本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−1)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−1)−2 (54−86頁)

 

「二 人間の前での~」(その2−1)−2
 さて、「その秘義の中で」とは、次のことを意味する――すなわち、それは、「われわれは~を、~がご自身をわれわれに対して認識すべく与え給う仕方(≪それ以外の仕方では決してなく、徹頭徹尾、あの~の言葉自身の出来事の運動における仕方≫)に従って認識するということである」。言い換えれば、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、キリストにあっての「神の業であって、われわれの業ではない」のである。すなわち、それは、神のその都度の自由な恵の決断による、啓示の出来事と信仰の出来事、換言すれば客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力および神の恵みの出来事を人間的主観に実現させるキリストの霊である聖霊の証しの力に基づいて初めて認識可能となる認識である。したがって、「その中でわれわれが(≪キリストにあっての≫)~を認識するところの明るさと確かさは、神ご自身」から「由来」し~の側からやってくる「明るさと確かさであって、われわれ」人間自身教会自身から「由来」しそこからやってくる「明るさと確かさ」ではないのである。それは、「単なる知識」ではないところの、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにのみ信頼し固執する「認識」、すなわち啓示認識・啓示信仰である――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>〉ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。「この出来事が実在となる可能性は、(≪人間自身教会自身にはないのであって、それゆえに~から由来する≫)神的な力である」、~の言葉自身の出来事の運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、である。「その中でこのことが起こる事実性は、~の意志と決定の事実性である」、神のその都度の自由な恵の決断である、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の事実性である。「その中でこのことが起こる秩序は、~の知恵の自由な規定である」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、キリスト教に固有な類・歴史性としての、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の現存である。このような訳で、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において「~の言葉に拘束されているならば、われわれはわれわれの神認識に関しては確かに神ご自身に……だけ、栄誉を帰さなければならない」のである、それゆえにその場合、「われわれはわれわれがその中で(≪教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における≫)~の言葉に依り頼んでいる信仰の神認識以外のいかなる神認識も自分の神認識の仕方であるとみなしはしない……」のである。なぜならば、「秘義とは、……~は、神がご自身を認識すべく与えることによってだけわれわれが認識するところの方であり、またそうあり続け給うということ、~は、ただ~ご自身の光の中でだけ見られることが可能であり、見られるところの光であり、またそのような光であり続け給うということ」を意味しているからである、それゆえに人間自身教会自身の側から由来する「神認識の何らかの可能性や事実性や秩序について、われわれが夢想することを、徹頭徹尾、不可能とする」からである。このような訳で、「~を愛する者は、~がわれわれに対してご自身を認識すべく与え給う秘義の中で~を愛するのである」、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代において、「われわれ」は、終末論的限界の下でそのようにして~を愛するのである。「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」という終末論的信仰の中で、「われわれ」は、そのようにして~を愛するのである(ドストエフスキー『罪と罰』)。「~を恐れること」は、「~を愛さない可能性(≪なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間存在の「われわれ」人間は、神から遠ざかり・遠ざかり続ける、神に背き・背き続ける、罪を新たな罪を犯し続ける、この危険、この危機のただ中に生きており、常にその可能性に晒されているから≫)の前で恐れおののくということである」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会において~を恐れる者は、「われわれ」人間の更新を可能とする「罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにある「復活の力」に信頼し固執して、~を愛することが「『ゆるされている』ということを用いる」ことによって、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の生態の聖書的啓示証言における~の言葉をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられ教えるという仕方で、純粋な教え(キリストの福音)としてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すのである、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、誡命中の誡命、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すのである、イエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである。こういう仕方で、「われわれ」は、「~に栄誉を帰す」のである。「われわれは~を愛することがゆるされているが故に~を恐れなければならないという第一のことと同様に」、「第二のこと、すなわち~がご自身をわれわれに対してあれほど明らかにまた確かなものと為し給うが故に~はわれわれにとって秘義であり続け給うということも明らかなのである」。したがって、「われわれは~を認識しつつ神の恵みを讃美するというのでないとしたら、その時にはおそらく神の恵みはわれわれに与えられていないであろう」。このような訳で、「神の恵みが事実われわれに与えられているが故に、われわれは~の恵を讃美しなければならない、しかも恵みとして讃美しなければならない」、それゆえに、「われわれは、われわれの神認識の可能性、事実性、秩序」における「秘義」性について、「一点一画といえども譲ることはできないのである」。
 ここで、「われわれが……念頭に置かなければならない聖書の脈絡は次のよう」にしてある――イエス・キリストは、「世に来たり給うた、すべての人を照らすまことの光(ヨハネ一・九)」である。このことが「出来事となって起こったという……そのような仕方」の中で、「~はご自身を議論の余地のないほど明らかにまた確かなものとし給うた」。ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」――「『この命は人の光であった』(一・四)。すなわち、和解は啓示であった」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』によれば、啓示は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方としての「子あるいは言葉の業」、すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである・この「啓示」は、「和解」という言葉、概念と一致する・それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する・したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である)。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう(八・一二。なお九・五参照)」・「また『わたしは光としてこの世に来た。それは、わたしを信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである』(一二・四六)」。「イエスを信じるということ、そのようにして命を持つということは、ヨハネ福音書によれば、終始」、その「光を受け取る」ということ、換言すればその出来事を「認識する」・信仰するということ、「イエス・キリストを、彼が現にあり給うところの方(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、性質、働き、業、行為、行動、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであり給う方≫)として認識するということ、イエスが~のみ子である」ということを、あの~の言葉自身の出来事の運動において、「信じ、認識するということ(六・六九)」、啓示認識・啓示信仰するということである、すなわち「イエスの中で父を、父をイエスの中で、そのようにして~を認識するということである」。なぜならば、聖書的啓示証言において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するのであるが、その聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の~の、その第二の存在の仕方(業と行為)である「子なる神、キリストの神性」(・単一性・永遠性)を問う問いの中に、その第一の存在の仕方である「父を問う問い」とその第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にあるからである(「創造」、「和解」、「救済」という順序は、~の三つの存在の仕方、その業と行為の「失われない差異性」におけるそれであって、「失われない」単一性・神性・永遠性という「存在の本質」におけるそれではない、換言すれば、~の三つの存在の仕方である父、子、聖霊は、その「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする~としては、父だけが創造主なのではなく、子と聖霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである)。「永遠の命とは、唯一の、まことの~でいますあなたと、またあなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります(一七・三)」。「彼が真理であり、そのようにして命であることによって、彼は道である(一四・六)」。なぜならば、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、『わたしたちに父を示して欲しい』、と言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか(一四・九以下)」。「神ご自身が、イエス・キリストの中で、(≪その客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰に対して、ご自身を認識すべく与え給う方であることが確かである限り、人は、信仰の中で(起源的な第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、であるイエス・キリストにのみ信頼し固執する中で、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ、客観的な啓示の「概念の実在」にのみ信頼し固執する中で)、あきらかに~を認識しないわけにはいかない」、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識をしないわけにはいかない。
 このような訳で、「パウロは自分の使徒職を(Uコリント四・二)、真理を明らかにすることとして記述した」。このパウロは、「闇の中からひかりが照り出でよ、と仰せになった~は、キリストの顔に輝ク~の栄光の知識を明らかにするためにわたしたちの心を照らして下さった」がゆえに、「この務めに就いた」と説明している。「しかし、人は、まさにこのところで」、「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなた方の僕に過ぎない」という「確認が(≪パウロにおいては≫)先行していることに注意を向ける」必要がある。このように、パウロ自身が、「自分自身」の「わがまま勝手」なベクトルを――すなわち「自分自身」の恣意的嗜好的独善的なベクトルを志向し目指していないことに注意を向ける必要がある。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』によれば、聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である・この聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」・パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である・それに対して、「キリストにあって」とは、イエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である・したがって、パウロにおいては、神の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識に基づいたところで、それゆえにただ主イエス・キリストにのみ信頼し固執したところで、使徒職の務めを為しているのである。~は「暗闇から驚くべきみ光に招きいれてくださった(Tペテロ二・九)」。しかし、その現にあるがままの人間の現実存在から見た場合、「闇は光をさとらなかった(ヨハネ一・五)」と言わなければならない。啓示の真理によれば、人間は、自主性・自己主張、不信仰・無神性・真実の罪のただ中で生きており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である、それを認識し信じようとしない存在である、キリストの福音を聞くけれども認識しようとしない全く信仰が欠けている存在である、キリストの福音を「自分の(≪即自的な≫)理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては」認識すること・信じることができない存在である(それゆえに、聖霊によって更新された理性を必要とする。しかし、そのようにして更新された理性であれ、それは、聖霊ではない、それは、あくまでも人間の理性である)。さて、「ヘブル一一・二七では、モーセについて……『彼は見えない方を(ルター訳、彼が見なかった方を)、見ているようにして忍び通した』」。「コロサイ二・二−三において、……キリストの中で~の秘義が認識される、しかもなお『知恵と知識の一切の宝』が彼のうちに隠されている」。「まさに顕サレタ~こそが、隠サレタ~である」。「われわれはエペソ三・十九によれば、『<人知をはるかに越えた>キリストの愛』を知る」。「われわれの心を守る~の平安は、ピリピ四・七によれば、人知ではとうてい測り知ることができないものである」。パウロは、「何箇所かで……一方において神認識の明らかさと確実さを、他方ではそれの秘義」について語っている。このパウロは、「知識と愛」を「Tコリント八・一以下で、……対置」させて、知識は「人を『誇らせ』」、愛は「人の徳を高める」、と述べている。その自分の知識が「愛の中に基礎づけられた知識でないとするならば」、そのパウロの言葉は、その自己の知識を相対化するための視座、自戒である。しかし、パウロはその問題を止揚し克服したところで、次のように「言い直している」――「もしも人が、自分が何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が~を愛するなら、その人は~に知られているのである」。なぜならば、その場合その者の知識は、あの人を『誇らせ』る知識ではない」からである、すなわちそれは、「(認識する者が~を愛することによって)、明らかに~が彼を知り給うということ、換言すれば彼は~によって選ばれ召された者であるということの確認以外の何ものでもない」からである。したがって、「そのことを誰も誇ることはできない。そのことについては、われわれ自身の認識」は、「ただ<証言>することができるだけである」。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教における「知識」は、あの~の言葉自身の出来事の運動の中において、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストに信頼し固執し連帯して、すなわちそれをその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられ教えるという仕方で、純粋な教え(キリストの福音)としてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、「もろもろの誡命中の誡命」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すことができるだけである。このパウロにとっては、「今や、~を知っているのに、否、むしろ~に知られている(≪~が「ご自身に属する者」としている≫)ので、彼らがあの『無力で貧弱な、もろもろの霊力』に(≪「ユダヤ主義化する律法主義の中で再発見している」「偶像崇拝」に≫)、逆戻りすることは全く不可能に違いない」のである。「Tコリント十三・十二によれば」、「わたしはわたしの神認識の真理性を、今、ここでは」、「~がわたしを認識し給うということ、そしてそれに基づいて、わたしは~を認識することがゆるされているということ」を想起することの中でだけ、「確信することができる」。このことによって、「わたしの神認識は((≪「驕慢の危険」と「偶像崇拝の危険」という≫))誤謬から守られている」。因みに、Tコリント十三・十二では、次のように述べられている――「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている、だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、(≪終末論的限界の下で≫)今は一部しか知らなくとも、そのときには(≪キリストの再臨、終末、完成の時には≫)、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる」。したがって、信仰の認識としてのその知識は、「わがまま勝手に」、恣意的嗜好的独善的に、二元論的二元主義的な言い方で、言葉だけでなく行為も、宣教Aだけでなく宣教Bも、説教だけでなく社会的あるいは政治的実践も、とは決して言わないのである。バルトは、次のように言うのである――「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」・「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『バルトの生涯』)。現実の事実として、例えば二元論的なそこでの社会的実践は、人類史の原型・母胎・母型の内在的精神や実践よりも劣っているし、そこでの政治的実践にしても、観念の共同性を本質とする政治的近代国家にすべて包摂されてしまうところの、すなわち革命論(国家論)の過渡的課題と究極的課題に対する認識と自覚を欠いた水準のものでしかないのである。あのボンヘッファーらのヒトラー暗殺計画という政治的運動に対して、彼らは「夢想家」だったと評価したバルトには現実性と妥当性があるのである。それと同じように、一昨年の政治的近代国家の同じ土俵上の法的、制度的、政策的言語を介した、日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」は、マルクスや吉本に引き寄せて言えば、世俗化した共同宗教としてのキリスト教の最後的形態である政治的近代国家に結局はすべて包摂されてしまう以外にないものなのである、結局は体制に加担してしてしまうものに過ぎないのである、平和を求めると祈りながら、また抗議すると声高に叫びながら、その最初から、戦争の元凶である民族国家にすべて包摂されてしまう水準のものでしかないのである、結局は過渡的にも平和は訪れない観念(知識、思惟と語り)でしかないものなのである。因みに、バルトは次のように述べている――@「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪政治的理性、政治的合理性、政治的権力の無化≫)を全然考えないとしたならば、(≪そうであるならば、キリスト者だって信じられないのに≫)どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『キリスト者共同体と市民共同体』)、A「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、 神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト( ≪一切の、政治的理性、政治的合理性、政治的権力≫)のともがらと成ることができようか」(『教義学要綱』)、Bイエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトは、その完了・成就された救済と平和の場所において、政治的理性、政治的合理性、政治的権力、政治的近代国家、民族国家の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永遠的課題としてはそうしたもの一切の無化を構造化させているのである、すなわち終末、キリストの再臨、救贖・完成においては、そうしたもの一切も無化されてしまうという観点を持っているのである。
 「われわれは要約する」――「~が、(≪あの~の言葉自身の出来事の運動において、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する≫)人間の信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)を呼び覚まし、造り出し、保持し給う方として、人間の前に立ち給うところでは、~が、人間に人間の信仰の認識の対象および内容として、(≪あの三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストの名、第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれを通して≫)ご自身を提供し給うところでは、~はそのことをこの(単一性・神性・永遠性を本質とする)存在と(三つの存在の仕方における)行為の中でなし給う」。「~がわれわれに対しご自身をあれほどまでに明らかにまた確かなものとし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方として」、「まさに(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在、~の言葉、イエス・キリスト、その業と行為において≫)顕サレタ~こそが、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)隠サレタ~である」方として、「~はそのことを為し給う」。このような仕方で、~は、「ご自身についてのわれわれの認識」、すなわちあくまでもあの~の言葉自身の出来事の運動においてのみ与えられるところの、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「われわれ」の神認識を、あの~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における「服従の業として、呼び覚まし、造り出し、保持し給うのである」。この聖書的啓示証言に基づいて展開されているバルトの信仰・神学・教会の宣教における原理および認識方法と概念構成は、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」というフォイエルバッハの『キリスト教の本質』における根本的包括的な原理的なキリスト教批判の言葉を、根本的包括的に原理的に止揚し克服していることが分かるであろう。なぜならば、言葉を介した「思想は物質ではなく外化された観念である」から、また言語を介した自己意識・思惟・理性による「観念の運動は観念によってしか埋葬」することができないから、その止揚し克服すべき観念(対象)を「包括し、止揚する」以外に(吉本隆明『カール・マルクス)ないからである、その観念(対象)を克服する以外に、否定的に媒介する以外に、ないからである。このことは、言語を介した観念の運動である自然神学の系譜に属する一切を埋葬するためには、その自然神学の観念を包括し止揚し克服する以外に、否定的に媒介する以外にないのと同じである。なぜならば、そうしない限りは、概念的にも、<非>自然神学のあるいは<超>自然神学の段階へは移行できないからである。したがって、そのようにして移行した段階は、自然神学の段階ではないのであるから、神学者や牧師や著述家たちがたとえそれを拒否したとしても、換言すれば彼らが旧態依然として形而上学的一面的皮相的固定的に多くの教派あるいは主義に分類するとしても、<非>自然な神学のあるいは<超>自然な神学あるいは<非>自然神学の<段階>(連続性と断続性の構造)と同じ実体を想定せざるを得ないのである。いぜれにしても、「もしもわれわれが、服従の中で~から由来しているならば、その時、われわれはその同じ服従の中で、~に向かっているし、あくまで~に向かい続けるであろう」、あの~言葉自身の出来事の運動の中において、あの「~への愛」と、あの「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すであろう、それゆえに「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ないであろう、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するであろう、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」であろう。したがって、擬制民主主義に過ぎない議会制民主主義、私利・私意を精神とする現実的な近代市民社会(資本主義社会)――その現実的な社会の諸利害や諸矛盾をその経済社会構成を主導する産業を念頭に置きながら政治的に調整する観念の共同性を本質とする政治的近代国家の枠組みの中にどっぷり浸かって即自的即事的に(換言すれば、それらから対象的なって距離をとることをしないで)、法的、制度的、政策的言語を介して体制に加担していくことはしないであろう。
 あの「神の存在と行為」の前での人間は、~の言葉自身の出来事の運動の中において、あの~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指すという仕方で、~を「愛することがゆるされ、また恐れなければならない」。これらすべてのことの中で、~の「意志と知恵が……実行される」、~の存在の仕方・「業が……出来事となって起こる」。したがって、「決してわれわれ自身の像に従って神の像を造り出すことはできない」。なぜならば、「われわれは既に人間を人間自身からではなく」、「神ご自身によって~の前に置かれた人間として理解したからであり、また……~と人間を何らかの自分勝手な前提からではなく、~の言葉の指示するところに従って理解したからである」。ここで、<非>自然神学としての思惟と語りについてもう少し付言しておこう――アウグスティヌスの、『神の国』における神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」については<非>自然神学としての思惟と語りと言えるのであるが、『告白』における「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」についてはまさに自然神学としての思惟と語りと言えるのである。このようにアウグスティヌスは、<非>自然神学としての思惟と語りと自然神学としての思惟と語りを混在させているのである。したがって、自覚的に、<非>自然神学としての思惟と語りを為すバルトは、アウグスティヌスの後者の時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であると述べたのである。言い換えれば、その後者の時間概念は、イエス・キリスト(神の言葉)の時間――すなわち「時間の主の時間」、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中において「まことの現在」まことの「過去と未来」であるところの「実在の成就された時間」(キリストの復活40日、使徒行伝1・3)である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。このような訳で、常に、「神の業」・存在の仕方が、人間のその服従的な思惟と語りに先行しているのである。したがって、「われわれ」は、この単一性・神性・永遠性を本質とする(それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする存在としての~、その)~の第二の存在の仕方における「神の業(≪行為≫)を念頭に置きつつ、……神認識の遂行を……はっきりと言葉に出して、またひたすらただ、神ご自身の存在および行為として理解し、記述していくということを今や、最後に、企てることができるし、企てなければならない」のである。
 ~の言葉自身の出来事の運動、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵の決断、その神の自由な自己運動による啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「~はただ~によってだけ認識されるという命題」は、何らかの仕方で人間に根拠づけられたところの、「不可知論的な認識理論」や~の業と人間の認識の働きとの相互関係(共働関係・協働関係)における認識論に基づいているのではない。すなわち、「その命題」は、その対象を認識する人間的「主体」からではなく、その対象――「客体から基礎づけられている」命題なのである、「その命題は、そのみ言葉の中で啓示された~の中に基礎づけられている。(単一性・神性・永遠性を本質とする)~は(~の第二の存在の仕方である、~の言葉、~の子、啓示・和解、イエス・キリストの名、客観的な「啓示の実在」そのもの、この業と行為の出来事において)現にあるところのものであり給い、また現に為すことを為し給う~であるが故に、われわれはあの前提を為すのであり、また……これまでの道のりの行程全体にわたってこの前提を考慮に入れ、またこの前提をもって作業して来たのである」。言い換えれば、「われわれ」の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられている「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)である言葉の受肉としての「イエス・キリストの名」、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態――すなわちそのイエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言を、その信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して、あくまでも~の自由な恵の決断による聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられるのである。したがって、「わがまま勝手な」、恣意的嗜好的独善的な人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項として与えられるのではないのである。なぜならば、もしも人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項として与えられるとするならば、その~や啓示や救いや平和は、人間自身教会自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの~」、偶像やその啓示でしかないだろうし、その偶像の名と呼びかけによる救いや平和でしかないだろうからである。
 このような訳で、徹頭徹尾、具体的には聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した<非>自然神学あるいは<超>自然神学の系譜に属するバルトは、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉)だけでなく、それと同時に即自的に人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を尊重することを主張した自然神学の系譜に属するルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健たちの思惟や語りとは全く異なっているのである。この差異性を、自然神学の系譜に属する「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者(バルト『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)の寺園喜基は、「神学的立場の根本的相違によるものではない」(『バルト神学の射程』)と述べたのであるが、それは誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」った(吉本『カール・マルクス』)誤謬であって、ほんとうは、その差異性は、根本的包括的な原理的な差異性なのである、すなわち<非>自然神学あるいは<超>自然神学と自然神学との根本的包括的な原理的な差異性なのである。この寺園は、ベルトルート・クラッパートの「状況連関神学」に傾倒しているのであるが、そのクラッパートは、バルトとルターの根本的包括的な原理的な差異性にまで論究しないで、バルトの「福音と律法」という順序はルターの「律法と福音」という順序を「排除するのではなく、正当な仕方で内に含んでいる」というように述べているだけなのである。すなわち、両者の根本的包括的な原理的な差異性については全く論じていないのである(クラッパート『和解と希望 告白教会の伝統と現在における神学』寺園喜基編、新教出版社)。しかし、バルト自身は、『福音と律法』で、あくまでも「福音と律法の真理性」の論述においては「福音と律法」という順序で論じながら、「福音と律法の真理性」の「現実化」(すなわち、この現実化を、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、それゆえにあの~の言葉自身の出来事の運動の中における、あの「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――<キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え>として、キリストの福音を内容とする福音の形式である「律法」として、「もろもろの誡命中の誡命」として、規定している)という事柄においては「律法と福音」という順序は正当であると述べている。しかし、バルトは、決してルターのように福音と律法を対立させて二元論的あるいは二元主義的に「律法と福音」という順序では語っていないのであって、それゆえにバルトは確信を持って「イエス・キリストの信仰」を主格的属格として理解し、明確に、律法はキリストの福音を内容とする福音の形式であると述べているのである。センセーショナリズムを売りとしているメディアに時代が加担してそのメディア界に登場した著述家の佐藤優が、バルトとキルシュバームとの対関係(『バルトの生涯』)に依拠して「火宅の人、バルト」と書いた時、このことからだけでも、佐藤が、ただ単なるその流れに乗っただけのメディア的著述家に過ぎないということを知ることができる。誰であれ、美しい人を見れば美しい! と感じるし、自分にとって優しく好ましい人であれば良いな! と感じるし、一緒にいることができたら良いなと思うに違いない。したがって、肝要なことは、親鸞が『歎異抄』で述べているように、宗教者であれ、知識人であれ、善人であれ、学者であれ、医者であれ、教育者であれ、警察官であれ、誰であれ、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るということ――この究極的観点、すなわち還相的観点において、自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識、すなわち往相的観点から超出して行くことにあるのである、このように思惟し語ることにあるのである。したがって、自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識、すなわち往相的観点に依拠して「火宅の人」という知ったかぶりしたバカ話はしない方がいいのである。徹頭徹尾、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した<非>自然神学あるいは<超>自然神学の系譜に属するバルトは、具体的にはその聖書的啓示証言を信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、ほんとうの、真の、キリスト教に固有な<信仰>、<神学>、<教会の宣教>を、~の側の真実にのみ根拠づけたのである。すなわち、バルトは、ローマ書3・23、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、~だけでなく人間も介在させる、すなわち神と人間との「共働」・「協働」関係を介在させる目的格的属格として理解したルターに対して、換言すればそういう~と人間との即自的な「協働」・「共働」関係を志向し目指す自然神学の系譜に属するルターに対して、それゆえに旧来訳日本語聖書や新共同訳聖書に対して、その属格を、~の側の真実としてのみある事柄として、すなわち主格的属格として理解したのである、換言すれば<非>自然神学あるいは<超>自然神学の段階に超出したのである。言い換えれば、バルトは、「イエス・キリストの信仰」を主格的属格として理解し啓示認識・啓示信仰することによって、<宗教>としてのキリスト教を解体したのである、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判の対象そのものである、まさしく自然神学の段階で停滞し循環する<宗教>としてのキリスト教の信仰、神学、教会の宣教を、根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<超>自然神学の段階へと超出し移行したのである。このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)における、ほんとうの、真の、キリスト教に固有な信仰、神学、教会の宣教のはじまりを意味するのである。したがって、ここにしか、近代以降、現在から未来に生きる、生き続ける言葉はないことは、確かなことなのである。しかし、このことを認識し自覚でき得ている人は非常に少ないのである。したがって、「教授でないもの」、「牧師でないもの」としての全成員の教会の宣教に対する「共同責任」的な思惟と語りが重要となるのである(『啓示・教会・神学』)。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、現在的に教会の宣教における最善最良の神学を展開したバルトについて、その一部分を拡大鏡にかけて全体化して理解することは決してしないで、根本的包括的に原理的に理解することが重要なのである、トータルに理解することが重要なのである。
 「~はそのみ言葉の中で(≪~の第二の存在の仕方、イエス・キリスト、その業と行為の中で≫)」、単一性・神性・永遠性を本質とする「契約の主として」「ご自身について」、「~から身を背けた」「人間に向かって語り給う」。「そのことでもって~は、ご自身を人間に認識するよう与え給うのであり、そのことの中で、~は人間によって認識される」のである。~は、このような「仕方で、人間に向かって語り給う方として」、「人間の前に立ち給う」。このような訳で、その「契約が結ばれ、継続されるということ、そのことは~の意志であり、(≪~のその都度の自由な恵の決断であり、≫)神の業である」から、その「契約の中で~は主であり、主であり続け給うのであって」、それゆえに「人間が主であるのではない」のである。この場所で、人間は「神の前に立ち、人間の側で――(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、絶えず繰り返しそれに聞き教えられ教えるところの、イエス・キリストを主・頭とする≫)イエス・キリストの教会で起こっているように――~について語り、聞くことができるということ(≪終末論的限界の下で、聖書的啓示証言を媒介・反復した教会の客観的な信仰告白・教義、キリスト教に固有な類の時間累積、歴史的連続性≫)にまで至るのである」。このような訳で、「人間はもはやひとりでいるのでも、~なしでいるのでもなく、~の言葉(≪~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、業と行為≫)を通して、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)~との契約の中にいる……そのことの中で生き、そのことの中でまことであり、実在であり、また明らかであり、力強いのである」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 聖書的啓示証言によれば、キリストにあっての「~は……人間の主であり給う方として」、それゆえにその「契約の中で主であり、また主であり続ける<権利>と<力>を持ち給う方としてご自身を告げ知らせ、行動し給うという仕方で、主であり、またあくまで主であり続け給う」。単一性・神性・永遠性を本質とする~は、その三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)において、人間に対して、@<父>なる~、<創造主>としての~、永遠なる<父>として、「ご自分を告げ知らせ、また行動し給う」、A<子>なる~、<和解主>としての~、永遠なる<子>――聖書的啓示証言の本来的なテーマは、三位一体の第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」の「神性を問う問いの中」に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊を問う問いとが包括されている点にある――として、「ご自分を告げ知らせ、また行動し給う」、B<聖霊>なる~、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における<救済主>なる~、永遠なる<霊>――客観的な啓示の出来事の中での主観的側面、すなわち客観的な~の恵の出来事の聖霊の注ぎによる終末論的限界の下での人間的主観への実現化、換言すれば客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、新約聖書によれば神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、 義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、~の側の真実としてのみある完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである――として、「ご自分を告げ知らせ、また行動し給う」。神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の下で、「人は、単純に」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の、この三つの存在の仕方(性質、業と行為)における「自己証明そのものを問い、……~がそのみ言葉(≪第二の存在の仕方、業と行為≫)の中で為し給うことを問わなければならない……」。したがって、「人は、ここで語っている方が、そのものにわれわれがすべてにおいてお陰を受け、すべてを負うており、すべてを負い続けている方であり、まさにそのようにして、そのような方として、その方の恵によってわれわれが生き、その方の恵によって生きつつ永遠の生命の約束を持つ方であるということがまことであるかどうかということを、問わなければならない……」。したがって、「もしその自己証明が有無を言わさず人を心服させるものであるとするならば」、「われわれは互いにただ、その自己証明を為す方がそれを事実有無を言わさぬ仕方で為し給うということを、指し示すことができるだけである」。「積極的に言うならば、その自己証明の真理はその時、まさにその証明をなさる方の最高の、ひとつの、本来的な支配の真理である」。この時、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方において「まさに顕サレタ~こそ」が聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする「隠サレタ~」としての「その方は(≪内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」において≫)自分自身の中で主であり、しかも……そのように(≪その内在的な他在性・対他性・存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化において≫)自分を告げ知らせ、そのように行動する主である」。したがって、この方は、「ただ単に時間の中だけでなく、また永遠から永遠にわたって、……主であり給う」、それゆえにその方を「避けて逃げること」、その方の「傍らを通り過ぎて行くことは、……それ自身不可能であるという仕方で主であり給う」。このような「主としてその方」は、「われわれの前に立ち給う」、「われわれ」に「自分自身を認識すべく与え、また認識され給う」。このことを、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』と『ヨブ』(ゴルヴィツアー編・解説)に引き寄せて言えば、次のように言うことができるだろう――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ」人間に対して、聖書およびその聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられ教える教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、また「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、また「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、それゆえにこのイエス・キリストにおける啓示の場所は、「われわれ」人間の、個・現存性――類・歴史性の生誕から死までのすべてが見渡せる場所であり、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、また自然神学の系譜に属する世俗化していく共同<宗教>としてのキリスト教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、単なる学業的知識へと、時流や時勢に流され即自的即事的に社会的あるいは政治的実践へと、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが、最後的には政治的な近代国家へと馳せ下っていくことが、すべて見渡せる場所なのである。