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5の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(144-202頁)

5の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(144-202頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

5の1.「啓示の時間――待望の時間」

 

 バルトは、「イエス・キリストは待望されたものとして既に旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題」を、「ここでもわれわれは、ごく単純に、……われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理のあとに続いて考え、語るように呼び出されている」ということとして思惟し語っている。何故ならば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源としている第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」し、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」からである。このように、第二の形態の神の言葉に属する旧約聖書における啓示の待望は、「神の将来であるところの将来としての預言である」からである。言い換えれば、それは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した待望であって、先行させた人間の側からする「実験と論理を手掛かりにして吟味されるべき予告ではない」からである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれは、「われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理を拒否し」、看過し、破棄してしまって、換言すれば具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源としている第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(ここで、「隣人愛」は、通俗的な意味での隣人愛ではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということを拒否し、看過し、破棄してしまって、ちょうど総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教がそうであるように、先行させた人間の恣意的独断的な自主性・自己主張・自己義認の欲求へと向かうべきではないのである。したがってまた、前述した三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を堅持した第三の形態の神の言葉に属する「イエス・キリストを信じる教会」は、「決断」的に、「まさに啓示が語るような具合に語る」のである。このような第三の形態の神の言葉に属する教会が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で「啓示を認識し、啓示によって生きる時」、「そのことは、パウロがローマ11章20節以下で述べているように、値なしに与えられる全くの恵み」なのである。何故ならば、そうでない時には、その教会は、「待望する中で恵みを受けていたことを見ようとしない」し、「心のかたくなな」「会堂」(外在的形態に過ぎないそれ)だからである。

 

 バルトにとっては、旧約聖書における「待望の時間」は、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間)であるイエス・キリストにおける連続性において考えられている(「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」)。イエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本来的な失われた否定された「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」があり、それを基軸(中心)としてまことの「過去と未来が存在する。しかも、それは、「成就された時間」である「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」(「勝利の福音」)を基軸(中心)として考えられている。したがって、「待望の時間」も、「成就された時間」を基軸(中心)として考えられている。したがってまた、「成就された時間の前の時間」も、「成就された時間」(キリストの復活)を基軸(中心)として考えるべきであるから、「キリスト降誕前」の時間を意味していない、換言すれば「成就された時間」(キリストの復活)の前の時間を意味している。何故ならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」からである。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっているからである。

 

 このような訳で、「待望の時間」は、「時間の中で出来事として起こっている特定の歴史の時間」、すなわち旧約聖書の時間(「啓示の待望についての証言の時間」)およびその時間の「最後的な継続……目標」としてのイエス・キリストの十字架(死)以前の時間のことである。したがって、ここにおいても、「まことの待望」の時間と「まことの想起」の時間の統一としての「成就された時間」(キリストの復活40日)は、「未来的なもの」と「過去的なもの」を包括した「現在的」なものとして存在している。すなわち、このことは、単一性と区別(区別を包括した単一性)ということを、相違しながら「ひとつである」ということを意味している。

 

 「旧約聖書の時間の、他の時間に対する特異性」は、旧約聖書における啓示の時間が、啓示の「まことの待望の証言」、「待望された啓示」であるという点にある。したがって、その特異性は、「歴史的な判断の問題」となる「イスラエルの歴史的特殊性や宗教史的特異性」を意味していない、「古代近東(オリエント)の敬虔性の世界の内部でのそのほかのものの間での、注目に値する〔ひとつの〕現象」を意味していない。何故ならば、人間の歴史(人間の時間)は、決して「神的自由な行為としての啓示(の時間)」となることはできないからであり、聖書における神の啓示(神の時間)は人間の時間である「歴史の賓辞」ではなく、「歴史が啓示の賓辞」であるからである。また、キリストにあっての神は聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているから、「啓示そのもの」、それ故に啓示の「まことの待望」も、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」によらなければ、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づかなければ、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を所有することはできない(Tペテロ1・10−12)。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」のであるから、旧約聖書における啓示の時間(「待望の時間」)は、「イエス・キリストの甦えりの力」そのものを通した(「成就された時間」である「キリストの復活四〇日」に包括された)「イエス・キリストの十字架の死」そのものが、「まことの待望の証言」、「待望された啓示であるという命題を証明する」ということである。

 

 このような訳で、人間学の一部門である歴史学を絶対化する歴史主義は、誤解・誤謬・曲解に陥ることは必然である――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。また、バルトは、歴史を全く無視してはいないことは明らかである。バルトは、聖書記事について、次のように述べている――「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごと」に、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)」について語っているという点にある。「聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化することは、証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、「聖書記事を神話として受けとることは、証言としての聖書の実体を攻撃する」。何故ならば、啓示は、人間の時間である「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、われわれは、聖書記事を、「一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語」(古譚)として受けとるという点にある。「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階の日本において非農耕移民は、天皇を含めて神人と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 旧約聖書における啓示は、イエス・キリストの十字架・死を包括した復活(「成就された時間」)を待望する啓示(「待望の時間」)であるという事実についての再吟味――
(ア)新約聖書は、自然科学および人文科学の自由な学問・研究の場である人間学において、「歴史的に言えば徹頭徹尾ヘレニズム的な精神運動の文書の〔ひとつの〕集大成」である。しかし、歴史的現存性のただ中にある現実的な社会の中で具体的に生き生活し喜怒哀楽し信仰した新約聖書の著者たちの「証言の特異性」は、そこにはないのであって、彼らの「特別な証言の特異性」は、彼らのキリストについての「宣教、教え、物語描写」が、「イスラエルの歴史の〔本来的な、まことの〕真理……会堂の中で読まれていた聖書の成就」そのものであるという信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)にあったのである。すなわち、彼らのそれは、新約聖書の中に「証しされているキリストの啓示が、旧約聖書の中で待望されている啓示と同じであるという同一性の証言を前提としている」だけでなく、その「証言」そのものがその「主題と実体」を形成しているという点にある。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、旧約聖書における「待望の歴史と一つである単一性」は、「成就された時間」である「キリストの復活」を基軸(中心)とした「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性(「まことの歴史性」)の中での旧約聖書における「待望の歴史と一つである単一性」(単一性と区別、区別を包括した単一性におけるそれ)は、「新約聖書の宣教、教え、物語描写の、到るところに均等にでてくる、自明な前提であるということである」。「ギリシャ的なヨハネ福音書」によれば、「弟子たちはイエスの中に、モーセが律法の中に記しており、預言者たちもしるしていた(1・41、45)ところの、イスラエルのメシヤを見出し」ていた。先ず、「イエスご自身ほとんど躓きをあたえるほどはっきりと、『救いはユダヤ人から来る』(4・22)と語って」いる。「また逆」、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」が、「聖書は、わたしについて証し」しているものとして主張される。そして、「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」という言葉で、「モーセのことが、イエスにさからうユダヤ人たちを訴えるものとして述べられている」(5・45−47)。「まさにヨハネにしたがってこそ、イエスは、アブラハムについて」、「(≪あなたたちの父祖の≫)彼はわたしのこの日を見ようと楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(8・56)。イザヤは「イエスの栄光を見」て、「イエスについて語った」。しかし、「かたくなにされた心」のユダヤ人たちは、すなわちそのイザヤの言葉に素直に耳を傾け聞かなかったユダヤ人たちは、それ故にイエスが「身を隠された」ために、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」が起こらなかったが故に、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を得ることができない(12・37−41)。

 

(イ)福音記者ヨハネは、「洗礼者ヨハネの姿」において、「一方においてイエスご自身の言葉と業が、他方においてイエスについての新約聖書的・使徒的証言」が、「旧約聖書の証言」の「実行」と「表現」そのものとして、それらを「体系的」に「結び」つけた。また、「二世紀から宗教改革、および宗教改革によって規定された十七世紀の正統主義にいたるまでの」「昔の教会」にとって、「キリストはまた旧約聖書の中でも啓示されているという認識」は、「自明的な命題」であった。その「旧約聖書と新約聖書の本質的な同一性についての認識」、すなわち「旧約聖書のなかでもイエス・キリストが啓示されていることについての認識を、最も大胆率直に代表したものの一人は、イレナエウスである」。また、アウグスティヌスは「新約ノ中デ旧約ハ現ワサレル」と述べた。宗教改革の時代にカルヴァンは、「古代教会にとって自明的であったこと」として、洗礼者ヨハネは「両方のこと、約束と成就を宣べ伝える、そのようにして旧約聖書的預言者であると同時に、また新約聖書的証人である」、「父祖たちは、ワレワレト同一ノ嗣業ニアズカルモノデアリ、同一ノ仲保者ノ恵ミニヨッテ共通ノ救イヲ待チ望ムモノであった」と述べている。「さらにまたまさに(マルキオンのお気に入りの著者である)ルカにおいてこそ、マリヤの讃歌の中で福音の要約として」、「主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルをお助けくださいました。わたしの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」、「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」ということが語られている(1・54以下および72)。「使徒行伝3・20以下のペテロの説教によれば、イエス・キリストの生涯の日だけでなく、またその再臨(≪復活されたキリストの再臨≫)とともに始まる、あらかじめ告げ知らされている救いを完成する、したがって啓示からみてまだ来ていない未来の『生気を与える慰めの時』も、神が聖なる予言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時である」。「聖なる福音」は、「神みずから、はじめに、楽園において啓示し、次に、聖き先祖たちと預言者によって宣べ伝えさせ、犠牲、律法、その他の儀式によって、象(かたど)らせ、最後には、その愛するみ子によって、成就された」それであるから、旧約と新約の相違は、「実体的ノ相違ではなく、……むしろ〔神ガソノ教理ヲ配置シタモウタ〕『処理法』」の相違である。「律法と福音という視点」の下で、旧約聖書と新約聖書の根本的な差異性を真剣に考察しなかった「古プロテスタント主義の領域」においては、上記の命題が踏襲されていた。ルターもそうであった――「われわれは共通の信仰とキリストの故に」、「新約聖書は旧約聖書の啓示以上の何ものでもない」故に、「われわれは、父祖たちがそのことを信じた時に、まだ生きていなかったにもかかわらず、それを信じた。また逆に、父祖たちは、われわれの時代に生きておらず、われわれだけがそのことをするにもかかわらず、しかもキリストの語ることを聞き、キリストを見、信じるであろうと語り、〔そのように〕行動するであろう」。バルトによれば、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている、「キリストの復活」に包括されている。したがって、主格的属格として理解されたローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストにおいては、福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法はキリストの福音を内容とする福音の形式としての神の命令・要求・要請である、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、「イエス・キリストの名」にのみ信頼せよ固着せよ、すべての人々が現実的に純粋な教えとしてのキリストの福音を所有することができるためにその福音を告白し証しし宣べ伝えよという神の命令・要求・要請である。ここでは、キリストの福音だけでなく政治的実践もという、キリストの福音(言葉)と法的政策的な言語(共同の幻想としての国家の言語)との二元論は成立しない。

 

 さて、シュライエルマッハーは、ユダヤ教とキリスト教との間には「特別な歴史的関係」があるから旧約聖書は新約聖書の「補助書物」としたが、彼は「旧約聖書がキリスト教会の正典から遠ざけられてしまう」ことを望んでいた。ハルナックは、旧約聖書を「健徳的」な書として「有益」性はあるが、その書から「キリスト〔教〕的なことを……読みとることができない」から、「キリスト教会の聖書正典」に属していないとした。このハルナックの見解に対して、旧約聖書学は、その「十八世紀から現代に至るまでの……業績全体にてらしてみて、反駁されているとみなすことはできない」とバルトは述べている。バルトは、それらの見解に対して、旧約聖書的学問が根本的な反駁を行うことができるためには、ユダヤ教とキリスト教の間の「歴史的関係」を問題にしても駄目なのであって、またその「共属性」や「同質性」の概念化にあるのでもなくて、「どんなに立派な歴史的研究の成果も結局、真剣な意味で旧約および新約聖書の間での本質的な関連性を理解することの代用となることはできない」(W・アイヒロット)のであるから、「むしろ二つのいわゆる宗教の区別を相対化する」、「成就された時間」(キリストの復活)を基軸(中心)とする「啓示の単一性」(啓示の単一性と区別、啓示の区別を包括した単一性)の「認識および再認識」に「主要な課題」があると述べている、換言すれば「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっているから、「キリストの復活」に包括されているから、「啓示の単一性」(啓示の単一性と区別、啓示の区別を包括した単一性)の「認識および再認識」に「主要な課題」があると述べている。「イエス・キリストは待望されたものとして既に旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題」、すなわち「旧約聖書の啓示と新約聖書の啓示が、待望(≪キリストの復活の前の時間≫)と成就(≪キリストの十字架の死を包括した成就された時間としての「キリストの復活四〇日」≫)の関係の中で、一つである単一性を見てとること」について、われわれは、「われわれに対してあらかじめ考えられ、あらかじめ語られている真理のあとに続いて考え、語るように呼び出されている」から、次のように説明することができる。

 

(A)新約聖書の啓示と同じように、旧約聖書の啓示は、「決定的に、自由に、徹頭徹尾一回的な具体的な神の行為についての証言」である、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、啓示者、言葉の語り手、創造主についての証言である。したがって、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「理念的に基礎づけられた神の啓示されてあること」ではない。神の啓示は、「旧約聖書の中では終始」、「神的な行為の主権的自由の中で」、神のその都度の自由な恵みの決断における「啓示と信仰の出来事」に基づいて「〔ひとつの〕民」――その「民の代表として」の「特定の個々の人間に対して」、「実際に生起」した「神の態度のこと」である。旧約聖書の中では、この「神的決断のこの今」は、「決定的に、自由に、徹頭徹尾一回的な具体的な神の行為」として、「神によって始められ、可能にされ、導かれたエジプトからの脱出の遂行の契約のこと」であり、「律法授与の中で宣言され……シナイ山での契約の犠牲の中で保証された契約のこと」である。この契約が、「民族的な統一体としてのイスラエルを造り出すのである、……この契約……においてのみ旧約聖書の証言はこの民に対して、……関心を寄せているのである」。イスラエルは、「第一に……集められたもの」であり「教団であって」、「それからかかるものとして……民である」。したがって、あくまでも神の側の真実としてある神の主権的な自由な行為としての契約は、「民族精神や民族的な自己意識」によって、「民族宗教の教義の言葉に……翻訳されはしない」のである。言い換えれば、そのように翻訳しないことが、「神によって命じられていること」であり、「契約の遵守となる」ということである。このことからして、バルトは、当然にも、「教会の宣教をより危険なものにしてしまわないために」、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おう」とすべきではないと述べている。

 

 契約は、旧約聖書において、民の契約破棄に対して、神がその「罪を罰するとともにまた」その「罪を赦し給う」、「つねにまた祝福し給う」という「神のいつくしみ」、恵みであり、また民が神の民、神の僕として、「神の命令を守ること」、「民が神のみ名を崇めること」である。この「旧約聖書の中で証しされている契約が、神の啓示」である。何故ならば、それは、キリストの復活(「成就された時間」)を基軸(中心)として考えられている、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性(「まことの歴史性」)において、「イエス・キリストの啓示を待ち望む待望(≪「待望の時間」≫)であるからである」。したがって、イエス・キリストは、「前歴史、旧約聖書的契約の内容であり主題である」。

 

 「旧約聖書の契約の特徴」は、「多くの契約……に分けられる」という点にある。シナイ契約以前に、「ノアとの契約」そして「イスラエルの選びを基礎づけている、アブラハムとの契約」がある。すなわち、「既に原始の時代から、イスラエルの選びは現在的な実在」である。さらに、申命記的契約がある、預言者エレミヤやエゼキエルや第二イザヤのもとでの「未来の救済の時の契約」がある、「ダビデおよびその家と結ばれた特別な契約」がある、「祭司の家系であるレビと結ばれた契約」がある。しかし、「旧約聖書の契約がイエス・キリストに対して持っている関係」は、本質的には「特定の人間的な『道具』」を必要としない。すなわち、旧約聖書における神の啓示――「同一の方向と秩序をもった唯一の契約」、すなわち「旧約聖書の証言が終始……言おうとしており、根源的な、中心的な、本来的なものとして理解し、証ししようとしている契約」は、「ただ神と人間の間の本来的な契約としてのイエス・キリストの啓示の待望(≪「待望の時間」≫)……だけ」である。

 

 しかし、旧約聖書の契約は、「主要な意味で本質的」に、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「自由」、「主権」における神に導かれながら、「神のみ名の啓示の受領者……律法の宣教者……エジプトからカナンの国境へと民を導いた……指導者」モーセ、また「原始の時代に、あらかじめ、まだ生まれていない、そのすべての子孫の世代と結ばれた神との契約の、最初の、唯ひとりの人間的な相手」、「われわれの父」アブラハム、「勝利の担い手」ダビデ、「栄光の担い手」ソロモン、第二イザヤにおいて「〔イスラエルの〕民ともろもろの民に対して勝利と栄光の中でではなく、むしろ、卑賤と苦しみの中で神のみ心を宣べ伝える」「終わりの時の、名をあげられていない『神の僕』」、という「特定の人間的な『道具』」、すなわち「人間的な言葉と行為でもって、創造し支配する神の言葉の徴を立てるという仕方で、神の代理者」、「神――民」関係を「仲介する徴的な要因の現実存在」、「神の人」を持っていた。さらに、その「神の人」の「徴的な機能の間に」、「士師たち」、「後には王たち」――民の外面的な歴史の指導における、政治的性格としての王というよりも、むしろ「イスラエルの唯一の王であり給う神の代表」として、「最も厳格な意味で聖礼典の執行的性格としての王たち」、祭司たち、預言者たちを持っていた。ここでは、そうした人は、「すべてただ、神の神的な行為の道具でしかない」。したがって、旧約聖書の契約は、このような「特別な規定の中で」、イエス・キリストを「内容」・「主題」としている。「神は人間の姿を取りつつ啓示されるであろう。人は、……唯一の預言者、祭司、王と係わりを持たなければならないであろう」。そして、その啓示の告白・証し・宣べ伝え、「指し示し」が「行使されるであろう」。それは、「成就された時間」(キリストの復活)を基軸(中心)としたイエス・キリストを待望する啓示である。バルトは、旧約聖書的な啓示が新約聖書的な啓示とひとつである単一性、しかもこのひとつであることの中でまた違っている相違性についての要約(啓示の単一性と区別、啓示の区別を包括した単一性)として、ヘブル人への手紙1・1を引用している――すなわち、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが……」を引用している。