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『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−2 (115−137頁)

 

「一 神の用意」(その5−1)−2
 「われわれの現実の神認識の実現の基礎にある」ところの、「われわれの間での、われわれにとっての、神の認識可能性は、先ず第一に、本来的に神ご自身の可能性である。神は永遠から永遠にわたってご自身にとって認識可能であり給う」。すなわち、自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の神は、内的に、内在的に、自己還帰的に三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定し給う故に、「そのようにして、神は、またわれわれの間で、われわれにとっても、認識可能であり給う」、「われわれ」に三位一体という認識と概念を与え給う。「現実の神認識が遂行される神の自己証明は、三位一体の神としての神の啓示である。神がご自身を認識し給う、父が子を、子が父を、父と子の聖霊を通して認識し給う、ということに基づいて」、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」というその神のその都度の自由な恵の決断により、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「われわれ」は、終末論的限界の下で、「間接的な仕方」において、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」、その顕現化された~の第二の存在の仕方において、「抽象的」にではなく「リアルに」、「神の自己認識に参与するように、また神の自己認識可能性にも参与するが故に」、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神を認識する」のであり、またその「神の認識可能性」についても語るのである。「神がご自身にとって隠れてい給わず、(≪顕され≫)開いてい給うということが、すべての真理の起源であり、総内容であるから」、「全くただ、まさに神ご自身が真理であり給うということ」は、「先ず第一に、決定的に、また最後的にはただその中でだけ(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その「客観的な啓示の出来事の主観的側面」としてのキリストの霊である聖霊の証しの力による人間的主観に実現される神の恵みの出来事、神の言葉自身の出来事の自己運動、神の自己運動の中でだけ≫)、神の認識可能性を認識しなければならない」「神の用意」である。「真理とは隠れていないということ、(≪顕され≫)開いているということを意味している。神がご自身にとって開いてい給うことによって、父が子に、子が父に、聖霊を通して、神、万物の主、が開いてい給うことによって、神にとってまた万物は開いているのであり、そのほか存在するすべての開放性は、起源的に、本来的に、神の開放性」なのである。「われわれは、啓示の中」において、~の側から「まさにわれわれに贈り与えられた(神ご自身のこの開放性に向かって開いている)開放性と関わるようになる」。したがって、客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストにあっての、聖霊を通しての」、啓示者である「父の啓示としての神の啓示」に信頼し固執するならば、「われわれ」は、「真理そのものの真理」と、「間接的な仕方」で、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「われわれにかなった限界の中で、われわれにかなった仕方」で、関わるようになる。このイエス・キリストにあっての神の啓示は、「神認識の根拠と可能性」が、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その「客観的な啓示の出来事の主観的側面」としての聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての信仰の出来事に、すなわちその神言葉自身の出来事の運動、神の自己運動にあるということを、「われわれ」に認識させ自覚させるのである。したがって、神の「認識可能性を問う問いに対するわれわれの第一の、決定的な、包括的な答え」は、神の「認識可能性を問うている方を通して既に問われ答えられている」という点にある。その問いと答えは、「神ご自身の中で既に下されている決断から……由来して」いる。「われわれは、神の認識可能性を問うわれわれの問い全体」を、神ご自身の中で「既に下された決断へと戻って行くことと……理解する時、神の恵みのことを考えているのである」。なぜならば、「神がわれわれにとって認識可能であるということは……全くただ神の恵み(≪神のその都度の自由な恵の決断≫)を通してだけ出来事となって起こるからである」。「神ご自身が真理であり給うことと関わりを持つようになる」のは、「われわれ」が、「神の啓示と関わりを持ったことによって、換言すれば神ご自身が、(≪あの客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)われわれの認識を(≪信仰の認識を通しての神認識、啓示認識・啓示信仰として≫)基礎づけ、われわれに対しご自身を認識すべく与え給うことと関わりを持ったことによって」である。いずれにしても、「人は、神および啓示と関わりを持つこと」を、「わがまま勝手に」「自分の理性」・思惟や「自分の力ですることはできない」のである。すなわち、「神の啓示は、われわれの力の中に、したがってわれわれの自由処理の下に立ってはいない」のである。言い換えれば、神の啓示は、「われわれの間で、われわれのために、われわれの経験と思惟の領域の中で起こる」のであるが、しかし「あくまでも(≪神の自由な恵の決断により≫)『神からして起こる』」のである。「われわれ」は、「聖書の中で証しされている啓示によれば、父は子に対して、子は父に対して、聖霊を通して認識可能である」神が、「ご自分でご自身を(≪三位一体の神として≫)認識し給う自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)の可能性を真理であると言い表し」、「それに基づいて、神を、われわれの間でも、われわれにとっても、認識可能であると言い表した」のである。したがって、「われわれ」が、「真理を通して呼び出され証明され導かれる者」となるためには、「われわれ」は、~のその都度の自由な恵の決断、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の運動、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる「客観的な啓示の出来事の主観的側面」としての人間的主観に実現される~の恵の出来事、という「神的な『介入』」に基づかなければならないのである、そのような「神的な『介入』」を必要とするのである。したがって、「われわれ」が、「真理を通して呼び出され証明され導かれる者」となるためには、この「神的な『介入』」基づいて、起源的な第一の形態の客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における客観的な啓示の「概念の実在」)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方においてだけなのである、それに聞き教えられることを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、あの「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」においてだけなのである。したがって、「われわれ」は、「われわれの思想を神的介入に合わせてゆく代わりに」、すなわち先行する神的介入の<後>に従う代わりに、「真理の啓示の中で生起する」「神的介入を無視してその傍らを通り過ぎてゆく時、……(≪「真理の啓示の中で生起する神的介入」に対して≫)侵害行為」を犯すことになるのである。この「侵害行為」を犯した典型が、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、第一次的な客観的な「啓示の実在」そのものを、また聖書的啓示証言におけるそれを揚棄してしまって、逆に前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された自己表現としての啓示を第一次的なものとし、この第一次的なものに従事することにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容、新約聖書の使信の内容、イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとしたルドルフ・ブルトマンである(『ルドルフ・ブルトマン』)。このようにブルトマンも、シュライエルマッハーと同様、神と人間との無限の質的差異を揚棄し、「人間の自己運動を~のそれ」とし、神の自由と人間の自由を混淆した「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を残しているのである。したがって、ブルトマン(その学派)に対する、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」というハイデッガーの揶揄・批判は、現実性と妥当性があるのである(木田元『ハイデッガーの思想』)。このような自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しているキリスト教的神学者・説教者・著述家は枚挙にいとまがないのであって、例えば近代主義者として中世的思考に移行し、「人間の経験」の<尊重>と「聖霊論的出発」に依拠して「神学の優位性を確保しつつ」あるいは「神学の優位性を否定することなく」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与える」というように、全くの誤謬に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」るルドルフ・ボーレンや小泉健や佐藤司郎はその典型なのである。現実の事実は、近代以降の神学は、大学の場を構成している<学>から対象的なって距離をとれない場合は、必然的不可避的に、自然科学を含めて人間学の後追い知識に過ぎなくなってしまうのである。モルトマンも、喜田川信も、そうである。彼らとは違って、純粋に人間学の領域において心に響く言葉で、言葉としての聖書を信仰にも文学にも思想にも開いて、吉本隆明は、次のように述べている――「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、<心>というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(『<非知>へ――<信>の構造 吉本×末次 滝沢克己をめぐって』)。論述を元に戻せば、前述した自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「空虚なひとつの思想の運動」は、「実際は全く神と関わっておらず、むしろただ自分自身と関わっているに過ぎない」のであり、「自分自身の本質と存在の絶対化と、そのような本質と存在が無限へと投映される投射と、自分自身の栄光の映像をうち立てることに関わっていることに過ぎない」のである――なぜならば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの彼らの思想の運動は、@「人間の<内的>生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は<自分自身>と話をする。……人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという<類的機能>……を果たすことができる」、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、A「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演』)、というものであるから。したがって、「それは、今日確実であるかと思えば、明日は同じ重さをもって不確実へと急変するであろう」。このことは、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教から対象的になって距離をとれない場合、「われわれが自分たちの神認識と呼んでいるすべてのことの、いわば自然的な、一般的な、通常の側面」としてあるものなのである。そこにおいては、「われわれは……神と関わっておらず、……根本においては、われわれ自身と関わっているのである」、「われわれ」の対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の無限性・類的活動と関わっているのである。したがって、そこにおいては、「現実の神学的な神認識が問題なのではなく、……見かけだけの神認識が問題なのである」。「人は次のことによく注意せよ」――「形式的に見て、……すべての形で三位一体の神と関わっており、(≪第二の形態の≫)聖書と(≪第三の形態の教会の<客観的>な≫)教義によって導かれ、規定されたわれわれの思想の動きも、(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教から対象的になって距離をとれない場合≫)この自然的な、一般的な、通常の側面」を持っているのである。この側面は、人間の側における限界づけである。したがって、神学者が神学の優位性を確保し人間学に正当な位置を与えると主張しても、その神学は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返している神学に過ぎないのである。このような訳であるから、自然神学の<段階>を越え出た新たな<段階>への移行は、すなわち<非>自然神学の<段階>への移行は、それゆえに限界づけられた「自然的な、一般的な、通常の側面を延長したり、深めてゆくことが問題ではあり得ない」のである。自然神学の<段階>を越え出た新たな<段階>への移行は、~の側からやっくる「特別なことが問題」となるのである、すなわちもしも自然神学の<段階>を越え出た新たな<段階>への移行が惹き起こされたならば、それは、「そこで出来事となって起こった特別なことの中で、特別なことと共に、ひとつの全く新しい側面が開かれたということである」。「われわれ」が「人間的な誠実さ」を否定しないためには、この自然神学の<段階>とその<段階>越え出た新たな<段階>、すなわち<非>自然神学の<段階>という弁証法の自覚は肝要なことなのである。したがって、あくまでも「そこで出来事となって起こった特別なこと」は、すなわち自然神学の<段階>を越え出た新たな<段階>への移行・<非>自然神学の<段階>の移行は、あの、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵の決断による、客観的な啓示の出来事とその出来事の主観的側面としての聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事(信仰の出来事)、神の言葉自身の出来事の運動におけるそれなのである。したがって、「われわれ」は、次のように言わなければならない――その思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、「われわれ」人間の決定事項ではない、それゆえに「われわれ」の思惟と語りは、あくまでも「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立」している、と。
 さて、「十九世紀の終わりに」、神と人間との無限の質的差異を揚棄して、「神の啓示と現臨を人間が自分と取り組んだ活動の最後の、最高の成果として理解し、そのような主張として舞台にのぼらせようと骨折った」「天国を襲撃しようとする観念論的な運動に倦怠を感じていた」「プロテスタント神学」は、「表向きは偽りの形而上学(≪人間学としての哲学や神学における観念論的な運動≫)に対して戦いながら、しかし実際には(≪その観念論的な運動と同じように、人間学における歴史主義や心理主義の立場に立脚して≫)……現に語り、行動し給う神のリアルな現臨の認識に対して戦いながら、結局は、人間の宗教的な生の単なる歴史的な記述(≪歴史主義≫)と心理学的な分析(≪心理主義≫)に過ぎなくなってしまう」ところの、「奇怪な啓示倦怠感に襲われ、ほとんどそれによって全く支配されてしまった……」のである。「思弁的な体系が崩壊した後、哲学と神学にとって、実証主義的な歴史主義と心理主義の以外のものは残っていないように見てた」のである。神学、宗教哲学におけるその典型は、「エルンスト・トレルチ」であった。これらの運動は、「苦痛な、危険な幻滅に到達するのが関の山」であると述べたバルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』において、次のように述べている――@表向き人間的に誠実なあるいは第三者的な「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって異質なもの」である。それに対して、その聖書的啓示証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示(神の言葉の起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの)・聖書(神の言葉の第二の形態、その客観的な直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)・教会の宣教(神の言葉の第三の形態、具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して教えるという仕方での教会の客観的な信仰告白・教義)の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その「非中立的な観察者」だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」、「啓示とは別の何かだけしか確認できない」ということを知らされた。言い換えれば、「史実的」に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)について語っている」という点にある、A歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」ことになるのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、人間の時間、人間の類の時間、「歴史の枠にはめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがっ て、聖書の歴史の認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが「史実史」ではない「歴史物語」・「古譚」・「史実史以前の歴史」として受けとる点にある。したがって、バルトは、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である、「われわれ」は、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける「われわれ」の「実存という場所」において、「われわれ」の「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれ」のために「生きて、われわれを支配」し、「われわれ」を「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と述べたのである。また、バルトは、前掲書において、次のようにも述べている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪なぜならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階の日本においても、天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれていたから≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。それに対して、先ず以て前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンは、「自己表現」を志向し目指すために、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに「われわれの前から消え去ってしま」うし、また「われわれ」の「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、それゆえに「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と語ったのである。この非神話化論は、人間学的領域からも限界づけられている――@「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない ……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(吉本隆明『信の構造2――全キリスト教論集成』)、A「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造 南島論』)。
 「われわれが実際、神がご自身の中であり給うこと(≪「父なる名の内三位一体的特殊性≫)の領域へと戻って行く時」、神と人間との無限の質的差異を、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性を、それゆえに終末論的限界を、神は神であり人間は人間であるということを、「神は天にいまし、汝は地に在り」ということを認識し自覚させられるのである。この時、「われわれ」は、信仰の認識としての神認識が、「神の側からして起こったし、起こるところの介入を認識し、承認しているのである」、あの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによるその啓示の出来事の主観的側面としての人間的主観に実現された神の恵みの出来事(信仰の出来事)に基づく終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、ということを「認識し、承認しているのである」。「神がわれわれにとって啓示されている……ことは、その時、恵である」。ここで、「恵とは」、「(その中で、神に対する関係が、したがって神認識の可能性が、人間に対して、神ご自身を通して開示される)尊厳さ、自由(神のその都度の自由な恵の決断)、当たり前でないこと、予見できないこと、新しさ、自主性のこと(啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の自己運動)である」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性である、「神が秩序をうち立てる方向転換のことである」、自然神学の<段階>の信仰・神学・教会の宣教からそれを包括し止揚し克服した<非>自然神学の<段階>への方向転換のことである、「神の適意〔み心にかなうこと〕である」。「イエス・キリストが神の啓示であり」、このイエス・キリストにおける「神と共なるわれわれの存在、われわれと共なる~の存在」という「関係の現実性がまさに神的適意の業であることが確かである限り」、この「関係の現実性」は、恵としての神の適意から成り立っている。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)、「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉(≪起源的な第一の形態≫)との出会いである。われわれが聖書(≪第二の形態の聖書的啓示証言≫)を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教会の(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方における≫)宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」(『教義学要綱』)。「神の啓示は神の適意であるということ……でもって神の啓示は、(われわれがわれわれの神認識と呼ぶところの)思想の運動の空虚さを打破する」のである、「われわれ」の神認識が「自己欺瞞ではなく、真理を通して起こるが故に、まことである」という「側面を与える」のである。なぜならば、それは、「神の適意……を通してわれわれが真理を認識するところの真理である」からである。このような訳で、「神の適意」が、神のその都度の自由な恵の決断が、神の神的介入が、「神の認識可能性である」。この場合、その「現実の神認識の実現」は、「確実さと不確実さの弁証法」におけるそれではないところの、「確実さが宿っている」それである、確実さが与えられているそれである。「われわれ」の神認識は、「確実さと不確実さの弁証法」のただ中にあるのだが、その弁証法は、あの~の側からする「神の適意」、神のその都度の自由な恵の決断、神の神的介入による「確実さ」によって「凌駕され、支配され」ることが確かである限り、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的には第二の形態の神の言葉を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性において、それに聞き教えられることを通して教えるということを志向し目指していくことが強いられていると言うことができる、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくことが強いられていると言うことができる。「なぜなら……あなたがたに宣べ伝えた~の子キリスト・イエスは、『然り』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『然り』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『然り』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油を注いでくださったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に(≪神の自由な恵の決断による、客観的な、神の恵みの出来事を、啓示の出来事を、人間的主観に実現させる、すなわち終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与する≫)御霊を賜ったのである(Uコリント一・十九−二二)」。ここで、次の認識と自覚が必要である――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。したがって、聖霊によって更新された理性も、決して単一性・神性・永遠性を本質する神の第三の存在の仕方である聖霊と同一ではなく、あくまでも人間の理性としてあり続けるのである。したがって、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、 「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と主張する第三の形態に属する全く人間的な日本基督教団立東京神学大学の実践神学者・小泉健による恣意的独善的な「わがまま勝手な」聖霊や聖霊の言葉の実体化は、全くの誤謬なのである。そのような主張は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における必然的帰結である。それに対して、聖書的啓示証言に信頼し固執したバルトは、次のように述べている――「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である(『説教の本質と実際』)。