えば、自然神学の段階)で停滞した、それ故に教会の一つの機能としての神学としては非自立的で「非学問的な」聖霊論によって、バルトのそのような衷心からの切望は容赦なく打ち砕かれてしまったのである。そして、現在も打ち砕かれ続けているのである。例えば日本で言えば、「バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験を尊重すべきである」、換言すれば近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験を尊重すべきであると主張するルドルフ・ボーレンや彼の聖霊論的説教論に依拠した佐藤司郎や小泉健は、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象してしまって、聖霊や聖霊の言葉を神学者自身や説教者自身(人間自身)の自由事項・決定事項として実体化する聖霊論を展開している――実践神学者の小泉は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を「わがまま勝手に」止揚し捨象してしまって、それ故に「わがまま勝手に」聖霊を実体化し、近代的な自己意識・理性・思惟あるいは人間的欲求が対象化し客体化した人間化された対象物(存在者)に過ぎない「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というようなことまで平然と述べている。

 

 さて、最高度に最善・最良の「第三項の神学」(「聖霊の神学」)の構成を目指したバルトは、聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉)に信頼し固執し固着し連帯して、例えばシュライエルマッハーの「絶対依存感情」(敬虔心)の概念との関わりの中で、それは「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯できるかどうかという「問いに弁証法的に答え」て、次のように述べている――シュライエルマッハーにおけるその概念は、人間の自由な自己意識の類的活動(無限性)としてあるところの、ある対象を知覚作用によって対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(内在化された対象の了解化・時間化)する概念化作用、あるいは感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化、快・不快の感情)する感情作用と同じものであるという点において、それは人間論的・人間学的な概念であるから、換言すれば神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学の水準にあるものであるから、総括的に言えば自然神学の段階にあるものであるから、「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯することはできない、と。バルトにとって「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではないのである(『教義学要綱』)。この「聖霊」は、客観的な「啓示の主観的側面」として、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)の中において注がれるのである、それ故に人間の側の自由事項・決定事項ではないのである。このバルトにとって「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、すなわち全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における聖霊は、(ア)「われわれが、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえにそのように告白することを要求する」、(イ)「われわれ人間の中にも・中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、(ウ)われわれ人間の生来的な自然的な「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、(エ)われわれ人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する。何故ならば、キリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、われわれ人間は「神の不把握性」の下にあるからである、それ故にあくまでも全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は与えられるのである――Tコリント13・8以下。また、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」・「永遠的実在」・客観的現実性として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、バルトは、『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」、逝去した1968年の執筆)において、シュライエルマッハーに対して、「最終的」に、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」と述べたのである、換言すればバルトは、神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、例えばシュライエルマッハーやブルトマン等々自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の系譜に属する自由主義的神学・近代主義的神学・近代神学の道ではないところの、その自由主義的神学・近代主義的神学・近代神学の段階を、すなわち総括的に言えばその自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的に原理的に包括し止揚し克服したところの、<非>自由主義的神学・<非>近代主義的神学・<非>近代神学の段階、すなわち総括的に言えば<非>自然神学の段階あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の道に「踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」と述べたのである。この時、われわれは、『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>とは全く違って、バルト自身は、その原理、その認識方法と概念構成において、処女作の『ローマ書』「第2版序言」から最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』まで、一貫性をもって最後の最後まで、決して、「近代神学」・「近代主義神学」・自由主義的神学(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学)、総括的に言えば自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教へと「回帰」・逆行・復古・退行したことがなかったということを明確に認識し承認し確認することができるのである。