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3の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(51-92頁)

3の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(51-92頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

3の2.「人間のための神の自由――イエス・キリスト、啓示の客観的可能性」

 

 「神性ヲ除イテハ仲保者ナル人間ハナイシ、人間性ヲ除イテハ仲保者ナル神ハナイ(ルター)」。「神がこの人間(≪存在≫)であり、この人間(≪存在≫)が神である」。言い換えれば、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神」が、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」における「この人間(≪存在≫)であり」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」における「この人間(≪存在≫)が神である」――このように、「神性を本質とする」イエス・キリストが、「これら両方のものであり給うこと」が、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事としての「啓示の客観的可能性」であり、「神の言葉の受肉の、イエス・キリストの名の、イエス・キリストの神存在と人間存在の、最も一般的な意味である」。

 

 神の「われわれのための自由」における、「神の言葉、あるいは神の子」が「人間となり給う(≪その神性の受肉ではなく、言葉の受肉≫)という命題」は、父なる神と聖霊なる神が「人間となり給うのではない」し、父、子、聖霊なる神の「本質と区別」における区別を意味しているのではない。すなわち、それは、子の父や聖霊との存在の仕方におけるその「失われない差異性」・相違性にもかかわらず、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神がその全き神性の中で、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において≫)人間となり給うたということ」を意味している。言い換えれば、この命題は、『神の人間性』において、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちに神の人間性もわれわれに出会う」と表現される。したがって、この時、「人間となり給うた」のは、神の第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における「神のひとつの本質である」。したがってまた、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」。言い換えれば、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪愛に基づく父・隠蔽と子・顕現の交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方の間の「内的単一性」(内在的な「失われない単一性」)が、「ただ子」(外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)においてのみ、「人間性をとり給うということである」。すなわち、「父、子、聖霊に共通的な、人間となるというこの業の中に含まれている秩序」は、「父はいわば神的な誰を、子は神的な何を、聖霊は神的な如何にを、それぞれ代表しているということである」。したがって、この秩序は、「この業が含みをもっている共通性の中で、父についてではなく、霊についてでもなく、ただ子についてだけ」、「人間性をとり給うたという」点にある。バルトは、この命題を、終末論的限界の下で、すなわち「われわれは、……聖書の中に証しされている啓示の事実的な実在との関わりの中でそのような啓示の事実的な実在によって制約されながら、理解することで……満足する」と言うのである。したがって、バルトは、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会に属する者として、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」――そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関を目指すのである。したがってまた、バルトは、そのような仕方で、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの間のその途上性において、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、自らの信仰・神学・教会の宣教を生きたのである。

 

 神のわれわれのための自由において、神の子あるいは神の言葉が「(≪われわれの「熟知している形態」・≫)既知の形態を……とり給うということ」、「神が人間となる」、「可視的」になるということ、「神性を本質とする」イエス・キリストの「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「受肉」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、神の顕現のための、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」であり、「啓示の手段である」。「神性を本質とする」イエス・キリストは、「神人であり給い、まさにそのような方としてワレワレニ対スル神ノ愛ノアラワレである(アウグスティヌス)」。「われわれが熟知しているこの形態の中で神はご自身をわれわれに啓示することができた、そのようなわけで神はそのことをなし給わなければならなかったし、まさにそのことをこそわれわれは必要としていた」と結論づける場合、「神が実際になし給うたことを感謝をもって振り返り見つつ語ることができる」ということが顧慮されなければならない。何故ならば、われわれは、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づいて、すなわち「既に前もって見てとることのできる存在ノ類比に基づいてそのことを語ることができるわけではない」からである。言い換えれば、常に先行する起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)の後から、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から「読み取」り・「注釈」しなければならないからである。近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、「視覚的錯覚」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからである。したがって、われわれは、「神の啓示の出来事の中で明らかになってくる」、「神の事実啓示された意志、神の定められた可能性」、神が「われわれに向かって語られたところのこと」を、「後につづいて語」り、「後につづいて語りつつ」、「必然的として受認することが許され、受認しなければならない」のである。言い換えれば、第三の形態の神の言葉である教会の客観的な「キリストの永遠のまことの神性の教義」は、すべての近代主義、近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」見出すことができる「ヘーゲルの強力な痕跡」に抗することができる神学における思想的武器なのである。

 

 神の言葉が人間となること、「受肉」、「僕の姿」、「受難、卑下」は、「神的尊厳さの喪失を意味しない」、「それどころか、(≪神性と共にそのことは隠されているのであるが、≫)……それこそまさに神的尊厳の勝利を意味している」。イエスの死は、「永遠の言葉が自ら肉となる際に、進んで身に受け給うた『断念』」・隠蔽である。それに対して、「死人からのイエスの甦えり」、あるいは「イエスの生涯の言葉と行いがイエスの甦えりのしるしである限り、それらすべての言葉と行い」は、「あらわにする働き」・顕現である。したがって、受肉は、神性を「覆い隠すこと」であって、「神性の放棄」や「神性の減少」ではない。神の啓示は、隠蔽と顕現という、この啓示に固有な啓示の弁証法における出来事である。したがって、「われわれは」、この「啓示の客観的可能性」を、「啓示の必然的な形式である」と言う。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ)とその「啓示の主観的可能性」としての啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)を持っている。客観的な言葉を与える主は、主観的な信仰を与える主である。

 

 われわれの啓示理解、啓示認識(啓示信仰)は、神の子あるいは神の言葉が、「肉」、「人間」、「人間性」、「人間存在」となるという、そういう仕方によって可能となる。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における神の子あるいは神の言葉としての第二の存在の仕方の中で、すなわちイエス・キリストの実在の中で、「人間存在を、……とり給うた」。この「神の子は罪を犯し給うことができなかった」――これが、神の子であるイエス・キリストにおける人間存在である。「まことの人間」・「神の前に立つ人間」である。この点が、「われわれの人間存在」とは「違う唯一の点である」。神の言葉――イエス・キリストが、「人間であり、人間が神の言葉である」ことが、「啓示の客観的可能性」である。この啓示は、その「啓示に固有な証明能力を持っている」。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と、「啓示の主観的可能性」としてのその客観的な啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいてのみ、終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は与えられるのである。そして、それが「啓示の客観的可能性」であるということは、「そのことが実在であるということに基づいて……理解することができる」。「神の啓示の客観的な実在」――「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」は、全き自由の、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれの神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業・働き・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である。この神的行為としての神性を本質とする「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「人間性」は、「謎であると同時に」、その「謎の解明である」。キリストにあっての「神はまことの人間として死ぬことを欲し給う、それは同じまことの人間として三日目に死人の中から甦えり給うためである」、「馬ぶねと十字架から甦えりと昇天へである」。ここで、この「神の永遠の御言葉」としての人間は、『福音と律法』によれば、「神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」神のこの「救いの答え」に対して、「われわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れ」給うたところの、すなわち「肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって」受け入れ給うたところの、「肉である人間」のことである。神は、「われわれのために」、「人間となること」、「言葉の受肉」、肉となることにおいて、自己啓示し給う。このことは、「われわれのために」「神の自由」の行為、「神の恵み」の行為、「神のみ心にかなった」行為である。したがって、この「肉である人間」は、「何らかの人間論の人間ではない」。したがってまた、神の隠蔽性・「謎であると同時に」、神の顕現性・「謎の解明である」、「肉である人間」、「肉存在」、「神性を本質とする」イエス・キリストの「人間性」は、われわれ人間の、その個と現存性と類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せる唯一の場所である、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」唯一の場所である、それだけでなく自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる唯一の場所でもある。「起源的、本来的にはただイエス・キリストだけが肉であるところの人間であり給い、それから派性的に、副次的な意味で、聖霊を通し信仰の中で、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、≫)イエス・キリストとともに〔ひとつの〕肉であるところのものたちが、肉であるところの人間であるということを言うのである」。したがって、神の「啓示の客観的可能性」としての「肉は、まったくただ」、「神性を本質とするイエス・キリストご自身だけの可能性である」。

 

 さて、神の「啓示の客観的可能性」としての「肉は、まったくただ」、「神性を本質とするイエス・キリストご自身だけの可能性である」という証明・説明は、一般的な人間論的な人間学的な説明においては不可能であるから、「徹頭徹尾、キリスト論に基づき、キリスト論とかかわらしめられて初めて可能である」。したがって、それは、「神の自由」における、神の言葉、啓示が客観的可能性となるための人間に対する配慮である。神の「啓示の客観的可能性」は、根本的には、「何故神が人間ニ〔ナリ給ウタカ〕という問いの答えは、〔ワレ〕知解センガタメニ信ジルというプログラムを正当な仕方で実行に移す」という点にある。すなわち、それは、第一に、「神がイエス・キリストにおいて神ご自身とは異なる実在になり給う卑下ということ」、第二には、イエス・キリストは、「神の子であると共に神の言葉である」ということ、第三にはイエス・キリストは、われわれのこの世界や歴史や社会の中に「生まれ、死に、甦られた」のであるが、その「われわれに知られた実在世界に属している」ということ、第四には、「いささかも減少されない仕方で」、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神として神自身であるということ、第五には、イエス・キリストは、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「人間存在」・「肉存在」ということである。この「啓示の客観的可能性」の概念は、内在的なご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」・秘義性としての神の観点から言えば、先ず以て「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、この客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事がなければ、また「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事がなければ、日々瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続け、罪を新たな罪を犯し続けている「全く不信仰で罪に穢れた」「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」から、われわれ人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことはできないのである。したがって、われわれは、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、徹頭徹尾、神の側の真実としてある、神の側からする「啓示の客観的可能性」と「啓示の主観的可能性」とを必然とするのである。もしもそうでないならば、それは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないそれであるだろう。