『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 一 行為の中での神の存在」(その3-1)
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 一 行為の中での神の存在」(その3-1)(3-13頁)
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
神はその啓示の中で、現にあるところの方であり給う。神はご自身とわれわれとの間の交わりを求め、造り出し、そのようにしてわれわれを愛し給う。しかし神はまた、われわれなしにも、ご自身からして自分の生命を持つ主の自由の中で、父、子、聖霊として、まさにこの愛する方であり給う。(3頁)
〔この定式の詳述〕
神はその啓示の中で(≪すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの中で≫)、現にあるところの方であり給う(≪言い換えれば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の神の言葉――すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」の中で、「現にあるところの方であり給う」≫)。神はご自身とわれわれとの間の交わりを求め、造り出し、そのようにしてわれわれを愛し給う(≪言い換えれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」――この起源的な第一の形態の神の言葉は、個体的自己としてのわれわれ全人間に対して、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事に基づいて、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の言語を介した直観と概念を用いた信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を与え給う≫)。しかし神はまた、われわれなしにも、ご自身からして自分の生命を持つ主の自由の中で、父、子、聖霊として、まさにこの愛する方であり給う(≪言い換えれば、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」において、父は子――すなわち第二の存在の仕方として「自分を自分から区別」するのであるから、子――すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された三位一体の神の第二の存在の仕方である子――すなわちイエス・キリストは起源的な第一の存在の仕方である父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は父と子が根源である。この聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、その第二の存在の仕方である子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、その存在の本質からして、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。このように、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方、業と行為において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ・自由さなのである。ここで、父と子は、聖霊において愛に基づく完全な共存的な関係・交わりにおいて存在する。ここに、神は愛であり・愛は神であることの根拠がある。「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」――『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』≫)。(3頁)
「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 一 行為の中での神の存在」(その3-1)
「教会の宣教」、それゆえにその一つの機能としての「教会教義学」は、「そのすべての部分、さらにそのこまかい小部分において」、その「簡単で、総括的な課題の前」で、「その問いと答え全体をもって、そのすべての聖書的、歴史的主張をもって、そのすべての形式的、内容的な考察、探究、総括をもって、先ず第一に、また最後的に、全体として、また個々の点にわたって」、「神は存在し給う」、「まさに神がいます、ということ以外のことを言おうと欲することはできない」。したがって、<教会>教義学は、ここにおいて、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)を、教会の宣教における、その思惟と語りにおける、その存在・その思考・その実践における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その宣教、その思惟と語り、その存在・その思考・その実践に対して、「その行為の批判」と「その行為に対する忠告および提案」の「奉仕」を為すのである。このような訳で、<教会>教義学は、そのような仕方で、「神はいますということを語るあるいは語らないことによって」、「ただ単にそれの有用性あるいは無用性について」だけでなく、「それの学問的な価値あるいは無価値さについても」「自ら決定する」のである。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示と共にその啓示から独立した近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等と混淆・混合・混在させた教義学は、その啓示から独立した「ほかの観点からみてどれほど啓発的であり生産的であろうと、その教義学は……(≪必然的に≫)脱線の過ちを犯す」ことになるのである。その場合、その教義学は、教会を真理(≪起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言からのみ措定される<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神≫)へと導く代わりに誤謬へと導く」ことになるのである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』においては、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「言葉を与える主」は同時に聖霊の注ぎにおいて「信仰を与える主」であるから、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける神の自己啓示(その死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエル)の宣べ伝えを目指すことのない、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」について、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的である」、と述べたのである。そのような形而上学的な神学に対しては、そのような形而上学的な人間学的神学あるいは哲学的神学に対しては、人間学の方からも根本的包括的な原理的な批判・揶揄が為されている。例えば、ハイデッガーは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンやその学派に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪何故ならば≫)『いわゆる存在者レベルでの神(≪ブルトマン自身・人間自身の自己意識・理性・思惟の類的活動の果てに想定される類的本質――その人間の言語を介した直観と概念を用いた神概念や啓示概念、あるいは例えば人間自身が対象化し客体化した「絶対的な本質」等々の神概念≫)への信仰(≪人間崇拝、偶像崇拝≫)は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と辛辣な揶揄・批判をしている。したがって、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)の連環と循環において<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを「委任」され、それに「奉仕」しなければならないところのイエス・キリストを主・頭とする「教会」、その<教会>「教義学」は、あくまでもそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言)をその思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、<純粋>なキリストにあっての「神がいますということを聞くことがゆるされることによって、ただそのことによってだけ、生きるからであり」、「自分自身に対し、また世に対して、自分の委任を果たしつつ、まず第一に、また最後的に」、あの<純粋>なキリストにあっての「神がいますということを、ただそのことだけを、語らなければならないからである」。『福音と律法』によれば、第一にギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格を、神の側の真実としてのみ、すなわち主格的属格としてのみ理解(聖書的啓示証言に信頼し固執した信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)し、それゆえに「イエス・キリストが信じる信仰」にのみ感謝をもって信頼し固執するということ、換言すれば「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」(「インマヌエル、神われらと共にいます」)にのみ感謝をもって信頼し固執するということ、第二に「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということ、第三に「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ということを承認し受け入れるということ、第四にあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)の連環と循環において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求め続けていくということ、<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝を志向し目指し続けていくということ、すなわち「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指し続けていくということ――このことが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)――この「神の言葉によれば、神が人間に関して、また人間から欲し給う」ことは、「彼らが、神がいますということを聞き、信じ、知り、考慮に入れることをゆるされ、またそうしなければならないということ」、「彼らが彼らの現実存在の大事につけ小事につけ、全体としても個々の点にわたっても、人間としての彼らの現実存在の全体性(≪その存在・その思惟・その実践、その類・歴史性――個・現存性≫)の中ですべてのものを、そしてすべてのものの中ですべてのことを、ただ単に新しく照らし出すだけでなく、現実に変えてゆく事実、神はいますという事実と共に生きることがゆるされ、生きなければならないということである」。このことが、あくまでもあの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて起こるということ――このことは、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項では全くないのであるから、それゆえにこのことに対して、「教会」はもちろんのこと、「いかなる人間も、いかなる被造物も、気を配らなければならないことはない」のである。なぜならば、そのことは、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「神ご自身が、その言葉の中で気を配り給う」ことであるからである。したがって、われわれは、その出来事が惹き起こされることを、ただ「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』」という祈りと共に「願い」求め続けるだけである。したがってまた、第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストを主・頭とする教会(その牧師、その神学者、その成員)は、その「願いと共に」、終末論的限界の下で絶えず繰り返し第三の形態における神の言葉となるために、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)を、その宣教、その教義学、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あのように「気を配り給う神の言葉に対して、(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において≫)奉仕しなければならない」のである。「なぜならば、神の言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれ≫)によって、また神の言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれ≫)のために、(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを主・頭とする第三の形態に属する全く人間的な≫)教会は生きるからである」。このような訳で、「教会に委ねられた委任」、それゆえに教会の一つの機能としての「教義学」の「奉仕」については、教会(≪その一つの機能としての教会教義学≫)が、「神の言葉を通して教えられ、拘束されて、神の言葉の故に」、すなわち「教会(≪教会教義学≫)は神の言葉に奉仕すること以外にほかの存在根拠を持たない」のであるから、「神はいますと言わなければならない」、という点にあるのである。したがって、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを主・頭とする「教会は、それが神の言葉によって教えられ、拘束され、神の言葉故に、自分自身と世に向かって、直接的にあるいは間接的に」、「はっきりと、まさにこのことを語ることによって、その委任に対して忠実である」のである。したがってまた、教会が「もしも……このことを語らないならば、もしも教会が直接的にあるいは間接的に、(≪イエス・キリストにおける啓示だけでなく、その啓示と共に二元論的にあるいは二元主義的にそれとは独立した≫)ほかの何かについて語るならば」、自分自身の存在根拠を喪失し、「自分自身(≪の存在≫)を不可能にしてしまう」ことになるのである。このような訳で、バルトは、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』において、次のように述べたのである――その過渡的課題と究極的課題を明確に提起しないで、即自的場当たり的に、それゆえに結局は体制と同じ土俵の上で、最後的に体制加担の中で、上・支配の側からの構造改革に対して、下・被支配の側からの構造改革で対応する結局は反体制的体制主義者たち(この典型が、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」であり、その幹部、その賛同者たちである。われわれは、この祈りや声明によって、70年の戦後過程において何ら成熟過程を歩んでこなかった日本基督教団やカトリックの実態を垣間見たのである)のように、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである、「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである、と。
さて、私は、拙著で大木英夫・佐藤司郎訳のエーバーハルト・ユンゲル『神の存在 バルト神学研究』について論じたのだが、この翻訳者の大木英夫は日本基督教団立東京神学大学の学長を1979~83年までやっていた神学者である。それだからと言って、彼が、知識的に思想的にすごいわけでも偉いわけでもないし、市民社会的に悪いわけでもない。この大木の決定的な問題点は、自然や人間を対象として学問研究を行う場である大学(単科大学の東京神学大学であれ例外ではあり得ない)において、その人間学的領域に即自的に対応することを強いられ侵食された「単なる知識」としての神学とその一貫性なき神学の質にあるのである。『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』でバルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。すなわち、バルトは、大木とは全く違って、「単なる知識」と「認識」との差異性を明確に認識し自覚しているのである、それゆえにその神学には一貫性があり、思想性があるのである。バルトは言う――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちあの神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する「認識」・信仰(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)である。したがって、その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがってまた、ただ「単なる知識」に過ぎない人間自身教会自身が対象化し客体化したある理念、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」等の神概念あるいはそこから措定された啓示概念は、聖書的啓示証言における客観的な神の啓示の「概念の実在」ではない、換言すれば聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰ではない。言い換えれば、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるそれであって、「人間の現実存在の内部」、人間論的な自然的人間の内部、教会論的なキリスト教的人間の内部、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の中、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、また人間の理性や自由について認識され自覚された近代以降は特にそうであるが「『自分の理性や力(≪感情、悟性、意志、想像、自然を内面の原理とする禅的な修行等≫)によっては』全く信じることができないことを知っている」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。したがって、聖書的啓示証言によれば、神の言葉は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、その隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」るのである。なぜならば、もしもそうでないならば、フォイエルバッハが根本的包括的に原理的に批判したように、そのキリスト教における・そのキリスト教会における「神の意識は人間(≪その牧師、その神学者、その成員≫)の自己意識であり、神の認識は人間(≪その牧師、その神学者、その成員≫)の自己認識である」に過ぎないからである・それゆえにその「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、(≪その牧師、その神学者、その成員の≫)人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないからである・「こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ということになってしまうからである。翻訳者・大木が称賛したユンゲルはどういう質の神学者か――総括的に言えば、彼は、旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す、「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指した<社会学>者ユンゲル・ハーバーマスの後追い知識(その神学的適用)を目指す神学者である、換言すればヘーゲル主義的な近代主義的プロテスタント主義的神学、宗教<哲学>(人間学的神学)を目指す神学者である。こういう旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学者ユンゲルを、大木は称賛したのである。ユンゲルは言う――◎「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位(≪哲学と言ってよい≫)のレベルにまで高めるという思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということ(≪ユンゲルは、時代状況に対する認識と自覚を持たないがゆえに、時代状況音痴のただ中で、例えば時代状況が全く許さなくなっている西洋近代を頂点としたヘーゲルの歴史哲学を神学的に適用したモルトマンの神学的な三段階的進歩史観の主張もよいということを言っているのである≫)、と同様、二次的なことなのである」、◎またユンゲルは、彼の思惟と語りからは必然的に生じてくる言葉、すなわち「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである(≪要するに彼は、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動の果てに登場する類的本質としての神を認めているのである、すなわちハイデッガーが辛辣な揶揄・批判を為した人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」、人間崇拝、偶像崇拝を認めているのである≫)。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない(≪要するに彼は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した神学者、哲学者ではなく、むしろ神と人間との無限の質的差異を恣意的独善的に後景へと退ける人間学的神学者、哲学的神学、宗教<哲学>を目指しているのである≫)」という言葉を必然的に発するのである。このようなユンゲルを称賛したのが東京神学大学の神学者・大木英夫であり、共訳した東北学院大学の神学者・佐藤史郎である。さらに言えば、前述した大木の決定的な問題点は、彼が、その著書『人類の知的遺産 バルト』で、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にあるヘーゲルの哲学原理――神と人間との無限の質的差異の止揚・解消、人間の神化あるいは神の人間化、無限と有限との統一としての「究極的同一性」に対する根本的包括的な原理的な批判の言葉、すなわち「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用して、われわれ読者に対して、そのことに対する認識不足と自覚のなさから惹き起こされる、自然神学の歩みへの、換言すれば自然的な信仰・神学・教会の宣教の歩みへの注意喚起を行った神学者であるにもかかわらず、ユンゲルの翻訳本の「訳者あとがき」では、まさに旧態依然の自然神学者そのものであるユンゲルを、ただ旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのユンゲルを、恣意的独善的に出鱈目に「バルト後を確定した」とか「誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」などと全くの誤謬に「普遍性と組織性の後光をかぶせて」称賛したのである。言い換えれば、大木は、神学における思想を持たないのである、それゆえに一貫性を持たないのである、一貫性なき継ぎ接ぎだらけの神学者なのである。バルトは、まさに、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したその信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成において、ユンゲルたちのような神学者や牧師や著述家たち等々が<たむろ>する自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服するという仕方で、自然神学の<段階>から<非>自然神学の<段階>へと移行したのである。すなわち、バルトの信仰・神学・教会の宣教のベクトルは、ユンゲルのそれとは全く逆向きなのである。このことが、神学における思想なき大木には分らないのである。このように、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者の大木の神学の質は、その人間学的領域に即自的に対応することを強いられ侵食された「単なる知識」としての神学とその一貫性なき神学にあるのである。言い換えれば、神学において非自立的で中途半端な思想なき人間学的神学者、形而上学的神学者(総括的に言えば、旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけの自然神学者)のユンゲルや大木には、マルクスや吉本隆明が述べていたように、マルクスの敵たちが理解することができなかったことが、すなわち「思想は物質ではなく外化された観念である」ということが、またその「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し止揚することによってしか、いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れるよってしか滅びない」ということが理解できないのである、換言すれば否定的に媒介するという仕方でしか克服できないということが理解できないのである。ユンゲルも大木も、ただ旧態依然として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけなのである。このような訳で、また「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよしないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」 「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている」のであるから、将来的に牧師を目指す神学生だけでなくすべてのわれわれ教会の成員は、一方ではやはり、神学者や牧師や著述家たちの知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、換言すれば神学者や牧師や著述家たちから対象的になって距離を取り、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯するという仕方で、彼らに対して根本的包括的な原理的な批判を行っていくことが必要なのである。
さて、イエス・キリストを主・頭とする教会の宣教の出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である、それゆえにわれわれは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」、すなわち復活したキリストの再臨、完成――このことが「終末論」である、このように「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの――この「行為と業は、それがほかならぬ神の行為と業であるということでもってはじめて、すべての種類のほかの行為と業とは<質的>に違った意味深さと力強さの中で、意味深く力強いものとなり、また意味深く力強いものなのである」。すなわち、「何かあるひとつの創造、和解、救済が、宣べ伝えられ信じられることによってではなくて」、創造(父)、和解(子)、救済(聖霊)「それらすべてが神の行為と業として宣べ伝えられ信じられることによって、(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉である≫)イエス・キリストの中で、(≪その第二の形態の直接的な最初の第一の神の言葉である≫)聖書の中で、(≪起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、この連環と循環において<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為す、その第三の形態に属する全く人間的な≫)教会の中で、神の言葉が現実の啓示として宣べ伝えられるのである」。この<不可避的>な客観的な対象として存在している「現実の啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)は全き真理である」。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その第二の存在の仕方において、すなわちナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示なのである、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の認識と信仰を要求する啓示なのである。この「現実の啓示」は、その啓示に、「心安らかに、正直な気持ちで、立ち止まり、われわれがこの最も簡単で包括的なこと」――「神はいますということを語るときに、われわれは何を語っているのかについて特に反省し吟味することをわれわれにゆるし、また命じるのである」。したがって、「もしも(≪われわれが、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における≫)『神はいます』という命題の傍らを……急いで通り過ぎるならば、われわれは……怠惰の罪を犯すことになる」のである。したがってまた、「福音主義教会の最初の教義学者メランヒトンが、一五二一年の『ロキ』の中で、直ちにキリストノ功績についての記述にとりかかるために、……特別な神論を中止すべきであると考えた」ことは、「当然のことながら後になってまた放棄され」ることとなる「軽率さ」によっていた――「神性ノ秘義ヲワレワレハ探究スルヨリモムシロ崇拝スル方ガタダシイノデアル。確カニ大イナル危機ナシニ神性ノ秘義ハ吟味シ調ベラレルコトガデキナイ」。それに対して、われわれは、「こう言わなければならない」――「ただ危険をおかしてだけ探究されることのできる啓示された神性ノ神秘に、結局また(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」神の第二の存在の仕方、業と行為、≫)キリストノ功績も含まれている」、と。また「そのキリストノ功績も、……その場所においてまた神性ノ神秘そのものについての考察がなされるのでなければ、正しく探究されることはできない」、と。言い換えれば、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という啓示そのものが持っている啓示の弁証法の認識と信仰が肝要なことなのである。この「メランヒトンの……第二の過失」は、「第一の過失よりももっと悪いものであった」――すなわち、それは、「彼が、後に神論を彼の『ロキ』の中に再び取り上げようと決心したとき、彼は、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示とは独立した≫)神の啓示以外の源泉から、換言すれば自由に考え出された一般的な神概念から打ち立ててゆこうとし、……神性の秘義を、啓示されたキリストの功績との関連なしに考察しはじめた」点にあった。したがって、「これら両方の過失」を犯したメランヒトン以降の時代に現存したあるいは現存する第三の形態に属する全く人間的な教会の牧師、神学者、成員は、不可避的に、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成において、その両方の誤謬を根本的包括的に原理的に止揚し克服していく課題を課せられたのである・課せられているのである。バルトは、ここで、メランヒトンを否定的に媒介するという仕方で論じているのである。イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、その行為、「そのみ業の中で……現にあり給うところの方」であるから、「われわれは、神の存在を問う時に、神の言葉の中でわれわれに対し啓示されている神の行為と業の領域から……抜け出てしまうことはできない」。もちろん、あの「父なる名の三位一体的特殊性」ゆえに、「神はまた自分自身の中ででも、またそのみ業の以前においても、み業の後ででも、み業の上においても、またみ業なしにも、同一の方であり給う。その(≪神のその都度の自由な恵みの決断による≫)み業(≪存在の仕方≫)は神(≪その存在と本質≫)に拘束されているが、神(≪その存在と本質≫)はその(≪神のその都度の自由な恵みの決断による≫)み業(≪存在の仕方≫)に拘束されてい給わない。み業は神なしには何物でもない」。このことを三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは単一性・神性・永遠性を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」・「神の言葉」となるのではなくて、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父を啓示する者」、そして「われわれを父と和解させる者」として、「イエス・キリストは神の子」、三位一体の神の第二の存在の仕方(性質、業と行為)、起源的な第一の形態の神の言葉である、ということである。このキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その第二の存在の仕方において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の認識と信仰を要求する啓示なのである。その啓示と和解(第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」、第二の存在の仕方であるキリストのその存在と本質が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。このような訳で、「われわれが、『神はいます』という命題を展開し、説明してゆくに際して、いずれにしても徹頭徹尾、神のその啓示の行為の中で出来事として起こっているあるいはそのようなものとして可視的となるみ業を堅く取って放さないでいなければならないということは、確かに正しいのである」。しかし、「神は、神の啓示の中で出来事として起こる」世およびわれわれに対する関係や態度の中で、「尽くされてしまうことはあり給わない」。前述したように、神は、「それらの業に対して、……あくまでも神ご自身であり、神がそれらの業に相対して、神がそれらの業の中でご自分を啓示することによって、同時にあくまで(≪その業と行為、その存在の仕方に対して≫)優越したものであり続け給うということである」。「まさに(≪その第二の存在の仕方、業と行為において≫)顕ワサレタ神こそが隠サレタ神(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神≫)である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――「このことを思い出す想起」を、われわれは、「このところで」「存在概念を……何の偏見もなしに取り上げることによって」、「為しているのである」。しかし、この時、われわれにとって明らかでなければならないことは、「あくまでも(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおいて自己啓示された≫)神がわれわれの対象であって、決して存在がわれわれの対象ではないということ、存在はただ<神>の存在としてだけわれわれの対象であるということ」、それゆえに「ここで語られている神の存在においては、自由に選ばれた一般的な、また中立的な存在概念が問題なのではなく、……はじめから全く特定の仕方で(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)内容が満たされた存在概念(≪まことの存在概念、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神の啓示」――すなわち第二の存在の仕方の中での、また永遠にわたっての、父――神の起源的な第一の存在の仕方、子――神の第二の存在の仕方、聖霊――神の第三の存在の仕方、としての存在概念≫)が問題であるということ、そしてこの存在概念が内容を満たされることは、決して勝手になされるわけではなく、ただそれが神の言葉の中で既に起こりわれわれに与えられた後、神の言葉からだけ起こるということ」である(≪換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ起こるということである≫)。このような訳で、われわれは、「何かほかの業と取り組むのではなく」、「まさに(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の≫)神の業(≪第二の存在の仕方、イエス・キリストにおける神の自己啓示、起源的な第一の形態の神の言葉≫)と取り組むのであり」、それゆえに「同時に神ご自身(≪その存在と本質≫)と、神としてのその存在(≪神の起源的な第一の存在の仕方の父、神の第二の存在の仕方の子、神の第三の存在の仕方の聖霊≫)と取り組むのである……」。われわれが、「神は『います』ということ……神は何で『あり』あるいは誰で『ある』のか」ということ――「この問いに対して正当に、意味深い仕方で答えたいのであれば、その時われわれの思惟は一瞬たりとも」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己「啓示の中での神の行為以外の方向に向かうことはゆるされず、また一瞬たりともそこのところ以外のところから由来して来ることはゆるされない」のである。「われわれは、ここで、プロテスタント正統主義を含めて昔の神学」の、「その大部分においては……啓示の中での神の行為以外のところに目を向け、また啓示の中での神の行為以外のところから由来して来た」「神論の中で、ほとんど全線にわたって力を奮った誤謬の源泉の前に立つ」。すなわち、その誤謬は、「人が、顕著な一般的な無思慮さの中で、神論を三位一体論……の前」に、「形式的に・論理的な理由から置くのが常であった」という点にある。それだけでなく、それは、「人がそこから赴いた(≪「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」≫)空虚な空間の中では」、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)を教会の宣教における、教義学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚されていないために、対象化された人間の自己意識・理性・思惟の類的本質、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」、「最高の理想」等「(論破の余地のない所与として与えられてあるものとしての)ある人間的な直観と概念から出発しており、それから少しばかり力のない仕方であらゆる種類の聖書的な想起によって通し貫かれている」「一般的な反省」しか「現実に起こ」らないという点にある。「まさにそれと共に、人は、欲せずして、自ら、……そこから、反教会的な哲学(≪自然神学としての人間学的神学あるいは神学的人間学あるいは哲学的神学≫)」が、また「同時に、……その後、異端的な神学」が、「三位一体教義を、それと共に信仰と神の言葉についての信仰認識のすべての決定的な言明」を、「いとも容易に攻撃することのできる基盤を造り出したのである」。したがって、「われわれは、この伝統に対して(≪それから対象的になることによって≫)精力的に(≪自覚的に≫)距離を取」るのである。したがってまた、われわれは、「教会教義学」が、「三位一体教義から由来して来ているということ」、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神の啓示(≪その第二の存在の仕方≫)の中での、また(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)永遠にわたっての、父(≪神の起源的な第一の存在の仕方≫)、子(≪神の第二の存在の仕方≫)、聖霊(≪神の第三の存在の仕方≫)の存在以外のほかの神の存在あるいは神のほかの存在を考慮に入れることはないということ」、それゆえにまた「神を(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて≫)どのように存在者として言い表し説明しようと」、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性の下で、神の不把握性の下で、隠されたままの「存在の本質についての何らかの自由な考察をしたりせず」、「それの特別な意味をこの脈絡においてあらゆる事情のもとで」、「三位一体の神の存在、啓示を念頭に置いて手に入れ説明してゆかなければならない」のである。したがって、バルトは、先ず以て『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で、次のように述べたのである――聖書的啓示証言において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、それゆえにこのイエス・キリストにおける神の自己啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である、それゆえにまたこの三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である、と。
われわれは、「神をして神たらしめるところのもの、神の自我性と本来性、神のエッセンティアあるいは『本質』」――「そのようなものに」、「神がわれわれに対し、(≪その存在の仕方において≫)主として、また救い主として行動し給うところで出会うであろう」。聖書的啓示証言の本来的テーマは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神」、すなわち「キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。この神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方において、顕現、自己啓示した。このことは、「自己を覆い隠す」、隠蔽性、「聖性」としての三位一体の神が、その起源的な第一の存在の仕方において子(その第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、その第二の存在の仕方において、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示なのである。このように自己啓示する神は、神の側の真実としてある啓示の弁証法において、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。この「それとしての神の啓示の行為そのもの」は、第一にキリストにあっての神が、「まさにご自分をまことの存在として」、「人間に対して彼らの困窮の克服として、彼らの闇の中での光として」、「まさにほかならぬ自分自身を、聖霊を通してみ子の中で父をお与えになったということを含んでいる」、第二に「自分自身からはただ倒錯した道を進むことができるだけである罪人としての人間」が、「まことの存在(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神の啓示」――第二の存在の仕方の中での、また永遠にわたっての、父――神の起源的な第一の存在の仕方、子――神の第二の存在の仕方、聖霊――神の第三の存在の仕方、としての存在≫)を問う問いに対して答えようとするすべての自分自身の(≪恣意的独善的嗜好的な≫)試みから呼び戻され、この事柄において神ご自身によって与えられた答えに拘束されるということを含んでいる(≪すなわち、第三の形態に属する全く人間的な教会のその牧師・その神学者・その成員は、その宣教・その教義学・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」に拘束されるということを含んでいる、換言すれば人間自身教会自身の恣意的独善的嗜好的な信仰・神学・宣教というものはゆるされてはいないことを含んでいる≫)」、第三に「人間が、神の言葉を通して聖霊の中で(≪あの神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)、すべてのそのほかの信頼なしに、何ものによっても打ち負かされることのない信頼をもって」、「人間に……その生命の泉として、慰めおよび命令として、人間および万物を支配する力として、出会い給うところの方を存在者たらしめるということを含んでいる(≪すなわち、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる、人間が人間的に所有する人間の言語を介した直観と概念を用いた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において存在者たらしめるということを含んでいる≫)」。このような訳で、「『神はいます』という命題を言い換えるわれわれの最初の決定的な言い換えは、『神は現にあるところのもので、その啓示の行為の中であり給う』ということでなければならない。それゆえに、われわれは、この命題」を、形而上学的一面的固定的抽象的な「本質」という概念をもってではなく、「神の現実」、「存在と行為を一緒に含んでいる……『神の実在』(Wirklichkeit)」という概念でもって言い表したのである」、すなわち抽象性と具象性の総体としての<現実性>(Wirklichkeit)という概念、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という概念でもって言い表したのである。「人は、次のことに注意せよ」――すなわち、それは、「この命題」は、「この言い換えと総括的な言い方の中ででも、あくまで神の存在について語っており」、それゆえに「信仰のすべてのそのほかの命題の主語を問う特別な問いに対して答えているということである」、「まさに神の存在をこそ、われわれは、神の実在」、「神の現実性(Wirklichkeit)」として「言い表すことによって、……『行為の中での神の存在』として、詳しく言うならば神の啓示の行為の中での神の存在として」、「すなわち、神の存在が、その現実性を証ししている、ただ単にわれわれのためのその現実性を証しするだけでなく、……同時に、まさにそのようにしてこそ」、「その背後にも、その上にも、いかなるほかの現実性は存在しないところの」、「父なる名の内三位一体的特殊性」における「内的な、本来的な現実性を証ししている神の啓示の行為の中での神の存在として言い表」しているのである。聖書的啓示証言において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子(イエス・キリスト)の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示したのである。したがって、われわれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言)の中での、永遠にわたっての、父(≪神の起源的な第一の存在の仕方≫)、子(≪神の第二の存在の仕方≫)、聖霊(≪神の第三の存在の仕方≫)の存在以外のほかの神の存在あるいは神のほかの存在を、換言すれば父なる神、創造主としての神、永遠の父、及び子なる神、和解主としての神、永遠なる子(イエス・キリスト)、並びに聖霊なる神、救済主なる神、永遠なる霊の存在以外のほかの神の存在あるいは神のほかの存在を考慮に入れることはできないのである。