4の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(93-143頁)
4の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(93-143頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
4の1.「啓示の時間――神の時間とわれわれの時間」
この「神の時間とわれわれの時間」という概念は、先ず以て「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で論じられている。「啓示(≪神の時間≫)は歴史(≪人間の時間≫)の賓辞ではない」、「歴史(≪人間の時間≫)が啓示(≪神の時間≫)の賓辞である」。すなわち、歴史(人間の時間)は、「神的自由の行為としての啓示」(神の時間)となることはできない。言い換えれば、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示(神の時間)は、「常に」、歴史(人間の時間)の「彼岸・外」にある、「彼岸・外」にあり続ける。したがって、両者の「混淆」・「混合」・「共働」・「協働」・「協力」は、本質的にあり得ないのである。
このような訳で、「人は、啓示の時間概念の探求」においては、恣意的独断的に「啓示以外のほかのところで得られた時間概念」を、換言すれば「われわれの時間(≪人間の時間、歴史≫)を神が創造したままの時間として引き合いに出すことはゆるされない」のである。何故ならば、聖書によれば、「われわれの存在様式と神によって創造された存在様式そのものの間にはわれわれ人間の厳然たる堕罪の事実(創世記3・23以下、創世記6・5以下)が横たわっており」、その「堕罪」した「『われわれの』時間は、決して神が創造し給うたままの時間ではなく」、聖書においては、「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」として、「神の時間であり実在の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間から『攻撃』された時間」であるからであり、また常にそうあり続けるからである。このように、聖書によれば、「われわれの時間」(人間の時間、歴史)は、「堕罪」した人間によって「惹き起こされ生じた時間」なのである。このような訳で、聖書によれば、時間概念は、第一に、「われわれにとって隠蔽された神によって造られたままの時間(創世記1・14)」と、第二に、「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」としての「われわれ自身の時間」と、第三に、神の時間、イエス・キリストにおける啓示の時間、実在の時間としてあるのである。
「聖書の中に証しされている」イエス・キリストにおける神の自己啓示、すなわち唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨の出来事の中での神の啓示」は、「われわれのための神の時間」、「神がわれわれのために持ち給う時間」、「啓示の時間」、「まことの実在の時間」である。この啓示の時間は、第一に、イエス・キリストにおけるその死と復活の出来事そのものにおいて「成就された時間」である、換言すれば「イエスがご自分をお示しになったあの四〇日(使徒行伝一・三)」(「キリスト復活の四〇日」)である、第二に、「待望の旧約聖書的時間および想起の新約聖書的時間として、イエス・キリストの出来事についての証しの時間」である。したがって、われわれは、啓示の時間を、「啓示そのものによって教えられなければならない」のである、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」によって教えられなければならないのである。何故ならば、この啓示に固有な時間は、「ほかのところから得てきた時間概念では事実十分に理解することができない」からである。
(ア)アウグスティヌスやハイデッガーにとっての時間概念は、「被造物である人間存在の自己規定」であり、「自分で時間を創造することによって時間をもつ」という位相のものである。したがって、アウグスティヌスとハイデッガーの時間概念は、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の時間」から「攻撃された」「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」としての「われわれの時間」である。
(イ)ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解した」。すなわち、自分の意志とは全く無関係に投げ出された不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる。すなわち、個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができる。このことは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)、その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。アウグスティヌスの場合も、事情は変わらない。すなわち、アウグスティヌスは、『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』では「過去、現在、未来は(≪人間の≫)精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。バルトは、このアウグスティヌスの後者の「人間精神の行為の中で発生する時間を原理とする時間認識」の在り方に対して、すなわちその時間が「イエス・キリストにおける啓示の時間」、実在の時間から「攻撃された」「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「問題的な、非本来的な時間」であるということを理解しない在り方に対して、根本的包括的な原理的な批判を加えたのである。
(ウ)「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」――第一に、アウグスティヌスは、「現在」は、過去・未来という「時間が発生する」「起源的なもの」、「基礎」であると規定するのであるが、その現在を固定し確定しようとするや否や、その現在は過去に移行してしまう位相のものである。とするならば、「つねにまだ未来はない」ということになる。すなわち、この場合、「現在」は、「過去と未来の間の真中で消失しまっている」。したがって、この場合、われわれは、現在について、時間について、「実は何も知らない」ということになる。第二に、「時間は始めと終わりのないもの」か「時間は始めと終わりをもっているもの」かという、カントの「純粋理性の対立命題がもつ」「第一の二律背反」について、「時間のすべての始まりはそれ自身が再び過ぎ去った時間の終わりであり、時間のすべての終わりはそれ自身が再びこれからくる、未来的な時間の始まりでなければならないから」、「時間そのもの」は「始めも終わりもないもの」と理解しなければならない。また、「時間を有限なものとして理解することも無限なものとして理解することも等しくわれわれにとっては不可能である」。したがって、この場合も、われわれは、時間について「実は何も知らない」ということになる。第三に、シュライエルマッハーのように、人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないで、「永遠を時間の始めと終わりのところにおき」、時間の始めにおける「時間」を「永遠から……絶えず継続的に遠ざかってゆくこととし」、また時間の終わりにおける「時間」を「永遠に向かって絶えず継続的に近づいてゆくこととし」、そしてまた「永遠を、すべての時間の隠れた内容とし」、「時間を永遠のひとつの容器(うつわ)として」と考え・述べ・宣言することは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」の「幻想」でしかないのである。人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないで、「アウグスティヌスやハイデッガートともに時間からその対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在様式として理解すること」は、そして「過去」と「未来」を「現在の中に解消してしまうこと」は、聖書によれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした啓示神学においては、「幻想」でしかないのである。聖書による三つの時間概念における神の時間、イエス・キリストにおける啓示の時間、実在の時間(「成就された時間」)を「否定」して、形而上学的一面的固定的「抽象的ニ」「神によって造られた時間」と「われわれの時間だけを考慮に入れる」時、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出することはできないのである。すなわち、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出するためには、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした啓示神学における「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「神の時間」、「実在の時間」、「まことの現在」の概念のほかにはないのである。イエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本来的な「失われたわれわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」、それ故に「まことの過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。
完全に自由なキリストにあっての神が、「ご自身を啓示し給う」という命題は、神は、「満ち満ちている一切の神性」(コロサイ2・9)を本質とするイエス・キリストにおいて、「全面的に、全き仕方で」、「『われわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この「啓示の時間」は、すでに述べたように、「啓示そのものによって教えられなければ」認識することはできないのである。したがって、われわれは、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいてイエス・キリストにおける啓示の出来事を「神の啓示として理解する時初めて」、唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間である」ということを認識(啓示認識)し理解することができるのである。
(エ)イエス・キリストにおける神の自己啓示は、唯一回的な出来事、イエス・キリストの現臨の出来事のことであるが、その出来事を、「何の留保もなしに」、「われわれの時間の中で生起したというならば」、その理解は、その最初から誤謬の中にあるのである。何故ならば、その出来事は、「われわれがいつもながらわれわれだけでわれわれの時間をもっていた時に、神がわれわれのためにご自分の時間をもち給うた出来事」であるからである、換言すればその出来事は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であるからである。言い換えれば、キリストにあっての神は、その唯一回的な出来事において、「未来と過去をもったところの現在、その成就の待望と成就の想起をもったところの成就された時間(≪「キリスト復活の四〇日」≫)、啓示の時間」、神の時間、実在の時間、「そして啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間をもち給うた」のである。神の言葉は、内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としており、「とこしえに変わることはない」(イザヤ40・8)、それからまたそれは、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方において、「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」となった、「肉となった」、まことの人間となった、「時間となった」、「時間的な現在」となった、「時間的な瞬間」となった(ヨハネ1・14)。また、「新約聖書の証言全体によれば」、「その甦りにおいても肉でありつづけ、また父なる神の右にいます栄光の姿にあっても肉であるし、肉でありつづけるのであれば、永遠は、(ご自身を聖書の証言にしたがって啓示し給う神の永遠は)時間なしではない」のである、聖書における「啓示」は「確かに永遠的な実在であるが、……だからといって決して無時間的な実在ではなく、……時間的な実在である」、「時間を造り出す実在」である。したがって、「神がわれわれのためにもち給う時間」は、「われわれの生成し消滅する時間とは違って、永遠の時間として理解されなければならないのである」。
「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、「新しい世」・時間へと向かって進んでいる。この「キリスト復活の四〇日」(「成就された時間」)は、「新しい世」・時間のはじまりであるから、まことの「過去」とは「成就された時間」の「待望の時間」であり、まことの「未来」とは「成就された時間」の「想起の時間」、聖霊降臨日以降の時間である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(「キリスト復活の四〇日」)を待望する形において存在している。また、「まことの未来」は、「キリスト復活の四〇日」と共に初まり、それは、ただ「キリストの復活を想起する形においてある」のであるが、またそれは、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待望する時間においてもあり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(「キリスト復活の四〇日」)に参与するのである。したがって、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)を考えること(待望すること)は過去(「キリスト復活の四〇日」)を考えること(想起すること)であり、過去(「キリスト復活の四〇日」)を考えること(想起すること)は未来(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)を考えること(待望すること)であると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもあるのである。
(オ)旧約聖書および新約聖書の啓示が、イエス・キリストの出来事において、「まったく時間的であり、それであるから時間的に規定され、時間的に柵をめぐらされ」、「年代記的記述」において証言され証しされていることが重要である。史実的に正しい内容であるかどうかという点が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)」について語っているという点にある。このように述べているバルトは、史実性を無視していないことは明らかなことである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、天皇を含めて非農耕民は「神人」と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。したがって、史実性だけを重視して自分は「打率三割以上」の優秀な学者だと自惚れている神学者や牧師は、人間学における思想家からは「バカだ」と言われてしまうのである――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通 点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率 があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。
このような訳で、「言葉の受肉が何時起こった出来事であるのか述べられていること」が、また「ポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケ」等と述べられていることが重要である。この時間的な実在の記述の在り方が重要である。したがって、この記述の在り方が、「近代の歴史学の標準」から言えば、「ただ『古譚』あるいは『歴史物語』であることができる」水準のものでも重要である。「年、日、時間は、神の啓示についての聖書的証言から切り離してしまうことのできない概念であって、また聖書証言を説明する際」、「決して瑣事として取り扱ってはならない概念である」。また、「人が新約聖書の中で」、「いま」・「いまの時」・「時〔間〕」・「きょう」・「日」という「言葉に出会う時」、それらの言葉は、「時計が知らせる時間」(一回性を本質としている自然時間)を意味しているだけでなく、「それの内容ゆえに特別な時間であるイエス・キリストの時間」、啓示の時間、実在の時間を「言い表している」のである。「多くのパウロ的あるいはヨハネ的聖句の中で、例えばUコリント6・2が特に注目されてよい」――「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。「イエス・キリストの時間」から攻撃された失われた非本来的な「われわれの時間」とは全く違って、「イエス・キリストの時間」は、キリストにあっての神が「支配された時間」、しかもそのことにおいてこそ、「実在」の時間、「成就された時間」であるという点にある。この時には、「現在」が「過去と未来の間の真中で消失」しまい、そして「過去」と「未来」は「現在の中」に解消してしまう、この「ディレンマは発生しない」のである。すなわち、この時には、イエス・キリストの啓示の時間、成就された時間、実在の時間という「まことの現在が存在する」からこそ、「まことの過去とまことの未来が存在する」のである。「永遠から……語られた」「神の言葉がある」。「このことはまた、肉となった、……時間となった、神の言葉についてもいえることである」。イエス・キリストの啓示の内容は、「インマヌエル」――神は、罪深きわれわれ人間と「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」という点にあるからである。このイエス・キリストの啓示の時間、成就された時間、実在の時間は、第一の「われわれにとって」隠蔽された「神によって造られたままの時間」(創世記1・14)、「創造された時間からも区別」された、イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的総括的総体的永遠的な救済(この救済概念は平和の概念を包括している)の「完成」(終末、復活されたキリストの再臨)としての「未来」を包括した「現在」、「第三の時間」である。
(カ)イエス「ご自身によって宣べ伝えられた『神の福音』の最初の言葉は、時は満ちたである」(マルコ1・15)。この「満ちる」「プレイローマ」は、「容器、計画、概念、形式をみたしているもののこと」であるから、「内容、目的、意味、(形式の中で可能性として告げられている)実在」であるから、したがって「時が満ちる」とは、「言葉の受肉の中で、言葉の受肉とともに、神の国が近づいたことの中で、神の国が近づいたこととともに」、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」ことを通して、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エペソ1・9以下)ことを通して、すなわちキリストが「天にあるもの地にあるものを、ことごとく更新する」ことを通して、「実在の時間」、「成就の時間」(「まことの現在」)が生起したことを意味している。旧約聖書において、「神の名」は「わたしは、有って有る者」(出エジプト3・13)であるが、新約聖書の「黙示録の著者」は、その神の名を神と時間との関係において解釈した。すなわち、その著者は、神の名を、「わたしはわたし自身を現在化するもの」、「わたしは今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者」、「全能者にして主なる神」として解釈した。言い換えれば、神の名は、「わたしはわたし自身を現在化する」ことにおいて、「昔いまし、やがて来るべき方、アルパでありオメガであり、起源であり目標であり、初めであり終わりである」方として、言わば「成就された時間」(まことの現在)を「待望」する時間概念(「まことの過去」)と「成就された時間」を「想起」(終末・救贖・完成への待望を包括した想起)する時間概念(「まことの未来)の全体性において、「生ける者、全能者であることが実証される」。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13・8)。新約聖書においては、徹頭徹尾神の側の真実としてある、唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨」、「イエス・キリストの現在」、イエス・キリストの生誕・苦難・死と復活、「成就された時間」(キリスト復活の四十日)、「まことの現在」において、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「現在意識」、すなわち現在化された啓示認識・啓示信仰、すなわち「まことの現在」をそれとして認識することにおいて、「まことの過去」をそれとして認識し、「まことの未来」をそれとして認識したのである。ここで、「イエス・キリストの現在」、「きょう」、「まことの現在」は、「まことの過去」と「まことの未来」という区別を包括した単一性においてあるのである。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日(イエス・キリストの日)を定められた」(使徒行伝17・30以下)。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことがない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(Tペテロ2・10)。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5・8)。しかし、この時、「まことの過去」の「消失」を意味しない。「まことの過去」は、「旧約聖書の中で」生きつづけている、「キリストの死の中で成就された時間を待ち望む待望の形で、生きつづけている」。すなわち、「キリストの復活」、「成就された時間」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「福音の勝利の行為の時間」(「まことの現在」)によって、「人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中にある「完全な敗北者」であるわれわれ人間の失われた問題的な「非本来的な古い時間」・世は止揚され克服されて「そこにある」のであるが、しかし、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、それとしては依然として「完全な敗北者」のまま「そこにある」のである。言い換えれば、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「キリストの復活」、「成就された時間」によって「限界づけられ、規定された」「われわれの時間」は、「まことの過去」として「原理的に既に過ぎ去った」、そして「過ぎ去りつつある」、しかし「なお依然として現在的」でもある、「古い世の時間」、古い世・時間である。また、「まことの未来」が「キリストの甦えりとともに開始されることが確かである限り」、それは、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」への待望を包括した「キリストの甦り(≪キリストの復活≫)をおぼえる想起の形でのみ宣べ伝えられることができる」。われわれは、イエス・キリストの復活を「想起」しつつ、復活されたイエス・キリストの再臨、終末、「完成」を「待望」するのである。