5の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(144-202頁)
5の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(144-202頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
5の2.「啓示の時間――待望の時間」
(B)新約聖書の啓示と同じように、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示が、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方――「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」(顕現性)において、その内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性(隠蔽性)の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるのと同じように、旧約聖書の啓示は、「神がご自身を啓示(≪顕現≫)されることによって、ご自分が隠れた神であることを実証し給うという啓示」についての証言である。まさにキリストにあっての神は、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」のける三つの存在の仕方、父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体である。
さて、イスラエルの歴史は、神の隠蔽性の中で、その「イスラエルの歴史の主題」である「第一および第二の誡命(≪への忠実と服従・排他独占性の原理≫)を携えたヨシュアと士師たちの時代からサムエルの時代にいたるまでイスラエルに対して立てられた問い」、服従か反抗か、神の契約に対する忠実と服従による「神の現臨、指導、助け」か神に対する反抗としてのその土地の「自然、歴史、文化の中に溶け込んで住みたい」という自然な欲求からする「パレスチナ在住の民」との「自然的」・「人道的」な平和的共存かを考慮する時「よく理解することができる」。神への忠実さ、すなわち第一・第二の誡命への忠実・服従と、「他の種類の忠実さは折り合えないのである」。何故ならば、イスラエルの神から授与された第一・第二の誡命への忠実・服従は、「回りの世界の神々を、……最も深いもの、最上のもの、最も生命あるもの、……もろもろの絶対的関係と思われているものを、おしなべて否定しなければならなかった」からである。旧約聖書の「全くただヤーヴェの関心事だけに対して気を配った預言者たち」が、イスラエルの民に欲したことは、「民族であるという資格を犠牲にして」でも、ただひたすら「神の民」であり続けることであった。そして、彼らは、神の隠れ・隠蔽性の中で、個人的に「最も多く苦しまなければならない」者であった。しかし、これらのことは、その最初から、イスラエルの民であれ、教会の成員であるわれわれキリスト者であれ、全く不可能であることを指し示している。何故ならば、われわれ人間の現実存在は、類と歴史性――個と現存性との結節点で生きることを不可避としているからである。したがって、そこには、ただ、神の「裁き」しかあり得ない。しかし、その裁きが目指すところのことは、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、イエス・キリストの死と復活の出来事を通した、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」を通した、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の全く新しい「更新」でなければならない、イエス・キリストによって成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済およびその救済に包括された平和でなければならない。「イスラエルの歴史は、成就された時間(≪キリストの復活四〇日≫)の中での世界の裁き(≪イエス・キリストのその地上における全生涯、ことにその十字架の死≫)を宣べ伝えることを意図している。それは成就された時間(≪キリストの復活四〇日≫)を待望する時間である。……それは成就された時間を待望する時間であるが故に、それ自身啓示の時である」。
神の隠れ・隠蔽性の中で、「全くただヤーヴェの関心事だけに対して気を配った預言者たち」が、個人的に「最も多く苦しまなければなら」なかったように、ヨブと伝道者によれば、義人も、神の隠れ・隠蔽性の前で嘆き苦しむのである。神の隠れ・隠蔽性の中で、「神を恐れ、神に仕えることは全く無益ではないのか、人間がなすことができるすべては、よしんば最上の、最も賢い、最も従順な生活においても全く空しいのではないか」という義人の問いに対して、「すべての人間的な答えが持つ力と慰めは」、それがただ「人間的な答え」でしかなく、キリストにあっての神によるキリストとにあっての神の答えではないが故に、慰めや励ましとはならずに、嘆き苦しみも解消することなく、「挫折してしまう」のである。しかし、イスラエルの神は、「その最も忠実な」義人に対して、すなわち「神ご自身が彼らに向かって語り給うた」が故に、「神ご自身が語り給うた」ことを聞いた義人に対してこそ、隠れた神として、義人の「最悪の敵の業の中にかくれていますのである」。隠蔽性と顕現性においてあるその神の「隠れ」・隠蔽性の中で、義人は、嘆き苦しむのである。したがって、その義人にとって、「神を認識し、恐れることは空しくないのである」。何故ならば、その義人は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられているが故に、その義人にとって、「神を認識し、恐れることは空しくないのである」。
「苦しむイエラエル、苦しむ預言者、苦しむ義人は、キリストではない」。全く新しく更新されるためには、「キリストの理念ではなく、実在の、歴史的なキリスト、あのポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケタ」、イエス・キリストの「唯一無比な一回的な」復活に包括された十字架の死を必要とするのである。そして、復活に包括された「十字架にかかり給うキリスト」は、結局「苦しむイエラエル、苦しむ預言者、苦しむ義人であった」限りにおいて、神は、彼らに、「無駄に苦しみを受けさせ給うたのではなかった」ということを意味している。旧約聖書は、神の恵み(福音)として証しされた「神の裁き(≪律法≫)の秘義」において、「この裁きのもとに立つ人間の苦悩だけ」でなく、「この裁きを自ら自分の身に受け取り、負い給うた神ご自身の苦しみを証ししている。それは、イエス・キリストを待ち望む待望を証ししている。それは、……ベツレヘムの馬小屋での、ゴルゴタの十字架上での、神の隠れの前奏であり序曲であるものを証ししている」。
イスラエルの歴史の事実は、「神との契約」・「神との出会いの中で」、いつも神から遠ざかり・遠ざかり続ける、罪を新たな罪を犯し続ける、「絶えざる誤解、絶えざる恣意、絶えざる反逆の歴史」にある。その根拠は、「隠れた神の支配」、神の隠蔽性における、不可避的な「酷しい現実」における生と生活にある。その中で、その隠蔽性に耐えられずに、「金の子牛を造って拝むという反逆が行われる」。また、「神が契約を結び、保たれる際相手にされるものは、純粋な、正しい、道徳的な人間ではない。それはむしろ違反者であり、繰り返し違反者として自分を示すところの人間である」。旧約聖書の歴史記述に登場する「最大の英雄たち……モーセやダビデ」も、「預言者たち」……も……その例外ではない」。ましてや神との関係において自己自身を「罪人――何かあるひとつの『悪』、『不徳』、『不道徳』におけるそれではない――として深く洞察した旧約聖書の第三部に出てくる『義人』」は、「自分たちはそのような通則に服していないなどと最も主張しない者である」。「神と契約を結んでいる人間、神との契約の中に神によって移された人間は罪人でなければならない」。「兄エサウを出し抜くようにして選ばれ者となったヤコブは、……全く問題的な人物でなければならない」。「反抗」を押し進めたヨブや「懐疑」を押し進めた伝道者、「『義人たち』こそ、神の告訴と裁きのもとに立たなければならない」。この反抗・対立の中で、神は人間に対して、「その思いは、天が地よりも高いように、人間の思いよりも遥かに高いところの隠れの中で、神聖性の中で、現にあるがままのものとして自分を示すようにと、要求され」、そのことによって「罪人」としての人間を「明るみに出されるのである」。この意味で、「イスラエルの罪は、……神的隠れの人間的側面」としてある。ただ、旧約聖書の中では、「罪そのものが秘義」、「契約を破るという秘義」としてある。この「契約の地盤の上で」、イエスは、「エルサレムに上って行かなければならなかった」、「十字架につけられねばならなかった」。それに対して、人間は、神との関係における「罪人」としての自分のほんとうの姿を、自己暴露しなければならなかった。祭司長と律法学者たちと民は、「杓子定規に伝統に従いつつ、……実際になしたところのことをなさなければならなかった」。弟子たちは、「イエスを見捨てて逃げなければならなかった」。ペテロは、「主を否定しなければならなかった」。ユダは、「主を裏切らなければならなかった」。この時、「旧約聖書の中での出来事は、……この観点においても、イエス・キリストの啓示の待望、預言である」。そこには、「既に、聖徒の交わり、罪の赦し、肉の甦えり、永遠の生命があった」。すなわち、「父祖たちは……全くキリストを持った。よく理解せよ、ここでもまた、ひとつのキリスト理念ではなく、むしろ肉となった言葉、現実の歴史的なキリストを持ったのである」(「ナザレのイエスという人間歴史的形態」、「イエス・キリストの名」を持ったのである)、「〔そのことは〕ただ聖金曜日から……だけ、しかも聖降誕日と復活日から……明るく照らし出された聖金曜日から……だけ、そのように言われることができる」、換言すれば復活に包括された十字架の死からだけ、そのように言われることができる。新約聖書の証人たちにとっては、旧約聖書は、「和解なし」の「抽象的な」「会堂」的なそれではなく、また「史的な、学問的な」それでもなく、「信仰と啓示の焦眉の、生命にかかわる」それであって、新約聖書のイエス・キリストを、「旧約聖書的待望の成就」として啓示認識し啓示信仰し、そう理解したのである。
(C)新約聖書の啓示と同じように、旧約聖書の啓示は、神の人間に対する「終末論的な」「来りつつある神として現在的であるところの啓示についての証言」である。旧約聖書的証言は、新約聖書から、「神の契約と神の隠れについての証言としても」、イエス・キリストを待望する証言(「預言」)である。「近代以前の教会の神学」は、「一面的」・「部分的」に旧約聖書の中での「顕現的な預言」と取り組んだ。17世紀後半において改革派の教会やルター派の教会で支配的であった「旧約聖書が新約聖書とひとつである単一性を証明しようとする努力は、その歴史的な視点と方法が(既にカルヴァン自身の歴史的な視点と方法がそうであったように)かなり疑わしいものであった」契約神学の問題点は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないところの「明瞭さを曇らす外在的な歴史哲学的思惟の混入」にあった。この時、「昔の場合においても近代においても」、「最上の意図を以てしてもただ、旧約聖書の悲しい空疎化でしかなくなってしまう」。したがって、バルトは、「神の契約と神の隠れについての旧約聖書の証言の中での事実(換言すれば、型通りの『預言』を度外視して)待望として認識できるところのものを前面に打ち出したのである」。
旧約聖書は、終末論的な待望の証言である。何故ならば、旧約聖書の証言においては、第一に、人間と結ばれた神の契約は、その契約の実現に向かって進行する運動(過程)であるからであり、第二に、「神の隠れも、それとともに神の啓示(≪顕現≫)も、旧約聖書の中で証しされている出来事そのものの彼岸においてはじめて、未来的なものとしての出来事となって起こる」からである。バルトは、「どれほど強く集中的に、旧約聖書の中で神の契約と隠れとが神の未来を目指しているかということを、われわれは既に見た。まさにこの強烈さの中で神の契約と隠れは、確かに、〔当時〕既に現在なのであり、既にアブラハムは、既にモーセは、既に預言者たちは、概念の全き意味で、神の啓示を受けとったのである」、「持った」のであると述べている。すなわち、彼らは、信仰の中で約束として持つことによって、それ故に「終末論的」に、神の側の真実としてある「完成を望み見る」ことによって、「成就された時間」、「来りつつある神の完成されたみ業」、「完成」(終末、復活されたキリストの再臨)を持ったのである。この「終末論」は、「イスラエル的な神信仰の不可欠な構成要素」である。したがって、旧約聖書の世界を「正しく理解するために」は、その二重構造の観点を必要とするのである。すなわち、それを正しく理解するためには、一方の外在的な「特定の歴史的――時間的現在の中での神の契約と隠れの、その都度の、特定の様相の対象」だけでなく、他方でその「対象」に対応した内在的な「意味内容のすべて」であるイエス・キリストにおける「成就された時間」(キリストの復活)、「来りつつある神の完成されたみ業」、「完成」という二重構造において理解する必要があるのである。
このことについての、バルトは、次のように述べている――第一に、旧約聖書の世界において、シナイ山上において神が契約を結ばれたのは「ヤコブの子らの子孫全体」(「民」、「イスラエル」、「ユダ」)であった。しかし、エレミヤや第二イザヤのような「後期の預言者」は、「歴史の彼岸」にある「目標」としての、「ヤーヴェによって選ばれ、召され、最後に祝福される」、「未来的な」、「全体としての」、「民の中の民」、「まことのイスラエル」について語っている。この「民の中の民」、「まことのイスラエル」は、ヤコブの子孫全部と同一ではないし、その一部とも同一ではない。第二に、神によって父祖たちに約束されたカナンの「国」を考えることは、全く新しく更新された「乳と蜜の流れる」約束の国、「イスラエルの歴史とって彼岸的である神の国を考えることと同じ」でなければならない。第三に、ダビデが神のために欲し、ソロモンが実際に建てたエルサレムの「神殿」を考えることは、「イザヤによれば、人の手によって造られず、神ご自身よって建てられ、……ただ単にイスラエルだけでなく、もろもろの民が群れをなして巡礼するであろう……栄光に輝く未来的な神殿を考えることと同じ」でなければならない。第四に、「その運命において、ヤーヴェによって支配され、罰せられ、報いられ、それであるから民全体としても、そのひとりひとりの成員においても、ヤーヴェの指示と命令に聴き従わなければならない」「神の支配」を考えることは、未来における、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」における、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和という「完全な神の支配を考えることと同じ」でなければならない。この時、「神の民は、……現在の状況と状態の不完全さの中で、その未来において実現されるであろう完全なものによって生きる」。第五に、「大きな国民的災害としての裁き」を考えることは、未来的な、「神の愛の終焉」、「イスラエルの棄却」、「すべての民に対してもたらされる神の焼き尽くす怒り、世界審判を考えることと同じ」でなければならない。
さて、ここで「最も重要なものは、『王』についての見方である」。当時において、王は、「神の契約の最も傑出した道具」、「擢んでた仕方で、神的隠れの影」として、「エルサレムで支配する独裁君主のこと」であった。ダビデは、王を、「伝承によれば……『人を正しく治めるもの者、神を恐れて治めるものは、朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨む』(Uサムエル23・1−7)と言われている義人……の予型として理解した」。このことは、事実的世俗的政治的な王について語ることは、未来的な「義なる王」・「メシヤ、イスラエルの王」、「いや、『終わりの日に』世界に君臨する王」、「来るべき平和の君を語ることと同じ」でなければならないことを意味している。預言者たちは、この「王」という政治的な言葉を、未来的な「来るべき平和の君に関して語る時に」、いつも用いていた。第二イザヤの「神の僕」は、王というより「預言者」である。詩篇110のダビデの子やゼカリヤ6章の「人物は、祭司であると同時に王である」。ダニエル7章の天の雲にのって現われる「人の子」は、「世のもろもろの力、いや世の力そのもの、を奪いとって終止符を打つ支配者……の特徴を帯びている」。これらのことは、「支配という概念で総括」できる。すなわち、それは、「神ご自身による〔完全な〕勝利」、「終わりのない平和の支配、罪を払拭すること、世界審判、ただ単に人間の精神に対して力を奮うばかりでなく、また、更新された自然の世界に対しても力を奮う主権のことである」。この概念においては、世俗的な「地上の王の機能」は止揚され無化されている。この時、国家の問題、個体的自己としての全人間を社会的に(すなわち現実的に)解放するために国家を止揚し無化するという国家の究極的問題、その国家の究極的問題と過渡的問題とを明確に提起しないまま、それ故に自国のまた他国の現実的な社会の中で具体的に生き生活し喜怒哀楽している大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民という観点を持たないまま、観念の共同性に過ぎない、共同幻想あるいは幻想的共同性に過ぎない(吉本隆明)、観念の共同的形態あるいは共同的な幻想的形態に過ぎない(マルクス)国家・「国を愛する故にこそ」と告白をしている日本基督教団の戦争責任の告白に対して異議申し立てをしているキリスト教の知識人、神学者、牧師、著述家が私の知る限り一人もいないということは、日本基督教団が内在的に戦前の段階のまま停滞していることを物語っていると言うことができるのである。バルトは、1948年に次のように書いた――「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(≪キリスト教に限定すれば、「神人協力説」、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指した指導層たち、知識人たち、神学者、牧師、著述家たち≫)が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」(『バルト神学入門』)。また、次のようにも書いた――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」、「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心を見出した」、「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)。
「旧約聖書の現在」を考えることは、「神の将来であるところの将来」を、「待望の時間を考えることと同じ」である。したがって、「父祖たちの待つことは」、「単なる、抽象的な、限りなく続く待つことではなくて」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて「既に成就した時間(≪キリストの復活≫)にあずかることを待つ」ことであった。