本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−3)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−3)−1(154−177頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の用意」(その5−3)−1
 「われわれ」が、「ローマ・カトリックの教説との……対決」で「示したこと」――すなわち、@「(われわれが教会の頭および牧者として信じている)~は、主(単一性・神性・永遠性を本質とする~)、創造者(その~の「父なる名の内三位一体的特殊性」における起源的な第一の存在の仕方)、和解者(その~の第二の存在の仕方)、救済者(その~の第三の存在の仕方)であり給う」ということ、換言すれば聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神(聖性・秘義性・隠蔽性、単一性・神性・永遠性を本質とする~)は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に父・子・聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」、三位一体の神であるということ、A「われわれ」の「~の認識可能性」は、「~の自由な適意〔み心に適うこと〕として理解されるべき~ご自身の用意の中でだけ見出すことができる」ということ、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方としての~の言葉の起源的な第一の形態、その神性の受肉ではなくあくまでもその言葉の受肉であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」における客観的な、啓示の出来事、「啓示の実在」そのもの、具体的には~の言葉の第二の形態としての聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、終末論的限界の下で、「徹頭徹尾まさにそのような方であり給う」という信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えられるということ、それゆえに「われわれ」は、「われわれの神認識の確実性を確かめるためには、ただ神によって遂行された(≪あの神のその都度の自由な恵の決断による啓示の出来事と信仰の出来事という≫)介入の実在を堅くとって離さないでいるしかない」ということ、それゆえに「われわれはただ神の認識可能性に対して感謝することができるだけ」であるということ、それゆえに「われわれは神の認識可能性を、……既に存在している類比(≪存在の類比≫)の中で見出すことはできないということ(≪なぜならば、見出すことができるとするならば、その時、その神は、フォイエルバッハやマルクやハイデッガーが現実性と妥当性のある仕方で根本的包括的に原理的に批判した、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)にしか過ぎないからである――このことを、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す大学社会の神学者や教会の牧師やキリスト教的著述家は、全く認識し自覚していないのである≫)」、すなわち「ただ神の恵みを通して造り出されることができる類比(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性としての、まさに三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)の中で、(それに対してわれわれが、……然りを言うところの恵と信仰の類比の中で)だけ、見出すことができる」ということ、それゆえに「自己を覆い隠す」「聖性」・秘義性・隠蔽性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父が子として「自分を自分から区別」したことを意味するその自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」(神の第二の存在の仕方)において、その「存在」は単一性・神性・永遠性を「本質」とするという認識と信仰を(「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」であるという認識と信仰)を要求する啓示であるということ、である。したがって、総括的に言えば「〔すべての自然神学は(≪、換言すればその極限に想定される、「聖書の主題」である~と人間との無限の質的差異を止揚する、それゆえに~の人間化あるいは人間の神化へと向かうベクトルを持つヘーゲル<主義>的神学は、≫)〕議論の余地なく〔不可能である〕」ということ」である。しかし、このような「われわれ」の「神の認識可能性についての洞察」は、「実際にはそれほど簡単で自明的な≪簡単に実現することができるほど自明的な≫)」事柄ではない。なぜならば、「われわれ自身…あるいは世とわれわれの関係の中にある(われわれの神認識の)根拠を尋ね求める問い」、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教を尋ね求める問いは、それぞれの時代、それぞれの世代において、繰り返し「繰り返しよみがえって」くるからである。したがって、「われわれ」が自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返さないようにするためには、このような認識と自覚は肝心要なこととしてあるのである。

 

(1)総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した「存在者レベルでの~」(偶像)の名と呼びかけによる「こころみ」・企ては、それゆえにまさにその「人間のこころみ」・企ては、「彼の現実存在および世の現実存在に関するある種の答えを通して、自分自身および世と決着をつけようとするこころみ、(≪世から――ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成から取り残され孤立化することに対する恐れ、すなわちそうなるかもしれないという自分自身の世に対する恐れによって≫)自分と世の間に均衡状態を造り出そうとするこころみ、あるいは彼の答えの目標あるいはまた彼の問いの起源を第一のものおよび最後のものとして」、そのような人間の試み・企てを「自分の神(≪偶像≫)として、見なそうとしながら、その方向にそって問いを立てようとするこころみ」・企てである――「(中略)神の啓示の内容は、(≪~と人間との無限の質的差異における≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。この時、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会、人間は、『福音と律法』に即して言えば、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えるのである・「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるのである・このような神に対する「熱心さの無知」は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば不信仰・無神性・真実の罪に基づいており、「神の要求」・命令・律法を、人間によって恣意的独善的嗜好的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるのである・このような人間の思惟・語り・実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さであり、「不従順」であり、「虚偽」なのである・なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」、「神冒涜」を生じさせるからである・そういう仕方で、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜」し、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行」い、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進」し、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進」するのである。これらの「こころみ」・企ては、個体的自己としての全人間の肉体・身体と精神・意識を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、天然自然および人間的自然)との相互規定的な対象的活動を為す、すなわち人間の類的な活動や生活を為す、その現にあるがままの現実的な人間存在における「自然的な人間的な生の意味であり、内容であり、自然的な人間は(異なったいろいろな精神を持って、ひどく異なった形式においてであるが)絶えずこのことと取り組んで従事している」、「人類の歴史と個人の歴史は、すべての失敗と並んでまた部分的に……こころみの成功を表示して」いるから「~なしに自分自身を理解し、支配することができると考えている」「自然的な人間は、自分自身および世と決着をつけ、この彼の努力の目標および起源(「彼の生の意味および内容」)」を、彼の試み・企てを、「第一のことおよび最後のこととして」、それゆえに「自分の神として見なそうとする」、と「言うことができる」。いずれにしても、自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を持つ人間は、「聖書の主題」である~と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けて、換言すれば「聖書が神と人間との同一視に対して反対していることを聞き逃し、聖書から、それと共に教会の根拠および存在から、(≪「聖書が『神』と呼んでいる」キリストにあっての神から≫)遠ざかり、わがまま勝手に」対象化・客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)に依拠して自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すブルトマンのように、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、「われわれ」の「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式(≪この「ヘーゲルの強力な痕跡」をとどめるブルトマンと違って、バルトは、歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをするが、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は相互排除の関係にあるから、聖書の歴史は、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として理解する方がよいと思惟し語る≫)のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と思惟し語ることができる。それだけでなく、現実の事実として、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教に対して、同じように自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を持つ人間は、確かにその場合は聖霊による理性の更新を必要とするのであるが、「聖書の主題」は神と人間との無限の質的差異にあると思惟し語り、「聖書が神と偶像との同一視に対して反対していることを聞き逃」さなで<非>自然神学の<段階>へと移行したバルトのように、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか?・「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否、「十字架につけられ、復活したイエス・キリスト」における「われわれ」の「実存という場所」において、「われわれ」の「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれ」のために「生きて、われわれを支配」し、「われわれ」を「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と思惟し語ることができるのである。「いずれにしても、聖書は帰していないところの」「自然的な人間」の理性、意志等の「能力と信頼性」が対象化・客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)は、換言すれば「彼の生の営みが為している証言」は、「持続的に、意見の一致を保ちつつ、明確に、人を確信させつつ、力を奮ったためしはない」と言うことができるのである、すなわちそうした証言は自然時空に死語化していく以外にないのである。例えば、モルトマンの人間学的神学における神学的な三段階的進歩史観は時代状況そのものが許さなくなった、ブルトマンの人間学的神学における前期ハイデッガーヘの依存は後期ハイデッガーの転回によって足を掬われてしまった。現実の事実として、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンやその学派が、そのハイデッガー自身から、現実性と妥当性をもって、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と根本的包括的に原理的に揶揄・批判されてしまった。その時、現実の事実としては、ブルトマンやその学派の語りは、未来に生きる言葉とはなり得ず、自然時空に死語化してしまったのである。それに対して、現在から未来に生きる思惟と語りにおける言葉は、次のような言葉にあるのである――@「信じる者は、自分が――つまり(≪自然的な人間の、人間的自然としてある≫)『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、B「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された(≪、すなわち人間自身教会自身が対象化・客体化した「存在者レベルでの神」・偶像の名と呼びかけによる≫)救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。自然的な「人間(≪の「能力」≫)が考え出す神の像と神認識」、「それらは確かに(≪人間的自然として≫)存在するのであるが」、それらは、「われわれに知られている人間の歴史の範囲全体の中で」、神と人間との無限の質的差異を「主題」とする「聖書が『神』と呼んでいる」キリストにあっての神「であったたしはない」のである。この事態は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教における必然的帰結である。なぜならば、ヘーゲルのように人間は、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けてしまうことができるからである、換言すれば人間は、対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を為す能力を持っているからである、またフォイエルバッハが述べているように「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」からである(『キリスト教の本質』)、またマルクスが述べているように個体的自己としての全人間は、その肉体・身体と精神・意識を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、天然自然および人間的自然)との相互規定的な対象的活動を為すからである、すなわち人間の類的な活動や生活を為すからである(マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波書店)。論述を元に戻せば、「『自然』神学の成果」と言われるものが示したことは、「そのどの形態においても、われわれが、その成果に圧倒されて、実在の『神』は『自然的』に認識可能であるということを」、換言すれば聖書の神と同一視できるということを「認めざるを得」ないようなものでは全くなかったのである。言い換えれば、「『自然的』に認識可能」な神は、現実性と妥当性をもって、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判し揶揄したところの、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化・客体化した神(偶像)でしかないことを示したのである。したがって、神の認識可能性は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽生を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識としてあると言うことができるのである。このような訳で、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、決して「われわれ」人間自身教会自身の決定事項ではないのである、すなわちあくまでも「われわれ」の思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。
 このような訳で、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会、「われわれ」人間は、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストを、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、客観的な啓示の「概念の実在」、イエス・キリストを、教会の宣教における、それゆえに教会の教義学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神(キリストの福音)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を――換言すればキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教会が(≪全く同じ人間的な≫)<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰」、~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(「神の義」そのもの)、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」ということ、それゆえに「福音の勝利、恩寵の勝利」は、「われわれ人間」の「真実の罪(≪神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もというそれ、不信仰・無神性≫)に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」であるということ、それゆえに赦罪や和解や救済や平和について、「われわれ人間」から「生ずる現実は何もない」ということ、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ということ、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを、キリストにあっての「~を認識しないことから……認識することへ」の・「それと共に滅びから救いへ」の「招きと導きの業」を志向し目指していくことが肝要なことなのである。このことが、全く同じ人間的な「教会と世の間の、信仰と不信仰の間の、共通の対話の地盤」・「基礎」である。したがって、自然的人間の「『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とした修行等≫)によっては』全く信じることができない」ところの第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、~の側の真実としてある不信を包括し止揚し克服した主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――この恵の場所においてのみ、「招きと導きの業」を志向し目指していくことができるのである。次の(2)で述べるアンセルムスにおける<信>と<不信>、<キリスト者>と<非キリスト>の往還は、この立場に立脚したものであると言うことができる。