カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(26-50頁)

2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(26-50頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

2.「人間のための神の自由――イエス・キリスト、啓示の客観的な実在」

 

(命題1)「神の言葉あるいは神の子は、人間となり、ナザレのイエスと呼ばれた」、すなわち「神の言葉あるいは神の子」は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」という形態をとられた、換言すればご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において「神の言葉あるいは神の子は、人間となり、ナザレのイエスと呼ばれた」、
(命題2)「この人間ナザレのイエスは、神の言葉あるいは神の子であり給う」。

 

 これが、新約聖書の証言に基づいた、「一回的」な、「神は唯一であり」――すなわち神は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であり、それからまた「神と人間との間の仲保者もただひとりであるところの」――すなわち外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)ところの、「イエス・キリストの名」、「啓示の客観的な実在」の定義である。この「啓示の客観的な実在としてのイエス・キリストの名の場所」における(命題1)と(命題2)の「二つの構成要素」を持った「二つの解析命題の位置と意味」は、次の点にある。

 

(ア)この第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>なキリスト論的告白および教義は、三位一体論的告白および教義の場合と同じように、聖書・「テキストの注釈」である。すなわち、「マルコ福音書冒頭の神の子」は、「おそらくもともとはなかった言葉であろう」。しかし、「歴史的な記述」や「組織的な論述」の目的のために編纂されたのではないところの、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「宣教と証しのため」の新約聖書(この聖書が、教会に「宣教を義務づけている」)は、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会のその深化され豊富化された<客観的>な告白および教義を「待っている」し「切望している」。

 

 このような訳で、バルトは、次のように述べている――「中立的な観察者として聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって異質なもの」である。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者である非中立的な観察者」にとっては、「啓示」(起源的な第一の形態の神の言葉)、「聖書」(起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉)、「教会の宣教」(その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉)の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的には全く何も確かめられないということ知らされた」し、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」、「啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」。したがって、史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラトと使徒信条」というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある。しかし、史実性という一面だけを抽象し全体化する歴史主義は、「人間精神が生み出したものを問題とする」限り、「啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問うことをする」。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、「相互排除の関係にある」。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」ことになる。何故ならば、啓示は、人間の「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる」点にある――この全体性において、聖書記事は読まれるべきものである。

 

 もしもこのように理解しないとしたら、次のような事態が惹き起こされるのである――第一に、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過とともに、われわれの前から消え去ってしま」うし、われわれの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現は理解できない」から「それは非神話化されなければならない」と主張したところの、換言すればイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、聖霊の証しの力を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる授与能力を持っていないから「それは非神話化されなければならない」と主張したところの、それだけでなく「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の重要性を全く認識し自覚していないところのブルトマン(その学派)は、自分が依存したハイデッガー自身から、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に「揶揄」・批判されてしまうという事態である。第二に、聖書の歴史研究において、その歴史研究の限界性を認識し自覚しないところで、恣意的独断的に自分は優れた歴史研究をしていると勘違いし誤解している研究者に対しては、人間学領域における詩人であり文芸批評家であり思想家でもある吉本隆明からは、「バカだ」と言われてしまうという事態である――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」)。また、次のようにも言われてしまうのである――「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪詩、文芸批評、思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度なく前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」)。

 

(イ)第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である新約聖書の証言の要素からすれば、イエス・キリストの神性と人性についての規定(聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>なキリスト論的告白および教義)は、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストご自身の名」との関係において「副次的」なものである。この「イエス・キリストの名の場所」における全体性において、次のように言わなければならない――「確かに受肉は中心的に重要なものであるが、しかし受肉が新約聖書の本来的な内容であると……言うべきではない」。言い換えれば、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)としての「イエス・キリストの名」・「啓示の客観的な実在から離反した受肉」が、「新約聖書の本来的な内容でないのは、人間が神の子供であるということ、あるいは終末論的な救済……も、新約聖書の本来的な内容でないのと同様である」。したがって、バルトは、ナザレのイエスは神の子である・神の子はナザレのイエスであるという新約聖書の証言の意味を、人間の感覚と知識を内容とする経験、人間的な存在の類比から理解することはできないから、「人は、聖書が語っている受肉をただ聖書から」のみ、すなわち「イエス・キリストの名から」のみ、この「単純な、一回的な実在から」のみ、「啓示の客観的な実在」からのみ、すなわちこの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいてのみ終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して理解することができると述べたのである。「(中略)イエスは天使の立場をおとりにならず、むしろアブラハムのすえの立場をおとりになった。イエスはあらゆる点において兄弟たちと同じようにならなければならなかった。それは彼らに対してあわれみ深くあり、同時に神のみまえで彼らの正しい大祭司であるためである(ヘブル2・14以下)」――「この線全体の上で、キリスト論的陳述」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が子として自分を自分から区別した父を根源とする「神の子は≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において≫)人間となられ、人間であり給う、それこそ啓示の実在である、そのことの中で神は、われわれの神であるという神の自由を確証し給う」。この「神の啓示を信じ、神の啓示を認識するということは」、「この人間」(ナザレのイエス)を「そのまま神の現臨および行為(≪外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)として信じ、認識するということを意味」する。ヨハネ福音書のキリスト論は、「肉をとった姿の中で見られ、聞かれたロゴスそのものの記述」、「イエス――福音書」・「キリスト――福音書」である。「聖金曜日」と「復活日」、イエスの「死と復活」が宣べ伝えの主題であり、それ故にイエスは「言葉、光、生命、道、真理」であり、このイエス自身においてのみ、「救い、ゆるし、生命、支配、永遠の言葉、神の子を発見」、認識できるのであるから、イエスは、「それらすべてをもち給い、それらすべてであり給うという宣べ伝えから成り立っているイエス―――使信である」。この「ケリグマ」が、「仮現論的キリスト論」に、また「エビオン主義的キリスト論に特有……な、歴史主義、虚妄な現実主義、被造物崇拝」に抗することができる神学における思想的武器である。

 

(ウ)新約聖書の証人たちが「イエス・キリストの名」、「啓示の客観的な実在」、「イエス・キリストの名の場所」の中で「見出したもの」、また「そのことから身に及んだところの照明」は、「神の子あるいは神の言葉」――「キリスト」は、ひとりの人間――「ナザレのイエスと同一である」という認識、また「ひとりの人間」――「ナザレのイエス」は、「神の子あるいは神の言葉」――「キリストと同一である」という認識、この二つの解析命題としてのキリスト論的告白および教義である。

 

 バルトは、「神の子あるいは神の言葉」――「キリスト」は、「ひとりの人間」――「ナザレのイエスと同一である」という認識について、次のような注意喚起を行っている。すなわち、神、神の子、神の言葉、ひとりのキリストについて、内在的な「失われない単一性」という「ある一つの明確な概念をもって」、それからまた「その概念が(≪外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方における≫)イエスの中で裏づけられ、成就した……というふうに想定してはならない」、と。何故ならば、その場合には、「その発端およびその結論において、仮現的なキリスト論であって、……キリストの神性を認めるいかなる真剣な承認もあり得ない」からである。すなわち、その仮現的キリスト論は、人間の側から恣意的独断的に「イエスに神性の衣を着せたように」、また人間の側から恣意的独断的に「イエスから神性の衣をはぎ取ってしまうことができる」からである。言い換えれば、「仮現論的キリスト論は……ナザレのイエスの歴史的(historisch)現実存在を(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」における現実存在を≫)、事情によっては放棄し、……自分のキリスト(≪自分の人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化し客体化したキリスト≫)を保持する」ことを為すのである。したがって、仮現論的キリスト論に抗する場合には、「イエスの人格および業のメシヤ性」、すなわちわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における「イエス――使信」(イエスの「聖金曜日」と「復活日」、イエスの「死と復活」)における、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としてのそのイエスの「神性」が強調されなければならないのである。

 

 また、バルトは、「ひとりの人間」――「ナザレのイエス」は、「神の子あるいは神の言葉」――「キリストと同一である」という認識について、次のような注意喚起を行っている。すなわち、この命題は、「仮現論的キリスト論と対でありその補充であるエビオン主義的キリスト論に根本的に抗することができる」神学における思想的武器である。両者のキリスト論の認識方法と概念構成に共通している点は、(命題1)と(命題2)の「二つの構成要素」の全体性において思惟し語られていない点にあるが故に、「キリストの神性を真剣な意味で承認することが不可能」な点にある。言い換えれば、仮現的キリスト論における「神性」性が「人間的な概念……から出発しているように」、エビオン主義的キリスト論における「人性」性は「人間的な経験から(≪人間の感覚と知識を内容とする経験から≫)、ナザレのイエスの英雄的な人格についての体験および印象から、出発」している。そして、その「印象および体験に基づいて」、「人間(≪人間イエス≫)に対して神性が帰せられる」。近代以降の仮現的キリスト論は、「カント、フィヒテ、ヘーゲルの影響」の下にある。エビオン主義的キリスト論の典型は、「A・リッチュル」・「A・v・ハルナック」に見出すことができる。もっと言えば、八木誠一の『イエス』によれば、イエス・キリストの内在的本質である神性を否定するだけでなく、その外在的な第二の存在の仕方も否定して、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」ところの、生来的に自然的に「ただの人であり」、生来的に自然的に「ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と主張している、換言すれば「世界史的個人」のようなイエスを主張している。まさに、八木は、自然科学と人文科学の総体を自由に学問・研究する場における大学社会の知識人(職業的知識人)として、「イエス・キリストの名」を人間学的領域に解体(解消)させたのである。言い換えれば、八木は、「すべての大学社会の神学、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」に「イエス・キリストの名」を解体(解消)させたのである。このことは、吉本隆明には見抜かれたのである――「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見えると思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と吉本が尋ねたことに対しての、その八木の答え方を聞いて、吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識と言うものを追究していくと出てくる問題(≪観念のリアリティの獲得の問題および個と現存性――不可避的な類と歴史性の問題≫)と、あまり違わない」、「それ宗教(≪信仰≫)と関係あるかな、ということですね。やはり納得できるように思いません」と疑義を呈している(『現代思想11 一九七五年』「<新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一」)。「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)。

 

 バルトは、次のようにも述べている――釈義神学による聖書的教えの認識も、キリスト教的な神についての「先ず第一義的に優位に立つ」「語りの規準」・原理・法廷・審判者・支配者である「イエス・キリストの名」、「啓示の客観的な実在」と同一ではない。また、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。何故ならば、その「使徒や預言者たちが語ったこと」は、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストの名」、「啓示の客観的な実在」そのものではないから、もしも「彼らの語りをそれとして問うことをしたならば」、彼ら人間の理性(聖霊とは同一ではないところの、聖霊によって更新された理性)と人間の言語を用いて対象化され客体化された彼らの思惟と語り(「存在者レベルでの神」)を問うことになってしまうからである。このような訳で、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「『使徒と預言者たち(≪最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)に基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない」。「その時だけ、キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され・命じられていることを知る」ことができる。「神についての教会の語り」、その一つの補助的機能としての神学の語りは、「信仰のない人間」の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、それが、聖霊によって更新された理性によって、「神についての語りをはかる規準(≪・原理・法廷・審判者・支配者≫)」を、それ自身固有な証明能力を持つ「イエス・キリストの名」、「啓示の客観的な実在」の中で、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける規準・原理・法廷・審判者・支配者として、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で「受けとる限り」、「神についての教会の語り」、その一つの補助的機能としての神学の語りは、「キリスト教に固有な真理の認識として可能となる」。その場合、それらは、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」。しかし、もちろん、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、それらは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立しているのである」。もしもそうでないならば、その「神についての教会の語り」、その一つの補助的機能としての神学の語りは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にあるキリスト教やブルトマン等々に対してフォイエルバッハやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したのと同じように、彼らから揶揄され批判されてしまうであろう。

 

 さて、仮現的キリスト論においては外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「キリストのまことの人間性が欠けてしまってもよいもの」であったように、「歴史的なものを過度に尊重する、英雄崇拝的熱狂主義」的なエビオン主義的キリスト論においては、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神、神の子、神の言葉という概念」は大切ではないものであった。両者のキリスト論の認識方法と概念構成に共通している点は、(命題1)と(命題2)の「二つの構成要素」の全体性において思惟し語られていない点にあるのであるが、後者においては、「人の心を動かす」、「人の心に強烈な感動」を喚起させる「人間イエスが大切」なものである。したがって、エビオン主義的キリスト論は、「好んで自分の『正直さ』と『誠実さ』」を誇ることをする。人間の側の「体験と印象」・「価値」に従って、恣意的独断的に「イエスに神性の衣を着せたように」、また恣意的独断的に「イエスから神性の衣をはぎ取ってしまう」ことができる仮現的キリスト論と同じように、エビオン主義的キリスト論は、「イエスのまことの神性は……欠けてしまってもよいものである」だけでなく、その人性も、「神であり給う(≪外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における≫)言葉が人間となったのであって、決して(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神のその≫)神性それ自体が人間となったのではない」という位相のものではないのである。すなわち、そこでの神性および人性は、ただ人間の恣意性独断性に従って管理される「詭弁」でしかないものなのである――新約聖書の証人たちにおいては、「イエスの人間性の中でこそ神性が彼らに出会っている」。したがって、新約聖書の証人たちが、イエスの中に「英雄的な、聖者にふさわしい特徴」や「賢者の特徴」や「偉大な人間の特徴を見出していた」としても、「人間イエスはキリストである」と告白する新約聖書の命題は、「エビオン主義的キリスト論との対立の中で考えられ・語られた」ものであるということが重要である。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示なのである。また、「イエスの神性こそ、その人間性の中で、彼らに出会っている」――このことは、仮現論的キリスト論との対立の中で考えられ・語られたものであるということが重要である。ここに登場するエビオン主義的キリスト論も仮現的キリスト論も、人間の観念を本質としているから、いつでも、どこでも、現在においても、変形して<復古>が可能であるということに注意しなければならないのである。

 

 さて、「イエスは神の子である言葉が肉となった」という命題における「ヨハネ的なイエス福音書」に対して、共観福音書は「キリスト福音書として理解されることを欲している」。すなわち、神――キリストの神性が、人間――ナザレのイエスの中で「人間性をおとりになったということ、そのことこそヨハネが述べようとしている、大いなる秘義である」。それに対して、人間――ナザレのイエスが、神――キリストの神性の中で「われわれの間に現れたということ、そのことこそが共観福音書記者たちにとっての大いなる秘義である」。そして、この記者たちの謎は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)における「イエス・キリストの人間性」であり、読者たちに対するその解答はその「イエス・キリストの神性」という事柄にあった。そしてまた、共観福音書における「キリスト論の高所」は、「人々は人の子(あるいは、わたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)という問いに対して、「人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは預言者のひとり」と答えたことに対して、それとは対立的に、弟子たちのペテロ(教会の客観的な信仰告白)は、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えた・告白したところにある。バルトは、この「人の子」語句について、「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい、と述べている。受肉――すなわち「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠しを意味している」。イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。

 

 「神の子あるいは神の言葉が、人間ナザレのイエスである」――これが、新約聖書的キリスト論的命題の一つであった。「人間ナザレのイエスが、神の子あるいは神の言葉である」――これが、もう一つの新約聖書的キリスト論的命題であった。これらの事柄は、「解析命題」としてあるのであって、「綜合命題」としてはあり得ないものである。すなわち、両命題の全体性は、「イエス・キリストの名」の場所において成立している。したがって、「われわれが新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉」は、「イエス・キリストの名」だけである。これが、「啓示の客観的な実在」である。したがってまた、人間が人間的に所有する人間の啓示認識(キリスト論)の構成は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいてのみ終末論的限界の下で「ただ試行であることができるだけであるだろう」。「人間ナザレのイエス」は、「神の子であること、甦られたキリストであることを証明する」場合、「ナザレのイエス……の人間存在の中で同時に彼の神性の真の証人であるところの十字架につけられた方、を記述するという方法のほかはない」。したがって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての甦り・復活し給うたイエス・キリストは、そのわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方において「十字架上で死に給う」ことによって、「ご自分が人間であることを実証し給うた方」である、「受肉を完成し給うた方」である。イエス・キリストは、「『神われらとともに』」という名で呼ばれる子、父なる神の右にいます人間、である」。「ケリグマはここでもまたイエス――使信である」・「イエス――使信としてこそ、それはキリスト――使信である」。(命題1)と(命題2)の「二つの構成要素」の全体性における使信である。言い換えれば、それは、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」(外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求するそれである。これは、「すべてのエビオン主義的キリスト論に対する決定的な反駁である」。

 

 ここでもまた、われわれは、バルトの次のような思惟と語りをよく理解できるであろう――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、また 「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」。したがって、バルトは、次のように述べている――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と(『バルトとの対話』)。