本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−1)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−1)−1(232−254頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の用意」(その4−1)−1
 前回(4)において、次のようなことが述べられていた――人が、聖書的啓示証言に信頼し固執することによって、教会史的現象としてある自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に対して、それには<客観的な可能性>や<客観的な生命力>は存在しないと「否定的な判断を下し」、その自然神学を揚棄し克服していく「決断を(≪神の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に対する≫)服従の中で(≪他律的な服従と自律的な服従の同在性において≫)なしてゆく」ためには、「人は、その際に、為すところのこと、また為さないでいることが何であるかをよく」認識し自覚していなければならない、と。なぜならば、人が、そのことについて認識し自覚していないならば、「人は知らずして再び不服従に陥ってしまう」ことになるからである(最後的には、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退けた、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという志向性の下で、人間自身教会自身が対象化し客体化したものに過ぎない「存在者レベルでの神」を第一義化・価値化してしまう、人間の神化、神の人間化を志向し目指す自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教になってしまうからである)。神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指す第三の形態に属する全く人間的な「教会の地盤の上では議論の余地なく……不可能である」ところの、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学の<段階>のキリスト教信仰・神学・教会の宣教へと移行できる「単純で、自明的な認識」は、次のような「認識」と自覚である――すなわち、それは、@「神の認識可能性をただ<神ご自身の用意>(≪「神の用意」、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中でだけ見出すことができ」るという認識と自覚である、またAキリスト者を含めて私たち人間の生まれ持った「理性や力によっては」、イエス・キリストにあっての神を、キリストの福音を、「全く信じることができない」という現実の事実の認識と自覚の下で、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、「ただ神の啓示の自由な恵みとあわれみから」、換言すればあの神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて与えられる「われわれにとって近づきうるものとされた近づき得ないものとして(≪なぜならば、イエス・キリストにあっての「神はまさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるという仕方で自己啓示されたから≫)、感謝をもって受け取ることができるだけであ」るという認識と自覚である。したがって、二元論的にイエス・キリストにおける神の自己啓示から独立させた「そのほかの神の認識可能性を期待するようなすべての神学」(総括的に言えば自然神学の<段階>における「すべての神学」)は、「その発端において、神が身を置き給うたところとは別な方を見ており、それと共に既にその発端においてキリスト教的神概念に対する暗殺計画を意味しているが故に(≪なぜならば、そこでは、神と人間との無限の質的差異が人間の恣意性独善性によって揚棄され後景へと退けられて、それゆえに人間自身教会自身が恣意性独善性嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神」・偶像が認識の対象とされてしまっているから≫)」、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した「教会の地盤の上では議論の余地なく……不可能」なのである。現存するこのような事情の中で、「今これから問われなければならない」肝要なことは、具体的には聖書に依拠して、「どういう教会ノ意見ノ一致が問題であるか」という点にある。
 このような訳であるから、前述したことを前提として「神認識ということ」で「人間の用意も理解されていないとしたら、神認識なるものはもともとないであろうから」、「自然神学の生命力を問う問い」は、「<人間の用意>として理解されなければならない神の認識可能性を問う問いの探求の中に含まれていなければならない」。なぜならば、神の用意が人間の用意を限界づけるのであって、人間の用意は、すなわち「人間の本質と行為」は神の用意を決して限界づけることができないからである。もしもできるとしたならば、そのキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判の対象そのものである宗教でしかなくなってしまうからである、換言すればそれは、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した<偶像>崇拝でしかなくなってしまうからである。言い換えれば、「神は認識可能である」ということは、「全くただひたすら神の用意、換言すれば神の啓示の恵みとあわれみの中でわれわれに対し贈り与えられる神の認識可能性であるということである」、すなわちそのことは、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言)とその出来事中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事であるということである。「神は認識可能である」ということは、~の側の真実としてのみある、神のその都度の自由な恵みの決断に基づいて~の側からやって来る出来事であるということである。したがって、人間は、あくまでも、ただ神の言葉(起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には聖書的啓示証言)に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、そのことに奉仕することができるだけなのである。このような訳で、「神の用意の中に」「含まれている」「人間の用意」が問題となるのである。したがって、自然神学が二元論的に前提する、直接的で無媒介的な「人間の用意」が、「人間の本質と行為」が問題なのではない。言い換えれば、「神がわれわれによって認識されるべくご自身で用意してい給うということと共に」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動という「神の用意」と共に、そしてあくまでも「<そのことの中>で、また人間も神を認識すべく用意ができている」という「人間の用意」が、換言すれば神の言葉(起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には聖書的啓示証言)に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性という「人間の用意」が問題なのである。「あくまで、神の用意によって包まれ、基礎づけられ、限界づけられ、規定されつつ、それであるから決して独立した仕方ではなく、むしろ間接的に」、先行する「神の用意の後に従いつつ、神の用意を通して無から存在へと、死から生命へと、呼び出されつつ、徹頭徹尾、神ご自身から、神ご自身による、神の認識可能性に依存しつつ」、「まさにこの徹底した依存性の中で」、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下でのみ「被造物が神との関係の中で」存在することが「できる限り」、「現実の仕方で、神を認識しようとする人間の用意が存在するのである」。したがって、「神認識に対する人間の用意の問題」は、イエス・キリストにおける啓示と共に、二元論的に「人間の用意」、「人間の本質と行為」も前提する自然神学的な直接的で無媒介的な神認識にあるのではなく、前述したような「間接的」で媒介的・反復的な神認識にあるのである。しかし、この「神認識に対する人間の用意の問題」の探求を、「自然神学は、……(≪人間の用意を包摂した神の用意を揚棄し後景へと退けて≫)人間の用意を独立した要因にまで高め、したがって……神の用意を……唯一の用意として理解せず、神の用意に依存しているとは理解しない仕方」で行うのである。したがって、「自然神学は、……その啓示の中での神認識の可能性(≪あの、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動≫)と並んで、第二の、ほかのところで基礎づけられた(神の)認識可能性を主張するという仕方で取り組む」のである、「理性と啓示」、「哲学と神学」の混淆・混合・協働を主張するのである、「神の啓示を説明するという課題のほかに、それと並ぶもう一つ『別な』神学の課題」を主張するのである。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、自然神学の最後的形態、すなわち「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を止揚し、神の人間化、人間の神化、神学の人間学化、人間学の神学化へと到達した「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」のである。この時、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのキリスト教批判・揶揄は根本的包括的で原理的であり、現実性と妥当性を持っているのである――前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化した(『ルドルフ・ブルトマン』)ブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい(≪なぜならば、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もということは、バルトが『福音と律法』で述べているように、不信仰・「無神性」・真実の罪そのものだからである≫)』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰(≪なぜならば、その場合、人間自身教会自身が対象化し客体化した偶像崇拝としかならないから、その偶像の名と呼びかけによる救いと平和の企てとしかならないから≫)は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。したがって、「神の用意」に包摂された「人間の用意」の「問題と取り組む際」、このような「自然神学の取り組み方をわれわれは拒否しなければならない」のである。神認識が可能であるとするならば、そして聖性・隠蔽生・秘義性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「どの程度まで神は人間にとって認識可能であるかを問うことは必然的なことである」。この問いに対する「正しい答え」は、そして「ただその中でだけ」、「われわれの……自然神学の拒否は拒否として意味深く……あることができる」。なぜならば、その「正しい答え」は、「自然神学によって答えられた正しくない答えの発生と存続の可能性が、まさにそれと共にそのような答えの生命力の秘密」を、「必ずや明らか」にするからである、換言すればその「正しい答え」は、自然神学についての問題を明確に提起しているからである。「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。
 前述したように「神の用意」とは「神の恵み」であるから、「神の用意」に包摂された「人間の用意」は、「明らかにその恵みに対する人間の用意でなければならない」。したがって、「人間の用意」は、人間の側の神の恵みを受入れる用意のこと、人間の側の神の恵みに対する開放性(開いた心)のことである。聖書において単一性・神性・永遠性を本質とする神は、その第二の存在の仕方(性質、業と行為、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)において、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示した。したがって、「神を認識しようとする人間の用意」は、この「奇蹟」――すなわち神は「父なる名の内三位一体的特殊性」として、その内在性において、「ただ単にご自身の中で主、創造主、和解主、救済主であり給うだけでなく」、また「ただ単にご自分に対して父、子、聖霊として開いてい給うだけでなく」、その顕現としての第二の存在の仕方、業と行為、神の言葉、啓示・和解において、「人間にとっても」「それらすべてのもので……あり給うという奇蹟」を、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、人間の側が受入れるという点に、換言すればそのことに対して人間の側が心を開いているという点にある。「神を認識しようとする人間の用意」は、@「恵みに対して」人間が「欠乏している姿」(なぜならば、神は「この奇蹟の中で認識可能となるほかには」、「人間にとって認識可能となることはない」からである)、A「恵みについての」人間の「認識」(なぜならば、人間はあの神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて「神の恵み」を与えられることなしには、誰も「神の恵みを必要」としている自分の「欠乏した姿」を認識し自覚することはできないからである)、B「恵みをすすんで受入れようとする」人間の「乗り気」(なぜならば、「恵みの奇蹟」に対して開いているためには、~の側からする「神的介入」に対して、「人間の主観的な乗り気」、すなわち「恵みの奇蹟」を「あくまで堅くとって離さないでいようとする乗り気」が必要だからである)から「成り立っている」。この「三重の前提が満たされることなしには、(神認識がまさに神の恵みである時)神の認識可能性」は存在しない。しかし、「この開いていること」が、直接的無媒介的な人間の側から開いていることであるとするならば、そのことは、先行する「神の用意」に対して、人間が「完全に心を閉ざしている閉鎖性の中で起こっている」。なぜならば、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間は、キリスト者であれ誰であれ、「自分の理性や力」や悟性や想像や意志等によって「全く信じることはできない」し、「ただ単に偶然的、暫時的に」というだけでなく、「もともと生まれながら」、必然的不可避的に、それゆえに「不断に」、「神の恵みなしにも存在することができあるいは自分で自分に神の恵み(≪自分が対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」における神の恵み≫)を与えることができる富んだ者」という自主性・自己主張・自己義認の欲求、それゆえに不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生きているからである。人間は、「自然的な人間として、常に、至る所」、神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退けてしまって、人間の「客観的な不幸」としての「このできるという可能性を用いている」、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという生と生活を生きている。したがって、人間は、そうした中で、先行する「神の用意に対して必然的に心を閉ざしてしまう」のである。人間は、「善悪を知る知識」を「所有しつつ人間は神のようであろうとし、かえってそのためにこそ不幸に陥ってしまい、まさにそのようにしてこそ神の恵みに対して疎遠」となってしまった。人は、神だけでなく人間もというこの二元論的な「認識の故に、……神の用意に対して」「心を閉ざ」すことになる。その自然神学的な根拠は、ローマ3・22やガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」(ギリシャ語原典、ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の目的格的属格理解(人間の直接的無媒介的な<イエス・キリストを信じる信仰>)にあると言うことができる(したがって、そのような自然神学の<段階>における翻訳の仕方、主張、立場に対して、私たちは、バルト共に、ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格は、~の側の真実としてのみあるところの、「明らかに主格的属格として理解されるべきものである」と告白し、この主格的属格理解を、すなわち神の「救いの答え」を、「われわれの人間のために」・「われわれ人間に代わって」「死に給う」という仕方で、「全く端的に信じ給うた」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の子、神の言葉、啓示・和解、神の最高の義である<イエス・キリストが信じる信仰>ということを、立場とする)。自然神学の<段階>における「この心を閉ざしている状態」を、人は、自分の「乗り気」や「理性や力」や悟性や想像や意志等によっては「克服することはできない」のである。「彼の意志の乗り切りというものは、この弁証法の宿命的な循環を打ち破ることはないであろう」。なぜならば、そこでは人は、神だけでなく人間もというその現にあるがままの現実的な人間存在の「彼によって認識された(欠乏した姿と恵みの)弁証法に身を委ねようとする彼の用意(≪人間の用意≫)以外」に何も持っていないからである、唯一の先行する「神の用意」だけでなく二元論的にそれと独立した「人間の用意」を前提する「彼は、(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在、永遠的な実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「神の最高の義」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである、イエス・キリスト≫)神の恵みと、ただあたかも彼が(≪「自分の『理性や力』」や悟性や想像や意志等によっては「全く信じることができない」にもかかわらず≫)その神の恵みを意志的に欲しなければならないかのように」あるいは「意志的に欲することができるかのように関わる」からである(この時、その最後形態においては、「神の恵みは彼にとって、彼を絶望へと突き落とす律法となるであろう」、それゆえに平然としておられる人々は、先行する「神の用意に対して……心を閉ざしたままである」「律法学者とファリサイ派の人々」、それに類する人々だけであるだろう)。自然神学の<段階>で「遊ぶ」彼は、~の側の真実としてのみある、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言におけるそれ)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)という神の用意にのみ信頼し固執した、「主よ、わたくしの不信仰をお助けください(マルコ九・二四)」(『福音主義神学入門』)、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)というそれ以外の言葉を発することができないほど嘆息した祈りを持たないでいることができるからである。
 さて、バルトは、『カント』で、自然神学を包括的に、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べた。このような訳で、先行する神の用に対して二元論的に人間の用意も前提した人間の側からする「人間的に開いていることについての表象や概念をいくら分析してみてもわれわれは、神を認識しようとする人間の実際の用意に対して、ほんの少しでも近づ」くことはできないのである。したがって、「われわれは常に……人間が開いていることそれ自体は、それとしてただ単に、神の用意に対して彼が心を閉ざしていること、彼自身用意ができていないこと」、それゆえにそれは「神の認識可能性ではなく認識不可能性を意味する」ということ、換言すればそれはその最初から「誤謬は必然」であるということを認識し自覚しなければならないのである。神の用意に包摂された人間の用意は、人間の側からにおいては、「必然的に『不服従の中に』(ローマ一一・三二)閉じ込められているというあの閉鎖性のことを考えることができるだけ」なのである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『啓示・教会・神学』で、次のように述べたのである――@教会の宣教(説教と聖礼典)を「より危険なものにしてしまう」のは、正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある・説教(その神学)の思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、教会自身、説教者自身、神学者自身、すなわち人間自身の決定事項ではないのである、それゆえにその思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている・「教会は、(≪あの神の言葉の出来事の自己運動に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属するものであるようなことがあっても、教会は存在する」、「(≪それゆえにそうでない場合は、)どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」、それゆえにこの指摘は、自由主義国家、政治的近代国家、民族国家の法的、制度的、政策的な言語を介して人間の救いと平和を企てるところの、そのように世俗化しながら国家論(革命論――なぜならば、革命の究極像は国家の無化にあるから)の過渡的・究極的な課題を認識し自覚しないままにただ時流や時勢に流され続けて国家に対応する日本キリスト教団(「平和を求める祈り」)やカトリック教会(「抗議声明」)を含めた多くの教会に対する現実性と妥当性のある指摘である。バルトは『証人としてのキリスト者』で、自ら加担していた宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかったとして、最終的にそれから離脱したことを、少なくともバルト自身の読者(党派的な<反>を含めたバルト学者やバルト主義ではない、バルト者)は、肝に銘じていなければならないのである。なぜならば、宗教的社会主義に加担していたバルを形而上学的一面的固定的に抽象して、換言すればその時のバルトを拡大鏡にかけて全体化して、これがバルトだと吹聴する<反>を含めたバルト学者やバルト主義者がいるからである。バルトの立場は、いつも明確である――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)、それゆえに「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報が不足している、「神の言葉」だけでなく「人間の経験の尊重」も≫)、と考えるようなことがある限り」、また二元論的にキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えだけでなく社会的あるいは政治的な運動も必要であると考えるようなことがある限り、「彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」のである(『説教の本質と実際』)。したがって、バルトは、次のような信仰的神学的実存を生きたのである――すなわち、バルトは、ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準の下で、言葉だけでなく行為も、説教だけでなく社会的政治的実践もという二元論を生きたのではなく、「かつて語った(≪キリストの福音についての≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という信仰的神学的実存を生きたのである。
 「われわれ」には、神の用意に包摂された人間の用意について、さらに究明しなければならない「要因」がある、換言すれば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教について、さらに究明しなければならない「要因」がある。神は「ご自身を人間に対して、現実に啓示し給うた。そして、その啓示の中で神の恵みは現実に人間のところに来たのである。まさにそのことに基づいてこそ、われわれは……神をその啓示の恵みを通して明らかにされた現実性の中で……考察してゆく権利を持つだけでなく、考察していくべき義務を持っている……神の恵みが人間の不幸を救うために助けとなることを信じることができるという前提を立てるべき権利と義務を持っている」。このことは、「教会の説教と聖礼典の中でなされる宣教からして、教会を基礎づけ、保持する神の言葉からして、前提されなければならない……」。しかし、このように「現実に恵みを人間にもたらし、提供する神の言葉を念頭においてだけ、……人間の用意について語ることができる」のであるが、「神の恵みの現実的な言葉の光の中で明らかになってくる困窮と救助の現実性全体」は、換言すれば「神の恵みに対して開いている人間についての思想」は、神の用意に包摂された人間の用意を念頭に置いた人間についての思想は、それが二元論的に、イエス・キリストにおける啓示、神の用意とは独立的した直接的で無媒介的な「人間の用意」も前提としている限り、生まれ持った「人間の本質と行為」も前提としている限り、「現実的な啓示を考えることをもってしても」、神に対する現実的な「人間……の用意にまで到達しはしなかった」のである、そこでの人間は「神の用意に対して心を閉ざし」た「不従順の中に閉ざされた人間であることができるだけ」だったのである。言い換えれば、神の用意に包摂された人間の用意について語るとしても、そこで「われわれ」が、一方で二元論的に「人間の現実を人間自身の内的な現実として理解する」限り、また「人間そのものについて語っている時、また語っている限り」、換言すれば神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もというということを「語っている時、また語っている限り」、すなわちあのローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」を目的格的属格理解において「語っている時、また語っている限り」、「たとえ彼が、その最後的な失われた滅びに陥った姿の中で見抜かれた人間であり、教会の説教と聖礼典を通して、したがって最後的には神の言葉そのものを通して語りかけられ、したがって(≪イエス・キリストを≫)信じる人間であっても、それとしての彼自身は、依然として、神の用意に対し心を閉ざした人間である」と言うことができるのである。すなわち、「人間が罪の負い目を負うており、限界づけられており、最後に死ぬことができ、したがって失われ滅びに陥った者でありうる現実、その中で彼が恵みを必要としており、恵みを認識し、恵みを進んで受入れようと乗り気でいることができる現実、しかしまた、その中で彼がそのみ言葉の中での神の恵みの受領者であり、その中で彼が(≪イエス・キリストを≫)信じる者であることができる現実、この現実自身」は、「それとして、決して既に神の用意に対する彼の閉鎖性を打ち破るものではない」のである。したがって、神の用意に対する人間の「閉鎖性を打ち破」り、開放性について「真剣に語ることができるとすれば」、そのような人間の「現実」の「外」・「彼岸」から「全く別なことが……付け加わってこなければならない」のである。言い換えれば、その時には、人間の「現実は、既に人間の外に(≪彼岸≫)ある全く別なものに(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰に≫)基づいており、根ざしていなければならない」のである、「換言すれば、その人間の現実が全く別なものから生き、その別なものから実在であるという仕方で、その別なものに基づいており、根ざしていなければならない」のである。この時、「まさに啓示の恵みを通して正体を暴露された人間存在の現実の姿こそが、われわれに対して、人間自身はそれとして平和の中にいるのではなくむしろ恵みに対する抗争の中にいるということを示すのである」(現実的に「明るさ」と「暗さ」の弁証法を生きているその現にあるがままの「われわれ」の現実的な人間存在における、恵みに対する抗争が「必然性」としてあるこのことは、「第一に恵みが解放しなくてはならない」「人間の不幸」であり、「人間の危急」である)。しかし、人間は、「それらすべてのことの中で終始、自分を保持し、自分を主張ことができるのである」、神に対して自分の自主性・自己主張・自己義認の欲求を求めるのである、「神に似た姿」、「富んだ者の役割」、すなわち「神の自由」・「神の自己運動」と混淆あるいは混合させた対自的で対他的な、他在であって自在な、自由な人間の自己運動の「夢を見る」のである。因みに、国家論、革命の究極像としてある観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的総体的永続的な解放・平和は、高度に更新された人間精神を必要とするから(このことをマルクスも吉本も認識し自覚している)その究極的な革命はもちろんのこと、国家をではなく社会を第一義価値とする過渡的革命の構想も提起することはできてもその実現は困難であるだろう。いずれにしても、人間は、「現実には、(キリストにあっての神の恵みに)担われることを決して望みはしないのである」、すなわち、人間は、たとえ「イエス・キリストを信じる」というキリスト者であれ、少なくとも半分は自分の自主性・自己主張・自己義認の欲求を残そうとするのである。このことは、人間の側にある「必然性」であるから、イエス・キリストにおける啓示、神の用意とは独立的した直接的で無媒介的な「人間の用意」を、すなわち生まれ持った人間の「理性や力」等を、「人間の本質と行為」を前提としている限り、「われわれが人間を神の言葉の光の中で考察する時でも変わらない」のである。したがって、人間は、「外」から・「彼岸」から「神の用意」の側から更新されなければならないのである。確かに、人間は、外在的に、恣意的独善的嗜好的に、「恵みを信じるであろう」、「恵みを感じるし、恵みを喜んでいると主張するであろう」、「恐らく恵みを讃美するであろう」、「恐らく恵みを教え、……恵みを弁護し、またそれらすべてのことを全くの誠実さをもってなすであろう」、「しかし、彼は、それらすべてのことの中で、終始、恵みから生きないであろう」、恵みの側からのみ生きないであろう。人間は、「恐らく恵みに対する彼の熱心さによって生きるかもしれないし、恐らく恵みについての彼の認識によって生きるかもしれない」、「また、恵みを進んで受入れようとする彼の意欲によって生きるかもしれない」、「しかし、彼は恵みそのものによって生きはしないであろう」、「むしろ……恵みに逆らって生きるであろう」。客観的な啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である、客観的対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に感謝をもって信頼し固執し連帯しないであろう。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリストを、具体的には聖書的啓示証言を、徹頭徹尾、キリスト教信仰・神学・教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者とはしないであろう。暗黙の裡に、少なくとも半分だけは、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的欲求も、という仕方の生と生活を生きているであろう。人間のそれゆえにこのように、「キリスト教的な、教会的な、また全くプロテスタント的――教会的なキリスト者の生の現実も、教会の生の現実も、それとして、どこにおいても決して、恵みに対して開いている人間の姿について証ししてはいない」のである。このように、教会(その全成員)の生と生活の現存は、無意識の共同性として存在している自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教として規定できるのである。神に敵対し神に服従しない私たち人間は、どこまでも「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは(≪その現にあるがままの現実的な人間存在のままでは≫)神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないのである、換言すれば持って生まれたそのままの人間の「理性や力」、悟性、想像、感情、意志等によっては、神を認識することはできないのである、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を得ることはできないのである、キリストの福音を「全く信じることができない」のである。確かに、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者たち、大学知識人、それに類する牧師や著述家たちのように、「自分の理性や力」によって知的に、学問的に、学業的に、聖書やキリスト教を研究対象として認識することはできても、その知的、学問的、学業的認識と信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰との間には、「依然として越えることのできない深淵」があるのである。この深淵を越えさせ、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰を終末論的限界の下で与えるものが、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)なのである。したがって、先行する神の用意に包摂された人間の用意において、徹頭徹尾、その先行する「神の用意」に対して理性や心を「開いた態度」とは、聖霊によって更新された理性や心の「開いた態度」、この認識と自覚、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰としての「神の認識可能性の再発見」ということである。