本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−4)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−4)−2(177−203頁)

 

「一 神の用意」(その5−4)−2

 

 「われわれ」は、「創世記六・五、八・二一」で、「~から見て」、「二度……人間の心の思いはかること」は「いつも悪い事ばかりである」・「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い……」と「明言されているのを見出す」。その事実のゆえに、「~は、人を造ったことを悔い給い、人間を地のおもてからぬぐい去ろうと決心し給うたと言われている」。しかし、その同じ事実性の下で、「~は、もはや二度と人間のゆえに地をのろわない」・「ぬぐい去ろう」としないことが「明言されているのを見出す」。このような訳で、あの事実性を生きる「人間についての<判決そのもの>は、取り除かれてはいない」、換言すれば「まさにその(≪人間の事実性に対する~の判決の≫)真理性こそ」が、「ノアは主の前に<恵み>を得た」と認識したところの~の側から結ばれた「ノアとの契約」の「根拠となる」。「……ただそのような仕方でだけ神の前に存在している人間について、その創造に基づいて神に対し独立した関係があるなどとどうして言」うことができるであろうか。もしも「独立的な関係が……成り立っているとするならば」、換言すれば「ノアの契約」におけるように「ノアはすべて主が命じられたようにした」という仕方においてであって、すなわち神に対する他律的な服従における自律的な服従(~にのみ感謝をもって信頼し固執する、決断、態度)においてであって、すなわち神に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性においてである。したがって、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す恣意的独善的嗜好的な信仰・神学・教会の宣教におけるような、神だけでなく人間も、人間自身の「独立的な」自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間自身教会自身による「赦罪」や「和解」や「救済」や「平和」の構想や企て(試み)もという「独立的な関係が……成り立っている」訳では決してないのである。「そのところからしてどうして、例えば創世記一−二章の創造物語が、神の恵みの啓示に相対して独立した言明であるとして理解」することができるだろうか。「われわれは……詩篇一四・二−三で……『主は天から人の子らを見下ろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもいない』」と明言されているのを見出す。しかし、その同じ「詩篇一四篇」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「主がその民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう」で「結ばれている」。「またわれわれは詩篇五一・四−五で……『わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事ばかり行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。見よ、わたしは不義の中に生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました』」と明言されているのを見出す。しかし、その同じ「詩篇五一篇」は、「一三−一四」で、「わたしはとがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。~よ、わが救いの神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう」と言われている。この「詩篇の中で」、「あのように<全き神の裁き>について、同様にまたあのように<全き~の恵に>ついて、知らなければならない人間……に対し」て、「<恵>と<裁き>を度外視して、したがって<神の啓示>を度外視して」、「~との独立した関係が帰せられ、それに基づいて独立した証人となる能力が帰せられることが可能」であるはずはないのである。「ローマ人への手紙三・二二以下」の「そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、~の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」――この啓示認識・啓示信仰に基づく「命題は、ローマ人への手紙の中で、その前の部分で……すべての人は<罪>を犯した……こと」が、「その後の部分で……彼らは、値なしに、<義>とされる……こと」が、その同在性・同時性・構造性において「展開されるべきことをまとめている」。パウロは、「ローマ一・一八−三・二〇で……ユダヤ人と同様異邦人の、異邦人と同様ユダヤ人の、<あらゆる不信心と不義に対する神の怒りの啓示>に語った」が、「それと並行的に」、「ローマ三・二一以下で(≪裁かれるべき、「あらゆる不信心と不義」にある人間の、あるいは『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」人間の≫)イエス・キリストを信じる信仰の媒介を通して信じるすべての者に現される神の義の啓示について語る……」――この吉永の翻訳の仕方には特別に注意されたし! イエス・キリストに対する奉仕にとって、それゆえに~の言葉の起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを媒介・反復すべき教会の宣教にとって最善最良のバルトの神学を人々に誤解させないために、この「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として翻訳する翻訳の仕方あるいは論じる論じ方には徹頭徹尾特別に<注意>されたし! 「イエス・キリストの信仰」の属格を、神だけでなく自然的な人間自身の「独立的な」契機もという目的格的属格として理解するかあるいはあくまでも~の側の真実としてのみある主格的属格として理解するかは、その啓示認識・啓示信仰が、その信仰・神学・教会の宣教が、自然神学の<段階>を志向し目指すものか、あるいは<非>自然神学の<段階>を志向し目指すものかを決定する<最重要>事項であるから、バルトはここでギリシャ語原典聖書(ピスティス・イエスー・クリストゥー)を引用しているのである。ここで、吉永は、成熟したバルトの著作『福音と律法』における「イエス・キリストスの信仰」の属格を主格的属格として理解した最高度に重要な理解を念頭に置かないまま、旧来訳・共同訳聖書に合わせるために「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解し翻訳しているのである。言い換えれば、吉永の翻訳の場合、裁かれるべき、「あらゆる不信心と不義」にまみれた人間あるいは『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」人間における「イエス・キリストを信じる信仰」の「媒介を通して」、「信じるすべての者に現される神の義」となってしまって、少なくとも半分はあの自然的な人間自身の信仰それ自体が、その人間に与えられる「神の義」の源泉となってしまっているのである。この吉永の翻訳の仕方(その内容)は、ほんとうの処女作『ローマ書』第二版以降のバルトにおいては決してあり得ないところの、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異からの全くの逸脱である。したがって、もっと正確に、「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストを信じること(~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰)の「媒介を通して」、「信じるすべての者に現される神の義」と翻訳すべきなのである。したがって、吉永のこの翻訳の仕方は、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』においてバルトが、イエス・キリストは単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、啓示・和解であるから、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教においては、「和解」に関して言えば、「赦す~」が人間に内在しなければならなくなり、それ自体が「思弁」でしかなくなってしまう、と述べているのと同じように、思弁的な翻訳の仕方なのである。したがって、吉永のそれは、~の側の真実としてのみある単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「神の最高の義」そのものではない。言い換えれば、吉永のそれは、人間自身教会自身が恣意的独善的に対象化し客体化した人間的な「神の義」でしかない、それゆえに「存在者レベルでの神≪偶像≫への信仰」における「神の義」でしかないものとなってしまうのである。それに対して、バルト自身は、次のように述べている――「一・一八−三・二〇までは、……旧約聖書が証して来たことを常に思い起こさせながら、福音……イエス・キリストの使信において、事実全人類に対する<神の裁きの判決>が、……<断罪>が語られていることが指摘される。しかし、この局面は、……この手紙の主要部分、三・二一−八・三九において詳論される内容によって一変する。……すべての人間が罰せられる神の裁きの判決は、それがイエス・キリスにおいて語られたものであるがゆえに、それが<彼の死において成しとげられたもの>であるがゆえに(≪換言すれば「彼は全く端的に、信じ給うた」がゆえに、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが信じる信仰であるがゆえに、それゆえに彼こそが「~の最高の義」そのものであるがゆえに、≫)、彼を信ずるすべての者に、解放を宣言し、義を与える」・「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、<神自身>の義をまとっている者として生きることを許される」・「神は、……最も厳格な義を行使する……彼らが義と宣せられるのは、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である≫)イエス・キリストにおいて贖われたゆえであり、……イエス・キリストによって一回決定的に買い戻されたゆえである」・「イエス・キリストこそ律法の総括と内容である。なぜなら、彼こそ律法を満たし(≪律法を成就し≫)、……われわれに代わって裁かれた裁き主としての彼に対する信仰のみ残したからである、「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストを信じる信仰のみを残したからである、「罪と死の法則」としての律法――すなわち「汝斯く斯くなるべし」、「遂行せよ」という要求から、「生命の御霊の法則」としての律法――すなわち「汝斯く斯くならん」、「信頼せよ」という約束へと回復せしめられたところの、キリストの福音を内容とする福音の形式である律法は、『生命の御霊の法則』として、「われわれはイエス・キリストにあって」「罪と死の法則」としての律法から「解放された」のであるから、それゆえに「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけであるから、「~の最高の義」そのものであるイエス・キリストに感謝をもって信頼し固執することをのみ残したからである・「われわれに代わって裁かれた裁き主としての」イエス・キリストによって、「われわれはただ神の前にのみ、しかしそれゆえ、真実にまた完全に、義人とされている」(『カール・バルト著作集15 ローマ書新解』および『福音と律法』)。バルト神学の処女作『ローマ書』第2版から『教会教義学 和解論』までの断続性と連続性との総体的構造からいっても、今回バルトが論じている脈絡からいっても、吉永の翻訳の仕方は誤解か誤謬であることは確実である。したがって、神学者や牧師や著述家の知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしな方がいいのである、すなわち彼らの知識や情報から対象的になって距離を取り批判的に検証してみることも必要なのである――聖書の「正しい注釈」を「最終的に……教会の教職の判決」や神学者の判決に「依存させてしまう」ことをしない方がいいのである、また聖書の「正しい注釈」を「間違うことはあり得ないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決」に「依存させてしまう」ことをしない方がいいのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている」のである(『啓示・教会・神学』)。この「イエス・キリストの信仰」は、バルト研究者、バルト論者、神学者や牧師においても、総括的に言えば自然神学の<段階>を手放せないすべてのバルト研究者、バルト論者、神学者や牧師や著述家が躓くところである。40年以上前、母教会にあった井上良雄の翻訳本以前に発行された『福音と律法』に関する翻訳本だったか論文だったか、またそれが神学者のものだったか牧師のものだったか、出版社の名も忘れてしまったのだが、その翻訳者だったか論者は、バルトは「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として理解したことを明確に翻訳した井上とは違って、バルトは目的格的属格として理解したというように、教会の宣教にとって最善最良のバルトの神学を誤解させバルトに迷惑をかける<嘘>を<平然>とついていたことをはっきりと覚えている。神学者・寺園喜基も、バルト論で、バルトとは正反対に、「イエス・キリストの死の理解」における「終末論的な希望の構造」の三点目に、「イエスの信仰」の<目的格的属格>理解に基づくイエスを信じる信仰に含まれている約束と希望を挙げていた(『バルト神学の射程』)。私の知る限り、バルトの「イエス・キリストの信仰」を、至心から真剣に正直に翻訳していたのは、井上良雄だけである。私は、井上の『福音と律法』を読んだとき、吉本隆明が井上を文芸批評家として評価していることを納得した――@「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである(≪刑罰を与え給うのである≫)……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、<明らかに主格的属格として理解されるべきもの>である)」(ここでも、バルトはギリシャ語原典聖書から引用している)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。このような訳で、吉永は、ほんとうは、「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として理解したバルトを至心から真剣に正直に翻訳した井上良雄のように、至心から真剣に正直に、~の側の真実としてのみある「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのものの「<媒介>を通して信じるすべての者に現される神の義の啓示」、すなわちもっと詳しく正確に言えば、「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストを、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「信じる(≪啓示認識・啓示信仰する≫)」「すべての者に現される神の義の啓示」というように翻訳すべきなのである(なぜならば、そうでなければ、「Tコリント二章と矛盾」してしまうことになるからである)。聖書的啓示証言から得た、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の理解(『ローマ書』)と共に、この「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解(『福音と律法』)も、バルト神学の最高度に重要な中心的原理、バルト神学の最高度に重要なキーワードなのである。もちろん、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それゆえに聖霊によって更新された人間的理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)、という聖霊理解もそうである。ここで論述を元に戻せば、「神の知恵と意志の中では明らかにひとつである」が、人間は「神の怒りと義を通して(≪「二重に」≫)規定されている」のである。ドストエフスキーも、終末論的信仰について形而上学的一面的固定的に抽象して書くことはせず、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を<裁いて>、万人を<赦され>」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる」というように書いている。また「われわれ」は、「使徒行伝一七・二二−三一で、パウロがアレオパゴスの丘の上でイエス・キリストの甦りについて宣べ伝えたことを読む」。このパウロは、「神が『見過ごしにされて』いた『無知の時代』」を、「その聞き手に向かって彼らの過去として示した」が、「彼らの未来として、パウロは、甦られたキリストの中ですぐ目前にせまった世界の裁きと直面しての悔い改めを示した」。それに対して、「三二節以下で、この使信は、アテネ人たちによって(まさに彼らが死人の甦りのことを聞いた時)一部は軽蔑をもって一部は退屈感をもって受け取られ、……彼らの中から出て行ったということを読む」。「ただ何人かの者だけがパウロに従って行き、信じた」ということを読む――これが「この有名な箇所における聖書的な『主要な線』である」。したがって、この「主要な線」に並ぶパウロによって「注意が喚起されている傍系的な線」――すなわち「アテネ人たちの……宗教心」や「『知られざる~』に捧げられた祭壇」や「人間が~と親族関係にあり、人類はひとつであることを念頭におい」た、たとえ半分だけであろうと少しだけであろうと神の啓示なしで・「イエス・キリストなし」で「神に対して独立した仕方で保証された関係に立」ち得る「傍系的な線」は存在することはできないのである。したがって、「聖書的な『主要な言明』」、「聖書的な『主要な線』」(<非>自然神学の<段階>における言明、<非>自然神学の<段階>における線)に対して傍系的な線(自然神学の<段階>における線)の存在について主張する主張は、例えば聖書が、「死と呼んでいるものを単なる病気に」・「闇と呼んでいるものを単なる薄明に」・「不能と呼んでいるものを単なる弱さに」・「無知と呼んでいるものを単なる混乱にしてしまう」という「時にだけ可能である」だけなのである、換言すればあの「聖書的な『主要な言明』」、あの「聖書的な『主要な線』」に「人が注意しない」時――すなわち人が神と人間との無限の質的差異を「わがまま勝手に」止揚し後景へと退けてしまって、~の側の真実としてのみある「人間に与えられるようになる<神の恵み>」は、「<失われ滅びに陥った罪人>の身に与えられることに人が注意しない」という「時にだけ可能である」だけなのである。言い換えれば、「承認されている聖書的な主要な線」、「聖書的な主要な言明からは、宇宙の中での人間はただ、独立的でない証人として、すなわち主要な証人ではなく、ただ副次的な証人として、理解」することができるだけなのである。「聖書が宇宙の中での人間の証言に関して語っているすべてのこと」は、宇宙の中での「人間は啓示そのものを通して(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、それゆえに~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、≫)その証人にされ、証人へと召し出される」のである、あくまでも~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性――「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関の中で「証人にされ、証人へと召し出される」のである。「換言すれば、彼は宇宙の中での人間としてそれ自身ではない」、すなわち宇宙の中での人間としての彼は、即自的無媒介的に証人ではないし、証人へと召し出されるのではない。
 聖書的な啓示証言は、「すべての人間的な教えと理論がすべての首尾一貫性にもかかわらずどこかでまた空隙を示し、それ自身の矛盾を自分自身の中に含み、自分の傍らで堪え忍ぶことができるし、堪え忍ばなければところの人間的な教えと理論」ではない、「人間的な思想」の「展開」ではない。それは、「神の啓示についての証言である」。聖書的な啓示証言は、「(人間的な思想の形においてであるが)すべての人間的な思想を越えて、イエス・キリストの中で~が人間と出会い給う出会いの出来事」(『ローマ書』によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」という出来事)を、それゆえに「その中では然りと否があるのではない」「真理の出来事」を、「また然りと否をもって指し示」すことができない「真理の出来事を、指し示」している。したがって、「もしも聖書的証人たちが(≪啓示の真理に対して≫)然りと否を並べて言うことができるとするならば、もしも彼らが、その啓示の中での~の主権的な恵みと並んでなおまた宇宙の中での人間が独立した形で~(≪人間自身が「独立した形で」対象化し客体化した「存在者レベルでの神」・偶像≫)と結ばれていることについて教える自由を持つとするならば、その時彼らはまさにそのことでもって、自ら啓示の証人であることを否定することになる……」。このことは、第三の形態に属する全く人間的な「キリスト教会の神学の中で……確かに数え切れないほど起こったことである……」。「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)のであるから、「彼らは、啓示と関わるのに、……首尾一貫させつつ貫徹させることができるが、それにもかかわらずどこかでまた首尾一貫性を欠き、……矛盾しなければならなくなる体系的な原理と関わっているかのように関わっている」のである。バルトは、このような事態を、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」・キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」。この時、「聖書的な『主要な線』」、「聖書的な『主要な言明』そのもの」が、「そのような矛盾と隣り合わせながら」、そのような中途半端さの中で、人間自身教会自身が百人百様に対象化し客体化した「いわゆる存在者レベルでの神(≪偶像≫)への信仰」を志向し目指すものとなってしまい、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と言われるところの、「虚言となってしまう」のである。限界づけされた「人間的な体系の領域の中で、従って人間的な自己矛盾の領域の中でなされる」「聖書的啓示証言」が「神の啓示であるとするならば」、「その時、聖書的証言そのものから、然りと同時に否を語る可能性、恵の神と同時に神と結ばれた宇宙の中での人間を教える可能性を期待することはできない」。したがって、「確かに例外なく人間的な自己矛盾の領域を生きた」~の言葉の第二の形態に属するその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者と使徒たち……の証言」は、人間自身、人間の労働や言語や性を介して自然を人間化した人間的自然、自覚された人間の理性や自由という「対象を証ししているのではなく」て、「自分自身と矛盾しないし」、また「彼ら」が「彼らに対しても……語らなければならない」ところの、「自分と矛盾することを許さない対象(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、イエス・キリスト、起源的な第一の形態としての~の言葉≫)を証ししているのである」。このことは、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性――「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関の中で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指して行くべきことを指し示していると言うことができる。~の言葉の第二の形態のその人間性と共の神性を賦与され装備された聖書的啓示証言における「預言者と使徒たち」(「証人」)は、「決して何かあること……を語ったのではなく」、「まさにひとつのこと」、ひとつの「対象」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態としての~の言葉、「まことの証人」)を、その福音を、「証ししているのである」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)――「われわれの側」は、聖書的啓示証言(証人としての預言者および使徒たち)の「語ることを聞きたいと願うならば」、彼らが「承認された聖書的な主要な言明の内容を形造っていることを語ることができたし、語ろうと欲したということを堅くとって離してはならない」のである、換言すればその教会は、第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」――「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関性に生きなければならないのである。第三の形態に属する全く人間的な教会――「われわれの側」が、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、この<非>自然神学の<段階>における信仰・神学・教会の宣教を貫徹し、「聖書的な『主要な言明』に仕えようとする」ならば、「われわれの側」は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すことを志向し目指すためにそれに「矛盾する聖書的な副次的な言明を主張する」ことはできないことである。したがって、バルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べたのである――説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている・「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代主義的な人間の感覚や知識を内容とする経験普遍や情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである・福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、説教者は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない・神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。このような訳で、「自然神学への招きと要請、換言すれば自然神学を基礎づけ、可能にし、正当化するであろう聖書的な教えは、あの副次的な言明の中でも存在していることはあり得ない」のである。このように述べるバルトの、最高度に成熟した『福音と律法』における「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエスの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」という言明は、<非>自然神学の<段階>における言明なのである、<非>自然神学の<段階>における啓示認識・啓示信仰なのである。したがって、『福音と律法』において律法(神の命令・要求・要請)は、福音を内容とする福音の形式なのである。言い換えれば、律法は、~の側の真実としてのみあるキリストの福音――すなわち主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」を内容とする(キリストの福音を媒介とする)、福音の形式――すなわち主格的属格としての「イエス・キリストが信じる信仰」(「神の最高の義」そのもの)である「イエス・キリストを信じる」ということ、「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストに感謝をもって信頼し固執するということである。この「イエス・キリストを信じる」ということ、すなわち「イエス・キリストが信じる信仰」(「神の最高の義」そのもの)である「イエス・キリストを信じる」ということ、イエス・キリストに感謝をもって信頼し固執するということは、福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)なのである。それは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるから(『福音と律法』)、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在、個体的自己としての全人間・全世界・全人類、不信・非キリスト者・非知に対して完全に開かれているから(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性――「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関性において、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えていかなければならないのである。なぜならば、赦罪、和解、救済、平和について、召命・義認・聖化について、われわれ人間から「生ずる現実は何もない」のであって、それらは、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業」として、われわれのために、われわれ「自身の中に生起」するからである、換言すればそれらは、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてわれわれ「自身の中に生起」するからである。ここには、自然神学の介入の余地は全くないのである。言い換えれば、聖書的啓示証言に信頼し固執して<非>自然神学の<段階>を志向し目指すバルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理およびその認識方法と概念構成は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判・揶揄に対して、その批判・揶揄を、根本的包括的に原理的に止揚し克服できるそれなのである。このことが、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての」自然神学の<段階>で「遊ぶ」ところの神学者や牧師や著述家たちには分からないのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。このことを、私は、井上良雄が至心から真剣に正直に翻訳した『福音と律法』で確信し、また現在為している『教会教義学』の考察と解明を通してさらに確信した。
 さて、バルトは、自然神学を聖書的に基礎づけられるかという問いに対して、次のように論じている――「ただ主要な部分ニオイテだけでも、……副次的言明の特別な代弁者として主張することができるであろう(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す≫)聖書の著者はひとりもいない」、「また個々の聖書的書物の内部で……副次的な言明が、いわば純粋に、したがって独立した形で鳴り響いており、……注釈的に基礎づけられる契機を持つであろう(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す≫)思想連関はほとんど存在しない」、それゆえに「自然神学を聖書的に基礎づけるために」は、人は、「聖書的なテキスト」を、形而上学的一面的固定的に抽象して、すなわちその一部分を拡大鏡にかけて全体化するという仕方で、「切断しなければならないこと」になる。「その時、ローマ人への手紙一−二章」の「聖書の主要な言明の展開」――すなわち「<神の怒り>と<恵の啓示>」を「無視して読まなければならないことになる」。また、その時、「使徒行伝十七章に出ているアレオパゴスでの説教の中で」、「使徒行伝全体の出発点および内容的な中心」である「キリストの甦り」、それゆえに「二二−二九節」も「キリストの甦り」から「理解されなければならないであろうキリストの甦りへの指し示しを伴った決定的な結論が看過され」、後景へと退けられてしまうことになる。「(詩篇一〇〇・一)そこではよく聞こえる仕方で、神を讃美するようにとの呼びかけがすべてのものに向かって、すべての国々に向かって」、「全地に向かって(詩篇六六・四)」、「すべての民に向かって(詩篇六七・六)」、「神々の会議に向かって(詩篇八二・一)」、「息のあるすべてのものに向かって(詩篇一五〇・六)」、「存在するすべてのものに向かって(詩篇一四八篇)、呼びかけられている」。「そこでわれわれは……地はそれとして~のものであり(詩篇二四・一−二、五〇・一〇以下、九五・四以下)、それ故に創造のすべてのよきものは~のものであり(詩篇三八・六−一〇、六五・七−一四)」、「またすべてのもの、全地に対する支配と裁きも~のものであるということ(詩篇九六、九七、九九篇)、を聞く」。「そこでは繰り返し天、海、嵐、山、地震、植物と動物の世界、諸国民、その支配者たち、天にいる御使たちが、~の創造、しもべ、み業の証人、したがって声高く語っている~の証人として語りかけられている」。しかし、「(中略)それらすべてが語られているのは、(≪~と人間との無限の質的差異の下で、それゆえに≫)それとしての宇宙の中での人間そのものに啓示されている、あるいは啓示されるようになることができる何かあるひとつの神性についてではなく」(それゆえに、人類史のアジア的段階における草木国土悉皆仏性・草木国土悉皆成仏・山川草木悉皆仏性論のようなものではない、それゆえにまた滝沢克己の主張する「根本的事実」・「インマヌエルの事実」のようなものではなく)、「むしろ……(≪「全く明らかとなる」ような「仕方」で≫)イスラエルの~、換言すれば、(≪「全く明らかとなる」ような「仕方」で≫)イスラエルに対し、またイスラエルの中で、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である父として≫)行動し給い、この(≪存在の仕方としての≫)行動の中でご自身を啓示し給う~(≪その単一性・神性・永遠性を本質とする~≫)についてである」。したがって、ここでも、徹頭徹尾、神と人間(天然自然の中でのその自然の一部としての人間、人間化された自然としての人間的自然)との無限の質的差異、その聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性は貫徹されている、それゆえに人間の側の終末論的限界が貫徹されている。単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である父――「この方の光の中で、決してそれと違った仕方ではなく、今や地上でも光が見られるのである(詩篇三六・一〇)。その担い手として、いまや天と地とその中にあるすべてのものが呼び出され、名指されている」のは、「全き神的な力、知恵、いつくしみ、義である」。すなわち、神の啓示とは独立した形での、「直接じかの伝達」が可能となるような理解は「ゆるされ」てはいないのである、換言すればあくまでも、~のその「神性」をではなく、その「存在の仕方」(業と行為)を媒介するという仕方で伝達を理解するように語られているのである。すなわち、聖書的啓示証言における~は、「宇宙の中での人間によって独立的に認識された~としてご自身を知らせ給うというように、語られて」はいないのである。もしも人間が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した~が「語られている」とするならば、「聖書の主題」である~と人間との無限の質的差異の下での~ではないであろう、まさに「存在者レベルでの~」(偶像)でしかないであろう、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に批判・揶揄した~(偶像)でしかないであろう、そうした神(偶像)の名と呼びかけによるキリスト教信仰・神学・教会の宣教でしかないであろう。人は、「短い詩篇一一七篇」と同じように「詩篇一四七篇」における「模範的」な「宇宙の中での人間についての証言は、独立的に為されておらず、むしろイスラエルの民の中で、またイスラエルの民の人々の間で為された~の語りと行動(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方、その業と行為≫)についての証言に徹頭徹尾つけ合わされ、従属させられた仕方で為されているということ」を、「確かめることができる」。「詩篇九〇篇」は、「一三−一七節」によって、「人間の生命のはかなさについての抽象的な考察と取り組まなければならないかのような推測から守られている」。「また同じように詩篇一三九篇は、顕著な仕方で挿入された一九−二二」によって、「~の全知と全能について抽象的ニ述べられていると受け取ろうとする理解から守られている」。「いずれにしても、(中略)形式的に注釈的にみても、詩篇の中にある宇宙の中での人間の独立した証言」を、「聖書の主要な言明」として提示することはできないのである、自然神学を聖書的に基礎づけられるそれとして提示することはできない。
 前述した「形式的な状況は、全く特別な内容的秩序を指し示している」。「宇宙の中での人間についてなされた、あるいは宇宙の中での人間の口にのぼらせられた言明が、イスラエルの中での、またイエス・キリストの中での、~の啓示についての言明から分けられないように、聖書的証言は……内容的にみても」、啓示証言から「世界、自然、歴史」を、「何かただ遠い、色あせた(≪~と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けた≫)同一の秩序の中で、相対して立つ……といった具合に、分け」ることはできないのである。したがって、バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で次のように述べている――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ」人間に対して、聖書およびその聖書に聞き教えられることを通して教える教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それゆえに「われわれ」は、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、それゆえに「われわれ」は、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する・したがって、神と人間との無限の質的差異の下で、神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、二元論的に、一方でイエス・キリストを信じる信仰という「仮面をかぶった」上で、他方では「人間の自由」・「人間の自己運動」を「神のそれと取り違えるという混淆」・「混合」を志向し目指す自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すところの信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである、すなわち「われわれ」人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それゆえに「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。「聖書の内容はただひとつの証言を形造っているのであって、それは厳格に、排他的にただひたすら」、「イスラエルとの契約の中で、またこの契約を基礎づけているイスラエルのメシヤの約束」、すなわち「神的な言葉の受肉(≪その神性の受肉では決してなく、その存在の仕方、言葉の受肉である、客観的な啓示の出来事≫)とすべての肉に下る聖霊の注ぎの約束(≪客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)、の成就の中で起こった神の恵みの契約についての証言として理解されなければならない」。したがって、このことと「別な方を指し示している聖書的証言の要素は存在しない」。「われわれは既に」、「<直接的>に」、「神ご自身」を、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由な「父なる名の内三位一体的特殊性」における内的な、内在的な、自己還帰的な三位一体の「神そのものを指し示しているような聖書的証言の要素は存在しないということをみた」。もちろん、単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」は、「神の啓示の真理を支えている力である」が、「聖書的証言は、あくまで啓示(その神の存在の仕方、業と行為)の中での神を指し示しているのである、ただそのようにして、……ご自身の中で存在し給う神(≪あの「父なる名の内三位一体的特殊性」における神≫)を指し示している」。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、聖書的証言の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」(・単一性・永遠性)を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にあり、この神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方で、顕現・自己啓示したのである・このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性・「聖性」としての神の起源的な第一の存在の仕方の父が、その第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味するのである、それゆえにその自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、その第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このように、聖書的啓示証言は、「啓示を通り過ごし」た(啓示を媒介・反復することをしない、啓示に聞き教えられることを通さない)、<直接的>に~の側からやってくる啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識を指し示していないように、また「聖書的啓示証言は、……別の面において、啓示を通り過ごし」た(たとえ少しであろうとも、啓示を後景へと退けてしまった、啓示を媒介・反復することをしない、啓示に聞き教えられることを通さない)、「宇宙の中での人間」における啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識を指し示していない、換言すれば「宇宙の中での人間」が、神に対して、~だけでなく理性や自由を自覚した自然的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「独立した」関係、すなわち「~の恵の選び」よって規定されていない関係、それゆえに「<裁き>の中で示される<神の恵み>によって規定されていない関係」、そのような「傍系的線」の関係における啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識を指し示していない。しかし、聖書的啓示証言は、「宇宙の中での人間」が、「神の特別な啓示」を自らの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通した、それに聞き教えられることを通した、<間接的>・<媒介的>・<反復的>な啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識を指し示している。ここに、「聖書的な傍系的線」における問題がある。したがって、「われわれは、そこでどちらに向かって指し示されており、この指し示すことが何を意味しているかを理解するためには、そこでどこから指し示されており、どこを目標に指し示されているかを明らかにしなければならない」。
 先ず、聖書的証人たちは、あの「聖書的な傍系的線」を「どこから指し示」しているのか? それは、「預言者および使徒たち」、「聖書的証人たちに、~の啓示についての証人としての、その唯一の委任の中で、その唯一の委任と共に与えられている全権と責任からであ」る。「いずれにしてもただ、それとしての啓示証人のひとつの唯一の全権と委任から……語られうるのである」、「またあの聖書的な傍系的線の上で語られることが、語られうるのである」。「人は、……パウロが繰り返し、伝道者として、また彼の諸教会の指導者として、まさにイエス・キリストの使徒として自分に委任され、課せられたこと以外の何かを語ったり、語らなければならないことがないよう<用心>(≪総括的に言えば、自然神学の<段階>へと堕落しない<用心>≫)していたことを知っている」――「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した(Tコリント二・二)」、それゆえにこのパウロが、「コリントから、ローマの教会に宛てて、……(≪「宇宙の中での人間」における「特別な」≫)ほかの知識をもとにして」、手紙を「書き送ったということは」あり得ないことである(これと同じ内容のことを、「聖書への絶対的信頼」を明言し聖書に信頼し固執したバルトは、『バルトとの対話』で、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と述べている)、「ローマ人への手紙一−二章によれば、宇宙の中での人間について知っていたことを……ただ十字架につけられたイエス・キリストから知っていた」、すなわちパウロは、十字架につけられたイエス・キリストから、生来人間は神の「恵みに敵対」し・「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを知っていた、パウロは「神の選び」を「イエス・ キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識した。また、「詩篇作者たち」も、「あの傍系的線の上で何を語ろうと、とにかく彼らは」、彼らが「知っている~」、すなわち「イスラエルの神、出エジプトと荒野を通り抜けた際の主、律法の与え主、ダビデの希望、その知恵、その力、そのいつくしみ、その義、起源的に、完結的に、全くこの神だけ」から、「彼らの知識を展開し、適用しつつ、語っ」た。次に、「聖書の証人たちは、あの傍系的線をどこを目標にして指し示」しているのか? それは、即自的無媒介的な「宇宙の中の人間」が「持つことができる確信の可能性を指し示す」ことにあるのではなくて、「事実確かに」、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「宇宙の中での人間のところに来る」ところの、「(≪~の言葉の第二の形態の≫)聖書的証人たちの使信と、彼らの使信の彼岸においてある(≪起源的な第一の形態の≫)神の啓示そのもの」である。言い換えれば、それは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、~の言葉、~の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、第二の形態――すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、であるから、「宇宙の中での人間」としての全く人間的な第三の形態の教会(その全成員)に対して、起源的な第一の形態および具体的には第二の形態の聖書的啓示証言をその思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通すべきであることを、それに聞き教えられることを通して教えるべきであることを、傍系的線の「目標」として「指し示し」ているのである。「神の啓示が宇宙の中での人間に関わってくるということ、どのように関わってくるかということ」は、「必然的に彼らの使信のすべてを規定する、本来的な、支配的な内容であって、われわれが聖書的な『主要な線』と呼んだところのことである」。なぜならば、キリストにあっての神の啓示は、神と人間との無限の質的差異の下で、「人間の信仰あるいは不信仰の問いを全く度外視して理解されなければならない」ところの、神の側の真実としてのみある「支配的な」出来事だからである。「(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は(≪主観的に≫)信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが(≪客観的に≫)現実であるのは、ただ、(≪~の側の真実として≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在、「永遠的実在」としてある≫)甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。したがって、「ここで例として、Tコリント七・一四によれば異教徒の夫はそのキリスト信者の妻によって、異教徒の妻はそのキリスト信者の夫によって、子どもたちはそのキリスト信者の両親によって、『きよめられて』いるということが思い出されてよいであろう」。「啓示」は、「神の真理」であると共に、それゆえに「必然的にまた宇宙の中での人間の真理」である。したがって、聖書的証人たちは、「神の啓示を、それが現にあるところのものとして、すなわち人間に向かってみ力をもって働きかける<神の介入>として宣べ伝える」のである。したがってまた、「もしも彼らが人間に対して神の啓示を宣べ伝えるならば、彼らは人間自身を、啓示の出来事を通して客観的に既に変えられた人間として要求しなければならない」のである。このことを、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」を為すことはできない・すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが「すでにその人をその中に(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在、「永遠的実在」としてある、完了・成就された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の中に、この連続性の中に≫)置いてい給うことによってである」、それゆえに私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。「この最後のことが出来事となって起こるならば、そこで聖書的な傍系的線が発生してくるのである」。このような訳で、聖書的証人たちは、「宇宙の中での人間」に対して、「何を目標に……指し示しているのか」と言えば、~の言葉の第三の形態に属する「宇宙の中での人間」としての全く人間的な教会(その全成員)が、起源的な第一の形態、具体的には第二の形態を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの<純粋>なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを「目標に……指し示している」のである。このように、「われわれは、……傍系的線」を、「主要な線」である~の言葉の起源的な第一の形態から、具体的には第二の形態から「堅くとって離さない」のである。「宇宙の中での人間は、聖書の中で語りかけられており、まさしく啓示から啓示そのものへと戻るようにと指示されているのである」。「われわれは……ここで特に、……詩篇三六・一〇が思い出されなければならない」――すなわち、「われわれはあなたの光によって光を見る」が思い出されなければならない」。したがって、この言葉に「先行」して「創造主の讃美の中で」為されている、「表向き最も純粋な『自然詩篇』〔だと目せられている〕」表現(人類史のアジア的段階における山川草木悉皆仏性あるいは成仏を説く天台本覚論における表現)――すなわち「大いなる深淵」・「天」・「大空」・「山々」・「人と獣」という「抽象的な存在と具体的な姿をもった存在の中での」、「天と地に向かって直接方向づけられ、それらによって養われた黙想と敬虔な思い」が、「天と地の秘密を、それと共に自分自身を、宣べ伝えるべく語ってくるということについては何も語り得ない」のである。したがってまた、「問題となってくる詩篇と詩篇の箇所の心理学的・時代的な形式」に規定された「そのような黙想と敬虔な思い」が、「部分的にはバビロニアとエジプトの神話の敬虔性に依拠しつつ、洗練されたものになっているということ」について、「看過されたり、否定されてはならない」のである。なぜならば、「詩篇の作者たち」は、「それについて語ろうとした時、イスラエルの(高い文化水準を保っていた)隣人たちがあらゆる種類の光の神々と悪魔について試作し語るのを聞いたことを利用した」からである――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいはまた言語、あるいはまた性・夫婦・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)からである。しかし、このことは、詩篇の作者の、「決定的な言明」、「主要な線」――すなわち「もろもろの天は神の栄光を現わし、地とその中にあるものとは~のものであり、~はそのすべてのみ業(≪その存在の仕方、業と行為≫)の中で、大いなる方でいつくしみ深くいますというこの」「決定的な言明」、「主要な線」は、「その主辞に関しても、その賓辞に関しても」、「バビロニアあるいはエジプトの手本から」、また「宇宙というテキストから」、「そのまま読み出されたものではなく」て、逆に、「そのすべての形において、正しくも、そのような文学的手本の中に、あるいは宇宙そのものというテキストの中に」、「<読み入れられたもの>であるということである」。このバルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で、次のように述べている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(なぜならば、例えば人類史における農耕を経済的基盤としていたアジア的段階の日本において、天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれていたから)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。
 「『われわれはあなたの光によって光を見る』。~が、(≪その存在の仕方、業と行為において≫)イスラエルの中で語り、行動されるが故に、語り、行動されることによって、宇宙の中での人間は、客観的に別な人間」――すなわち「今やその現実存在の範囲全体の中で、まさにこの神の力と栄光を(≪~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)認識することが許され、(≪それゆえに≫)承認しなければならない人間となる」。「なぜと言って、よく注意せよ、人間がそこで(≪~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)神の知恵、力、いつくしみ、義として認識するすべてのことは、彼が先ず第一に(≪その存在の仕方、業と行為において≫)イスラエルに対し働きかけ給うた神の語りと行動の中で認識した知識、力、いつくしみ、義の正確な映像以外の何ものでもないからである」。「まさしく」、「宇宙の中での人間は聖書の中で語りかけられており」、それに信頼し固執し連帯した証人としての人間は、啓示を証人の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「啓示から啓示そのものへと戻るように指示されているのである」、「われわれはあなたの光によって光を見る」というように指示されているのである。