本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−4)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−4)−1(177−203頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の用意」(その5−4)−1
(3)「~の認識可能性」は、「~の言葉と霊の啓示の中での~の恵とあわれみと同一視されなければならないというわれわれの命題」は、換言すれば「~の認識可能性」は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、~の言葉における啓示の出来事、すなわち「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間聖性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、すなわち「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、客観的な啓示の「概念の実在」)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵とあわれみの出来事)に基づいているという「われわれの命題」は、その客観的な啓示の「概念の実在」としての「聖書の証言に基づ」いたものであった。すなわち、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の「わがまま勝手な」、恣意性独善性嗜好性に基づいたものではなかった。「われわれは、(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教会に対し(≪第二の形態の≫)聖書を通して神として表示されている事に基づいて」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白・教義において「教会が神と呼んでいる方の認識可能性を問うた」のである、換言すれば「われわれは、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会として、第二の形態である≫)預言者と使徒たちの神(≪聖書的啓示証言におけるキリストにあっての神≫)の認識可能性を問うた」のである。このように徹頭徹尾、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して思惟し語るバルトは、必然的に、『バルトとの対話』で、その神学的な論理的一貫性をもって、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・神学も理性的な知的営為(あくまでも人間的理性であり続けるところの、聖霊によって更新された人間理性を必要とする知的営為)ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と述べたのである。したがって、人は、例えば「神の存在 バルト神学研究」で、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」と述べた、それゆえにバルトの『教会教義学 ~の言葉』のまさに一部分を拡大鏡にかけて全体化した自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返し結局は宗教哲学を担当したE・ユンゲルは、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教のベクトルとは全く正反対な思惟と語りをしているということに注意すべきなのである。にもかかわらず、日本基督教団立東京神学大学学長もし、ユンゲルの本も翻訳し、『人類の知的財産 バルト』も書いた大木英夫は、『バルト』でバルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用しておきながら、ユンゲルの本の「訳者あとがき」では、その内容の水準はまさしく自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのものに過ぎないにもかかわらず、自分の翻訳本を売るために、平然と「バルト後の誰もが無視できない一つの流れ、誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」、「これは日本の知的読者の中にも新しい論議を発火させる焦点となるかも知れない」と述べて、出鱈目極まりない知ったかぶりを自己暴露したのである。まさしく、大木も、バルトを人々に誤解させた人物なのである、バルトに迷惑をかけた人物なのである、換言すれば大木自身も、E・ユンゲルと同じように、バルトが述べていた自然神学の<段階>で「遊び」をする「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者であったのである。このような神学者が、日本基督教団立東京神学大学学長をしたことがあるというのだから、こういうことに対して神学生がよほど自覚的に対応できなければ、このような神学者たちの下では、よきイエス・キリストに対する奉仕者、よき~の言葉に対する奉仕者を養成することはできないように思われるのは、私たちだけであろうか? 『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、「啓示は例証されようとはせず、解釈されることを欲する」のであるから、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教は、「解釈する」こと、すなわち「別の言葉で同一のことを言うこと」が肝要なことなのである。言い換えれば、その全く人間的な教会は、~の言葉の第一の形態を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことが肝要なことなのである、換言すれば<純粋>なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えが肝要なことなのである。したがって、バルトは、『説教の本質と実際』で、「説教」の無条件的な出発点と目的は「新約聖書において聞く啓示、和解」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である・それゆえに「われわれ」は、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」・このことが「終末論」である――この「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」・ここで「説教」は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である、「第一の来臨(≪イエス・キリストの誕生、その死と復活≫)と第二の来臨(≪キリストの再臨、終末・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、「説教」と同時に「キリスト者の生活全体」とがある・その「説教」は、第三の形態に属する全く人間的な教会の説教者の自由事項・独占事項・裁量事項ではないのであるから、「自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容」において「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っているのである・それゆえに説教者が、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていない証左なのである・なぜならば、「福音」は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、「われわれ」は、ある「思想」、ある哲学原理、ある「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのである・「聖書は(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」と述べたのである。したがってまた、バルトは、『啓示・教会・神学』で、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」るということを述べたのである、そしてそういう仕方で時代性(それぞれの世紀、それぞれの世代)と個性における自己史を刻むことを述べたのである、そういう断続性と連続性における総体的構造について述べたのである。「このことは、ただ単に神論の基礎づけ」、すなわち「ただ単に神認識の問題にとってだけでなく」、「神論全体にとっても」、「それからまた(神は、教義学の中で記述されるべき神の語りと行為全体の主体であるから)創造、和解、救済についての教説にとっても、最も重大な結果をもたらす意味を持たざるを得ない」のである。したがって、「われわれ」は、常に、半分は「聖書そのものを通して」、しかし半分は「啓示の恵とあわれみなしに」、あるいは「イエス・キリストと聖書なしに」、「可能な」、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に立脚するか、またそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の「イエス・キリスト」とその第二の形態の「聖書」なしに「可能な」、それゆえに「聖書の権威から」「それと共にイエス・キリストと聖霊の権威から」、それゆえに神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事から、「解き放たれ」た、すなわちその権威を後景へと退けた、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に立脚するか、また起源的な第一の形態の「イエス・キリスト」を、具体的には第二の形態の「聖書」的啓示証言を、教会の宣教(教会の補助的奉仕としての神学)における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で<純粋>なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求めようとすることをしないで、人間自身教会自身が「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「別の権威」、「知識の権威の下に服」する自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に立脚するか、また総括的に言えば現実性と妥当性を持ってフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に揶揄・批判したキリスト教信仰・神学・教会の宣教に立脚するか、それとも、バルトのように、その自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服した<非>自然神学の<段階>におけるキリスト教信仰・神学・教会の宣教に立脚するか、という岐路に立たされる。キリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想的課題について無知な馬鹿げた俗説に立脚しないかぎり、すなわち党派主義、党派主義的多元主義に立脚しない限り、「われわれ」は、この岐路に、常に立たされている。
 さて、「自然神学の生命力」の実姿について言えば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が、一方で半分は「聖書そのものを通」ということ、しかし他方で半分は「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリストを、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、それゆえに~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性に生きることをしないで、「わがまま勝手」な恣意性独善性嗜好性を頑なに主張するということ、換言すれば神と人間との、神学と人間学との混淆・協働・混合を志向し目指すということ――これが、「自然神学の生命力」の実姿である。総括的に言えば、「自然神学の生命力」は、ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の目的格的属格理解から生じる必然的帰結である。例示してみよう――わが日本において、「骨肉にまで受け入れた西欧近代」と、人類史的過程における「西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずった」日本において自然神学の最後的形態を表現したのは、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」と述べた滝沢克己である(『カール・バルト研究』)。おそらくは滝沢は、マルクスの自然哲学、人類史のアジア的段階における自然を内面の原理とする、只管打座による身心脱落や自己放下における自然との合一に悟りをみた道元、自然法爾へと至った親鸞、時代を遡っては天台本覚論における「草木・ ……・山河・大地・大海皆是れ……仏なり」・山川草木悉皆仏性論を念頭に置いていたに違いない。それに対して、寺園喜基が『バルト神学の射程』で紹介していた日本基督教団立東京神学大学教授の北森嘉蔵の『神の痛みの神学』における「神の痛み」は、日本の庶民の「つらさ」や「痛み」に通底しているそれ・「このつらさは『他者を愛して生かすために、自分を苦しめ死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死なしめる』」それ・その「つらさ」や「痛み」は浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の『寺子屋』における「主君の子供を救うために、自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときにいった『女房喜べ、悴は御役に立ったぞ』という言葉」で表現できるそれ、換言すれば被支配が支配の暴政や抑圧や暴挙に対して天然自然の災害を受け入れるように受入れていくそれ、ということからして、北森の神学は、日本におけるナショナルなもの、すなわち滅私奉公的な人間の在り方と北森自身が対象化し客体化した神の痛みの在り方を混淆・混合させた、まさに自然神学的な<土俗的>神学に過ぎないものなのである。このような神学者たちが、教団の牧師養成を行っていたのである。したがって、私たちは、次のように考える――例えば明確に<非>自然神学の<段階>へと移行した成熟したバルトの『福音と律法』を至心から真剣に正直に翻訳したキリスト者の井上良雄(東京神学大学専任講師)のように、「単なる知識」と「認識」(啓示認識・啓示信仰)との差異性を自覚した「霊的に精神的に(≪学識的に≫)きわめてしっかりした基礎を持つ人々」(『神学者カール・バルト シュライエルマッハーとわたし』)、そういう教会の牧師を輪番的に牧師養成神学校の教師にすべきであるだろう。~の言葉の第二の形態である「聖書の主題」が神と人間との無限の質的差異にあり、「もしも聖書の証言が自然神学の権利を実際に証明していないとするならば」、それゆえに「自然神学の生命力が……聖書的に基礎づけられて」いないとするならば、それゆえに聖書が自然神学の介入に対して「譲歩するように要求」していないとするならば、「神論」においても、「自余の教義学」においても、「われわれ」は「聖書」から自然神学を「要求されていないことになる」。したがって、どこまでも頑なに自然神学の<段階>に留まろうとするところの、またその最後的形態である「ヘーゲルの強力な痕跡」をとどめるところの、「ローマ・カトリック神学」、「プロテスタント神学」は、全く「聖書的」ではない、言うことができる。
 さて、「われわれ」の前には、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、すなわち「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の「イエス・キリストの歴史」と、そのイエス・キリストの歴史における「神の語りと行動(≪その存在の仕方≫)についての本来的な」「預言者――使徒的な証言(≪第二の形態、すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共の神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)が立っている」のであるが、その部分である<人間性>の側面だけを形而上学的一面的固定的に抽象して強調することをすれば、換言すればその部分である<人間性>の側面を拡大鏡にかけて全体化することをすれば、「……われわれは聖書そのものを通して自然神学へと招かれ、自然神学をなすよう要求されているのではないかという問いを提起する」可能性が生じてくる。なぜならば、「個々の聖句」だけでなく「聖書全体を通し貫いている線」――すなわち前述したように~の言葉の第二の形態としての「~の啓示についての預言者と使徒たちの証言」は、@「終始特に神ご自身の確認する証言」、「神が、預言者――使徒的使信の真理に対する証人」であるが、A一方で、「どうしてもまた終始……彼らの証言を聞く人間の確認する証言」、彼らの証言に対して自然的な人間的理性を介してそれを聞く全く人間的な人間の確認する証言という側面を持っているからである、すなわちその現にあるがままの現実的な人間存在における全く人間的な「人間もそのような証人である」という側面を持っているからである、また「人間と共に、……造られた全宇宙」、天然自然も「そのような証人である」という側面を持っているからである。したがって、アウグスティヌスのように、自然神学の<段階>で、「神の啓示とは独立した形で」、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠して「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と言うことができる、カントのように自然神学の<段階>で、「神の啓示とは独立した形で」、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」と言うことができる。それに対して、バルトのように、客観的な「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力(≪その啓示の中での主観的側面であるキリストの霊である聖霊の証しの力≫)に信頼しない」ところの自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、すなわち<非>自然神学の<段階>へと移行して、アウグスティヌスのような三位一体の跡(啓示証言の「最も身近な最も高貴な認識根拠」である「人間の中での神の像」としての「想起・記憶、知解、愛)は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできないのであって、それは、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない、と言うことができる、またそのような三位一体の跡は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」の位相にあるものに過ぎないと言うことができる。このように、人は、恣意的独善的嗜好的に~と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けて、啓示証言の確認を、「神の啓示とは独立した形で」(それゆえに神の言葉の起源的な第一の形態、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することなしに、それに聞き教えられるということなしに)、すなわち~の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(客観的な「啓示の実在」そのもの)を、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト(直接的な最初の第一の、客観的な啓示の「概念の実在」)を啓示証言の確認における原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、「神ご自身から」直接的に可能であるとする「直接的な自然神学」を尋ね求めることができる。また同じように、「神の啓示とは独立した形」――すなわち「神の<特別>な啓示」(神の言葉の起源的な第一の形態、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)とは独立した形で、<別の>「<一般的>な啓示」に依拠して「間接的な自然神学」を尋ね求めることができる、換言すれば~の言葉の起源的な第一の形態、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を啓示証言の確認における原理・規準・法廷・審判者・支配者としないでも、「人間自身」と共に「造られた全宇宙」(「造られた空間的および時間的な、自然的な、歴史的な宇宙」)を通して間接的に「啓示証言の確認」が可能であるとする「間接的な自然神学」を尋ね求めることができる、「人間自身」と共に「造られた全宇宙」も「そのような宇宙のただ中にいる人間」も、啓示「証人である」とする「間接的な自然神学」を尋ね求めることができる。なぜならば、個体的自己としての全人間は、全自然(自己身体、他者身体、天然自然および人間化された自然としての人間的自然)と、その肉体・身体および精神・意識を介して、普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動、肉体的身体的および精神的意識的な類的活動と生活を行うことが<自然>であるから、それぞれの世紀・それぞれの世代の労働、性・夫婦・家族、言語を媒介・反復するという仕方で、個体的自己の成果の世代的総和を継起として歴史を構成しその時間累積をさせるし、身体や宇宙の解明も為すことができるし、悪しきものや欠陥や矛盾を内包させているとしても自然史の一部としての人類史の自然史的過程、すなわち経済社会構成、科学・技術は逆行させたり停滞させたりすることのできない進歩・前進するベクトルを持っているからである。因みに、自然神学の<段階>で思惟し語る倉松功は、『ルターとバルト』で、「ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている」と述べている、また時代状況がそれをゆるさないのであるが、自然神学の<段階>で思惟し語るモルトマンは、神学的な三段階的進歩史観を展開したし、喜田川信もメルロ・ポンティの身体性に依拠して進歩史観を展開している(『歴史を導く神――バルトとモルトマン』)。因みに、<非>自然神学の<段階>において思惟し語るバルトは、神と人間との無限の質的差異の下で、神の時間、すなわち「啓示は歴史(≪人間の時間≫)の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、人間の時間である歴史は「神的自由の行為」としての啓示(神の時間)となることはできない、<神の時間、啓示>は<人間の時間、歴史>の「常に」「彼岸」・「外」にあり続ける、と述べている。論述を元に戻せば、「聖書的に証明」することができるとする「『自然神学』の正当な権利と必然性」の主張は、あくまでも~と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けて、聖書的啓示証言における<人間性>の側面だけを形而上学的一面的固定的に抽象し強調する時にだけ、換言すればその部分を拡大鏡にかけて全体化する時にだけ、それゆえに~の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリストを、具体的にはイエス・キリストによってその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の聖書啓示証言を、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者としない時にだけ、可能なものなのである。
 さて、~の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言における預言者および使徒たちは、「彼らが証ししている方」、「もしもその方がすべての人間的な証言の中で、すべての人間的な証言の彼岸(≪なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるから≫)で、自ら、ただひとり、ご自身についての証人でないならば、神ではないであろう方(≪「まことの証人」である~の言葉の起源的な第一の形態であるイエス・キリスト≫)に聞くべきであるということを……強調しているのである」。言い換えれば、第二の形態の聖書的啓示証言における彼らは、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、全き自由の~の言葉自身の自己運動、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である、~の言葉の起源的な第一の形態イエス・キリストに感謝をもって信頼し固執し連帯すべきことを「強調しているのである」、それゆえに「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のだし、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」なのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)に対して宣教(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を義務づけている「聖書」的啓示証言における預言者および使徒たちは、全く人間的な教会が、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、その思惟と語りおいて、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに「聞くべきであるということを……強調しているのである」。「旧約聖書の証人たちが神を証人として呼び求めている時」、彼らは、「彼ら自身の言葉を越えて」、「イスラエルの歴史の神」を、「イスラエルの歴史そのものの証言とこの歴史の中での(くすしき、自分自身で語ってくる)神の道を、指し示すことによって、<自分自身>と<その聞き手>を慰め、警告している」。このような訳で、「ご自分を啓示される方が、ご自身の証人であり給う」のであるから、彼らは、「彼らの証言(≪第二の形態≫)の傍らに」、すなわち第二の形態の先行形態として、「神の証言」――すなわち~の言葉の起源的な第一の形態を置くのである、換言すればそれを自分の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として置くのである。また、「新約聖書の中で神が、……聖霊が、使徒的言葉を確認する証人として呼び求められている時、事情は正確にそれと同様である」。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である「聖霊は……それが神ご自身の本質の中で、父と子の霊であり給うように」、それゆえに「独立した仕方で、自分自身だけで、直接的な真理として、人間のところに来るのではなく」て、あくまでも「み子を通して、み子の霊として」、「その中で神の真理がまさに間接性の中で、まさに神の、肉(≪その神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方、言葉の受肉である≫)となった子として、人間のことを引き受ける力として来たり給う」、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事を惹き起こす「力として来たり給う」のである。「新約聖書の中で、一体どこに、聖霊降臨の聖霊は、クリスマスの光、聖金曜日と復活日の朝の光、以外のものであるであろうか」。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、「新約聖書の証人たち」は、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである「キリスト復活の40日(使徒行伝一・三)」をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである・彼らは「甦えりの証人」である・そして彼らは、「既に来た方」――すなわちイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」、再臨のキリストであることを語るのである・この「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。「ここでもまた神ご自身の証言は、啓示についての人間的な証言に付け加わってくる確認(≪その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)を意味している」、それ故に、起源的な第一の形態、そして具体的には第二の形態の聖書的啓示証言は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者なのである。~の言葉の起源的な第一の形態、具体的にはその第二の形態は、「人間的な証言」の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その「人間的な証言を限界づけている」のである。したがって、この「啓示証言の確認」は、起源的な第一の形態の「啓示そのものを通して起こ」り「遂行される」のである。第二の形態の「聖書はこの遂行を、聖書が(≪起源的な第一の形態の≫)神ご自身の証言を(≪媒介的に≫)指し示すことによって、われわれに向かって指し示す」のである。このような~の言葉自身の出来事の運動が惹き起こされる時、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において時間累積が行われるのである、換言すれば<非>自然神学の<段階>におけるキリスト教信仰・神学・教会の宣教の時間累積が行われるのである。この時、はじめて、現実性と妥当性をもったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な揶揄・批判の対象である自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学の<段階>におけるキリスト教信仰・神学・教会の宣教へと移行できるのである、換言すれば自然神学の<段階>から、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性を、それゆえに終末論的限界を認識し自覚した、<非>自然神学の<段階>におけるキリスト教信仰・神学・教会の宣教へと移行できるのである、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~は、その第二の存在の仕方において自己啓示されたところの「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるということを認識し自覚した、<非>自然神学の<段階>における信仰・神学・教会の宣教へと移行できるのである。
 さて、私が、必要に応じて自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に対する、現実性と妥当性をもったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な揶揄・批判を念頭に置いて論じているのは、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題によせて』)からであるが、それと同時に、次のような理由によっている――例えば、神学者・倉松功の、「『ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、<特定の宗教の特権ではない>』」、という自明的なことを何か意味ありげに語るその語りは、近代以降を生きる倉松においては、全く時代性を無視した語りとなるのである。近代以降のフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの言説と接することはできなかったルターにおけるその思惟と語りは、ちょうどルターの資質が律法と福音を対立させ「律法と福音」という順序に固執させたように、時代性に規定されたそれであるということができる。しかし、近代以降を生き、それゆえに現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判を為したフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの言説と接することができた倉松(彼は神学者・知識人として彼らを無視することはできない、換言すれば彼らの言説を否定するとしても、自らのキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想で根本的包括的に原理的に止揚し克服しなければならない)には時代性を理由とすることはできないのである。なぜならば、彼らの言説は、無視することができない水準にある客観的な世俗的真理としてそこにあるのであるから、それらの言説を、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した自らのキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想で根本的包括的に原理的に止揚し克服しない限りは、幾ら主観的に無視し排除しようとしても、それらの言説は、根本的包括的な原理的なキリスト教批判として、客観的にそこに存在し続けるからである。何回も引用しているのであるが、マルクスは、明確に、次のように述べている――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用する」(『ドイツ・イデオロギー』)、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程(≪自然史の一部としての人類史の自然史的過程、自然史的必然≫)として理解しようとするものであって、(≪それゆえにそれが悪しきものや欠陥や矛盾を持っているとしてもそれは倫理的問題に還元できないから、≫)決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、(≪制度としての、階級としての資本家、制度としての、擬制民主主義に過ぎない議会制民主主義における法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体としての官僚――それゆえに個人の意志、個人の倫理や道徳が通用しない仕組みになっている――は≫)社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)。原子力の技術的応用である原発も核兵器も、本質的には、科学的技術的領域に関わる人たちの個人の倫理や道徳の問題ではなく、あくまでも自然史的必然である、また文科省の前トップの前川事務次官が加計学園の獣医学部新設許可問題で翻弄されているのはその仕組みがそうさせたのである。この現実性と妥当性を持った世俗的真理として受け取らなければならないマルクスの言説を否定するというのであれば、倉松は、バルトのように、自らの信仰・神学・教会の宣教における思想で根本的包括的に原理的に止揚し克服しなければならないのである。あるいはまた、バルトのように、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せるイエス・キリストの啓示の場所において、マルクスのその言説を「世俗的真理」として「正直に受け取」らなければならないのである(カール・バルト『ヨブ』ゴルヴィツアー編)。文明の進歩・発達、経済社会構成の拡大高度化は、それが悪しきものや欠陥を内包しているとしても科学や技術の進歩・発達は、その知識の増大・高度化は、生活の利便性の向上は、iPS細胞に関して続けられている研究成果や宇宙(自然)の謎の解明に向けて続けられている研究成果等々は、自然史的必然に属する問題であって、停滞させたり逆行させたりすることはできない「世俗的真理」として「正直に受け取」らなければならないのである。したがって、何か意味ありげに「『特定の宗教の特権ではない』」と語る倉松は、その時、近代以前のルターの時代に退行(逆行)してしまっているのである。ここで、人が誤解しないために言明されるべき言葉は、バルトの次の言葉である(なぜならば、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しないところの、第三の形態に属する全く人間的な、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健、あるいは多くの神学者や説教者等が、近代以降を生きる人間には、~の言葉だけでなく、その人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍も尊重すべきであるとか、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言い尽くしていない」と主張しているから)――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである」(『ローマ書』)、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、すなわち起源的な第一の形態としての~の言葉、この直接的な最初の第一のその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態としての~の言葉、この第二の形態である「聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)、福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、「われわれ」は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない・「聖書は(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」(『説教の本質と実際』)、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)。したがって、私たちは、人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せるイエス・キリストの啓示の場所において、吉本隆明の次のような言説も、世俗的真理として正直に受け取るのである――現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまった・言い換えれば、生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった・とは言え、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準であって、時代状況によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、~の言葉に対する他律的服従と自律的な服従との同在性において、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する自らのキリスト教信仰・神学・教会の宣教に繰り込んでいくところに、イエス・キリストを主・頭とする教会の自立した信仰・神学・宣教は成立するのであり、その教会の信仰・神学・宣教におけるリアリティを獲得できるのであり、その教会の信仰・神学・宣教が反体制的でもあり得るのである。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会は、具体的には聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えが肝要なことなのである。したがって、バルトの信仰・神学・教会の宣教における実存は、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」のである。このように、バルトの神学的実存の在り方は、二元論的に、言葉だけでなく行為も、説教だけでなく実践(社会的あるいは政治的実践)も、という在り方では決してないのである。二元論的な思惟と語りの行き着く果ては、国家の支配に対して言葉(精神)で過剰に加担する(例えば、アジア的日本的な人為的災害を天然自然の災害を受入れていくように受入れていくところの意識されない戦前の日本のキリスト教会、西欧の意志され意識されたドイツ・キリスト者)か、あるいは内在的には観念の共同性を本質とする国家の支配を形而上学的一面的固定的に抽象して、外在的なナチス<ヒトラー>を象徴するまんじ・暴力装置に置き、その外在的な暴力装置としての国家の支配に対して行動(知覚作用の座である身体)で過剰に対応する(例えばボンヘッファーのヒトラー暗殺計画)かである。さらに、私たちは、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な 衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落したということを、世俗的真理として正直に受け取らなければならないのである。と同時に、経済社会構成が拡大・高度化し、科学や技術が進歩・発達し、例えば「情報科学や情報工学の発達」は人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたのだが、人間の情念・非感覚部分にかかわる心や精神を発達させることはできなかったということ、古代から「人間の喜怒哀楽は変」わらないということ、愛憎問題からする殺傷が行われ続けているということ、世界中で無差別な殺傷が行われているということ、監視された社会の中での生存が強いられているということ(すべての人々に対して門戸を開いているべき教会は、そういう状況の中でどのように対応するのだろうか、門戸を開き続けるだろうか。これは私が体験したことであるが、ある教会のホームページにどなたでもメールくださいという牧師宛のメール欄があったので、自己紹介と共に聖書研究会に出席させていただけますか、ということを書いて送信したのだが、梨の礫に終わってしまった。その時、牧師のどなたでもという言葉は口先だけであったことを知った。牧師自身が、教会の門戸を閉じてしまっていたのである)、生活の利便性が増大し経済的に豊かになっても人間の非感覚部分の心や精神は豊かにならなかったということ、何かいつも不信とむなしさと不安がつきまとっているということ、これらのこともそれが現実の事実であるならば正直に受け取らなければならないのである。その中で、テレビや新聞や学者を含めて市民的観点・市民的常識は、往相的に、形而上学的一面的固定的に抽象して、二元論的に、明るさは良くて暗さは良くないという、社交的なのは良くて内向的なのは良くないという、人間の心的行動を後景へと退けてしまって行動的(活発的)なのは良くて行動的(活発的)でないものは良くないという、それゆえに後者の人間が何か不都合なことを行うと「やっぱり」といい(報道され)、前者の人間が何か不都合なことを行った場合には「信じられない」という(報道される)。しかし、私は、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ……」(太宰治『右大臣実朝』)――明るさと暗さの弁証法に人の人生と生活における真理があると考える。総体として、人々は、暗さを後景へと退けた過剰な明るさを表現しているように感じられる、それゆえに何か軽薄な明るさを、乾いた明るさを表現しているように感じられる。バルトは、説教者における会衆の状況認識について、会衆は現在すべて知的会衆、知的大衆であって、「その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はない」、と述べている(『説教の本質と実際』)。説教者、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべき」なのか?「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である。説教者、「聖書註解者」(聴衆者を含めて)は、「十字架につけられ、復活したイエス・キリスト」における「われわれの実存という場所」において、「われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれのために生きて、われわれを支配」し、「われわれを愛し給うイエス・キリスト」を、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)。
 聖書において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である。「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち三位一体の神である。この聖書的証言の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」(単一性・永遠性)を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。この三位一体の神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方で、顕現・自己啓示したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」、聖性・秘義性・隠蔽性としての神が、その第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、その第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。このことは、「神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示されないならば」、すなわち神ご自身が神ご自身の側から神と「われわれ」人間とを架橋されないならば、キリスト者であれ全く不信仰で罪に穢れた「われわれ」人間は、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を持つことはできないことを意味している。この「われわれ」人間の自己認識・自己理解・自己規定は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言におけるそれ)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して得られるそれである。したがって、「聖書によれば、(≪「神の啓示とは独立した形で」、「直接じかの伝達」を主張する≫)直接的な自然神学」は不可能である、と言うことができる。それでは、間接的な自然神学は可能なのであろうか?   「聖書的な証人たちは、彼らの言葉」を、すなわち自分たちのその思惟と語りを、「全体として、その本来的な、中心的な内容と目標において」、「宇宙の中での人間の声に基づかせておらず」、ただイエス・キリストにおける「神の特別な啓示に基づかせている」。したがって、「『キリスト教的』自然神学の代表者たち」も、「彼らの意味で注釈された詩篇十九篇をどれほど重要に受け取るとしても」、この「詩篇の使信は、……全体において(……文献批評的に片隅に追いやられてしまうまさに詩篇十九篇の<後半>が示しているように)(≪先行する、単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方、その業と行為による≫)エジプトからの脱出を通して、先祖たちの選びを通して、モーセ、ヨシュア、士師たちの派遣を通して、ダビデ王家の設立と保持を通して、起こったのであって、いずれにしても……『もろもろの天は神の栄光をあらわし』と言われているにもかかわらず……直接『天』(≪無媒介的な即自的な『天』≫)を通して起こったのではない」ところの「神の栄光をあらわす物語から由来しているということを否定することはできないであろう」。また、「『キリスト教的』自然神学の代表者たち」も、「彼らの意味で注釈された箇所ローマ一・十九以下、二・一二以下をどれほど強調するとしても」、「パウロは……そのローマへの手紙の使信を、また異邦人たちも神について知ることができることから引き出してこようなどとは全く考えなかったということ、むしろパウロはその使信を徹頭徹尾ただ、まさにこの手紙の最初の数章において神の啓示(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態としての~の言葉、啓示・和解、その業と行為、キリストの福音≫)と呼ばれていることに基づかせているということを否定することはできないであろう」。このような訳で、「聖書の使信の決定的な線、主要な線」は、「その啓示(≪~の言葉の起源的な第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、「神の特別な啓示」≫)の中での神の認識可能性に遡らせていて」、「決して宇宙の中での人間そのものにとって成り立っている神の認識可能性に遡らせてはいない」のである。したがって、神の「<特別な啓示>についての、聖書的な主要な線の上でなされている言明」を、「自然、歴史、人間の理性の中での神の<一般的な啓示>についての言明へと解釈し曲げてしまうことを伴った」「十八世紀末の合理主義者たちの聖書説明」は、「とっくの昔に取り除かれてしまった」ことなのである。したがって、「思慮深い注釈家たち」は、「聖書がその中心において、決定的に」、例えば「神の一般的な啓示」として対象化され客体化された「自然、歴史、人間の理性」、「自然法」、「民族法」とは「区別された神の特別な啓示」(神の認識可能性の「源泉」)から「語ろう」としたのである、すなわち「宇宙の中での人間がもともと持っている知識そのものとは区別された」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍とは「区別された」ところの、「神の特別な啓示」について語ろうとしたのである。
 このような訳で、次に、「聖書的証人たちは、……半分だけでも拘束的に、彼らが神の啓示について語っていることと並んで別な何か……新しい」啓示について語っているかどうかということが問われなければならない。この時、「傍系的な教えであるに過ぎないとしても、とにかく聖書的な教え」として、「中心的な、決定的なこととして証しされている神の啓示の中での神の認識可能性と並んで」、「どこかで、何らかの仕方で」、「顧慮され、考察されるべき(宇宙の中での人間そのものにとっての)神の認識可能性」が、すなわち「神の特別な啓示」を「度外視」した「宇宙の中での人間」にとっての「神の認識可能が存在する」かどうかということが問われなければならない。「半分だけ」でも「どこかで、何らかの仕方で」、「顧慮され、考察されるべき」「自主独立的な」「附属物としての『自然神学』」があるかどうかうかということが問われなければならない。ここで先ず「注目されなければならない」ことは、「神ご自身がその啓示(≪その神の特別な啓示≫)から独立した形ではなく、常にただその啓示の中でだけご自身を証ししている方として見られ理解されるところでは(≪啓示認識され啓示信仰されるところでは≫)、……宇宙の中での人間に対して、そのような独立した証言が実際に帰せられるべきであるということ」は、あり得ないということである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である「ヤハウェご自身への訴え出がただ、イスラエルに対するその語りと行為(≪その存在の仕方≫)の中でご自身を啓示し給う方の自己証言を指し示しており」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊への訴え出がただ、肉となった言葉のみ業(≪その~の第二の存在の仕方≫)を指し示すことができるだけである時」、「宇宙の中での人間への訴え出」が、「それとは別な」仕方で、「換言すれば、宇宙の中での人間にとって、イスラエルとイエス・キリストの歴史(≪三位一体の~の、その存在の仕方における出来事の歴史≫)とは独立した仕方」で、「自由に処理できる神的な自己証言を、指し示すはず」はないと言うことができる。すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の預言者および使徒たちの聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられるということをしない仕方で、恣意的独善的嗜好的に「自由に処理できる神的な自己証言を、指し示すはず」はないと言うことができる。言い換えれば、「神がそのみ言葉をただそのみ言葉を通してだけ確認し、実証し給うところで」は、「宇宙の中での人間が、み言葉を、……その人間としての存在から……また宇宙の中でのその存在から……確認し、実証することはでき」ない、と言うことができる。「聖書的な啓示証言そのもの」、「聖書的言明」で「承認されている『主要な線』」からみて、三位一体の~のその存在の仕方における出来事の歴史における「神と人間の共存全体」は、神と人間との無限の質的差異を前提として「実行に移されている」、すなわち「神は聖であるが人間は神から背き去り、それと共に堕落した罪人であり、神はご自身の中で永遠に生き給うが、人間は死の中におり、神は何人も近づくことのできない光の中に住み給うが、人間は闇の中にいるという前提のもとで実行に移されている」。「神と人間の間の出来事となって起こること」は、「聖書的な『主要な線』の上で起こっている言明に従えば」、~の側の真実として、神のその都度の「自由な選び、召命、照明の中で」、「人間」が「神」の側から「何の功績もなしに義とされ、聖化されることの中で」、「起こっている」。人間を「聖書的な『主要な線』の上」で「神と結びつけるもの」は、「~からは<神の恵み>」、すなわち「その中で……人間に対し、とりわけ」「そのもとに立っている」人間の「裁きが暴露される神の恵みでであり」、「人間からは<信仰>(その中で人間が裁きに身を屈して、彼がそのように身を屈することによって、神の恵みをつかむところの信仰)である」。このことは、『カール・バルト著作集3 神の恵みの選び』(蓮見和男訳、新教出版社)に即して言えば、次のように言うことができる――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である・私たち人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また自分でそのような状態にすることもできないから、もしも人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである・すなわち、私たち人間の「召命・義認・聖化」は、私たち人間の側から「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾、「イエス・キリストの御業」として、「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」する・「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである、すなわちそれは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリストご自身が、私たち人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」である、すなわち「恩寵への召還」――私たち人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところの神の恵みということである、その神の答えを、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストご自身が、「その地上における全生涯にわたって」、私たち人間に代わって、端的に信じ給うたということである、これが「神の最高の義」である・このイエス・キリストにおける出来事の内容は、生来人間は、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを、私たち人間に自己認識・自己理解・自己規定させるという点にある・「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」私たち人間は、その客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識し信仰し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識し信仰することができるのである・その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時(≪信仰する時≫)、われわれは初めて」、神に対する人間的反抗、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」としての自分自身を、またそのような人間の「世」を自己「認識」・自己理解・自己規定することができるのである・パウロの言う「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」という「すべての人」については、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除」されている・したがって、このパウロにおける思惟と語りは、イエス・キリストにあるときにおける「威嚇」であると同時に、キリストの復活によって止揚され克服された威嚇である・なぜならば、「すべての人」を救うために、「罪なきただ一人の選ばれた」イエス・キリストが、「この怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故」に、私たち人間は「イエス・ キリストにあって死なないで、生きるであろう」という約束が与えられているからである、このイエス・キリストにおいて与えられた「約束」によって「威嚇から解放」されている・神は「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込め」たについては、神の自由な恵みの選びにおいてということであるから、「罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」と言うことができる・したがって、このイエス・キリストご自身に対する人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間の不信仰・無神性・真実の罪の一切は、キリストの復活によって止揚され克服されてそこにある、と言うことができる、したがってまた、イエス・キリストは、神の恵みの出来事を人間的主観に実現するために、私たち人間に対して、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着する霊を与えられる、と言うことができる・このような訳で、私たち人間が、「イエスは主なり」と告白する場合、それは聖霊の注ぎ・聖霊との交わりにおける告白であり、その賜物なのである・バルトは、マルコ9・24の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」という至心からの正直で真剣な告白、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」――それは、「すべての祈りの源」である、「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」、と述べている・正直に言えば、私は、「自分の『理性や力によっては』全く信じることができない」者であるし、またイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執して生き得ていない者であるし、またイエス・キリストに対する、~の言葉に対する奉仕にのみ生き得ていない者であるから、あの「祈りの源」で存在し思惟し実践することしかできない者である。いずれにしても、「宇宙の中での人間が、神に対して別な関係」、すなわち「神の選びに基づ」かない関係、それゆえに「<裁き>の中で示される<神の恵み>によって規定され」ない関係が「可能となるはず」がないのである、すなわち「啓示のあの秩序(≪三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)」から「独立した(≪別の秩序において≫)証人として呼びかけ」ることができるはずはないのである。