本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1 (115−137頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――(≪三位一体の≫)神ご自身真理であり給い、その(≪三位一体の神の≫)言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身(≪~の言葉自身の出来事の運動、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、換言すれば「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」という仕方で顕現化された単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、業と行為、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」における「客観的な啓示の出来事」――すなわち和解と、その神の恵みの出来事を人間的主観に実現させる「啓示の出来事の主観的側面」としての聖霊の注ぎ――すなわちキリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における、人間が人間的に所有する人間の終末論的な啓示認識・啓示信仰の中で持つ救済≫)を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意(≪あくまでも、~のその都度の自由な恵の決断による、あの客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与≫)の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということ(≪あくまでも、そういう仕方で、信仰の認識としての神認識に、啓示認識・啓示信仰にあずかるようになるということ≫)から成り立っている(≪したがって、その信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。したがって、その信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか」は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して神が応じて下さるということに基づいて成立している」のであって、そのことは、決して人間自身教会自身の決定事項、自由事項、裁量事項ではないのである。このような訳であるから、「われわれ」第三の形態に属する全く人間的な教会とその全成員は、ただ、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、起源的な第一の形態の~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものを、具体的にはその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、その直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」を、その宣教の、それゆえに教義学の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、その~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神を、キリストの福音を、純粋な教えを尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すということ、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということが肝要なことなのである≫)。(115頁)

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の用意」(その5−1)−1
 「神の認識可能性」を問う問いは、「神が認識される可能性」の「諸前提と条件」を問う問いである。このようにして、「キリスト教会の神論の中」で「神の認識可能性」を問うことができる。「われわれは、(≪~の側からする、すなわち三位一体の~の自己啓示からする、信仰の認識としての≫)『神認識の実現』の遂行を念頭において、その遂行の方法」の下で、その「神の認識可能性」を、すなわち「どのように、どの程度まで起こるのかを、問うことができるだけ」なのである。言い換えれば、「われわれ」は、「あの神認識の実現の諸前提と条件」、すなわちあの~の側からする神認識の実現の遂行から、その遂行の方法の下で、すなわちあの~の言葉自身の出来事の運動、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力の下で、あのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の下で、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての「神の認識可能性を問う」。したがって、先ず以て人間の側からする「神認識の実現」を志向し目指すところの「神の認識可能性」を問う思惟は、「感謝に満ちた思惟の仕方ではなく」、また「従順な思惟の仕方ではなく」、具体的には聖書的啓示証言に信頼し固執して聞き教えられるところのイエス・キリストを主・頭とする「教会の根拠から由来し、教会に奉仕する思惟の仕方」ではなく、それゆえに「神学的な思惟の仕方ではなく」、人間自身教会自身の恣意的独善的な「わがまま勝手な思惟の仕方」でしかないものである。したがって、「そのような思惟の仕方が認識できるもの」、「認識」したものは、「(それがたとえ何であろうと)父、子、聖霊なる神によって証しされ、(≪イエス・キリストを主・頭とする、今回の定式における≫)教会を通して宣べ伝えられる父、子、聖霊なる神ではないであろう(≪それは人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」であるだろう、それゆえに偶像であるだろう≫)」。
 前述したことは、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が現実的に福音を所有することが出来るためにキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為すところの、イエス・キリストを主・頭とする第三の形態に属する全く人間的な「教える教会にとっても聞く教会にとっても、意識され続けなければならず、したがってまた常に新たに、意識に上らせなければならない……」ことなのである。なぜならば、そういう仕方でしか、信仰の認識としての「神認識の事実性」について、「正しい理解と正しい解明」を為すことはできないからである。言い換えれば、その「神認識の事実性」についての「正しい理解と正しい解明」は、客観的な対象として存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」、すなわち「啓示された~の言葉」(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、業と行為であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態としての~の言葉)、その直接的な最初の第一のその人間性と共に神性を賦与され装備された「聖書の中で証しされた~の言葉」(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」、第二の形態としての~の言葉)、「教会の中で宣べ伝えられた~の言葉」(第三の形態に属する全く人間的な、教会の宣教における<客観的>な信仰告白・教義としての神の言葉)――これら三形態の関係と構造・秩序性について「正しい理解と正しい解明」を為すことなのである。この「神認識の事実性を問う問いの後で」、換言すればあの三形態の関係と構造・秩序性における「神認識の事実性を問う問いの後で」、「神認識の可能性を問う問いが」、「神認識の事実性の創成を問う問いが」、「出され」、その問いに「答えられなければならない」のである。したがって、「神の認識可能性はただ(≪起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通した≫)現実の神認識の中で認識されるだけであり」、「現実の神認識の中でまた実際に認識されるということ」は、「はっきりと言葉に出して述べられなければならない」のである。したがって、このことが、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「事柄にかなった仕方で起こりさえするならば、その時、われわれ」は、「ただそれだけが救いに役立ち、それだけで十分な(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の実現の事実」から逸脱させられることなく、「むしろますます神認識の本質の深奥へと導き入れられるであろうことに対して気が配られている」と言うことができるのである、キリスト教に固有な類の時間累積に対して「気が配られている」と言うことができるのである。

 

 さて、「<神の認識可能性>は、まず第一に、決定的に」、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる信仰の認識としての「神認識の実現の中で、神が事実認識されるように、認識されるべく準備している<神の用意>のことである」。言い換えれば、「父なる名の内三位一体的特殊性」において神は、「自分自身からして、自分自身を通して、認識されることが出来る」、三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定することができる。「神の認識可能性は、まず第一に、決定的に」、「神ご自身の認識可能性」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在に仕方、「神ご自身の存在と行為(≪「父なる名の内三位一体的特殊性」としての、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の、自己還帰的な、内的な、内在的な、単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方――その第二の存在の仕方における顕現化、外化、外在化、対象化、客体化≫)に基礎づけられた用意である。そのイエス・キリストにおける神の自己啓示は、~の言葉自身の出来事の運動を、客観的な啓示に固有な証明能力を、その「客観的な啓示の出来事の主観的側面」としての神の恵みの出来事を人間的主観に実現させるキリストの霊である聖霊の証しの力を、持っている。しかし、このことを「語ることでもって満足しようとするならば、明らかにあまりに僅かしか語っていないことになるであろう」。なぜならば、「二 人間の用意」における信仰の認識としての神認識は、「われわれ人間が、神を認識する神認識が問題」となるから、「人間の用意ということについても語らなければならない」からである。したがって、「われわれは神の認識可能性を、……理解し、解明」するためには、「『神からして』と『人間からして』理解し(≪その関係と構造・秩序性において理解し、トータルに≫)、解明しなければならない」のである。しかし、この「人間の用意」は、第一義的な「決して独立した用意では」あり得ない、肉体的身体的および精神的意識的な人間の普遍的で実践的な類的活動や生活あるいは人間の理性・思惟や力(意志力、感情力、自然を内面の原理とした修行等)の中に基礎づけられた用意ではあり得ない、「人間の本質と行為の中に基礎づけられた用意ではあり得ない」、「人間の用意と神の用意の間に、相互的に条件づけ合う互恵関係」的な用意ではあり得ない、神と人間との協働的・共働的・混合的・混淆的な関係における用意ではあり得ない。なぜならば、もしも「そのような仕方で語るとするならば」、そこでの神認識は、人間自身教会自身の対象化した「存在者レベルでの~」(偶像)でしかなくなってしまうからである。言い換えれば、「そのような仕方で語るとするならば、われわれは明らかに神の認識可能性について語っておらず、むしろほかの対象、(≪イエス・キリストにおいて三位一体の神として自己啓示された、キリストにあっての≫)~とは違う対象について語っていることになるであろう」からである。~と人間との無限の質的差異の下で、~は、たとえ「世の内部でわれわれに対し啓示されるようになり、したがって対象となり給うことによっても」、常に、「主、創造主、和解主、救済主……であり給う」。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする~は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「その方に相対しては、そもそもいかなる最後的に基礎づけられた他者の存在と行為も存在しないように、また~を認識すべきいかなる最後的にそれ自身に基礎づけられた人間の用意も存在しないところの主、創造主、和解主、救済主であり給う」。このイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神は、自由な恵の決断による、神の言葉自身の出来事の自己運動を、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、あの啓示の出来事と信仰の出来事を持っている。したがって、もしも「人間の用意」があるとするならば、~の言葉に対する奉仕的な人間の他律的な服従と自律的な服従と同じように、「その時それはただ貸与された、間接的な、あくまで」人間に先行する~の「後に従う」という仕方での奉仕的な「自主独立性だけを持つことができる」だけである。したがって、二元論的な、~だけでなく人間も、神の自由だけでなく人間の「自主独立」的な自由も、神の自己運動だけでなく人間の自己運動も――すなわち人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、宣教Aだけでなく宣教Bも、説教(言葉)だけでなく社会的政治的実践もという思惟と語りは、~の言葉に対する奉仕的な人間の他律的な服従と自律的な服従ではないし、また奉仕的な「自主独立性」でもないのである。ましてや、議会制民主主義――資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みから対象的なって距離をとらないまま主張され為されるところの、議会制民主主義(擬制民主主義でしかない)、利己主義的な私的他者との対立・争いの生活あるいは利害共同性との対立・争いの生活の場である私利・私意を精神とする現実的な資本主義社会(近代市民社会)、あたかもそうした対立・争いのない法的政治的共同的な観念によって統一された公的共同性の一員(公民)として存在する政治的近代国家(政治的合理性の形態)、という枠組みの中で、その同じ土俵上における法的制度的政策的な言語を介した平和の祈り(運動)や抗議(運動)や宣教Bや社会的政治的実践は、現存する体制への加担に過ぎないものなのである。消費税問題や社会保障問題にしても、戦争(平和)問題にしても、自衛隊の派遣や武力行使の問題にしても、テロ等準備罪の問題にしても、革命論(国家論)における現在的問題は、先ずもってはそのような直に国民に関わる重要法案については<必ず>国民投票に付すという直接民主制の拡大(国家をどこまでも国民に開いていく仕組み)が必要なのである。したがって、説教(キリストの福音)だけでなく社会的政治的実践(人間の自己義認の欲求)もと主張するのであれば、ほんとうは、革命論(国家論) における現在的問題であるそういう課題を提起しなければならないのである。したがって、私たちから垣間見える教会の現状は、その宣教も、それゆえにその教義学も、またその革命論(国家論)も、すべて非立的で中途半端なものなのである。このような教会、説教者に対して、バルトは、『説教の本質と実際』において、説教は説教者の自由事項・裁量事項・独占事項ではなく「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務を負っている」から、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験普遍や尖端的情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」と述べたのである。このバルトは、次のような現実性と妥当性のある言葉を教会の宣教や説教者に投げかけている――@「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)するべきである、A「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配である」。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、ここで、どのような社会構成・支配構成・文明的文化的構成にも「無条件に『然り』とは言わぬ」とは、現存する擬制民主主義としての議会制民主主義、現実的な資本主義社会(近代市民社会)、政治的合理性の形態であり共同的な法的観念的形態である政治的近代国家、民族国家の枠組みから対象的なって距離をとったところで思惟し語り行動する、ということである。この時、必然的に次のような言葉が出てくるのである――@「幼稚な反共主義者」のラインホルド・ニーバーのように「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)し、「われわれが最も激しく 非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した」(『バルト自伝』)、社会主義国家と標榜しているあるいは呼ばれている国家も、修正資本主義下における自由主義国家と同じように国家を第一義・価値とする国家社会主義としてのそれなのである(それゆえに、現実的な社会を第一義・価値とする社会主義国家の段階への移行の問題が革命における過渡的課題であり、そして最後的には、社会的現実的な個体的自己としての全人間を究極的総体的永続的に解放するために、国家を止揚し無化する段階への移行の問題が革命における究極的課題である。したがって、国家主義を前提として話しをする佐藤優や富岡幸一郎の主張は、形而上学的一面的固定的抽象的なバカ話しに過ぎないものとなってしまうのである)、A「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとはしない(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、B「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革とか、社会的政治的実践とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解とかいうような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことはしない(前掲書)、C「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは(≪一昨年の「平和を求める祈り」を為した日本基督教団幹部やそれの同調者や同伴者のように、また「抗議声明」を出した日本カトリックのように≫)平和<主義>者でなければならないということを意味しない。平和<主義>は一つの<絶対主義>だ(すべての<主義>のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪一部国家支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門・国軍を有した民族国家が存在する限り、現存する世界が経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」(『バルトとの対話』)、理想主義的に自分は戦争反対の平和主義者だ、平和を理想とし希求する、と主張したとしても、民族国家が存在する限り、戦争は、戦いは向こう側からやってくることがあり得るのである、換言すれば不可避的に、戦争を、戦いを、強いられることはあり得るのである。自らにおいて戦前の体験の思想化を為さないままにただ机上で戦争反対と平和<主義>を標榜する日本の神学者や説教者やキリスト教的著述家たちとは全く違って、「恐怖と困窮が人間を襲っている」破滅的状況のただ中で、バルトは次のように決断したことを述べている――「スイス(≪過渡的判断として<相対的>によいと判断した自由および直接民主制と武装永世中立国のスイス≫)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」、「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」(『バルトとの対話』)。論述を元に戻せば、「すべての用意の源泉」――すなわち「最後的にいかなる第二の用意もあり得ない神ご自身の用意からして」、「われわれ」は、その「神の用意」に「感謝し、服従する能力と熱心として人間に与えられた、……人間に開示され、委ねられて、ただ貸与された、間接的な」、先行する神の「後に従う」仕方での「自主独立性だけを持つことができる」。このような訳で、「神の用意」は、「ただ単に第一の、決定的な用意であるだけ」でなく、「それは、人間の用意を、原理的に、人間の主、創造主、和解主、救済主の高所において、包含し、基礎づけ、限界づけ、規定する用意として、われわれが神の認識可能性を問う際に」想起しなければならない「最後的に、本来的に、唯一の用意」なのである。すなわち、神の認識可能性は、「徹頭徹尾……われわれによって認識されようとする、(≪徹頭徹尾「われわれ」の信仰の認識としての神認識に先行する≫)神の本質と行為(≪「父なる名の内三位一体的特殊性」としての、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の、自己還帰的な、内的な、内在的な、単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方――その第二の存在の仕方における顕現化、外化、外在化、対象化、客体化≫)に基づいている神の用意であるということから出発しなければならない」。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、業と行為としてのナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「人間イエスを通して起こった証し」、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「そこから継続(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性、歴史的連続性、≫)が存在するところの」「はじまりである」からである。すなわち、それは、<三位一体>の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、だからである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける三位一体の神の自己啓示において、「われわれが神の本質に関して知り、また語ることのできるすべてのこと」は、キリストにあっての神は、「現にあり給うところの方」――すなわちキリストにあっての神は、単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方(性質、働き・業・行為・行動)という「全体性」の中で存在し給う、「父なる名の内三位一体的特殊性」における「全体性」の中で存在し給う、神は、「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち「父、子、聖霊、創造主、和解主、救済主」として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「最高の」「唯一の本来的な主であり給う」という「全体性」の中で存在し給う、それゆえに「この全体性の継続的な説明であることができるだけ」なのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教は、キリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯して、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書的啓示証言をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「この全体性の継続的な説明であることができるだけ」なのである。神は、「われわれ」が信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「神認識と呼ぶ出来事の主であり給う」。なぜならば、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、あくまでも、神の自由な恵の決断による、起源的な第一の形態の客観的な啓示の出来事(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事)とその「客観的な啓示の出来事の主観的側面」としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現化された神の恵みの出来事)に基づいて与えられるものだからである。言い換えれば、説教者や神学者やキリスト教的著述家やミッションスクールのキリスト教教師はキリスト教へ向かおうとする契機を与えることはできても、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えることはできないのである。なぜならば、彼らの任務は、あくまでも神の言葉に対する奉仕にあるからである。したがって、総括的に云えば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教は、個体的自己としての全人間――すなわちすべての人々が、キリストの福音を現実的に所有することができるために、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従(「神への愛」に関わる)と自律的な服従(「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えに関わる)との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神を、キリストの福音を、純粋な教えを尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していかなければならないのである。したがって、この総体性に、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」はあるのである。
 このような訳で、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている現存する世界のただ中で、日本国憲法の前文と9条は憲法上優れた条文として政治的理性による理念としての平和を規定しているのが、この観念の共同性を本質とする全く人間的な理念としての平和と単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける救済・平和とを混淆・混合・共働・協働させて平和<主義>的平和運動を為すすべてのキリスト教会は、自由主義国家、近代主義国家、民族国家へと馳せ下る共同宗教としてのキリスト教の最後的形態の典型なのである。このような訳で、ほんとうは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストを主・頭とするキリスト教会は、そのイエス・キリストにある救済・平和にのみ信頼し固執して思惟し語り行動すべきなのである――「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪政治的理性、政治的合理性、政治的近代国家、自由主義国家、近代主義国家、民族国家、その法的制度的政策的言語≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)。言い換えれば、キリスト教会は、イエス・キリストにある救済・平和にのみ信頼し固執して、それゆえにたとえ少数派になったとしても、そうしたもの一切から対象的になって距離をとらなければならないのである、すなわち私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所、信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所、すなわちイエス・キリストにおける啓示の場所に信頼し固執して、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、その場所から信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りをはじめなければならないのである。擬制民主主義としての議会制民主主義、資本主義社会(近代市民社会)、政治的近代国家、民族国家の枠組みの中での法的制度的政策的言語を介した「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべき」なのである。このように述べるバルトが、自らの体験を思想化する過程において、次のように述べている――@「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」、Aそれが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪キリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」(『バルトの生涯』)。さて、現在、一方で北朝鮮の核ミサイル開発問題に対して「戦略的忍耐」の政策をとらないトランプ政権、そのアメリカ副大統領ペンスの軍事力行使も排除しないとする力による平和の主張、北朝鮮は弾道ミサイルにサリンなどの化学兵器を搭載できる能力を保有している可能性もあるとアメリカに追従している安倍晋三政権という問題が浮上しており、他方で<行為>を裁くのが刑法の原則であるのだが、犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨が盛り込まれた、またその準備行為の客観的な具体例の中に「その他」という文言が入っている、それゆえに捜査機関の恣意的な拡大解釈が可能となる「テロ等準備罪」の問題が浮上している。こうした状況下において、バルトの神学的実存とは根本的に決定的に異なっている一昨年の<二元論>的な立場に立脚した「平和を求める祈り」を為した日本基督教団や「抗議声明」を為した日本カトリックは、核兵器が最後的な戦略的兵器であるから使用しないとしても、サリンなどの化学兵器を搭載した弾道ミサイルを使用した戦争が何らかの形で起こり徴兵制が導入されまた法案が何らかの形で通過し、それらのことが現実的に実行され執行された場合、どのような対応をするのだろうか、教会の宣教(それゆえに教義学)において、それだけでなく革命論(国家論)においても、現実性と妥当性を持った思惟・語り・決断・行動をなし得るだろうか。その時、二元論的に世俗化した日本基督教団(特に教団の、教会の、指導層)は、戦前と同じ轍を踏まないだろうか。それとは逆の道を突き進んだ「言葉と行為」という二元論的な立場に立脚した行動<主義>的なボンヘッファーの、この世におけるキリストの赦しの下での、人間の側における、キリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」としてのヒトラー暗殺計画という政治的実践について、彼らは夢想家だった(『バルトとの対話』)と述べたバルトが言いたかったことは、革命論(最後的には、社会的現実的な個体的自己としての全人間を究極的総体的永続的に解放するために、国家を止揚し無化する段階への移行の問題としての国家論)のその過渡的究極的課題を持たないままに為されたヒトラー暗殺計画へと突き進んだ権力闘争におけるボンヘッファーの死は、まさにただ単なる<政治的>死に終わってしまっただけの死でしかなかったということであるだろう。言い換えれば、キリスト者であれ、それが説教者であれ、神学者であれ、誰であれ、ある状況下である決断的態度によってある政治的実践を行う場合には、あくまでも革命論(国家論)のその過渡的究極的課題を持った上で為すことが肝要なことなのである。バルトは、次のように述べている――「新約聖書においては、ただ一つの殉教の死が物語られている。すなわち、ステパノの死である。彼を証人とするのは、(≪イエス・キリストにのみ信頼し固執する≫)彼の言葉であって、彼の苦難ではない。教会は、ただひとりのイエス・キリストの血によって、洗われ、潔められる。これが、聖書に記されたところである。それがわれわれの気に入ろうと入るまいと、そうである」・「証人とは、聖書の意味においては、講解者・説明者・解釈者に過ぎない。預言者・使徒の語ったことを、指示する人に過ぎない。このような証人といえども、もちろん自分の観念を持ち、確信を持ち、人生の中に立ち、一定の歴史的状況の中に立っている。しかし、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会におけるその全成員にとっては、「根源的・本来的な証人」である起源的な第一の形態としてのイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト≫)『彼は主、私は僕』というこのような従属がそこにあるという点に、一切の問題の重点がある。真の証しとは、このような(≪起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストを教会の主・頭として、その宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その≫)従属関係において語られたすべての証しのこと」である(『証人としてのキリスト者』)。「真の証し」は、人間自身教会自身によって恣意的嗜好的独善的に考え出され主張される証しのことではないのである。