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『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−2)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−2)−2(87−114頁)

 

「二 人間の前での~」(その2−2)−2
 「われわれは今、神の啓示に基づくわれわれの神認識」の、それゆえに「信仰という方法によるわれわれの神認識」の、すなわち信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識の、「制限された姿」、すなわち「神によって意志され、手配され規定された姿の本質について、原則的に明らかにする……」。
(1)「神が、三位一体の神として、その自己認識(≪その三位一体の神という、内的な、内在的な、自己還帰的な自己認識・自己理解・自己規定≫)の真理性の中で、ご自身をわれわれに対し認識すべく与え給う時、神は、その被造物のある者(≪ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)をして、……神によって造られた世界の空間と時間の中でひとつの出来事(≪内在的な単一性・神性・永遠性を本質とする神のその第二の存在の仕方の顕現化、外在化、対象化、客体化、すなわち言葉の受肉という独一無比な、一回的な出来事≫)をして、神に代わって語らせ給う」。この「神によって神ご自身について語るように委任と能力を与えられた被造物性の存在根拠と総内容、換言すれば神の啓示のサクラメンタルな実在の存在根拠と総内容は、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)イエス・キリストの<人間性>の現実存在である」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」である。「結合ノ恵ミニヨッテ、……この被造物が神の永遠の言葉とひとつとなることに基づいて、またひとつになることを通して、この被造物は、高められ、抜擢された神の業およびしるし(≪神の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「イエス・キリストにおける神の愛」は神の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)となる」。単一性・神性・永遠性を本質とする「永遠の言葉そのものが肉となった(≪言葉の受肉であって神性の受肉ではない、その内在的な「存在の仕方」の顕現化としての受肉であってその「存在の本質」の受肉ではない、徹頭徹尾神と人間との無限の質的差異は貫徹される――それは「聖書の主題」であり「哲学の要旨」であるから≫)ということに基づいて、換言すれば神の啓示がイエス・キリストの中で一度にすべてにわたって力を奮う仕方で起こったということに基づいて、われわれはその同じ神の啓示を、それがキリストの復活(成就された時間)を基軸としたその待望(「旧約聖書的な待望の時間」)と想起(新約聖書的な想起の時間、「新約聖書の証人たち」は、キリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」た「甦えりの証人」である、それゆえに彼らは、「既に来た方」――すなわち復活したイエス・キリストが、「またこれから来たり給う方」――すなわち終末、救贖、完成の時に再臨するイエス・キリストであることを語るのである)の中で証しされているところで、いたるところ認識するのである」。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とするナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「人間イエスを通して起こった証し」、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「そこから継続(≪キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性、歴史的連続性≫)が存在するところの」「はじまりである」。なぜならば、それは、<三位一体>の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事であり、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、だからである。言い換えれば、それは、古い世における「旧約聖書的な待望の時間」と新しい世のはじまりである「新約聖書的な想起の時間」との間のキリストの十字架でもって終わる「成就された時間」、すなわち「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」――すなわち「キリストの復活」から、「後方に向かって(イエス・キリストがそのメシヤであるところの)イスラエルの民の現実存在」へと、「また前方に向かって使徒職」と「使徒職に基づく」「教会の現実存在」へと、「通じている聖礼典的(サクラメンタル)な連続性(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、キリスト教的に固有な類・歴史性≫)が存在するところのはじまりである」。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの<人間性>そのものは、第一の聖礼典(サクラメント)であり(なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける受肉、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その本質の「放棄」や「減少」、その「神性の放棄」、その神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味しているから、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」から)、またイエス・キリストの顕現の以前と以後において、その啓示の中で神の副次的な対象性として神によって任命され、用いられるすべてのもの(≪イエス・キリストにより直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たち、その限界づけられた人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)の基礎づけである」。「またイエス・キリストの人間性はそのような第一の聖礼典(サクラメント)として、同時に、被造物そのものの最高の可能性の存在根拠および総内容である」。それは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における、あのキリストの福音、純粋な教え、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」の存在根拠および総内容である。まことの「人間<イエス>が、神とひとつである単一性へと取り上げられたのであって」、それゆえに「いかなるそのほかの被造物については、そのようなことはなかったのである」、そのようなことはないのである、あの預言者および使徒たちであれ限界づけられておりそのようなことはないのである。なぜならば、そのことは、「独一無比な、一回的な出来事である」からである。言い換えれば、このことは、「神のそのほかの被造物にとって約束を意味している」。言い換えれば、「被造物」は、徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、「自分自身からでも、自分自身によってでもなく、ただ神の配剤と恵から、神の配剤と恵によって」、すなわち「神ご自身の決定事項」として「神ご自身の宮、道具、しるしとなることができる」だけである。したがって、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識に必要な聖霊によって更新された理性も、常に人間的理性であり続けるだけでなく、聖霊の注ぎとその注ぎによる理性の更新も神のその都度の自由な恵の決断による「神ご自身の決定事項」なのである。「聖霊は、人間精神と同一ではない」のである(『教義学要綱』)。もしも同一であると主張するならば、そのキリスト教は、人間の神化あるいは神の人間化として、神と人間との混淆・混合・共働・協働<宗教>として、それゆえに人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)崇拝として、すぐにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な<宗教>としてのキリスト教批判の対象そのものでしかなくなってしまうだろう。「神とひとつである単一性のなかでの被造物」――すなわちナザレのイエスという「人間の歴史的形態」における「現実存在」は、「そのほかの被造物」も、「まさに全くただ」<まことの人間>イエスの中でだけ「現実であるところのことについて、換言すれば神ご自身の対象性について、証しをすることがゆるされ、その限り人間イエスと同じように、神の宮、道具、しるしであることがゆるされるという約束を意味している」。「この機能は、創造主と被造物(≪人間イエス≫)がひとつであるあの一回的な出来事を確認し、宣べ伝える中で、繰り返されることができ、イエス・キリストの教会、旧い契約と新しい契約の教会の中で、事実繰り返されている機能である」。「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、未来(キリストの再臨、救贖・完成、終末)を考え待望することは過去(キリストの復活、成就された時間)を考え想起することであり、過去(キリストの復活、成就された時間)を考え想起することは未来(キリストの再臨、救贖・完成、終末)を考え待望することであると同時に、「成就された時間」(キリストの復活)の前の過去(古い世と古い世の終わりであるキリストの十字架)を考えることでもある。すなわち、キリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯することである。この意味で、「イエスは黙示録三・一四で『忠実な、<まことの証人>』と呼ばれており、またそのようなものとして『神に造られたものの根源〔はじまり〕と呼ばれている』」。この意味は、起源的な<まこと>の「証人としての(≪イエスの≫)その現実存在と職務の中」で、「被造物は、神ご自身の代わりに、神について語るあの委託と能力賦与の中でのその新しい存在の始まりを持つようになる」ということである。「イエス・キリストは、コロサイ一・一五」で、@「見えない神の姿(≪形態≫)」、A「すべてのものが造られる前に生まれた方」、B「その体である教会の頭」と呼ばれている。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、第一の観点の下では「受肉と実現の結果」であり、第二の観点の下では「神の配剤と恵によって被造物が抜擢されること」であり、第三の観点の下では全く人間的な教会(その全成員)・「被造物一般に与えられた約束である」。被造物は「キリストの人間性のように神とひとつとなることはできない」が、「神の配剤と恵によってそうであることがゆるされるところ時とところでは」、「神の証人であることができる」。その「被造物がそのようなものであるところ、そこに教会が存在する」。言い換えれば、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代における教会(その全成員)の宣教による、「神によって造られた世界の場所と時間の中での神の自己証言が存在するのである」。総括的にいえば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、キリスト教に固有な類・歴史性が存在するのである、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における、キリスト教に固有な歴史的連続性が存在するのである。
 被造物が、~の対象性(「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方である父、子、聖霊)の中で、「神ご自身の対象性の代表者(その現にあるがままの現実的な人間存在において「抜擢」された者)となることによって」、その被造物は「~の対象性を覆い隠す」。「~がわれわれにとって知られるようになることによって」、~は「われわれに知られるようになるために、用いられる手段としるしの中で」、「~はご自分に対して……疎遠で非本来的なものになり給う」。「~がわれわれを、この被造物の言葉を通してご自身へと高め給うことによって、~はご自身をわれわれのところまで低め給う」――「これらすべてのことは、既にイエス・キリストの人間性にとって妥当する」。「人間イエスの中での~の子の顕現の目標と高所は、イエスの死と十字架から成り立っているということ」、また「その方は……甦えられた方としても十字架上で死なれた……人間であるということ」を念頭に置くならば、「われわれ」は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「まさにイエス・キリストの人間性こそ」が、「最高に、~の自己卑下と自己疎遠化を」、「被造物の対象性を通して(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方としての)~の対象性が覆い隠されることを」、意味しているのである。このような訳で、「人は、神がご自身の栄光をそのように啓示し給うことによって、~はまたご自身の栄光を隠し給うということを見逃してはならない」。そのように自己啓示する神は、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」である。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(~の第二の存在の仕方、業と行為)において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。~は、「ご自身の栄光を」、その「隠れの中で見る信仰……に対して啓示し給う」、それゆえに「この隠れにもかかわらず、この隠れの中で、信仰に対して認識可能とすることによって啓示し給う」。言い換えれば、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(神の恵みの出来事)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ与えられるものなのである。なぜならば、キリスト者であれ誰であれ、この啓示は、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を生きるその現にあるがままの現実的な人間存在における人間自身の「『理性や力(意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行力等)によっては』全く信じることができない」からである。そのことは、「この神の啓示を証しするために、その限り神ご自身を認識する手段として任命され用いられる聖礼典的(サクラメンタル)な実在全体について妥当する」。啓示の弁証法において、「全線にわたって、覆いをとって顕わにすることが起こることによって、また覆い隠すことが起こる」、「神が自分の支配をうち立て給うことによって、また神のあの自己卑下と自己疎遠化が起こる」。したがって、~の側におけるこの自己卑下と自己疎遠化は、神ご自身においては、あの自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の神の自己還帰する自己卑下と自己疎遠化である。しかし、この啓示の弁証法の認識と自覚を持てない場合、人間自身教会自身においては、「神を礼拝するようにとの呼び出しが、偶像礼拝への誘惑を意味することができる」。啓示は、「神が(≪ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、人間イエスにおける≫)特定の被造物的な主体――客体関係を、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」から≫)創造主なる神ご自身とその被造物としての人間の間の契約の道具へと高め、抜擢し給うという仕方で起こる」がゆえに、「この聖礼典的(サクラメンタル)な実在の枠の中で神認識は遂行される」のであるが、<まことの人間>イエスにおける「そのようにぬきんでさせられた主体――客体関係それ自体」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「啓示と同一ではない」、換言すればその「主体――客体関係」は、「神がご自身を啓示し、自ら認識され給うことによって」、「啓示に対して奉仕する」ところのそれである。信仰の認識としての神認識にとっては、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるという聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界――これら「必然的な条件づけ」の下で、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を生きるその現にあるがままの現実的な人間自身の「『理性や力(意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行力等)によっては』全く信じることができない」「われわれの認識の限界づけ」の下で、自主性・自己主張・自己義認の欲求、それゆえに不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生き神の恩寵を嫌悪し回避する存在である「われわれの認識の限界づけ」の下で、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による「ただ神の恵みを通し、信仰の中でだけ(終末論的限界の下で、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰においてだけ)」、単一性・神性・永遠性を本質とする「神が主であり給うことの故に、また神の業としるしの中で、神の業としるしを越えて、覆いがとられ顕されるということは本質的なこと」なのである、その存在の仕方を通してその本質が認識され信仰されるということは本質的なことなのである。このような訳で、「われわれ」が、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍によって、あるいは人間の「理性や力」によって、「人間イエスの存在を確かめるならば、それと同時に~の対象性(三位一体の神という、その神の内的な、内在的な、自己還帰的な自己認識・自己理解・自己規定)を確かめることができるといった具合ではない」のである。すなわち、「ルターの有名な言葉によれば」、「われわれ」が人間イエスにおいて、「『父なる~のみ心の鏡』とかかわらなければならないということ」は、「神ご自身なしには」、それゆえに啓示認識・啓示「信仰なしには本当ではない」のである。「本当ではない」とは、~に「祝福され、きよめられたもの」ではないということである。いわば、それは、人間自身が恣意的嗜好的独善的に対象化した<宗教>としての「存在者レベルでの~」認識であり、それゆえに偶像崇拝ということである、その神の名と呼びかけによる信仰・神学・教会の宣教ということである。再度確認すれば、「われわれ」の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、キリストの再臨までにおいては、終末論的限界の下での「鏡に映してみる認識」、部分的認識である(Tコリント13章)。まことの「人間イエスもそれとして常にまた謎である」。したがって、人間イエスが「単に謎である」だけでなく、その謎が「謎として照明、開示、伝達」の出来事を惹き起こさせるとしたらならば、「その時それは、人間イエスが神とひとつであるが故であり」、すなわち人間イエスが単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・業・行為、~の子、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるがゆえであり、それゆえに「~の子の啓示と神の聖霊を通して生み出されたみ子を信じる信仰の行為の中でのことである」、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(神の恵みの出来事)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」、神の恵みの出来事の「聖霊の注ぎ」による人間的主観に対する実現)に基づいて与えられる終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の中でのことである。
 「キリストの十字架は、滅び行く者には愚かである(Tコリント一・十八)。まさにキリストについての宣教の愚かさによって、(≪人間の「『理性や力によっては』全く信じることができない」から、あくまでも前述したあの~の側からする出来事に基づいて≫)信じる者(信仰の認識としての神認識を行う者)を救うことが神のみ心にかなったのである(Tコリント一・二一)。肉によって知られたキリストのこの愚かさ(Uコリント五・十六)とキリストを通して実現された信じる者たちの救い」――すなわち「キリストの顔に輝く神の栄光の知識(Uコリント四・六)の間に、客観的にはキリストの甦えりが、主観的には聖霊の注ぎが」――すなわちその客観的な神の恵みの出来事の聖霊の注ぎによる人間的主観に対する実現が「立っている」。このようにして「信者が神を知る認識が人間イエス、十字架につけられた~の子(Tコリント二・二)の認識と一致する時」、「換言すれば……彼ら自身愚かな者たちとして選ばれ、召されて(Tコリント一・二六以下)、ギリシャ人には愚かな者、ユダヤ人には躓きとなる者(≪人間イエス、十字架につけられたキリスト≫)を通して、神の力と神の知恵(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト≫)を認識するようになる(Tコリント一・二三)時、……彼らにとっても、まさに彼らにとってこそ、その啓示の中で神の隠れ(≪聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界≫)が続いているということが言われている(≪キリストの再臨の時までは、そうあり続けるからである。したがって、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代は、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>という終末論的信仰にキリスト者の生と生活があるのである≫)」。「聖書的および昔の教会が用いた信仰概念」がそうであるように、「われわれの信仰もそれとして、啓示の覆い隠しと条件づけに属している」、秘義性に限界づけられている、換言すれば神と人間との無限の質的差異の下にある「われわれの信仰認識は、その隠れの中での神認識であり、間接的な認識であって、決して(≪「人間が神とひとつになるかのよう」な、すなわち人間が神の自己認識・自己理解・自己規定を直接的に認識することができるかのような≫)直接的な認識ではない」、それゆえに「それ自体」では、「それとしてまた不信仰、邪信、迷信の認識であり、……神を認識しないことであり得るであろう認識、……そのような非認識であり続け、あるいは非認識となることから決して守られていないところの認識である」。このような訳であるから、「信仰そのものと現実の神認識の遂行の間には、客観的にはキリストの甦えり(≪神の恵みの出来事、客観的な啓示の出来事≫)が、主観的には聖霊の賜物(≪信仰の出来事≫)が立って」おり、その出来事に基づいて「人間は神の自己認識」に「間接的」媒介的に「あずかるのである」。この信仰は、「ただ……神の業としるしの中で信仰に与えられた……(≪「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていること」、この≫)約束をつかむのであり、その限りあくまで目で見ることのできない」「その中で人間は、地上では旅人であり寄留者である(ヘブル一一・一三)盲目の信仰……であり続ける」。この「愚かさから知恵への、肉から霊への、方向転換」は、その「愚かさを生かし用い給う方の業である」。「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである」、神のその都度の自由な恵の決断によるのである。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである(Tコリント一・三〇)」。したがって、「彼らがそのみ子にあっての神の自己認識(≪三位一体の神という、内的な、内在的な、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定≫)にあずかる参与は、人間イエス、十字架につけられた(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である≫)~の子によって仲介されるが故に、仲介される限り、与えられるところの参与である(≪なぜならば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているからである≫)」。第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えることはできないのであるから、人間自身教会自身は、ただ~の言葉に対する奉仕を、すなわち前述した出来事に感謝をもって信頼し固執して、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、具体的には~の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストの福音、純粋な教え、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――「すべての誡命中の誡命」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為していかなければならないのである、教会の主・頭であるイエス・キリスト(~の言葉)に対する<奉仕>を為して行かなければならないのである。もしも第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が、イエス・キリストを教会の主・頭としないならば、換言すれば二元論的あるいは二元主義的に神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、言葉だけでなく行為も、宣教Aだけでなく宣教Bも、「聖書への絶対的信頼に基づく聖書講解」説教(なぜならば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力ゆえに、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」から、「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うこと」であるから)だけでなく人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍もあるいは社会的政治的実践もと主張するのであれば、それは、「教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちは」しないのである、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちは」しないのである。それらは、現実の事実として、神学としても人間学としても、そうなのである。もしも観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的な現実的な究極的総体的永続的な個体的自己としての全人間の解放を、人間的な思惟と語りの中で求めようとするのであれば、マルクスやフーコー(なぜならば、西欧的危機の課題を認識し自覚しているから)や吉本(なぜならば、西欧近代を骨肉にまで受け入れた日本における危機について西欧的危機の課題とアジア的日本的特殊性の課題との二重性において扱っているから)を根本的包括的に原理的に理解する必要があるにも拘わらず、神学者にしても、牧師にしても、キリスト教的著述家にしても、誰ひとり、その作業を全くしてはいないのである。したがって、例えばその政治的実践は、否定的媒介や反省過程を持たない、即自的即事的場当たり的なものでしかない。

 

(2)~の側からする「必然的な条件づけ」――すなわち聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下に、それゆえに終末論的限界の下に立たされているという「われわれが為す神認識のこの限界づけられた姿」は、また人間の側における人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を生きるその現にあるがままの現実的な人間の「『理性や力(意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行力等)によっては』……全く信じることができない」という「われわれが為す神認識のこの限界づけられた姿」は、また啓示の真理によれば人間は自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生きており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在であるという「われわれが為す神認識のこの限界づけられた姿」は、「さらに正確に理解する」ならば、「~が三位一体の神としてのその自己認識(≪三位一体の神という、内的な、内在的な、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定≫)の真理性の中で、われわれに対しご自身を認識するよう与え給う時、~は、その被造物のうちのどれかひとつのものの中で、換言すれば~によって造られた世界の空間と時間の中で起こる出来事の中で」、単一性・神性・永遠性を本質とする「(その上にいかなるほかの主もないところの)主であり給うだけではないということを……甘受し給う」ということとして、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」のその内在的な第二の存在の仕方における顕現化、外化、外在化、対象化、客体化を「甘受し給う」ということとして、理解しなければならない。先ず以て、「~はご自身の中で(≪その、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の内在性において≫)、ご自分にとって、客体であり給う」。これは、単一性・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」の言い換えである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。すなわち、神の「存在の本質」は、 単一性・神性・永遠性にあるから、その起源的な第一の存在の仕方である父は子として「自分を自分から区別」するし、自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された第二の存在の仕方である子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊は父と子が根源なのである。このような訳で、この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する、また父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であるのと同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある、のである。しかし、その存在の仕方においてその存在の本質の認識と信仰を要求する神の自己啓示は、その内在的な存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化を通して、(そこには~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事が介在するのであるが)~は、「理解を絶した仕方でそのような~の外が存在することによって」、その「外から」、「汝および彼として認識され給う」のである。言い換えれば、先ず以て、~と人間との無限の質的差異の下で、「いかなる被造物をも必要とし給わない……自分自身にとって対象的であり給う」ところの~、人間の証明を全く必要としないところの~、その内的な、内在的な、自己還帰的な「父、子、聖霊として」単一性・神性・永遠性において「ご自分に出会うだけで満ち足りてい給うのでないとしたら、~ではないであろうところの~」、その神の「啓示とは、~が(≪~の側から≫)われわれに出会い給うということである」。したがって、この「~の自己卑下と自己疎遠化は、既に、外ニ向カッテノ働キ、既に、(≪~の起源的な第一の存在の仕方である≫)創造主なる~の意志および行為と共にはじまる」のである。「神がご自身をわれわれに対して証しされることによって」、換言すれば「外に向かってご自身を証しされることによって」、「その方がご自身を知り給うのとは違った仕方で(≪三位一体の神という、内的な、内在的な、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定とは違った仕方で≫)、しかし決して違った方としてではなく(≪なぜならば、その自己証明は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の内在的な存在の仕方の顕現化におけるそれであるから≫)」、神は「ただ単に、(神ご自身とは違う)諸対象」を、「神が認識し給う認識の諸対象」を、「持ち給うだけではない」。すなわち、神は、神「ご自身によって造られた……諸対象」の「対象となり給う」、諸対象が認識する認識の対象となり給うのである。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・業・行為)であるイエス・キリストは、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられている「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのものである、それゆえにその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストは第二の形態、客観的な啓示の「概念の実在」である、それゆえにこれら起源的な第一の形態と第二の形態は第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である、換言すれば第三の形態の形態の教会(その全成員)は~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神、キリストの福音、純粋な教えとしてのキリスト教に固有な類の時間累積を志向し目指さなければならないのである。このような仕方で、「神とこれらの諸対象の間には相互関係が成り立っている」がゆえに、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、その神の啓示を通して、「この相互関係を実証し」、それゆえに内的に、内在的に、自己還帰的に「ご自身の中で全く純粋に<われ>であり給う方」を、その内在的な存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化において、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力とキリストの霊である聖霊の証しの力が介在することによって、「(あたかもその方自身、人間であるかのように)知覚し、直観と概念を用いて把握すること……へと定められ、召され、能力を与えられるのである」。神は、この「聖礼典的(サクラメンタル)な実在の手段を通して自分自身を証ししつつ、しかしまた自分自身を覆い隠しつつ」、「人間に対し姿を顕わし給う」のである。「人間イエスの現実存在と共にはじまった(造られた世界の中での神の自己証明の)業およびしるし」の歴史的連続性、キリスト教に固有な類の時間累積は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の現存である。イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動を介在させて、「この手段を通して神的な支配を実証される」。「われわれ」は、「その方がわれわれに対して彼として、また汝として、明らかになることによって」、「それと共にまさにその方が神であることの存在と本質の中では隠れたままであるという仕方で(≪すなわち、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で≫)、その方を認識する」。「われわれの神認識のこの限界」は、「見てとられ注意されることを欲している」、その限界性を認識され自覚されることを欲している。「われわれ」は、「神ご自身」を、~の側からする「神ご自身によって造られた相互関係に基づき、そのような相互関係の形で、認識する」、換言すれば「われわれ」は、「彼を、彼がわれわれを認識し給うようには認識しない」のである。総括的に言えば、「われわれは彼を」、身体と精神を介した個体的自己としての全人間と全自然(自己身体、他者身体、天然自然あるいは人間化された自然としての人間的自然)との普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動におけるひとつの対象としては、認識しないのである。なぜならば、神と人間との無限の質的差異の転倒、神の人間化、人間の神化――このような「関係の逆転を前提しているような神認識は、実在の神の現実の認識としては問題となり得ない」からである。そのような<宗教>としてのキリスト教の信仰・神学・教会の宣教の最後的形態は、観念の共同性を本質とする政治的近代国家へと馳せ下る世俗化した共同宗教としてのキリスト教である。存在の類比に依拠して、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して、例えば「内被造世界での……父という呼び名は確かに真実である」から、「それを手がかりにしてわれわれが」、それを「神の内三位一体の父の名」についての神認識に適用することは、実在の神の現実の認識としては問題となり得ない」のである、すなわちその場合、その神認識は、その最初から「誤謬は必然」なのである。客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識に依拠した信仰の類比・関係の類比に引き寄せて言えば、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」としても、「非本来的なもの」であって、それゆえに「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならないのである。即自的に、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に、存在の類比に依拠した場合、「本来的なもの」を見失うことになる(マタイ12・46−50、13・53−58)。バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で、自然神学の<段階>で存在の類比に依拠したアウグスティヌスの思惟と語りに対して、次のように述べている――「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできないのであって、それゆえにそれは、ただ単なる人間の自己意識・思惟・理性によって対象化された人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」でしかない、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」に過ぎないものであるから、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、逆に 「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と述べた。バルトは、このように、アウグスティヌスの思惟と語りに対して根本的包括的に原理的に止揚して紙一重を越えるという仕方で、<非>自然神学の<段階>にあるいは<超>自然神学の<段階>に移行したのである。
 さて、「われわれは、神がご自身をわれわれに対して、汝および彼として認識するよう与え給うことによって(≪神のその都度の自由な恵に決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)、神を認識する」。「神の自己認識にあずかる(≪三位一体の神という内的な、内在的な、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定におけるその内在的な存在の仕方の顕現化を介した≫)われわれの参与はまことであり、現実のものである」が、「それはあくまでこの間接的(≪媒介的≫)な参与である」。「神が自ら名を与え給うということ」は、「神の啓示の中で」、すなわち「神が人間との契約の中で為し給うことの中で起こるのである」。このような訳で、それは、「あの聖礼典的(サクラメンタル)な(≪ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、人間イエスという≫)実在を設定することの中で起こるのである」。したがって、「われわれが……その諸行為の中で啓示された彼の名」、「イエス・キリストの名」、この「名を聞くことによって」、この「名を堅くとって離さないでいることによって」、この「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執することによって、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、「イエス・キリストの名」を「呼び求め、……宣べ伝えるために、彼の名を用いることによって、われわれは神を認識する」のである。この神認識において、「われわれに対し……与えられるものが実際に彼の名、神の名」、すなわち「被造物の名ではないということ、永遠の、聖なる、栄光に満ちた名、すべての名にまさる名であるということを認識することができるのである」。その顕現化された存在の仕方において、その内的な、内在的な、自己還帰的な存在と本質を認識し信仰するのである。「われわれは……この名の中で、神ご自身と関わるようになるということを認識することができる」、信仰することができる。この存在の仕方における「名は、まさにそれが神の『われ』をただ神の汝および彼としてだけ啓示する、……と同時に覆い隠すことによって、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)主の名である。この規定された姿の中で、しかしまたこの限界づけられた姿の中で、われわれは神を認識するのである」。「出エジプト記三章」――「ホレブ山でモーセがヤハウェの天の使いを見る。そのようにしてこの形態の中で」、すなわち「聖礼典的(サクラメンタル)な実在(二節)」の中で、「ヤハウェ自身を見る」、すなわち「ヤハウェに出会う」。「この理解を絶した出来事がヤハウェの啓示である」。モーセは、「この出来事を観察し、理解しようとする(三節)」。しかし、「そこでご自身を啓示される方」は、モーセに対して、「警告」するために、「モーセと、呼びかけられる(4節)」。すなわち、その方は、モーセに、「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は(≪聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする≫)聖なる地だからである(五節)」と言われる。この「第一の光景の背後で今や第二の光景があらわになってくる。ヤハウェは語り給う。その方は彼の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。ここで……『モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した』」。その方は、先祖たちに先行し、「先祖たちと共に、行動された方、彼らを召し、導き、救い出された方、焼き尽くす、それでいて保持する方、保持する、それでいて焼き尽くす方である」、第三者的には関わることができない方である。モーセは、その方が「先祖たちに関わったように、彼自身に関わってこられる方であることを知る。……それだからこそ彼は恐れるのである(六節)」。その方は、「まさに、その先祖たちの神として……彼自身を召し、委任を与えることによって、彼に関わり給う。その方の行為、焼き尽くすことと保持すること、保持することと焼き尽くすことは、彼の奉仕を通して、イスラエルの将来の歴史の中で続いて行かなければならない」(八節)。モーセの奉仕を通して、イスラエルに固有な類の時間累積が為されなければならない。しかし、モーセは、そのことを「まだ完全には理解しなかったように見える。(中略)『わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか』(一一節)」。このモーセの「第一の問い」に対して、その方は、「『わたしは必ずあなたと共にいる』と答えられる」。モーセは、「あたかも『あなたがたの先祖の神』と言うのでは十分ではないかのように」「さらに別なこと、『あなたの名は何と言うのですか』(十三節)と問う」。この「第二の問い」に対しては、その方は、「第一の問い」に対する「答えに正確に対応しつつ、『わたしは、有って有る者』(一四節)と答えられる」。「人が七十人訳に依拠しつつ為した『わたしはまことに存在する者』という翻訳は、テキストの文脈の中では確かに不可能である。なぜならば、神ご自身によってこの名が与えられることが、確かに、いわば、(神がモーセに対してご自身を認識するよう与え給う際の)啓示の第三の形態を言い表している時、この第三の形態は、結局、最初の二つの形態の方向で、最初の二つの形態の解釈として、理解されなければならないからである」。したがって、「『わたしは、有って有る者』は、あの、焼き尽くす、それでいて保持するもの、あの保持する、それでいて焼き尽くすもの以外の何ものでもない。先祖たちの神以外の何ものでもない」。言い換えれば、イスラエルの人々が、「誰があなたを遣わしたのか」と言う時、モーセは、「一四節によれば、『わたしは有る』と言う方が、わたしをあなたたちのところへ遣わされました」と答えなければならない。「また一五節によれば、もう一度はっきりと、『イスラエルの人々にこう言いなさい、あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへ遣わされました、と。これは永遠にわたしの名、これは代々のわたしの呼び名である』、と言われている」。したがって、「『わたしは、有ってある者』というのは、人がその際、動詞を現在形としてとるか未来形としてとるかはとにかくとして、『わたしは、わたしが現にあるところの者』(あるいは『わたしがあるであろうところの者』)ということである。換言すれば、その者については、その者が現に有るところの者であること(≪その存在と本質≫)によって、すなわちそのものが現に行動するように行動すること(≪その存在の仕方≫)によって、自分に与える定義以外の客観的な定義は存在せず」、それゆえに人間自身教会自身「われわれ自身によって見出されなければならない定義は存在しないところの者であるということである」。したがって、その者についての認識は、ただ、単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」におけるその内在的な存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化に基づいて、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の神の自己運動に基づいて、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力とキリストの霊である聖霊の証しの力に基づいて、~の言葉自身の出来事の運動に基づいて、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰として、信仰の認識としての神認識として与えられるのである。したがって、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』によれば、説教の、それゆえに教義学の語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身「われわれ自身」の決定事項ではないのである・このような訳であるから、説教の、それゆえに教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。
 「われわれはもう一度、出エジプト三三・一九に注意を向けるようにしよう」――「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。顕現化におけるその存在の仕方、業と「行為の中で自分自身を措定し、与え給うところの方、ただ常に新しく行為(≪存在の仕方≫)を問う問いの形」においてだけ、「その方の存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とするその存在、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とするその存在、それゆえに人間自身教会自身に対して神の不把握性を・それゆえに終末論的限界を認識させ自覚させるその存在≫)」を「問うことができる方」、「その方が神である」。したがって、「そのほかの名はすべて神の名ではないであろう。またそのほかのものを認識する認識はいずれも神認識ではないであろう」。このようにして、「神は人間の前に立ち給う」。

 

(3)三位一体の神という、その内的な、内在的な、自己還帰的な~の自己認識・自己理解・自己規定の「真理性」において、~が「われわれに対してご自身を認識するよう与え給う時」、~は、「時間の中で認識される」よう「自らを低くし給う」、換言すれば神は、その内在的な存在の仕方の顕現化において、すなわちナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリスト名」において、人間の対象、客体となり給う。このことは、「神ご自身が自分を認識し給う時、父が子を、子が父を、聖霊(父と子の、愛に基づく完全な共存的関係、交わり)を通して認識し給う時」、「たちどころに一度ですべてにわたって力を奮う仕方で、永遠から永遠にわたって同じ完全性の中で起こる」。この三位一体という内的な内在的な自己還帰的な~の自己認識・自己理解・自己規定は、「われわれが~を認識する際の認識の仕方ではない」。言い換えれば、このことは、その三位一体の神という~の自己認識・自己理解・自己規定の「真理性」こそが、すなわち~の側の「父なる名の内三位一体的特殊性」における自己運動こそが、「すべての被造物的な認識の働きの起源であり、本来性であり、尺度である」、ということである。その逆ではないのである。聖書的啓示証言において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この起源的な第一の形態の啓示(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示)が、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教における<客観的>な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。したがって、この三位一体論は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教における、それゆえに教会の補助的奉仕でありひとつの機能である教義学における「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、絶えず繰り返しこの三位一体論に即して行わなければならないのである。言い換えれば、説教は、それゆえに教義学・「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(『バルトとの対話』)。このような訳で、現存する大学の場が、個体的自己としての全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、天然自然あるいは人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動(人間の類的な活動や生活)における<自然>や<人間>に関する学問研究の場である限りは、特に近代以降においては必然的不可避的に、「すべての大学社会の神学」(神学大学、神学部、神学科、教養課程の神学)は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」とならざるを得ないのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。このような訳であるから、「われわれ」は、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識の仕方を、「神に帰さなければならない」のである。と同時に、「われわれは、そのような認識の仕方を神に帰すことによって」、三位一体の神という内的な内在的な自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定――この「神が認識し給う認識の概念を理解することはできない」と告白しなければならないのである。なぜならば、「われわれが神を認識しようとこころみる際の認識の概念は、ただわれわれ自身の被造物的な認識……として、決して完全な認識……永遠的な認識」ではないからである、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、「われわれ自身の被造物的な認識の概念」、人間が人間的に所有する人間の概念であることができるだけだからである」。
 さて、不可避的に歴史的現存性のただ中に生誕しその類・歴史性――個・現存性を生きる人間に対して、「神は、その啓示の中で」、「時間的にご自分を認識させ給う」、すなわち「繰り返しの中で」「ご自分を認識させ給う」。それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、「繰り返しの中で」「ご自分を認識させ給う」。言い換えれば、「神が人間の前に立ち給い、人間によって認識されるということ」は、「時間の真中で神の永遠の言葉が人間イエスとひとつである単一性の中で、瞬時にして、一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こった後」、その「証しと認識の続きの中で起こる」のである。言い換えれば、そのことは、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト――~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、福音、客観的な「啓示の実在」そのもの)、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」――すなわち第二の形態、そして第一の形態を、具体的には第二の形態をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられことを通して教えるという仕方で、<客観的>な信仰告白・教義を構成し、キリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えて行くところの第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)、における「証しと認識の続きの中で起こる」。そのことは、「神ご自身がそのひとつの啓示の新しい形態の中でわれわれと共に、われわれに先立って、歩み給うことに基づいて」、キリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)の中で、その歴史的連続性の中で起こるのである。