本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−1 (3−26頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

「二十五節 ~認識の実現」
「二十五節 ~認識の実現」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 ~認識は、~の言葉の啓示が聖霊を通して実現される中で、起こる。したがって、信仰と信仰の服従の実在の中で、また信仰と信仰の服従の必然性をもって、起こる。~認識の内容は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるが故に、すべてにまさっておそれなければならない方、またその方自身われわれに対しご自身をそのように明らかに示し、また確かなものとなし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方、の現実存在である。(3頁)

 

〔この定式の詳述〕
 バルト自身の『教会教義学 ~の言葉T/1〜U/4』・『ローマ書』およびドストエフスキーの『罪と罰』も引き寄せて言えば、次のように詳述することができる。
 ~認識は、~の言葉の啓示が聖霊を通して実現される中で(≪あくまでも神のその都度の自由な恵の決断により、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で与えられる、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の中で、すなわち客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」――聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中で≫)、起こる。したがって、(≪それは、その≫)信仰と信仰の服従(≪キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における、あの~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従、換言すればあの起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」を、第三の形態に属する全く人間的な教会が、その教会の宣教における・それゆえにその補助的奉仕としての教義学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられるという仕方でキリストにあっての~を尋ね求める「~への愛」と、その「「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とするその福音の形式である律法、~の命令・要求・要請、すなわちキリストの福音の告白・告知・証し・宣べ伝え、というその同在性≫)の実在の中で、また信仰と信仰の服従の必然性(≪神の言葉自身の出来事の運動における必然性・不可避性≫)をもって、起こる。~認識の内容は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるが故に(≪それは他律的な服従である「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」という自律的な服従との同在性としてあるのであるが、絶えず繰り返し、他律的な服従において起源的な第一の形態の神の言葉に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられるという仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」が「すべてにまさって」ゆるされるがゆえに≫)、すべてにまさっておそれなければならない方(≪神と人間との無限の質的差異の下で「神は神である」方、「自由」・「主権」はこの方においてのみ「実在であり真理である」がゆえに、対自的で対他的な自由な全人間の身体と精神を介した全自然との相互規定的な類的活動およびすべての天然自然・人間的自然を支配する方、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする方、それゆえにその神の不把握性と終末論的限界を人間に対して自己認識・自己理解・自己規定させる方、「イザヤ四二・八、四八・一一……ご自分の栄誉をほかのものに与えない対象であり給う神」≫)、またその方自身われわれに対しご自身をそのように明らかに示し、また確かなものとなし給うたが故に(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」「イエス・キリストの愛」において、神は、「まさに顕サレタ~こそが隠サレタ~」であるというその隠蔽性と顕現性において自己啓示されたがゆえに)、われわれにとって秘義であり続ける方(≪それゆえに、われわれは、聖霊の注ぎを必要とするのであり、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ために、あの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰において、終末を、キリストの再臨を、救済・完成を待たなければならないのである、終末論的限界の下であの必然性・不可避性をその存在・その思惟・その実践をもって生きなければならないのである≫)、の現実存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする、自在であって他在、全き自由な~のその自由な恵みの決断による人間へと向かう三つの存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動、イエス・キリストの父、啓示者、創造主、子としてのイエス・キリスト自身、啓示、和解主、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊、啓示されてあること――客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち聖霊の注ぎにより与えられる人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての<啓示>認識・<啓示>信仰、救済主≫)である。(3頁)

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

一 神の前での人間(その2−1)−1
 人は、終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、起源的な第一の形態である~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられることを通して、イエス・キリストを主・頭とする「イエス・キリストの教会の中」において、「父、子、聖霊なる神」、その「神の恵みと真理」、その「神の思い業」、「また神の約束、設定、命令」、その「神の国」、その「神の支配の領域における人間と生について、語り、聞くようになる」。具体的にはその聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えようとする教会の中において、「語られ、聞かれなければならないすべてのことの前提、意味、力として、徹頭徹尾、起源的に、決定的に、動かし、担い、基礎づけ、実現させる」ところの「主体としての神ご自身について語り、聞くようになる」。教会教義学の「神論」――すなわち「~についての教説」は、「この主体そのものについて、……取り扱う」のである。したがって、「われわれはこの神論の中で、正しい意味で『神』という言葉を使うことを学ばなければならない」。なぜならば、「われわれがこの主辞について正しく語らないとすれば」、「その賓辞について正しく語ること」ができないからである。「この主辞について正しく語らないとすれば」、その時、人は、恣意的独善的に神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退け排除して、例えば啓示と歴史を混淆させたり混合させたりしてしまうだろう。すなわち、「啓示は歴史の賓辞」ではなく、「歴史が啓示の賓辞」であるにも拘わらず、啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)とを混淆・混合する過ちを犯すことになるのである。具体的に例示すれば、喜田川信(モルトマン研究者?)が『歴史を導く神――バルトとモルトマン』で論じているモルトマンや喜田川のようにである。喜田川はモルトマンの歴史形成論について次のように述べている――モルトマンは、@「人間は希望をもつ存在であり、未来の希望(ユートピア)が歴史を推進する原動力」であるとする「ブロッホの哲学(≪対象化された人間ブロッホの自己意識・思惟の類的本質としてのそれ≫)を完成するもの」は、「人間の死の克服と人間と自然との完全な和合を含む」「真のユートピアは」は「イエス・キリストによって先取りされ、確実な希望の対象とされているから」、「キリスト教である」としている、A「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念によって、「終末論」と「歴史」とを結び付けようとしている。「終末論的なものが、このような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」、換言すれば「終末が歴史となり、歴史を動かしている」と考えている、B「神学と一般の学問との対話を目論見ている」、「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」とを交叉させようとしている。これらの思惟と語りは、総括的に述べれば、神と人間との無限の質的差異の揚棄、後景化、すなわち人間の嗜好性、恣意性、独善性からする神の人間化、人間の神化である。ヘーゲル学者の山崎純は、『神と国家』で、モルトマンの歴史形成論を、次のように論じている――ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における「宗教」とは、対象化された人間の自己意識・理性・思惟の類的本質としての「自由と理性の理念」である。モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)、恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていないアジア的段階≫)、自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得した西洋近代の段階≫)、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想したのである。このモルトマンの後継に位置づけることができるのが、エーバーハルト・ユンゲルであり、このユンゲルは、まさに、「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」の概念によって人間学に対する優位性を空想しつつ、「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指した社会学者ユンゲル・ハーバーマスの後追いをしているように見えるのである。また、このユンゲルを紹介した『人類の知的遺産 バルト』を書いた大木英夫は、バルトとは<正反対>のユンゲルの後追い知識人である。なぜならば、大木は、ユンゲルが、バルト神学を、全く根本的包括的に原理的に止揚し克服していないにもかかわらず、その「ユンゲルのバルト解釈」について、「バルト後を確定した」と出鱈目なことを、全くの誤謬を、「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」っているからである(『神の存在 バルト神学研究』の「訳者あとがき」)。大木は、「思想は物質ではなく外化された観念であると言うこと」、その「観念の運動」は、観念の共同性を本質とする国家(それゆえに国家は暴力革命では無化できないのである、それゆえにバルトは、国家論、それゆえに革命の過渡的課題と究極的課題とを持たないままヒトラー暗殺計画の企てへと、政治的実践へと向かったボンヘッファーたちを「夢想家」と総括したのである)がそうであるように、「観念によってしか埋葬され」ないということ、それゆえに「甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか……亡びない」(吉本隆明『カール・マルクス』)ということを、全く認識し理解し自覚していないのである。したがって、大木は、『人類の知的遺産 バルト』においては、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用し、私たち読者にそのことへの注意喚起をしていながら、この引用の内容そのものである、それゆえにバルトとは全く反対の思惟と語りをする(ヘーゲル<主義>的な思惟と語りをする、それゆえにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教批判の対象そのものである)ユンゲルを自分の翻訳本を売るために絶賛した時、自らの一貫性なき神学的実存を自己暴露したのである。バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』に依拠して言えば、大木の一貫性なき神学的実存の実姿は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、リアリティなき神学、という点にあったのである。それだけならばまだ見過ごすことができるのであるが、そのことは、人々に対してバルトを誤解させることになり、バルトに迷惑をかけることになる、という点では決して見逃すわけにはいかないのである。なぜならば、バルトの神学は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)の宣教にとって、現在までのところ、最善最良の神学であると言うことができるからである。
 このような訳で、人は、先ず以て、次の認識と自覚を必要とするのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・その場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」・キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」・「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は<方法論>的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」・私たち罪に穢れた人間には、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」、単一性・神性・永遠性を本質とする「み言葉の主である」聖霊によって「再生」された理性を必要とする・「聖霊は理性を抑圧しない」・「理性の再生をもたらす」・しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執するから、誤謬は必然となる・それに対して、客観的な対象として与えられ可視的に存在している第二の形態の聖書(聖書的啓示証言)の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトの場合は、「あやまちは可能である」が、「あやまちは必然」ではないのである(『バルトとの対話』)。ここで、聖霊によって「再生」された理性であっても、その理性は、聖霊と同一ではないのである――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。
 さて、「われわれが~についての教説」・「神論」において解明すべき「前提」は、第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストを主・頭とする教会の中での「神認識の遂行」――この「認識問題」にある。すなわち、「われわれはどの程度まで神を認識し、それに基づいて神について語り、聞くことができるのかを認識しなければならない」のである。ここでは、「神は教会の中で果たして認識されるのかということが問題なのではない」。「神認識と神の存在の問題に対する基本的な態度」が問題なのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。@アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判したが、彼は、「教義学的な合理主義」を明確に否定して、神学を<一般的>真理としてではなく、「啓示から得られた認識」・啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである、Aアウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」として、それを「聖書的・教会的・教義的前提」としたが、アンセルムスは、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾、「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかったし、「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪客観的な「啓示の主観的側面」――具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の出来事、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定≫)」を前提条件としていた、B第三の形態に属する全く人間的なブルトマンは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、神と人間との無限の質的差異における起源的な第一の形態である第一次的な「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における啓示の「概念の実在」を、揚棄し後景へと退けてしまって、逆に、前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された「存在者レベルでの神」を表現する、換言すれば個の現存性における「自分自身の歴史」と「現在の解釈」とを表現する「自己表現としての宣教」を企て、それを<第一次化>することによって、それゆえにその<第一次的なもの>に従事する限りにおいてのみ、「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を<第二次的なもの>としたのである。したがって、ブルトマンにとっては、イエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」、単なる「説明文」に過ぎないものとなったのである。この事態は、神の人間化、人間の神化、偶像崇拝、の企てである。したがって、ハイデッガーが、ブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と述べたことは、現実性と妥当性を持っているのである、C神と人間との無限の質的差異の下で、人が神の「存在を問う問い」は、それは「考えることの対象である限り」、「対象そのものを」問う問いとして、対象を「考えられたものへと解消」(≪人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された存在、すなわち存在者へと解消≫)しないで、その「独立的に存在する」対象そのものとして問わなければならないのである、Dこのアンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができたのである。なぜならば、「神の語り、行為、秘義」である神の言葉(啓示)は、あの~の言葉自身の出来事の運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っており、人間的な「証明を必要としない」からである。このことを念頭に置いて、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1〜U/4』において、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している、必然性不可避性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教える第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教について論じたのである。このような訳で、バルトが述べた、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには」、「一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊(≪その邦訳「~の言葉」の6冊≫)を、ある程度研究する必要がある」ということは、ほんとうのことなのである。なぜならば、人は、この邦訳「~の言葉」の6冊の中に、総括した仕方で、本来的な意味での処女作『ローマ書』の神と人間との無限の質的差異が貫徹されていることを、『福音と律法』のあの内容が貫徹されていることを、等々を明確の見て取ることができるからである。肯定的にしろ、批判的にしろ、否定的にしろ、バルトの部分を拡大鏡にかけて全体化してバルトを一面的固定的皮相的抽象的空論的に論じないためには、先ず以てバルトを根本的包括的に原理的に理解することが必要であるから、あの「バルト自伝」におけるバルトの要望に対して聞く耳を持たなければならないのである。したがって、この「~の言葉」論を理解していなければ、「神論」、「創造論」、「和解論」、「救済論」(「救済論」・「完成論」は未完成に終わった)についても、根本的包括的に原理的に理解することはできないのである――因みに、『シュラエルマッハーとわたし 1968年』(『シュライエルマッハー選集への後書き』)は、私たち読者に、バルトが聖霊論執筆の夢を抱いていたことを教えてくれるのであり、それゆえに聖霊論に関わる「救済論」執筆の意欲は持っていたことを教えてくれるのであるが、バルトが「よい聖霊論」に固執する理由――それは、「よい聖霊論だったら」、~の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った「シュラエルマッハー(≪また「シュライエルマッハー以外の他の人々」≫)およびすべての近代主義(≪また近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教≫)に対する最高の批判になっただろう」からである。バルトの聖霊論の原則は、次の点にある――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)。バルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、自問し続けた――「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動」、「事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい」・例えば「絶対依存感情」(「敬虔心」)の概念に対する「問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、人間の自己意識の働きとして、ある対象を知覚作用により対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(概念化作用・内在化された対象の時間化)するという点においては、あるいはまた感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化)する感情作用と同じであるという点においては、それは人間学的概念であるとしても、もしもその概念を「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として根拠づけ得るとすればどうであろうか、という自問である。しかし、いずれにしても、シュライエルマッハーの目指す「敬虔性と関連した共同体」、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする「自己表現としての宣教」の企ては、ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものであり、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものなのである――「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)。したがって、バルトの夢――それは、自然神学の系譜に属さないところの「霊的に精神的(≪学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」による、最善最良の「第三項の神学」、すなわち聖霊の神学の構成にあったのである。したがって、バルトは、自然神学の系譜に属するところの誰かが、勘違いして恣意的独善的に自分がそれだと思い込んで、「軽薄に書きあげ」た聖霊の神学が市場に出回らないことを、衷心から切望したのである。なぜならば、その場合、自然神学の系譜に属するところの誰かが恣意的独善的に「書きあげた」聖霊論は、<聖霊>概念について、人々を誤解させ、人々に迷惑をかけることになるからである。言い換えれば、その場合の自然神学の系譜に属する<聖霊>概念は、~の人間化あるいは人間の神化を原理とした「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ったシュラエルマッハーやシュライエルマッハー以外の他の人々およびすべての近代主義や近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な「最高の批判」を構成できないからである。いずれにしても、実際の神学の動向は、例外なく、そのバルトの衷心からの切望を容赦なく打ち砕き、場当たり的な惨憺たるものとなったし、惨憺たるものとなっているのである。例えば、モルトマンの「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論を見られたし。小泉健は、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を、第三の形態に属する全く人間的な説教者の自由事項・裁量事項・決定事項としてしまっている。彼らは、神の恵みの出来事を人間的主観に実現させる聖霊の注ぎ(あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による)を、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項にしてしまっているのである。したがって、自然神学の系譜に属する彼らは、その説教の語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないということについての認識と自覚を、それゆえに説教あるいは教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立していることについての認識と自覚を、欠如させているのである。言い換えれば、ヘーゲルを、近代以降の「人間の時代の哲学」(『ヘーゲル』)を、近代以降の世界を、<否定的>に媒介することをしないで、ただ即自的に骨肉にまで受け入れていく自然神学の系譜に属する彼らは、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を残したいのである、常に残すことを考えているのである。その証左は、聖書解釈に引き寄せて総括的に言えば、「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)の属格を、不信仰・無神性・真実の罪――そうしたただ中にあった・あるそれぞれの世代、それぞれの世紀において、過去から現在、現在から未来にずっと生き続けるところの、<神の側の真実>としてのみある主格的属格、として理解したバルトに対して、自然神学の系譜に属する邦訳の<旧来訳>聖書だけでなく<新共同訳>聖書も、近代以降の「人間の時代の哲学」(『ヘーゲル』)と相まって旧態依然として、「神だけでなく人間も」という人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も残すところの目的格的属格として理解している点に見ることができるのである。したがって、両邦訳は、それゆえにそこでの信仰・神学・教会の宣教、そこでの反近代主義のエコロジー神学(この極限に想定されるのは天然自然主義神学)等を含めてそこでの社会的あるいは政治的実践は、すべて、近代<主義>に、自然神学の系譜に属する近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教に包摂されてしまうのである。自然神学の系譜に属する彼だけではないが、換言すればすべてと言ってもいいのであるが、バルト研究者の寺園喜基(『バルト神学の射程』)も、バルトとは全く反対の目的格的属格理解においてバルトを論じているのである。したがって、それは、人々に、根本的包括的に原理的に、バルトを誤解させ、バルトに迷惑をかけるものとなっている。
 さて、「イエス・キリストの教会の中でのすべての語りと聞くこととは、徹頭徹尾……神がイエス・キリストの教会の中で(≪あくまでも、神のその都度の自由な恵みの決断による具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で、人間的に≫)認識されるということ、……あの主体(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)が、語る者と聞く者に対して(≪~の言葉自身の出来事の運動において≫)対象として現臨するということ、人間が教会の中で現実に神の前に立つということに基づいているし、またそのことと関わっている」。したがって、「もしも人間が現実に神の前に立っておらず、もしも神が人間のその知覚その直観と概念を用いて為す把握の対象でないとするならば、もしも人間が……神を認識しないとするならば、人間は神について語り聞くことはできないであろう」。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「新約聖書の内容」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエス・キリスト名」――すなわち、この「主辞」(「主体」)なき「表象や概念は、夢の中で出てくる幽霊でしかない夢の世界での生であるであろう」。
 このような訳で、「われわれは、神は~の言葉(≪あの神の言葉自身の出来事の運動≫)を通して認識され、繰り返し認識されるであろうということから出発する」。なぜならば、~の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している、必然性不可避性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性においてあるからであり、神のその都度の自由な恵みの決断によるところの具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰においてあるからである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な「キリスト教会という場所」における神認識は、あの~の言葉自身の出来事の運動を通してだけ、「ただそれによってだけ神認識は実在であり、実在を持っており、ただそれに基づいてだけ神認識が遂行され得る神の言葉(≪起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉≫)を通して基礎づけられており、その限り(≪神認識は、その、教会の、それゆえに教義学の、原理・規準・法廷・審判者・支配者としての≫)~の言葉を通して問いに付されている……」のである。「そのようなわけで、神は果たして認識されるのかということは問」うことができないのである。「それと共に既に、(中略)神が認識されるところ、そこではそれに対応する可能性があるのである」。この「可能性を問う問い」は、「抽象的ニ問」うことはできず、「具体的ニ問」うことができるだけであり、「先験的ニ問」うことができず、「経験的ニ問」うことができるだけである。なぜならば、神認識を「抽象的ニ」、「先験的ニ」問う問いは、「~の言葉の真理、威厳、権能」を後景へと退けてしまうところの「神認識そのものの外部にあるひとつの場所が存在することを前提している」からである。したがって、「イエス・キリストにあっての~の言葉の実在が、またその中での~の言葉が人間のところに来る聖霊の実在が、その可能性を自分自身の中に持っているように(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力の中に持っているように≫)」、神認識の可能性も、あの~の言葉自身の出来事の運動における、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰という現実の事実、その「現実の認識そのものから問」うことができるだけなのである。第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会という場所においては、神認識の可能性は、あの客観的な対象として与えられ可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉から、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉から、問うことができるだけなのである。したがって、その~の言葉から、「どの程度まで神は認識されるのか、またどの程度まで神は認識可能であるのか」という問も立てることができるだけである。「これらの問い」は、「正当であり、意味深い」のである。なぜならば、それらの問いが、「教会の宣教のまことの問いであり」、それゆえに教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である「教義学のまことの問いであり、教義学の形式的および実質的課題のまことの対象であるからである」。このような訳で、「そのように立てられた問いを持っている人は、(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教える教会においても(≪「新しく証言して行くよう呼び出されるために」≫)聞く教会においても、(≪第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、その直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」を媒介・反復することを通して、すなわちそれに聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのものと間接的媒介的反復的に同一となることによって≫)神の言葉の轍の上を進み行く」のである、それぞれの世代、それぞれの世紀において、キリスト教に固有な類(キリストにあっての神を尋ね求める・純粋な教えを尋ね求める「神への愛」に基づくキリスト教会の客観的な信仰告白・教義)の時間累積を為していくのである、キリスト教に固有な類の歴史的連続性(歴史性)に連帯するのである。「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。したがって、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」つつ、その信仰・神学・教会の宣教に個性や時代性を刻んだのである(『啓示・教会・神学』)。