本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−1(203−231頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の用意」(その5−5)−1

 

(3)「聖書的証人たち」は、「決して、宇宙の中での人間(≪自然の一部としての人間、自然史の一部としての人類史≫)をそのまま真剣に受け取り、彼の『自然的な性質』の中で、すなわち彼の自己理解の中で、語りかけようとはしない」、換言すれば例えば人類史の西欧的段階における、理性や自由を概念的に把握した、すなわち理性や自由を認識し自覚した人間、あるいは自然の一部としての個体的自己としての全人間の身体と精神を介した全自然との普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動、肉体的身体的および精神的意識的な類的な活動や生活を為す人間、その自然史の一部としての人類史、人類史の自然史的過程としての文明史とそれに規定されつつ生み出されながらそれ自体の展開と増殖をする文化史の中で、「すなわち彼の自己理解の中で、語りかけようとはしない」。すなわち、「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間」に向かって、「彼はそのような者としてはもはや本当には存在していないということ、彼はただその自己理解の中で途轍もない唯一の<自己誤解>に陥っているということ、を語るのである」。「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間を指し示すことによって」、「宇宙の中での人間」を包括した「神の啓示の人間」――すなわち「神がその民と結ばれた契約の中で」の人間、換言すれば「キリストの肢体がその頭とひとつである単一性の中で、神的な適意に、そのようにして神認識にあずかっている人間を指し示す」のである、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態としてのイエス・キリスト、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を自分の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」として「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指している、そういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指している「人間を指し示す」のである。バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』において、次のように述べている――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ人間」に対して、「聖書」および聖書を原理・規準・法廷・審判者・支配者としてそれに信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれ」は、「神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する・それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する・したがって、イエス・キリストにおける啓示は、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、また自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。このように、「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間の起源および未来としてのイエスを指し示す」、換言すれば「神のみ心に適った人間」――すなわち「ナザレの人間イエス、この人間に対して下された裁き、人間がイエスの中で神の前に見出した恵……を指し示す」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死(≪「刑罰」・「裁き」≫)を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、われわれのためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエスの信仰』(≪バルトはギリシャ語原典を引用している、ピスティス・イエスー≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである(『福音と律法』)、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(性質、業と行為)、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このようにして「聖書的証人たちが為す指し示しは、ここでもまた、最も狭義の、最も厳格な意味での、(≪「裁きであることによって、恵み」である≫)預言者的、使徒的な指し示しである」。したがって、「それは……宇宙の中での人間が既にもともと持っている真理を指し示さない」のである。言い換えれば、「聖書的証人たちが指し示している」「真理」は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言におけるそれ)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいてはじめてやって来る(与えられる)真理、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通してはじめて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定、としてある。したがって、ここでの人間の自己認識・自己理解・自己規定、「傍系的な線」は、自然神学の<段階>における無媒介的即自的な自己認識・自己理解・自己規定とは違って、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」のである。~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、その第二の形態である聖書的啓示証言を自分の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「喜びの中で起こ」る、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えは、自然神学の<段階>における無媒介的即自的なそれとは違って、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」のである。
 人は、「純粋な『自然詩篇』」と呼ばれる一方の「詩篇八篇」の1・2節(「あなたの栄光」あるいは「あなたの威光」は、「われわれがその造られたままの姿、すなわち「<みどりご>と<ちのみご>の口によって、ほめたたえられています」、新共同訳聖書では2・3節)、5−8節(「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄と誉れとをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」、新共同訳聖書では6−9節)に依拠して、「宇宙の中での人間自身が(≪無媒介的即自的に≫)そのまま神の証人として呼びかけられているかのように理解」し・「注釈」しないように、換言すれば自然神学を肯定しないように、「質問形式」の「決定的な文章」によって――すなわち4節(「人は何者なので、これを心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」、新共同訳聖書では5節)によって、「警告されている」のである、注意喚起されているのである。この箇所の「人」は「何者なのであろうか、「どの人間」について「語られているのであろうか」――「われわれ」は、「詩篇八篇が引用」されている「ヘブル二・五以下……に注意を向ける時、すべてのことは……明瞭となる」。すなわち、「八節以下」で、「『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである」、「しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」、「ただ『しばらくの間御使たちよりも低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る」。「われわれ」は、「ナザレの人間イエス、この人間に対して下された裁き、人間がイエスの中で神の前に見出した恵」を見る、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」のを見る。「イエスこそ事実、詩篇八篇で述べられている宇宙の中での人間である……」、「まことの人間」である。したがって、詩篇八篇における「人」、「人間」は、その現にあるがままの現実的な人間存在における「われわれ」人間のことではない。したがってまた、人は、詩篇八篇によって、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根拠づけることはできない。「それからまた(≪「マタイ二一・一六以下によれば」≫)」神は、「ほかの人間的な幼子や乳飲み子の口によっても、神は、……彼らが苦しみと栄光への道を進まれる(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解である、すなわち~の言葉の起源的な第一の形態である≫)イエスの後」を、未熟ではあるが素直に「ダビデの子にホサナ」という「叫びをあげながらついて行」く「讃美を用意されたのである」、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた「讃美を用意されたのである」。また、「自然的な人間」とは区別された人間、すなわち「神の啓示からして将来的な人間」の「口の中で、『主よ、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう』という叫びがあげられる」。「純粋な『自然詩篇』」と呼ばれる他方の「詩篇一〇四篇についても事情はこれと全く同様である」。詩篇一〇四篇は、「奇しき仕方で明瞭な秩序と調和」に「取り組んでいる」。しかし、「われわれが知っている人間、自然的な人間」、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間は、それによっては「全く信じることはできない」生まれながらに持っている自然的な「『自分の理性や……』」悟性や想像や意志で、「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている(24節)ということを読み出すこと」はできないのである、「『わたしは生きるかぎり、主に向かって歌い、ながらえる間はわが神をほめ歌おう。どうかわたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ(三三節以下)』と語ること」はできないのである。「われわれの世界像の枠の中での……出来事は、すべてのものがすべてのものに対して戦っている凄惨な生存競争を意味しているということ」――このことを、「われわれ」は「見過ごす」ことはできない。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配」である、「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した……」、権力は実体ではなく「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」であるから、人は、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態における生と生活を強いられている――このような「自己理解」と「世界像」を、「われわれ」は「見過ごす」ことはできないし、その時、「われわれ」は、どこにも「秩序と調和」を見出すことができないから、「われわれが知っている人間、自然的な人間」、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間は、「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている(24節)ということを読み」取ることはできない、「『わたしは生きるかぎり、主に向かって歌い、ながらえる間はわが神をほめ歌おう。どうかわたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ(三三節以下)』と語ること」はできない。このような訳で、「神の目に見えるみ業で支えられている主を喜ぶ喜び」が、そうした「矛盾に耐えることができるとすれば」、「詩篇の作者」が、「宇宙の中での人間を神の証人としている時」、「秩序と調和」の「自己理解」と「世界像」は、「未来の世界……の中で、今、ここで、われわれに全く隠されている創造の神性、知恵、いつくしみが、再びわれわれのところに来る未来の世界……の絵について語」っていることは「明らか」である。「人は、詩篇一〇四篇を、(≪終末論的な≫)黙示録二一・一−五の注釈なしには、たとえ一瞬なりとも正しく理解すること」はできない。(黙示録二一・一−五)「……御座にいます方が言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』」――「このことは、自然的人間の世界像の中に、預言者的、使徒的全権をもって(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、起源的な第一の形態としての~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものから、その人間性と共に神性を賦与され装備された~の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言を通して≫)読み<入れ>られ、それからまさにそのことが(≪聖書的啓示証言をその原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して教えるところの、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教を通して≫)自然的人間の世界像から読み<出され>ているが故に」、「詩篇一〇四篇の内容をなしている」「神の創造の秩序と調和の中で起こる神の讃美が可能となり、現実のこととなるということを度外視して」は、「人は、詩篇一〇四篇のまことの、文字通りの、歴史的な説明に、……到達すること」はできない。バルトは、『福音と律法』および『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で、次のように述べている――@「われわれ」人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」だけである。このことは、「われわれ」の赦罪や和解や救済や平和について、「われわれ」人間から「生ずる現実は何もない」ということを「われわれ」人間に自己認識・自己理解・自己規定させるのである(それゆえに、現存する民族国家を念頭に置きつつ、そのような聖書理解に依拠してバルトは、『平和に関する……書簡』において、「平和は戦争より善いものであるということ」を繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは<究極的に>何の助けをももたらさない」と述べたのである)。律法の成就・完成そのものであるキリストの福音は、「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺しつつ、しかも福音によって生かし給う」「勝利の福音」のことである。したがって、ここで、律法は、福音を内容とする福音の形式である。「心においても業においても、罪人である」「われわれ」人間に対して、それにもかかわらず、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執するというイエス・キリストに対する「信仰の生命へと、呼び覚まし給う」のは、「イエス・キリストご自身」であるということを、「われわれ」人間は「強調」しなければならないのである。なぜならば、「われわれ」人間は、「そのために必要なものを、自分の内には所有しないということが、確実である」からである。「律法―福音、罪―義という順序が、死―生命という順序と一致しているということ」は、ただ客観的な「啓示の出来事」としてである。イエス・キリストにおける客観的な「啓示の出来事」は、「われわれ」人間を「罪と死との法則」である律法から解放した出来事である。「われわれ」人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではないのである。したがって、福音を内容とする福音の形式としての律法は、「われわれ」人間に対して、「罪と死の法則」の律法――すなわち「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」――すなわち「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれである、「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれである。このような訳で、「われわれ」人間は、 『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し得るだけなのである、それゆえに「信仰を授与されているという事実性」において、キリストの福音を「事実的に信ずる」キリスト者は、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すのである、A神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである・「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」・「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」・この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である・新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、 義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである・ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、「われわれ」人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、また、アウグスティヌスやハイデッガーの時間概念は、聖書においては「『失われた非本来的な古い時間』」(古い世)、「否定された時間」、「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である・それに対して「イエス・キリストにおける啓示の時間」――死と復活、受難の歴史と復活の歴史、古い世の終わりと新しい世のはじまり、それゆえに「啓示は歴史の賓辞」ではなく、「歴史が啓示の賓辞」である――、すなわち(終末、キリストの再臨、完成ではないが)完了・「成就された時間」(使徒行伝1・3、キリストの復活40日)、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である・それゆえにここに、「まことの現在」まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」があるのである・このように、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間、時間そのもの、実在の時間についての認識が欠けている・「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である・この啓示の時間は、神の側の真実としてのみある「啓示そのものによって教えられなければ」その一部分でさえ認識することはできない・それゆえに「われわれ」は、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストの出来事を単一性・神性・永遠性を本質とする「神の啓示として理解」(啓示認識・啓示信仰)する時初めて、イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時」に生起した「われわれのための神の時間」であることを理解することができる・イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの受難と死および「成就された時間」(キリストの復活)であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である、すなわちその「成就の待望」と「成就の想起」を持った「成就された時間、啓示の時間」、「啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間」、「神ご自身の時間」、「実在の時間」である・「成就された時間」の以前とは、先ず「出来事として起こっている特定の歴史の時間」、「旧約聖書の時間」、「啓示の待望についての証言の時間」のことである・また「想起の時間」は、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間であり、「既に出来事として起こった啓示から……由来していた歴史」のことであり、「成就された時間」(キリスト復活の40日)と切り離せない仕方で結びついている時間のことである・すなわち、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間の後に続く時間は、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に属した「新約聖書の信仰」におけ「想起の時間」、「聖霊降臨日のあとの時代」である・それゆえに「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(キリスト復活の40日)を待望する形においてあり、またまことの「未来」は、キリストの復活とともに初まり、ただキリストの復活を想起する形においてのみある・「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである、「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのでり、「甦えりの証人」である・そして彼らは、「既に来た方」――イエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語るのである・「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である・それゆえにこの「想起の時間」、聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」(キリスト復活の40日)ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」、復活のイエスをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末、復活したキリストの再臨、完成を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与する、それゆえに「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、復活したキリストの再臨、救贖、完成)を考えること――すなわち待望することは過去(キリストの復活、新しい世のはじまり)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活、新しい世のはじまり)を考えること――すなわち想起することは未来(終末、復活したキリストの再臨、救贖、完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去(イエス・キリストの受難と死、旧約聖書の時間、古い世)を考えることでもあるのである。
 さて、「われわれはさらに聖書的な傍系的線のもう一つの重要な文書」、すなわち「『つむじ風の中から』語られる神の答え(ヨブ記三八章以下)」に「注意を向ける……」。「その答えを理解するために人は、……その答えが(著者の意味ででは)ヨブの問題の解決、それであるから世界の動きを神が支配し給う際の神の正しさを問うヨブの問いに対する十分な満足のゆく答えであるということから出発しなければならない」。ヨブは、「確かにあの事柄についての理論的な知り方でではないが、それよりもはるかにまさった、はるかに徹底的な仕方で知るのである」――「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ』。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け(≪私の自主性・自己主張・自己義認を退け≫)、悔い改めます(四二・三−六)」。「そのように、人は、神の義を知る。換言すれば、神は正しい方であり給うが故に、神の前に身を屈しつつ、神の義を知る。それこそ著者が明らかに言おうとしていること」なのである。このヨブの解決の仕方から、神だけでなく人間も、人間の独立した自主性・自己主張・自己義認の欲求もというベクトルを持つ自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教は可能となるだろうか、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健のように、「~の言葉」だけでなく「人間の経験」の尊重、近代的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍の尊重もという「聖霊論的説教論」は可能となるだろうか、ルドルフ・ブルトマンのように前期ハッデッガーの哲学原理を第一次化する神学は可能となるだろうか、西欧近代を頂点とする進歩史観はすでに時代状況が全く許さないのだが、モルトマンのように神学的な三段階的進歩史観は可能となるだろうか、喜多川信のようにメル・ポンティの身体性の概念に依拠して神学的進歩史観を構成することは可能となるだろうか。いずれにしても、ヨブを「教え、悔い改めさせるものは、明らかに、積極的にも消極的にも」、「……徹頭徹尾……神ご自身が、そのみ業(≪存在の仕方≫)を、ヨブに語りかけるご自分の言葉の内容とし給う」ということによっている。神は、「<言葉>の中で万物の主であり給い、そのようなものとしてまた河馬やレビヤタンの主であり給い、そのようなものとしてまた河馬やレビヤタンの秘密の、そのすべてのみ業の秘密の、知恵であり給う神である。この神の言葉を、ヨブは、神の業(≪存在の仕方≫)の秘密を指し示す指示の中で<聞いた>のである。ヨブを悔い改めへと導いた三八章以下(≪「二つの話しの進行、三八−三九章と四〇−四一章……このうち第二のものを人は残念ながら普通、本来のヨブ記に後から付け加えられたものとして排除するのであるが」≫)に出てくる秘義は、啓示の秘義、換言すればイスラエルの選びと導き、イエス・キリストの十字架と甦りの秘義と内容的に同一であると言っても言い過ぎではない」。「悔い改めへと導」かれ<非>自然神学の<段階>へと移行させられたヨブは、「理解を絶した、把握できない……無気味な、得体の知れない」「暗さそのもの」の「神の業を直接に理解した」のではなく、自然神学の<段階>の最後的形態である「レビヤタン」についての「神の語り」(「言葉」)を聞いたのである、神が語り給う故にその神が語り給うこと(「言葉」)を聞いたのである――「地の上にはこれと並ぶものはなく、これは恐れのない者に造られた。これはすべての高き者をさげすみ、すべての誇り高ぶる者の王である(四一・三三−三四)」、(新共同訳聖書)「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している(四一・二五−二六)」。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」、神だけでなく神から独立した人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を志向し目指す自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した、「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)。バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――私たちは、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返して、「心を頑固にし福音を認めない人間」――すなわちイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執しようとしない人間や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない・すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストが「すでにその人をその中に(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在、永遠的実在としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものの中に≫)置いてい給うことによってである」・したがって、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである。