本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−2)−1 (87−114頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十五節 ~認識の実現」
「二十五節 ~認識の実現」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 ~認識は、~の言葉の啓示が聖霊を通して実現される中で、起こる。したがって、信仰と信仰の服従の実在の中で、また信仰と信仰の服従の必然性をもって、起こる。~認識の内容は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるが故に、すべてにまさっておそれなければならない方、またその方自身われわれに対しご自身をそのように明らかに示し、また確かなものとなし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方、の現実存在である。(3頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−1で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

 

「二 人間の前での~」(その2−2)−1
 聖書的啓示証言で、「自由・主権は、神ご自身においてのみ実在であり真理」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。「最高の、ひとつの、本来的な主権としての~の主権、換言すれば、その方の告知と行為(≪存在の仕方≫)の中で啓示され、力を発揮する……(≪その「失われない差異性」における内在的な<存在の仕方>の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化であるイエス・キリストにおいて自己啓示された神、≫)主としてのその方の自己証明の<内的>な真理、それと共にまた<内的>な力は、……その方が(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)三位一体の神であり、自分自身の中で、永遠から永遠にわたって、(≪~の起源的な第一の存在の仕方、性質、働き・業・行為・行動である≫)父、(≪~の第二の存在の仕方、性質、働き・業・行為・行動である≫)子、(≪~の第三の存在の仕方、性質、働き・業・行為・行動である≫)聖霊なる~であるということ……である」。このように、自己運動し自己証明する単一性・神性・永遠性を本質とするキリストにあっての神は、人間の証明を全く必要としないのである。なぜならば、この啓示は、その~の言葉自身の出来事の運動、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その「啓示の出来事の中での主観的側面」――すなわちキリストの霊である聖霊の証しの力、を持っているからである。したがって、この啓示は、「われわれ」人間に、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識において、その認識の仕方のベクトルの転換を惹き起こすのである。例えば、この「自己啓示によれば、人間はすべてにおいて」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父」の「おかげを受けており」、その「父」に「すべてを負うている」という啓示認識・啓示信仰を与えられているのであるから、換言すればそのような信仰の認識としての神認識を与えられるのであるから、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して理解すれば、被造物としての「すべてのそのほかの父」は、「ただそれの模写およびたとえでしかあり得ない」のである。バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で、次のように述べている――「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存しているものとして理解されなければならない」、と。このように、認識の仕方のベクトルの転換を惹き起こすのである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「神ご自身の中で、永遠にわたって、(≪神の起源的な第一の存在の仕方として≫)父の子であり」、「永遠にわたって彼は(≪神の第二の存在の仕方として≫)子であるにもかかわらず」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方としての父の「子であることによって」、「父と等しく、それゆえに永遠にわたって父によって愛され給うということ……に基づいて」、「人間のためにすべてを為し給う」たところの、このキリストにあっての~の自己啓示、「自己証明は、われわれを感謝と義務(≪その三位一体の~の言葉を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、その神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、起源的な第一の形態のそれに、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれに聞き教えられることを通して教えるという義務≫)を負う在り方へと強いる」のである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神は、「永遠にわたって父から生まれ、父とひとつであるみ子であり」、換言すれば「ご自身の永遠のみ子の父であり給い、またこのみ子と共に聖霊の起源であり給うからである」。最後に、単一性・神性・永遠性を本質とする神「ご自身が永遠にわたって(≪神の第三の存在の仕方としての≫)聖霊であり給い、父と子より出で、父と子と同じ本質を持ち給うということ(≪単一性・神性・永遠性を本質とすること≫)……に基づいて」、このキリストにあっての~の自己啓示、「自己証明は、われわれを希望へと、そのようにして聖霊の認識に向かって強いる」のである。このことを『教会教義学 ~の言葉T/1・2』と絡めて言えば、その自己証明は、@「われわれ」が「一人の主」なる神をのみ「主として持つ自由」を「われわれに」与えるがゆえに、聖霊は、そのように告白することを要求し強いるのである、 Aまた聖霊は、「われわれ」人間の「中に」も、「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求し強いるのである、Bまた聖霊は、「われわれ」人間の即自的な「理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)」によっては「イエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求し強いるのである、Cまた聖霊は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の認識を、それゆえに「われわれ」人間の究極的限界性、終末論的限界を告白することを要求し強いるのである、D新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、換言すればキリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における聖霊は、終末論的信仰を要求し強いるのである(ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、それゆえに<救済・平和>をその「信仰の中で持つ」ことは、~の側の真実としてのみある「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」――この聖霊の注ぎによる啓示認識・啓示「信仰の確実性」は、すなわち信仰の認識としての神認識の確実性は、~の側の真実としてのみある「希望の確実性」である)、Eまた聖霊は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で神の恵みの出来事を人間的主観に実現させる霊であると告白することを要求し強いるのである。このような訳で、日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を、人間自身説教者自身の自由事項・裁量事項・決定事項として実体化させて述べていることは、全くの誤解であり全くの誤謬なのである、それゆえに彼らはその誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」ることになるのである。このように大学の場を構成している<学>から対象的になって距離をとれない場合は、それが<神学>大学であれ、「すべての大学社会」の<神学>は、現存する大学の場が、個体的自己としての全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、天然自然あるいは人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動(人間の類的な活動や生活)における<自然>や<人間>に関する学問研究の場である限りはすべて、必然的不可避的に「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)ことになってしまうのである、換言すれば必然的不可避的に自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すことになってしまうのである。このような自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「単なる知識」あるいは単なる学業的知識としての形而上学的な教義学(神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学(神学)は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「非学問的」な神学、換言すれば抽象的な空論に終わるところの形而上学的な神学なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。また、バルトは、「説教の本質と実際」で、第三の形態に属する全く人間的な説教者は、説教として語る場合、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、それゆえに「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べている。信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識には、聖霊により更新された人間理性を必要とするのであるが、その理性は、貫徹される神と人間との無限の質的差異の下で、聖霊そのものではないのである――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。この言葉からだけでも、バルトが、総括的に言えば、自然神学の段階にある一切のキリスト教信仰・神学・教会の宣教の<頂>にあるヘーゲルの哲学原理(人間の神化あるいは神の人間化、神の自己運動と人間の自己運動あるいは神の自由と人間の自由との同一性、としてのそれ)を、根本的包括的に原理的に止揚し克服していることを理解することができるのである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが神の第三の存在の仕方である「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。この聖霊は、聖書(聖書的啓示証言)の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」能力、「キリストについて(想起して)語ることができる能力」の授与(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」である。したがって、神のその都度の自由な恵の決断による聖霊の注ぎにより「聖霊を持つことがゆるされる」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換に置かれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」は、「キリストの奴隷」となることである、すなわち~の言葉に対する他律的服従と自律的服従との同在性・同時性・構造性に生きることである。言い換えれば、それは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執することである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神は、「イエス・キリストの父」、「子としてのイエス・キリスト自身」、「父ト子の霊である聖霊」であり、この聖霊は、永遠にわたって「父と子より出ずる聖霊であり、愛にあっての父と子の一致であり給うからである」。キリストにあっての~の自己啓示、自己証明は、すなわち「そのみ言葉を通して人間と結ばれた契約の中で、契約と共に為される神の告知と行動(≪「創造、和解、救済のみ業」、存在の仕方≫)」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「神ご自身の中に基づいており、……力強く、有無を言わさず人を心服させるのである」。したがって、そのように「神が(≪内的に、内在的に、自己還帰的に≫)ご自身の中で三位一体の神であり給うがゆえに、われわれは……その(≪顕現化、外化、外在化、対象化、客体化された存在の仕方としての≫)言葉の中ででも、また創造、和解、救済のみ業の中ででも、(≪聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神ご自身と取り組まなければ」ならないのである。
 このような訳で、「神が人間の前に立ち給い、ご自身を人間に対して認識すべく与え、人間によって認識されるということがまことであるとするならば、その時そのことは、神は三位一体の神、父、子、聖霊なる神であるということに基づいてまことであり、またそのことの中でまことである」。このことは、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「われわれの神認識」の出来事は、単一性・神性・永遠性を本質とする神が、「神ご自身の中で」、「父、子、聖霊」として自己認識・自己理解・自己規定したところの出来事に基づいている、ということである。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父は、神の第二の存在の仕方である子として「自分を自分から区別」するし自己啓示・自己証明する神として自分自身が根源なのである。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊(「父は子を、子は父を、聖霊の一致の中」で、自己認識・自己理解・自己規定し給う)は父と子が根源であるという出来事に基づいている。この「神ご自身の中」での出来事は、「われわれの神認識の本質であり力である」。この「神ご自身の中で」の出来事は、「われわれに知られていない出来事ではなく、その言葉(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」)を通してわれわれに知らされた出来事である」。この出来事は、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」という出来事である。したがって、「人間からは理解を絶した仕方であずかるようになる出来事である」。言い換えれば、信仰の認識としての神認識の授与の出来事、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、「自明的な事柄」ではなく、あくまでも神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ与えられる出来事なのである。したがって、説教や教義学におけるその語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、決して、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。「われわれの神認識は事実真理をただ、あの内的な真理の外面として持つようになる。換言すれば神がご自分を認識し給う三位一体の神であるということの力で、真理を持つようになる」。言い換えれば、あの単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」(内的な、内在的な、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定)におけるその内在的な存在の仕方(性質、働き・業・行為・行動)の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化を媒介・反復すること通して、三位一体の神という「真理を持つようになる」。したがって、この三位一体の神という内在的な自己還帰する神の自己認識・自己理解・自己規定の「隠れの中で」、「われわれ」は、「神を……ほめたたえ、讃美」しなければならないのである。なぜならば、その三位一体の神という内在的な自己還帰する神の自己認識・自己理解・自己規定は、「われわれなしに」、「われわれ」の人間の側の契機なしに、「われわれ」の三位一体論という概念規定なしに、~の側の真実として「それ自身で、……現実に起こっている」からである。したがって、「派生的な、副次的な仕方で、被造物世界の領域の中で起こる神認識」――すなわち人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識は、「神の領域の中で」、「神ご自身の真理……の領域の中で……われわれなしに、(≪神の側の領域の神の自己運動として≫)現実に起こっているということに基づいて」、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、あの神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「起こるのである」。自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の~の、その「三位一体的な生そのものの中」における、「神の主要な対象性」(「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方である父、子、聖霊)と共にその「認識」(三位一体の神としての内的、内在的、自己還帰的な神の自己認識・自己理解・自己規定)は、全き自由な「神ご自身の中で」の内在的な「対象性」と「認識」である。したがって、この「対象性」と「認識」は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の他在性(対他性)における内在的な神の三つの存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化において「われわれに対して与え給う」「神の副次的な対象性」と「認識」とは区別されるのである。「神が主要な、またその副次的な対象性の中で、われわれにとって対象であり給う時、そのことは神の自由な恵であり、あくまで神の自由な恵であり続ける」のである。この顕現化された神の存在の仕方における単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である起源的な第一の形態のイエス・キリストの業と「行為の中で」、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるその業と「行為の中で」、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神はご自身を認識すべく与え給う」のである。したがって、「われわれ」が、単一性・神性・永遠性を本質とする「神の存在」を、「その都度の神の活動(≪存在の仕方、業と行為≫)から切り離す」ことをするならば、「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「創造主、和解主、救済主」なる神を認識することはできないのである。このような訳で、キリストにあっての神は、第三の形態に属する全く人間的な教会の成員である「われわれにとっては間接的に対象的」なのである。したがって、「われわれ」は、「~を、その衣で覆われた対象性の中で、(≪認識し、≫)信じるのであって、決してその衣で覆われない対象性の中で、(≪認識し、≫)信じるのではない」。第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、終末論的限界の下で、具体的には、起源的な第一の形態の客観的な「啓示の実在」そのものの<しるし、証言>である第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における神の対象性(「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方である父、子、聖霊)を、「知覚し、直観と概念を用いて把握する」のである。ここに、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠がある。ここで信仰の認識としての神認識は、「被造物的な実在が(≪聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して教えるという仕方で、すなわちそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、≫)神的な対象性を証しするものに定められ、用いられることの中で為される神認識である」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、この信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「神認識」に「感謝する」し、ただこの「神の業」に奉仕し得るだけなのである。「われわれはここで」、「神を愛することがゆるされるが故に、神をおそれなければならない必然性」、単一性・神性・永遠性を本質とする「神がご自身をわれわれに向かってあのようにあきらかに確実なものとなし給うたが故に、われわれはその秘義の中での(≪「われわれ」に終末論的限界の認識と自覚を強いる聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の中で≫)神をうやまわなければならない必然性」の「根の前に立つ」のである。「前に、神の対象性(自己「啓示される方の主要な対象性の真理」)なしには、いかなる神認識(その自己「啓示の中でのその方の副次的な対象性の真理」についての認識)もないということを見た」「われわれは、ここでまた神の対象性の問題の根の前に立つ」。この単一性・神性・永遠性を本質とする「神ご自身の主要な対象性こそが、父、子、聖霊(≪その存在の仕方、業と行為≫)としてのその永遠的な存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする存在≫)の中での実在である」、現実存在である。「三位一体の神として神は先ず第一に、とりわけ、ご自身に対して対象的であり給う」。言い換えれば、内的な、内在的な、自己還帰する、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的あるいは対他的であって対自的、全き自由の神は、「神ご自身の中で」、ご自身を、三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定し給う。このような訳で、神と人間との無限の質的差異の下で、神が、「ご自身の領域の中で、自分自身に対して対象的であり給うということに基づいて」、「被造物的領域の中でまたわれわれに対しても(その内在的な存在の仕方、業と行為の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化を通して)対象的となり給う時、そのことは(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の≫)神的本質の否定や放棄を意味しない。それどころか、それは、その神的本質の確認と実証」、自己証言を意味しているのである。したがって、この単一性・神性・永遠性を本質とする神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(その神の第二の存在の仕方)において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。第三の形態に属する全く人間的な「われわれは、このわれわれの領域の中での~の啓示(≪起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における「イエス・キリストの名」、~の言葉、啓示・和解、客観的な啓示の「概念の実在」≫)を(≪教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)堅くとって離さないでいることができるし、離さないでいるべきである。われわれは~をそのみ業としるしの中で(≪その内在的な存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化、具体的には聖書的啓示証言におけるそれの中で、その~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において≫)認識することができるし、認識すべきである」。このように~の言葉に対する奉仕を為す時、第三の形態に属する全く人間的な「われわれ」は、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、キリスト教に固有な類の時間累積を、換言すれば現在から未来に生きる「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」の時間累積を為すことができるのである。 
 さて、単一性・神性・永遠性を本質とする神の「そのみ業としるし(≪存在の仕方≫)の中での現われ」・顕現化、外化、外在化、対象化、客体化は、「われわれにとって常に神の隠れ(≪隠蔽≫)を意味している。神が、その内在的な存在の仕方、業と行為の顕現化、対象化、客体化において「啓示されてい給うということ」は、「常に(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神が隠れてい給うということ」、具体的には終末論的限界の下で絶えず繰り返し聖書的啓示証言に聞き教えられることを通してキリストにあっての神を、キリストの福音の純粋な教えを尋ね求める「~への愛」は、具体的には聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における「神へのおそれなしにはあり得ないということ」、「神の現実存在のわれわれに贈り与えられた(≪終末論的限界の下での≫)明らかさと確実さは神が依然として秘義であり続け給うことなしではない」(『罪と罰』における終末論的信仰に固執したマルメラードフの告白にあるように、キリストの再臨、完成、終末の時までは、合点がいかないことばかりではないか)ということを意味している。「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)であるイエス・キリストにあっての「神によって設定された聖礼典(サクラメント)」を、その「聖礼典の中」において、その聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする「神ご自身を訪ね求め、見出すことなしに、祝い、受け取ることはできない」。具体的には神のその都度の自由な恵の決断による聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「贈り与えられる」信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、「ただ、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神ご自身の隠れた業」、すなわち「神ご自身の中で」の神の三つの存在の仕方、換言すれば内的に、内在的に、自己還帰的にご自身の中で三位一体の神であるという神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定――この「三位一体の神としてのその存在の中で、永遠から永遠にわたって現実の出来事として起こっているということに基づいて」為す認識であるという「謙虚さの告白なしに、遂行」することはできない。この脈絡の中で、次のような「神の完全な隠れについて」の聖書の言葉は理解されなければならない――「パウロがローマ一一・三三で取り上げた……エレミヤ二三・一八、イザヤ四〇・一三−一四、ヨブ一五・八」、「Tテモテ六・十六」、「ヨハネ一・十八」、「Tヨハネ四・一二」、「ヨハネ五・三七」、「ヨハネ六・四六」。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の子、起源的な第一の形態である~の言葉、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)だけが父を見たのである」――この「ヨハネ六・四六」の「言葉こそ、事柄を正しい光の中に移し入れるのに適当な言葉である」。したがって、「ただ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である≫)父のふところにいる(≪父のもとから来たその神の第二の存在の仕方である≫)ひとり子なる(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神だけが(≪聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする≫)神を(≪その第二の存在の仕方、業と行為において≫)あらわしたのである(ヨハネ一・十八)」、「ヨハネ八・十九」、「マタイ一一・二七」、「ヨハネ一〇・一四以下」――「子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」、なぜならば単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方、その業と行為、啓示者である「父が(≪その第二の存在の仕方、神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものである≫)み子を通して啓示されるように、(≪客観的な「啓示の実在」そのものである≫)み子もただ(≪啓示者である≫)父によってだけ啓示されるからである(マタイ一六・一七)」。「ここで、Tコリント二・九−一二」を付け加えることができる。すなわち、この「啓示」についての認識、「啓示」についての信仰、信仰の認識としての~認識は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能なのである。「世の霊ではなく」、「神からの霊」・聖霊だけが、終末論的限界の下で、先行する神の業と行為の「後に従」って、「神の真理を神が良しとし給う仕方で、知覚し、直観(≪対象的意識、感性的認識≫)と概念(≪自己意識・思惟・理性、概念的認識≫)を用いて把握」することを可能とするのである、すなわち人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を可能とするのである、換言すれば神の恵みの出来事を人間的主観に実現させることができるのである。「人は、ここで、すべてのことが啓示」に、すなわち「み子が送られることと(≪その「啓示の出来事の中での主観的側面」である≫)聖霊の伝達に基づいているということを見る」。同時に、それは、その出来事に<先行>する、神が「ご自身の中で」、内的に、内在的に、自己還帰的に三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定すること、その「神ご自身の起源的な対象性、に基づいている」のである。したがって、「われわれ」は、「神が起源的な真理そのものの中でご自分を認識(≪内的に、内在的に、自己還帰的に三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定≫)されることによって」、「われわれの認識行為にその真理を与え給う方として先立ち行き給うこと」の「後に従うことがゆるされることに対して、感謝するのをやめることはできない」のである。因みに、知覚作用自体を人間存在の本質的な仕方と考える現象学的な人間理解、本質直観を人間存在の本質的な仕方と考える現象学や実存主義の誤謬を指摘した吉本隆明は、次のように述べている――知覚作用の座である自然体としての「わたしの身体」は、「もう一つの他の自然物に対して」「自分を区別することを知っている」「関係づけられる」自然物である。この個体の本質は、知覚作用の座である自然体としての自己身体を、自己意識が内在的に「<現にここに自己がある>」というように、「<現に>という時間性」(時間意識、自己抽象づけの意識)と「<ここに>という場所性」(空間意識、自己関係づけの意識)として認知している」から、すなわち「個体は個体として自己に関係づけられるから」、「はじめて対象的に関係づけられる」という点にある。したがって、感情作用は、「知覚そのものに伴うとしても<知覚>とは関わりのないもの」なのである。すなわち、感情作用は、「<内観>作用」として、知覚を通して対象了解され内在された対象を再び空間化(自己関係づけ)する過程において現われるものである、それゆえに人を魅了させる豊かな感情表現は空間化の度合いの問題として現われる。また、その知覚を通して対象了解され内在された対象を抽象化・時間化する過程に現われるのが概念構成の問題である、それゆえに概念構成の高度化は時間化(自己抽象づけ)の度合い・抽象度の問題として現われる。このような訳で、ヘーゲル主義やマルクス主義に依拠したと言える神学者・モルトマンの神学的な三段階的進歩史観とメルロ・ポンティの身体論に依拠した自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学者・喜田川信の『歴史を導く神――バルトとモルトマン』(総括的に言えば、モルトマンと喜田川は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教のベクトルのただ中にあると言うことができる。それに対して、徹頭徹尾、聖書的啓示証言における単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執したバルトは、その自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服した<非>自然神学の<段階>あるいは<超>自然神学の<段階>における信仰・神学・教会の宣教を志向し目指していると言うことができる)は、神学的には全く評価することができないものというだけでなく、人間学的にも評価することができないものなのである。言い換えれば、現在から未来に生きる思惟と語りでは全くないものなのである。正直言えば、自然時空に死語化したものなのである。
 単一性・神性・永遠性を本質とする~の、起源的な第一の存在の仕方である「父を啓示」し「われわれを父と和解させるもの」としてのその第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「神ご自身の中で」の内在的な存在の仕方(性質、働き・業・行為・行動)の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化であるが、すなわちその神性の受肉ではなく言葉の受肉であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、~の子、~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもののことであるが、この自己啓示は、その内在的な存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化において、内的な、内在的な、自己還帰的な「神がご自身で為し給う」「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における神の三つの存在の仕方――すなわち<先行>する三位一体の神という神の自己認識・自己理解・自己規定に「参与」させる啓示であると共に、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を、聖性・秘義性・隠蔽性としての神の不把握性の認識と信仰を、それゆえに終末論的限界の認識と信仰を、要求する啓示なのである。このような訳で、その「参与」は、「われわれの被造物的な場所での、つまりそれ自体では~を認識することのできない(≪知覚作用の座である≫)われわれ(≪自己身体≫)の目や耳の前」での、直観(対象的意識、感性的認識)の中での、「あるいはわれわれの心の中での」、自己意識における感情作用や概念構成の中での、「~の業としるしの対象性(≪それ自体が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられている「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的な啓示の「概念の実在」≫)の中で、(≪~のその都度の自由な恵の決断による具体的には聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)われわれにご自身を明らかにし給う時に、……起こるのである」。「われわれが啓示(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の子、起源的な第一の形態の~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中で、三位一体の主としての(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の行為(≪存在の仕方≫)に関わり、そのようにして~が用い給うすべての被造物的な業としるしの中で神ご自身と関わるという仕方で(≪それゆえに、「われわれ」第三の形態に属する全く人間的な教会、その全成員は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、その~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられ子とを通して教えるという仕方で≫)……明らかにし給うということに……基づいてだけ、真の神認識が起こるのである」。このような訳で、この信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えられた第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、必然性不可避性として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、あのキリストの福音という純粋な教え、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――「すべての誡命中の誡命」、すなわちすべての人々が現実的にキリストの福音を所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである。このような訳で、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その信仰・神学・教会の宣教の原理およびその認識方法と概念構成が「視覚的錯覚」の陥穽に陥っているからである、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を絶対化する陥穽に陥っているからである。その場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が近代<主義>的な、自然神学的「思弁」でしかないものなのである。したがって、その場合、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」、「最高の理想」、「ただの人間」、人間実存の範型、社会的あるいは政治的な実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。このような訳で、バルトは、総括的に、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代<主義>の、一切の自然神学の<段階>の信仰・神学・教会の宣教の最後的形態である、人間の神化あるいは神の人間化へのベクトルを持つヘーゲルの哲学原理に抗することができ、またその主義、その段階、その原理を根本的包括的に原理的に止揚して、それらから超出できる教義(思想)である、と述べたのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。
 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける三位一体の神の自己啓示において、「われわれが神の本質に関して知り、また語ることのできるすべてのこと」は、キリストにあっての神は、「現にあり給うところの方」――すなわちキリストにあっての神は、単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方(性質、働き・業・行為・行動)という「全体性」の中で存在し給う、「父なる名の内三位一体的特殊性」における「全体性」の中で存在し給う、神は、「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち「父、子、聖霊、創造主、和解主、救済主」として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「最高の」「唯一の本来的な主であり給う」という「全体性」の中で存在し給う、それゆえに「この全体性の継続的な説明であることができるだけ」なのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教において神は、具体的には聖書的啓示証言をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、その「全体性の継続的な説明であることができるだけ」なのである。したがって、神の三つの「存在の仕方のただひとつの」存在の仕方だけとか、「神の告知と行動のただひとつの領域の中でだけとか」という「そのような分割可能な本質やそのような分割可能な本質の一部分」は、「神の本質とは何の関わりもない」のである、それゆえに「それが仮にイエス・キリストの名を帯びていようと、その対象が神の本質のそのような部分であり得るような神認識は存在しない」のである。言い換えれば、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識が、イエス・キリストの「名を正当に帯びている場合」には、その神認識は、「確かに部分ではなく、その単一性と全体性(≪三位一体≫)の中での神の存在である」。また、その神認識が、イエス・キリストの「名を正当に帯びている場合」には、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史(≪キリストの十字架の死、古い世の終わり≫)に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史(≪キリストの復活、成就された時間、新しい世のはじまり≫)に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」、律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」、福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活(新しい世のはじまり)へと向かっている、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代へと向かっている、のである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。このような訳で、「われわれは神を全体的に認識するか、それとも全く認識しないか、そのいずれかである」。~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教は、<三位一体の唯一の啓示の類比>としての~の言葉の実在の出来事、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とするところの、~の起源的な第一の存在の仕方(性質、働き・業・行為・行動)である父・啓示者は子の父として~の第二の存在の仕方である子・啓示に関わる――この<三位一体の唯一の啓示の類比>は、先ず以て<~の言葉の実在の出来事>であり客観的な対象として与えられている「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における~の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリスト、~の子、~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、福音の真理、客観的な「啓示の実在」そのもの、である――、~の第二の存在の仕方である子・啓示は父の子として父・啓示者に関わる――この<三位一体の唯一の啓示の類比>は、<~の言葉の実在の出来事>であり客観的な対象として与えられているイエス・キリストについての直接的な最初の第一の「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、~の言葉の第二の形態、である――、~の第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は父・隠蔽と子・顕現との愛に基づく交わりとして父と子に関わる――この<三位一体の唯一の啓示の類比>は、起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で為すところの、<~の言葉の実在の出来事>であり客観的な対象として与えられている~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の客観的な信仰告白・教義、である――、これらキリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯するという仕方で、「神を全体的に認識」し、その「全体性の<継続的>な説明」を為していかなければならないのである。なぜならば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているからである。神の、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の神のその都度の恵の決断による自己運動、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識の授与――この自己運動する啓示は、「例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである。この自己運動する啓示は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)に対して、あのキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指させるからである、換言すれば「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指させるからである。言い換えれば、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における「時間の中であるいは永遠にわたって可能などのような神認識」も、前述したあの神の本質の「全体性を越えてわれわれを導いて行くことはあり得ない」のであって、それゆえにただ~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性におけるキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を通してその「全体性の中にさらに深くわれわれを導いて行くことができるだけ」なのである。「神はその本質の全体性の中で存在し給うのであって、その内のある部分の中に存在し給うのではない」のである。このことは、「われわれが参与という概念で言い表さなければならない制限なのである」。なぜならば、「啓示とは<しるし>を与えること」であり、「サクラメントのこと」であるからである。言い換えれば、それは、神の自己証明、「神の自己証言、神の真理の表示、したがってまた神がご自身を被造物的な対象性の中で、それと共にわれわれの、被造物としての認識に適した仕方で、(神がご自身を認識し給う)真理を(≪媒介的に≫)表示することである」。すなわち、自己証明する神が、その自由な恵の決断によって、「被造物としての認識に適した仕方で」与え・与えるところの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、~の言葉の実在の出来事の現存である。その存在の仕方、「その業としるし」)において「顕サレタ神こそ」が、まさに単一性・神性・永遠性を本質とする「隠サレタ神である」という信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識への「参与」の出来事が起こるところにおいては、神は、神と人間との無限の質的差異の下で、「ご自身とは区別された」ところの「被造物」における「認識に適した」「形態……業としるしを用い給う」という「そのような制限(≪限界づけ≫)を考慮に入れなければならない……」。このことについては、「既にTコリント十三・八以下のところで、教えられている」――ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの終末論的信仰、終末論的限界の認識と自覚がそれである。「今は、(神のその存在の仕方自体、その業と行為自体についても)鏡におぼろに映ったものを見ている」「われわれ」の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、終末論的限界の下での「断片」「部分」的な認識、知識として、キリストの再臨の時には、それは「廃れよう」。言い換えれば、「わたしは、今は一部しか知らなくとも(≪神が「既にわたしを知り給うようには、わたしは……神を知っていな」くとも≫)、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知るようになる」。この終末論的限界の下で、「わたし」は、神が「既にわたしを知り給う」ことに基づいて、「またその力の中で」(啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である証しの力、~の言葉自身の出来事の運動において)、「疑いもなく、(そのことについてはパウロにおいても、またその他の聖書の箇所全体においても、何の疑いもないのであるが)神を認識し、しかも真理の中で、神が現にあり給う方として神を認識する」のであるが、この神認識は、「神がわれわれを知り給う知り方」や「顔と顔を合わせて見る方法」や「見ることによる方法(Uコリント五・七)」ではない媒介的・「間接的な信仰の認識」の方法なのである。言い換えれば、「われわれ」の神認識は、神が「用い給う」「手段と道具……に拘束され」ていると共にそれらの「手段と道具の被造物としての限界に拘束されている」、それら「手段と道具」を用いての、それら「手段と道具」を媒介として「直接的に知覚でき、直観と概念を用いて把握」することができる信仰としての神認識である。具体的には、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の神認識は、具体的には単一性・神性・永遠性を本質とす神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたところの、その限界づけられた人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、聖書的啓示証言、しるし、「神ご自身の対象性の媒介物」、客観的な啓示の「概念の実在」)をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する対立的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それを媒介・反復することを通して、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方における、信仰の認識としての神認識である。このような「われわれ」の神認識の「限界性」について述べたパウロも、あの「神を全体として認識するということを手控えることは全くなかったのである」。