6−3.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳289-323頁、その2-2)
7−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳289-323頁、その2-2)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
新約聖書における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中でのその主観的側面としての聖霊の「三つの意味と働き」は、次の点にある。
(ア)客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事のその主観的側面としての聖霊は、人間の啓示への「個人的な参与を保証する」。外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わるとしての「聖霊の働きの中で」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の秘義としての「神の言葉に向かっての然り」、すなわち人間が人間的に所有する人間の「信仰(≪啓示信仰≫)、認識(≪啓示認識≫)」・「従順が存在する」。ここで注意すべきことは、聖霊についてのパウロの見解、すなわち「霊は『われわれの中に住み給う』」(ローマ書8・9、11)についてである。このことは、人間の自由事項・決定事項ではなく、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断により、「彼が聖霊を受けるがゆえに、受ける限りにおいて、人は神の宮である(Tコリント3・16、6・19、Uコリント6・16)」と言うことである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の神学者であり牧師である小泉健のように、聖霊や聖霊の言葉を、人間の側から「わがまま勝手に」恣意的独断的に実体化させることはできないのである。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断によるところの「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。
(イ)聖霊は、人間に対して「教化と指導を与える」のであるが、それは、聖霊が「われわれ自身と同一でない」ということ、「われわれ自身と同一になることはない」ということを意味している。「パウロの人間論の概念として、霊……聖霊は、全面的に部分的に、起源的にあるいは後になってからでも、人間の本質に属するものである、と言っているのではなく、むしろ、霊は、せいぜいのところ」、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」において、「聖霊を受けることが現実となり得るところの場所(Tテサロニケ5・23)、からだと霊魂を超えた彼方での場所を表示している」。すなわち、「聖書の主題である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、徹頭徹尾「聖霊は……主であり続ける」。聖霊は、「慰め主として、……『真理の御霊』である(ヨハネ14・17、15・16、16・13)」。聖霊は、「あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう(ヨハネ14・26)」。「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではない」(『教義学要綱』)。もしもそうでないならば、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)ということになってしまって、そこでの神は、その神の啓示は、人間的理性や人間的欲求やが対象化したものに過ぎなくなってしまうであろう。その時には、われわれは、その神学者や牧師たちの人間的理性や人間的欲求やが対象化したものに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝)を強いられることになるであろう。このような訳で、われわれは、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」のである(『啓示・教会・神学』)。
(ウ)聖霊は、第一に、「キリストについて語ることができるようにする能力付与である」、第二に、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の神の言葉である聖書、すなわち「預言者および使徒に力を与える装備」である、第三に、第三の形態の神の言葉である教会を「み言葉の奉仕へと召す(≪「召命」する≫)」のである。このことは、聖霊は、「われわれを自由にする主である」ということ、またその賜物を受け・所有することによって「われわれが神の子供となるところの主である」ということを意味している。「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したもの」は、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ14・26)であり、「上から」の「よき賜物」である。この「聖霊の注ぎ」により「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれること」である。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、このことは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が、具体的にはそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味でのそれではなく、純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくということを意味している。
「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『カール・バルトの生涯』)。
「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)」ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、授与者と受領者との無限の質的差異の下において、「神の子供」なのである――「彼は聖霊を受けることによって、神の子供である。(中略)彼は……子が彼の父に属するように神に属するものであり、子が彼の父を知るように神を知るものであり、父が彼の子のためにそこにいるように、そのもののために神がそこにい給う」、「あなたがたはみな、神の子である(ガラテヤ3・26)、したがって、僕ではない……そうではなく世つぎである(ローマ8・17、ガラテヤ4・7)」、「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである(エペソ2・19)」。「キリストにおいて起こった和解(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)に彼があずかる参与は成り立っている」――このことが、その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊をもつということである」。
「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、聖霊が、われわれに対して、第一に、「一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえに、そのように告白することを要求する」という点にある。何故ならば、「聖霊の働きは……ひとりの主、……神を、主としてもつ自由から」「成り立っている」からである。したがって、「真に自由たるものは、……神の僕として(Tペテロ2・16)(≪(ウ)で述べたような仕方で≫)自由である」。「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、聖霊が、われわれに対して、第二に、われわれ人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」という点にある、また第三に、われわれ人間の生来的な自然的な「理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」という点にある、また第四に、われわれ人間の「究極的限界性」、終末論的限界を告白することを要求するという点にある。
第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)である新約聖書の教会は、外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストを、「主イエス」として、すなわちご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の「神ご自身として信じる信仰を告白した」。同じように、外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊の「神性の定義」である「父ト子ヨリ出ズル御霊」の聖霊は、「聖書証言に従えば」、前述したように「神ご自身であり、全き仕方で神である」。何故ならば、「聖霊が被造物だとしたら、その時それは、われわれに対していかなる神との交わりをも仲介し得ない」からである。何故ならば、「新約聖書のキリストが、上からのあるいは下からの半神であるなら、イエスへの信仰(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事に対する啓示認識・啓示信仰≫)は、(≪「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を必要とせず、≫)一つの人間的な可能性」となるからである。その時には、「聖霊の代わりに、人間の区別する能力、判断能力が登場してくる」。また、その時には、「終始人間ノ理性ト感覚」に依存することになる、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性に依存することになる、人間の感覚と知識を内容とする経験に依存することになる、。総括的言えば、自然神学が、自然的な信仰・神学・教会の宣教が登場してくるのである。
さて、「聖霊を受けても人間は依然として人間であり、罪人は依然として罪びとであり続ける。また聖霊の注ぎの中でも神は依然として神であり続ける」。「聖霊は、人間精神と同一ではない」。聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない。「聖霊なる神は、われわれを自由にする救済主である」とは、神についての「神認識と神賛美の命題」であり、「この命題によれば」、われわれ自身は、「信仰にあって救われたもの、自由とされたもの、神の子供」である、すなわちわれわれ自身は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)にあって「救われたもの、自由とされたもの、神の子供」である。このように、「われわれの救済は、ただ神の側からして理解することができるだけである」、「われわれの救済を、神から置かれ、しかも成就され執行されたとして理解すること、それが信仰である」。そして、救済の「完成」、終末、復活されたキリストの再臨は、われわれにとって、「将来のものとして、……神の側からして……やって来るものとしてのみ理解できる」。したがって、「われわれが救済を信仰の中で持つということは、われわれは救済を約束として持つということである」。われわれは、「われわれの未来の存在を信じる。……永遠の生命を信じる」、この「未来性の中で、われわれは永遠の生を……所有する」。この「所有の確実性は……信仰の確実性である」、この「信仰の確実性とは、希望の確実性ということである」。このことは、「非本来的、非実在的ということ」を意味しない。すなわち、それは、神的な事柄、「神的成就と実行の永遠的実在」として、われわれ人間の「経験と思惟にとってまだきていないところのこと」ということを意味している。「新約聖書は、人間が召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、終末論的に語る」。何故ならば、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である「創造主が先にあり、それから被造物があるように」、「永遠性が先であり、それから(≪われわれ人間の≫)時間があり」、それ故に「未来が先であり、それから現在がある」からである。「人間は永遠の生命を生きるのではない。永遠の生命は神の、聖霊の賓辞であり、どこまでも神の、聖霊の賓辞であり続ける」。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(われわれ人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍)にとっての「いまだ」であり、神の側の真実としてある「成就と執行、永遠的実在として」「すでに」ということである。われわれ人間が現存する場所は、終末論的な「すでに」と「いまだ」における、すなわちキリストの復活と復活されたキリストの再臨までの間の中間時、聖霊の時代の中である。したがって、この中間時における人間とは、啓示の弁証法において、<すでに>「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、<いまだ>「牢獄から外に出てしまっていない状態にある人間のこと」である(『バルトとの対話』)。
「新約聖書の意味での神の子供こそ、……『わたしは(≪生来的な自然的な≫)自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)ではイエス・キリストを主と信じることもできず、近づくこともできないことを信じます』と告白する」。人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、実際的、事実的に、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」。まさに「啓示ないし和解の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「神の言葉」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、その隠蔽と顕現において、「われわれのところに来る」のである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、徹頭徹尾全面的に、「人間自身の業」ではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による、「神の言葉自身」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注出」・「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいてのみ初めて、終末論的限界の下で可能となるのである。したがってまた、その「聖霊の注出」・「聖霊の注ぎ」は、まさに神の側からやってくる恵みの賜物なのである。