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『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」(その4−4)−2

『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」(その4−4)(449−468頁)

 

「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」(その4−4)―2
 われわれは、「われわれの思想の歩みの中心概念」が、徹頭徹尾人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項とは決してならないところの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「啓示の概念」、すなわち「神の恵みの概念でなければならなかったことによって」、「神が、その真実な啓示の中で、神の認識の真実性にわれわれをあずからせ、そのようにしてわれわれの認識に対してご自分が為す認識(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける~の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定≫)との類似性(「部分的な対応と一致」)を与え給うということ、まさにそれと共にわれわれの認識に真実性を与え給うということ」は、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で「われわれの中でまこととなり、まことであるということを前提とした」のである。われわれがこの「神の恵みを引合いに出す」ということは、「イエス・キリストの領域」に身を置いたということを、「信仰の試練と慰め」の領域に身を置いたということを、それ故に「信仰の試練から身を退くことができない領域、その中でわれわれはただ信仰の慰めをもって自分を慰めることができるだけである領域に身を置いたということを意味」するのである。このように、神の恵みは、「体系的」な「一般的可能性ではない」のである。それは、「『主イエス・キリストの恵み』(Uコリント一三・一三)である」。したがって、信仰・神学・教会の宣教における「われわれの……思想の歩みは、まさにその(全体を決定する)中心のところでこそ」、「彼は全く正しいか、さもなければ全く無に等しいところの真空」の中に、「イエス・キリストが立ち給うということを告白したのである」、その真空の中に「審判者および救い主としてのイエス・キリストご自身が立ち給うということを告白したのである」、彼のその存在・その思惟・その実践、彼の思惟と語り、「彼の行為と思想の歩みは、ただイエス・キリストの中でだけ、起源的に、本来的にまことであり、ただイエス・キリストが……その審判者および救い主で現にあり給うということに基づいてだけ、また彼の中でもまこととなり、まことであることができるということを告白したのである。換言すれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを告白したのである。彼は、感謝をもってイエス・キリストのみ手の中に自分を捧げたのである」、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼固執しようとしたのである。「それは、イエス・キリストが、み心のままに彼の審判者および救い主となり、そのような方として……、彼が(≪終末論的限界の下で絶えず繰り返し≫)自分自身の真空を確かめなければならないあのところ(≪あの、「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環≫)からして、彼に対して働きかけてくださるためである」。このような訳で、この、「恵みの光」、イエス・キリストにおける啓示の場所こそが、われわれ人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、それ故にその啓示の場所は、われわれの信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う」イエス・キリストが、「信仰の試練と慰め」の「場所であり給うことによってだけ、またわれわれもこの場所となるし、この場所である」。このことは、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて「われわれがイエス・キリストをこの場所たらしめることによって起こるのである」。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている(コロサイ二・三)」――このことは、「ただ一般的に、われわれは、神を認識するためにはイエス・キリストを認識しなければならないということを意味しているだけ」ではない、すなわちこのことは、「特に、われわれは、(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストを、神認識の最初の、本来的な主体として認識しなければならないということを意味している」のである。何故ならば、イエス・キリストは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものだからである。「もしもわれわれが、われわれの思想の歩みに際して、その思想の歩みが……人間の真理を含んでおり、語っていると前提した時に、人間について正しく語ったのであれば、その時、われわれは起源的に、本来的に、われわれについて語ったのではなく、……この人間、(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストについて語ったのである」。何故ならば、~の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示の時間と場所(キリストの復活――完了・「成就された時間」と場所、「新しい時間」と場所、「実在の時間」と場所)は、われわれ人間の時間と場所(その啓示の時間と場所から「『攻撃』された」・「否定的判決」を受けた、「失われた」、「非本来的な」時間と場所)を包括し止揚し克服したところの時間と場所だからである。「まことの神でありまことの人間であり給う彼の中で、神が人間を、その真実な啓示の中で、その認識の真実性にあずからせ、そのようにして人間の認識(人間の言語を介した直観と概念を用いての信仰の認識としての神認識)に対して神ご自身の認識(その存在と本質は隠されたままでの第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定)との類似性を、それと共に真実性を与え給うということがまこと」なのである。このような訳で、教会の宣教の課題である聖書的啓示証言の中で証しされているイエス・キリストにおける啓示の出来事の宣べ伝えを志向し目指さないところの、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の自然的な信仰・神学・宣教における「単なる知識」としての「形而上学的」な教会教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、教会「教義学としては非学問的」なのである。『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べられている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた、「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、それ故に受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味している。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(業と行為、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)――この「受肉(≪神性の受肉ではなく、言葉の受肉≫)の恵みに基づいて、(≪まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストの中で起こった、人間が神との存在の一致へと取り上げられ、受入れられることに基づいて(何故ならば、イエス・キリストは、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」であるから)」、「すべてのことは、この人間、イエス・キリストの人間存在の中で、真理となった」のである。したがって、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。「父なる名の内三位一体的特殊性」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である父は子(第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」するのであるが、自己啓示する神として自分自身が根源である、それゆえにその区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(第三の存在の仕方)は父と子が根源である、それゆえにまたこの神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、父(起源的な第一の存在の仕方)だけが創造主なのではなく、子(第二の存在の仕方)と霊(第三の存在の仕方)も創造主である、同様に父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。このように、キリストにあっての神は、その存在と本質は隠されたままのイエス・キリストにおける啓示において、自己認識・自己理解・自己規定されたのである。「永遠なる父がみ子を認識し給う。そして永遠なるみ子が永遠なる父を認識し給う。しかし永遠なるみ子はただ単に永遠なる神であるだけでなく、(≪その第二の存在の仕方≫)受肉の恵みを通して遂行された一致の中で……人間、ナザレのイエスであり給う」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」であり給う。したがって、われわれは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――その存在と本質は隠されたままの「この人間イエスの中であったし、あるし、あるであろうところの(≪それゆえにあの神言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての≫)神認識を、われわれが(≪三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における神の言葉の≫)その実在、その客観的な実在、その可能性、その啓示の主観的可能性、最後にその限界(≪神の不把握性、終末論的限界≫)を記述したことによって、記述したのである」。われわれは、「それと違った仕方では、……神認識を信仰の中で、信仰の認識として、記述していなかった」のである。「われわれは、神の恵みを引合いに出す時」、「まさに受肉の恵みを」、「この人間イエス」を、「その方の中で、(彼は神の永遠のみ子であり給うが故に)神認識が起源的に、本来的にあったし、あるし、あるであろう方……を通して」、「またわれわれに対して、(その方は永遠のみ子であり給うが故に)われわれ自身神の子であるということが」、換言すれば「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、われわれは「神の子供」、「世つぎ」、「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるし、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」であるということが、「それと共にその方の神認識にあずかるわれわれの交わりが」、「約束されている方としての」「この人間イエス」を「引合いに出すのである」。先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」のである。「われわれは、そのことを為すことによって、信仰の試練と慰めの領域に入る」のである。「何故ならば、まさに試練と慰めこそが」、<受難・死>と<勝利・復活>の出来事における「この人間イエス」に与えられた「受肉の恵みの形式であり、知恵と知識のすべての宝」は、「まさにこの……試練と慰めの形態の中で、彼の中に隠されているからである」。したがって、信仰の「試練と慰めの形態」は、われわれが、その存在の仕方においてその存在と本質の認識(信仰)を要求する「人間イエス」、神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉を、われわれ人間の言葉、われわれの宣教、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)の連関と循環を志向し目指すという点にあるのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという点にあるのである。したがってまた、信仰の「試練と慰めの形態」は、党派性、党派的多元主義の容認に、多元論、多元主義の容認にあるのではない。「(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、思想傾向、時流や時勢、社会的あるいは政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」のである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、吉本隆明に依拠して別な言い方をすれば、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である、例えば信の領域における思想的な問題が、信と不信の二元論にあるいは二元主義にあるのではなく、具体的には聖書的啓示証言に即した、不信を包括し止揚し克服した信の、そのような仕方で信と不信を架橋した信の、明確な提起にあるように。
 さて、「起源的に、本来的に」、「試練とは」、「われわれがわれわれ自身の身に経験し、体験し」たところの「自分で手に入れることができるようなものではなくて」、「聖書に従えば、その人間存在の低さ(≪「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」≫)の中での神の子に、その十字架の死の中で、~からして及んだところのこと」、すなわち「そのもとに神の子は、われわれの場所を代わって占め、われわれの身代わりとなっておもむかれた神の裁きである」――『福音と律法』に引き寄せて言えば、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、すなわち「イエス・キリストが信じる信仰」として「理解されるべきものである」、ということを内容としている。このようにして、イエス・キリストは、「自ら裁きを受ける者として、……われわれの審判者となり給う」、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、われわれ人間の類・歴史性と個・現存性の生誕から死までの審判者となり給う、「われわれの信仰を問いに付す」、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の信仰・神学・宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」自然的な信仰・神学・教会の宣教を「問いに付す」、「われわれの信仰を取り除き、そのようにしてわれわれ自身の業としてのわれわれの信仰を殺す」。このようにイエス・キリストにおける啓示こそが、「われわれの信仰は、われわれ自身の業としては、破滅した役に立たない業であるということ」を教え・認識させ・自覚させるのである。前述した『福音と律法』に述べられていたように、この「神の試練」を、「イエス・キリストが、先ず第一に、本来的に、……身に受け給うたのである」。したがって、「神の試練を、イエスによって身に受けられたものとして認め、……力を奮わしめることが、われわれの為すべきことである」、換言すれば「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、また「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、と告白し・証しし・宣べ伝えていくことが、「われわれの為すべきことである」。このような訳で、「われわれの信仰は、それが、われわれの信仰の必然的な試練は、イエス・キリストの中で既に出来事となって起こり、イエス・キリストの中で完全にすまされたこと(≪われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである「刑罰」(死)を、「唯一回的為し遂げ給うた」ところの「律法の成就」・完了≫)を引合いに出して頼ることから成り立っている時には、われわれ自身の業でありながら、しかも破滅した役に立たない業ではないのである」。何故ならば、そこでの信仰は、信と不信の二元論的な二元主義的な信仰ではなくて、イエス・キリスト(その死と復活の出来事)における不信を包括し止揚し克服した信仰だからである、そのような仕方で信と不信を架橋した信仰だからである。したがって、「慰め」も、「われわれ自身の身に経験し、体験し、手に入れることができる何かではなくて、聖書によれば、その人間性の高揚の中での神の子に、死人からの甦りの中で及んだところのことである」、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」ように、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、キリストの復活――すなわち「新しい世」のはじまりへと向かっているように。「その者自身に救いと永遠の栄光が与えられるようになった方として」、「人間イエス」は、「われわれの救い主であり給う。そのようにして、彼は、われわれの信仰を回復され、信仰を死より呼び覚まされ、信仰を生ける信仰と為し給う。そのようにして、彼は、……われわれが自分では信仰に与えることのできない……われわれの信仰は神の前で義とされることであるという承認を与え給う」。「われわれは、ただ単に甦られた方を信じることがゆるされるだけでなく、甦られた方と共に信じることが、換言すればその方の身に及んだ慰めに基づいて信じることがゆるされるのである。神が肉をとり給うたみ子を引き受け給うたということ、神がこの人間イエスを永遠に慰め給うたということ、それが、われわれの信仰の力である。そして人間イエスの中で、神は、あらかじめわれわれすべてに慰めを与え給うた」。このような訳で、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の「試練と慰め」は、「われわれがわれわれの神ノ真理ノ循環(≪あの、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として終末論的限界の下で絶えず繰り返し為すべきところの、あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環≫)の中を動くことによって」、「イエス・キリストの領域(≪「イエス・キリストの身に起こった試練と慰め」、「十字架と甦り」≫)の中にいるということの確認であることができるだけである」。

 

 

『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』――了――
次回からは、邦訳『教会教義学 神論T/2 六章 ~の現実(上) 二十八節 自由の中で愛する方としての~の存在 一 行為の中での神の存在』へ