3の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(51-92頁)
3の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(51-92頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
3の1.「人間のための神の自由――イエス・キリスト、啓示の客観的可能性」
「イエス・キリストの実在」は、「事実、人間に対し示される神の啓示であるということを聖書を通して確かにわれわれに向かって語らしめる」――このことを、「われわれは……前提とする」。すなわち、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」――この「啓示の客観的可能性」としての「イエス・キリストの実在」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を通して、「事実」、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現であるということを、「確かにわれわれに向かって語らしめる」。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である――このことを、「われわれは……前提とする」。したがってまた、われわれは、その「啓示そのもの中で、啓示そのものを通して、前提され、基礎づけられた、そして啓示そのものからして、啓示そのもの中で、認識される可能性を問うのである」。
このような訳で、「神がわれわれのために自由であり給うということ」は、「イエス・キリストにあっての事実である」。したがって、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」について語らなければならない「最初にして最後のこと」は、「彼はまことの神にしてまことの人間であるということ」である、「神がこの人間(≪存在≫)であり、この人間(≪存在≫)が神である」ということである。「この意味の単一性の中で彼は神の啓示の客観的な実在」である。そして、これは、「受肉の概念の説明」である。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)を持っている。
バルトは、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』で、次のように述べている――アンセルムスの本来的な意図は、「証明する(probare)ではなく、むしろ知解スル(intellegere)」という点にあった。「知解スル者(intelligens)が求め、見出す根拠そのもの」に、その「信仰の根拠」そのものに、「有用さ」だけでなく、「美」も「喜び」も含まれている。先ず以て「信じるが故に、知解シヨウと欲する」のであって、「信じるために、知解シヨウとするのではない」。「信じるということ」は、「神の自存性」・「自足性に参与すること」、「神ご自身においてのみ実在であり真理である神の自由に参与すること」である。キリストにあっての神は、「自己自身である神の自由」、ご自身の中での神の自由、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の自由)としての「自存性の概念」――すなわち神の自由の概念の積極的側面と「神とは異なるもの(≪具体的には、たとえそれが教会論的なキリスト教的人間であれ、われわれ人間≫)によって為されるすべての条件づけ(≪具体的には、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、彼らの人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された神概念、啓示概念≫)からの神の自由」としての「独立性の概念」(神の自由の概念の消極的側面)」との全体性・総体性において、完全に自由であり給う。もしもそうでないならば、それは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないそれであるだろう。したがって、「神学的に問う者」は、「自分の信仰について」、「たとえ……自分が信じていることを理性ニヨッテハ全ク理解デキナイとしても」、「神の先行的恩寵ニヨリ」、「その〔信仰ノ〕堅持カラ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の堅持から≫)ドノヨウナモノモヒキサクコトハ出来ナイということを確信している」。したがって、「神学的問いには、その対象である真理そのものに対する「敬虔さが残る」のである。したがってまた、「神学的に問う者」は、八木誠一の『イエス』におけるように、イエスを人間学的な対象としてしまって、イエスは生来的な自然的な「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方(≪「人間存在の根底」≫)を告げた」「ただの人」であるというように思惟し語ることはできないのである。「知解を要求するもの」は、「実存(Existenz)ではなく」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての「信仰の本質(Wesen)である」。
このような訳で、「信じるが故に、知解シヨウと欲する」のであって、「信じるために、知解シヨウとするのではない」ところでの「『私ハ知解スルタメニ信ジマス』とは、……私の信仰それ自身が、私にとって知解するようにとの呼び出し(Aufruf)であることを意味している」。「神はご自身を、彼〔アンセルムス〕の理解〔知解〕に対して対象として与え給うた。また神は彼を、神が彼にとって対象として理解〔知解〕しうるようになるために、〔光によって〕照らし出し給うた。この出来事なしには(≪常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」なしには≫)、神の存在の、すなわち、神の対象性の、いかなる証明もない。しかし、この出来事によって、感謝に値する証明がなされた。真理が語ったのである。信じたいと欲する人間が語ったのではない。人間は、ただ、信じたいと欲することさえできないであろう(≪教会論的なキリスト教的人間であれ、われわれ人間は、日々瞬間瞬間、常に、キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けているだろう、罪を新たな罪を犯し続けているだろう≫)。人間は、また常に、愚か者であることができるだけであろう。(中略)しかしまた、彼がそのような〔愚か〕者であるとしても、タトエ私がアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクテモ、真理は語ったのである」。ここに、「いかなる哲学的な前提とも比較されることができず、また神学的・体系的にも把握されえない基礎」、啓示認識・啓示「信仰の基礎、神学の基礎がある」。彼は、常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――すなわち「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えられ、純粋な教えとしてのキリストにあっての「神を理解〔知解〕することができた」のである。この意味での「知解」、理解、認識、信仰は、一般的なただ「単なる知識」と厳密に区別されるのである。バルトは、「単なる知識」と「認識」(信仰)とを厳密に区別して次のように述べている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいてキリストにあっての神、キリストの啓示、「神の言葉」を聞き、認識し、信仰し、語る責任ある証人となる場合、その「出来事」、「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示、神の言葉に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」(啓示認識)、信仰(啓示信仰)である。その時初めて、キリストにあっての神、キリストの啓示、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解することができる」。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」、「絶対的存在」、「物自体」としての神概念、啓示概念は、キリストにあっての神の概念ではないし、キリストの啓示の概念ではない。キリストの啓示、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」からである。キリストの啓示、神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、その隠蔽性と顕現性において、「われわれのところに来る」のである。
バルトが、この「事実原理」・「事実質問」の先行性と、それに不可避的に後続する「了解原理」・「了解質問」を語る場合、その「了解原理」・「了解質問」は、前述したこととの関係において、バルトにおいては、次のことを意味する――それは、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会に属する者として、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は通俗的な意味でのそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということを意味する。何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからである。したがって、バルトは、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの間の途上にある信仰・神学・教会の宣教に関わる者として、この「了解原理」に基づく「了解質問」において、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(≪教会の客観的な信仰告白と教義≫)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求めた」のである(『啓示・教会・神学』)。
このような訳で、この先行的な「事実原理」と「事実質問」」に後続して「了解原理」と「了解質問」を持たない場合、その「事実質問は誤った仕方で立てられ、答えられることになる」し、啓示の実在に対して、「怠惰さ、無意味さ、参与しない態度」をとることになるのである。したがって、第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの言葉と霊としてのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」であり、子なる神、イエス・キリストに関わる、旧・新約聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」であるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理であり、またその第二の形態の神の言葉である「聖書こそ」が、第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている」のであるから、その関係と構造(秩序性)からして、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。
さて、バルトは、「われわれに向かって既に語られていることを前提」として、すなわち啓示の実在そのものが「ひとつの問いに対して答えている」ことを前提として、イエス・キリストの実在における啓示と和解(外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)について問うのであるが、その時、バルトにとっては、啓示の客観的可能性としての「現にあり給うままのイエス・キリストが、明らかに啓示と業と働きに関して必要なこと」を認識させ給うのである。「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する第二の形態の神の言葉である「新約聖書の答え」は、「永遠なる神性」を本質とする「まことの神」にして「まことの人間」、「神の人間存在」であり「人間の神存在」、隠蔽性と顕現性の秘義としての「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」だけである。ここで、神の隠蔽性の啓示認識は、その啓示認識に依拠した信仰の類比を通して、人間の神に対する「盲目性」(人間の神の不把握性)の認識を喚起させる、終末論的限界の認識を喚起させる。キリストの啓示が、キリストにあっての「神を永遠からいます主……として特徴づけている事柄」は(ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として特徴づけている事柄」は)、またそれが、それからわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中の三つの存在の仕方における「創造主、和解主、救済主(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体≫)として啓示し、人間を被造物、罪人、死の手に引き渡されたものとして特徴づけている事柄」は、換言すれば「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異ということ、「神の不把握性」、「神に関して……全く闇に閉ざされていること」は、人間学的なただ単なる「一般的な真理」ではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰における「啓示の真理であり、信仰の真理」なのである。
このような訳で、「懐疑論者や無神論者の否定する神」は、もともと神ではない神を否定していることになるし、それ故に彼らの「神の不在性」の主張も神の不在性ではないことになるのである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方、神の側の真実としてある神の側からする神と人間との仲保者・仲介者であるイエス・キリストは、内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「神の子」、「神の言葉」なのである。この「キリストの神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識することができる」。すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における「啓示ないし和解」(外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とするその「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」は、たとえその人が「まことの人間」であっても人間に内在することは決してないのである。ましてや生来的な自然的なわれわれ「ただの人間」に内在することは決してないのである。この起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解」の実在そのもの)は、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)は、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の客観的な「教義」は、われわれに対して「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいないのである。この認識と自覚のもとでわれわれは、第二の形態の神の言葉である使徒たちや第三の形態の神の言葉である古代教会の客観的な「教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならない」のである。したがって、「イエス・キリストの十字架と復活を仰ぎ見る」ことから視線を逸らして、キリストの「啓示と並んでもろもろの啓示の可能性について、あるいは二重の啓示について語る」場合、そのことは、「持続的なあるいは一時的な、しかしいずれにしても根本的な無能力から生じてくることができるだけの饒舌でしかない」のである。したがって、われわれは、啓示理解、啓示認識・啓示信仰を、終末論的限界の下で、その途上性において、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から「読み取」り・「注釈」しなければならないのである。
われわれは、常に先行する「神が事実歩み給うた道のあとに続いて(≪後続して≫)思惟」しなければならない。言い換えれば、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は通俗的な意味でのそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならない。その時には、われわれは、次のように告白するであろう――すなわち、キリストにあっての神は、「ただ単にご自身の中ばかりでなく」(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神としてのご自身の中ばかりでなく)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において「われわれの間にあっても、神であり給う」――この全き自由の中で、神は、「被造物へとご自分を低くされ給う」、「卑下し給う」、「われわれに対してご自分を伝達しようと欲せられ給う」、「(≪神ご自身が≫)ご自分の仲介者となり給」――このことは、「われわれにとってどうしても必要なこと」であった、と。「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が」、すなわち内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での「神ご自身が、(≪神の側の真実として≫)自分自身を賜物とすることによって、自分自身、(≪われわれのための神として「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる≫)他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、先行してわれわれのための神が「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくこと」であるから、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉(言葉の受肉であって、その神性の受肉ではない、神人協力ではない、神と人間との「混淆」・「混合」ではない、神と人間との「共働」・「協働」ではない)、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。ここでの常に先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。神の側の真実としてあるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格、すなわちイエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの(この救済概念は、平和の概念を包括している)は、「福音と律法の真理性」における「福音の内容」である。先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。