14の7『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」
14の7『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(449-468頁)
再推敲・再整理版です。
「二 人間の神認識の真理性」
われわれは、「われわれの思想の歩みの中心概念」が、「神の恵み(下記の【注1】を参照)の概念でなければならなかったことによって」、「神が、その真実な(≪あの総体的構造を持った――下記の【注2】を参照≫)啓示の中で、(≪あの総体的構造に基づいて≫)神の認識の真実性にわれわれをあずからせ、そのようにしてわれわれの認識に対してご自分が為す認識との類似性(「部分的な対応と一致」――下記の【注3】を参照)を与え給うということ、まさにそれと共にわれわれの認識に真実性を与え給うということ」、「われわれの中でまこととなり、まことであるということを前提とした」のである。われわれが、「神の恵みを引合いに出す」ということは、「イエス・キリストの領域に身を置いた」ということを、「信仰の試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)の領域に身を置いた」ということを、それ故に「信仰の試練から身を退くことができない領域、その中でわれわれはただ信仰の慰めをもって自分を慰めることができるだけである領域に身を置いたということを意味する」のである。このような訳で、「神の恵みは、体系的な一般的可能性ではない」のである。それは、「『主イエス・キリストの恵み』(Ⅱコリント一三・一三)である」。したがって、われわれの信仰・神学・教会の宣教における「思想の歩みは、まさにその(全体を決定する)中心のところでこそ」、信仰・神学・教会の宣教における「彼は、全く正しいか、さもなければ全く無に等しいところの真空の中に」、「イエス・キリストが立ち給うということを告白したのである」、「審判者および救い主としてのイエス・キリストご自身が立ち給うということを告白したのである」、その「彼の行為と思想の歩みは、ただイエス・キリストの中でだけ、起源的に、本来的にまことであり、ただイエス・キリストが……その審判者および救い主で現にあり給うということに基づいてだけ、また彼の中でもまこととなり、まことであることができるということを告白したのである」。包括的に言えば、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを告白したのである。その「彼は、感謝をもってイエス・キリストのみ手の中に自分を捧げたのである」。「それは、イエス・キリストが、み心のままに彼の審判者および救い主となり、そのような方として……、彼が自分自身の真空を確かめなければならないあのところからして、彼に対して働きかけてくださるためである」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造における主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」に基づいた主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性の中で、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことに対する決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行かなければならないということが問題である。「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う」イエス・キリスト、「恵みの光」が、「信仰の試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)の場所であり給うことによってだけ、またわれわれもこの場所となるし、この場所である」。このことは、「われわれが(≪あの総体的構造に基づいて≫)イエス・キリストをこの場所たらしめることによって起こるのである」。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている(コロサイ二・三)」――このことは、「ただ一般的に、われわれは、神を認識するためにはイエス・キリストを認識しなければならないということを意味しているだけではない」。すなわち、このことは、「特に、われわれは、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストを、神認識の最初の、本来的な主体として認識しなければならないということを意味している」。「もしもわれわれが、われわれの思想の歩みに際して、その思想の歩みが……人間の真理を含んでおり、語っていると前提した時に、人間について正しく語ったのであれば、その時、われわれは起源的に、本来的に、われわれについて語ったのではなく、……この人間(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストについて語ったのである」。「まことの神でありまことの人間であり給う彼の中で、神が人間を、その真実な啓示の中で、その認識の真実性にあずからせ、そのようにして人間の認識(人間の言語を介した直観と概念を用いての信仰の認識としての神認識)に対して神ご自身の認識(神の側の真実としてある、神の側からする、イエス・キリストにおける神の自己啓示における神の自己認識・自己理解・自己規定――下記の【注2】を参照)との類似性を、それと共に真実性を与え給うということがまことである」。この「受肉(≪内在的本質としての神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)の恵みに基づいて、イエス・キリストの中で起こった、人間が神との存在の一致へと取り上げられ、受入れられることに基づいて(≪何故ならば、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」であるから≫)」、「すべてのことは、この人間(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストの人間存在の中で、真理となった」のである。
【注1】
「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべて」は、「まず第一に、基本的に、神の恵みである」。「恵み」(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるもの(≪客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)である聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもある」が、それを「与える方自身が」、すなわちご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」「ご自身が、自分自身を賜物とすることによって、自分自身、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉自身であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、神とは全く異なる≫)他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、常に先行して「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくこと」であるから、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型」は、「神の言葉の受肉(その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「言葉」の受肉であって、その内在的な本質である「神性」の受肉ではない。したがって、神と人間との「混淆」・「混合」・「共働」・「協働」・「神人協力」ではない)、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。イエス・キリストは、「神の神性において」、「神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会い給う」ところの方である。ここでの常に先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)(≪徹頭徹尾自己自身である神、ご自身の中での神の意志と力を通して≫)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある――「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。したがって、ご自身の中での神として「恵み深い神」と、われわれのための神として「恵み深くあり給う」神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。したがってまた、「ここでは、すべてのことは、直接性に」、「神の存在と行為が実際に神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身(≪自己自身である神、ご自身の中での神≫)であり、自分自身を確証(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することによって(≪われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において≫)恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。したがってまた、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを与えてくださいという言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、「使徒たちがその教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括することができる」――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』」と呼ぶことができる。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Ⅰコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、神が現にあるところの方として、(≪われわれのための神として≫)われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。
さて、キリストにあっての「神は、(ドイツ語はここで、ほかの国語が持っていない表現能力を持っているのであるが)ただ単に主であり給うだけでなく、そのような方として栄光に満ちてい給い」、それ故にわれわれは、「すべての栄光は、主なる神の栄光であるという認識(≪「栄光」と「主」との総体性・全体性においてイエス・キリストは栄光の主であるという認識≫)を遂行しなければならない」。「われわれは、ここで、まさにこの概念でもってはじめなければならない……」。聖書的啓示証言「Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリスト」は、「<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認されている」、すなわち聖書的啓示証言からすれば、「主と栄光とを切り離して認識する切り離しは存在しない」。
【注2】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。
【注3】
例えば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における神的愛に基づく父(啓示者)と子(啓示)の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「啓示されてあること」、「啓示されてあるもの」、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいた「存在者」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではないところの、徹頭徹尾神の側の真実としてある神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいて神の側からやってくる「神性」を内在的本質とする「すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし」としてのその第二の存在の仕方における「存在者」、起源的な第一の形態の神の言葉、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、そのイエス・キリスト自身を起源とするしるしのしるしとしての第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたしるしのしるしのしるしとしての第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義)――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とするキリスト教に固有な「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としてある。
また、例えば、徹頭徹尾神の側の真実としてある主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」としてのその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストにおける神の自己啓示、「啓示の出来事」は、生来的な自然的なわれわれ人間は、人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、われわれに自己認識・自己理解・自己規定させるのである、「神の選び」(裁き・死を包括した恵み)を「イエス・キリストの復活」において認識させ、「神の放棄」(恵みに包括された裁き・死)を「イエス・キリストの十字架」において認識させるのである。また、それは、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを、生来的な自然的なわれわれ人間の「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができない」ということを、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、われわれに自己認識・自己理解・自己規定させるのである。総括的言えば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」と告白しなければならないということを、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と告白しなければならないということを、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、われわれに自己認識・自己理解・自己規定させるのである。したがって、われわれは、最後的には、まさに、教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」と言わなければならない、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉』)と言わなければならない。何故ならば、もしもそうでないならば、その時には、たとえ主観的にそうではないと頑なに言い張ったとしても、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」であろうから、また「神の啓示の内容は、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下にあるキリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって(≪恣意的独断的に≫)規定された神(≪「存在者レベルでの神」≫)から発生した……」ものであるだろう」から、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」であろうから(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」であろうから(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。
「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「永遠なる父がみ子を認識し給う。そして永遠なるみ子が永遠なる父を認識し給う。しかし、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする≫)永遠なるみ子はただ単に永遠なる神であるだけでなく、(≪その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の≫)受肉の恵みを通して遂行された一致の中で……人間ナザレのイエス(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)であり給う」。何故ならば、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源・起源としての父は、「子として自分を自分から区別する」し、「自己啓示する神として自分自身が根源」であり、その「区別された子」は、「父が根源」であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」、「聖霊」は、「父と子が根源」であるが、この三位一体の神は、われわれのための神としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、すなわちその第二の存在の仕方における言葉の「受肉の恵みを通して遂行された一致の中で……人間ナザレのイエスであり給う」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」であり給うからである。したがって、われわれは、「この人間イエスの中であったし、あるし、あるであろうところの(≪あの総体的構造に基づいた信仰の認識としての≫)神認識を、われわれが(≪あの総体的構造の中の「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)その実在、その客観的な実在、その可能性、その啓示の主観的可能性、最後にその限界(≪神の不把握性、終末論的限界≫)を記述したことによって、記述したのである」。われわれは、「それと違った仕方」では、キリストにあっての「神認識を、信仰の中で、信仰の認識として記述していなかった」のである。すなわち、われわれは、キリストにあっての神認識を、徹頭徹尾神の側の真実としてある神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事として記述していたのである。「われわれは、神の恵みを引合いに出す時」、「まさに受肉の恵みを」、「この人間イエス」を、「その方の中で、(彼は神の永遠のみ子であり給うが故に)(≪信仰の認識としての≫)神認識が起源的に、本来的にあったし、あるし、あるであろう方……を通して」、「またわれわれに対して、(その方は永遠のみ子であり給うが故に)われわれ自身神の子であるということが」、換言すれば「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として」、われわれは「神の子供」、「世つぎ」、「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるし、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」であるということが、「それと共に(≪あの総体的構造に基づいて≫)その方の(≪信仰の認識としての≫)神認識にあずかるわれわれの交わりが」、「約束されている方としての」、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉自身であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」――「この人間イエスを引合いに出すのである」。「われわれは、そのことを為すことによって、信仰の試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)の領域に入る」のである。「何故ならば、まさに試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)こそが、この人間イエスに与えられた受肉の恵みの形式であり、知恵と知識のすべての宝」は、「まさにこの……試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)の形態の中で、彼の中に隠されているからである」。
そのような訳で、「起源的に、本来的に試練」とは、「われわれがわれわれ自身の身に経験し、体験したところの自分で手に入れることができるようなものではなくて」、「聖書に従えば、その人間存在の低さ(≪「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」――【注1】を参照≫)の中での神の子に、その十字架の死の中で、神からして及んだところのこと」――すなわち、「そのもとに神の子は、われわれの場所を代わって占め、われわれの身代わりとなっておもむかれた神の裁きである」――『福音と律法』によれば、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、徹頭徹尾神の側の真実としてある「イエス・キリストが信じる信仰」による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとして理解されるべきものである。このようにして、イエス・キリストは、「自ら裁きを受ける者として、……われわれの審判者となり給う」。生来的な自然的な、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、このわれわれ人間の類と歴史性(人間の類の時間性、人類史、世界史)――個と現存性(人間の個の時間性、個体史、自己史)の生誕から死までの審判者となり給う、「われわれの信仰を問いに付す」、われわれ自身の信仰・神学・教会の宣教に内在する不信仰・無神性・真実の罪を問いに付す、あの総体的構造に基づいて「われわれの信仰を取り除き」、われわれ自身の信仰・神学・教会の宣教に内在する不信仰を取り除き、「そのようにしてわれわれ自身の業としてのわれわれの信仰を殺す」、あの総体的構造に基づいた純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての「律法の目標」を、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「自然法」、「抽象的理性」、「民族法」、また「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」、「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」、また「最も洗練された支配行為に過ぎない」「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」(信仰・神学・教会の宣教において、イエス・キリストをのみ主・頭としないところで恣意的独断的に主張されたところの、また社会構成――支配構成において、戦争の元凶である民族国家を死滅させる方途を明確に提起しないところで主張される永遠に平和は不可能な平和の計画と平和の方法)という形に転倒させてしまうわれわれの不信仰としての業を取り除き、「そのようにしてわれわれ自身の業としてのわれわれの信仰を殺す」。
そのような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示こそが、あの総体的構造に基づいて、「われわれの信仰は、われわれ自身の業としては、破滅した役に立たない業であるということを教え・認識させるのである」。この「神の試練」(慰めに包括された試練)を、「イエス・キリストが、先ず第一に、本来的に、……身に受け給うたのである」。したがって、「神の試練(≪慰めに包括された試練≫)を、イエスによって身に受けられたものとして認め、……力を奮わしめることが、われわれの為すべきことである」。したがって、われわれは、次のように告白し・証しし・宣べ伝えなければならないであろう――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものによって生きるのだ≫)ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。このような訳で、「われわれの信仰は、それが、われわれの信仰の必然的な試練(≪慰めに包括された試練≫)は、イエス・キリストの中で既に出来事となって起こり、イエス・キリストの中で完全にすまされたことを引合いに出して頼ることから成り立っている時には、われわれ自身の業でありながら、しかも破滅した役に立たない業ではないのである」。したがって、「慰め」(試練を包括した慰め)も、「われわれ自身の身に経験し、体験し、手に入れることができる何かではなくて、聖書によれば、その人間性の高揚の中での神の子に、死人からの甦りの中で及んだところのことである」、ちょうど「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、キリストの復活――すなわち「新しい世」・時間のはじまりへと向かっているように。「その者自身に救いと永遠の栄光が与えられるようになった方として」、「人間イエス」(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)は、「われわれの救い主であり給う。そのようにして、彼は、われわれの信仰を回復され、信仰を死より呼び覚まされ、信仰を生ける信仰と為し給う。そのようにして、彼は、……われわれが自分では信仰に与えることのできない……われわれの信仰は神の前で義とされることであるという承認を与え給う」。今まで述べてきたように、「われわれは、ただ単に甦られた方を信じることがゆるされるだけでなく、甦られた方と共に信じることが、換言すればその方の身に及んだ慰め(≪試練を包括した慰め≫)に基づいて信じることがゆるされるのである。神が肉をとり給うたみ子を引き受け給うたということ、神がこの人間イエスを永遠に慰め給うたということ、それが、われわれの信仰の力である。そして人間イエスの中で、神は、あらかじめわれわれすべてに慰め(≪試練を包括した慰め≫)を与え給うた」。このような訳で、「試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)」は、「われわれがわれわれの神ノ真理ノ循環の中を動くことによって」、換言すればあの総体的構造の中での「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上税の中で、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことに対する決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くということの中を動くことによって、「イエス・キリストの領域(≪「イエス・キリストの身に起こった試練(≪慰めに包括された試練≫)と慰め(≪試練を包括した慰め≫)」、「十字架(≪律法、死≫)と甦り(≪福音、復活――「実在の成就された時間」、「時間の主の時間」、「まことの過去」と「まことの未来」とを包括した「まことの現在」≫)」≫)の中にいるということの確認であることができるだけである」。
(『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』――了)