7−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳324-366頁、その2-2)
7−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』「聖霊なる神」(邦訳324-366頁、その2-2)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
聖霊なる神、救済主なる神、永遠なる霊
(イ)「われわれは、生命の与え主なる聖霊を信ずの命題」も、(ア)と同じように、聖霊の「神性の定義」である。この命題は、「第二条におけるスベテノモノハ主ニヨリテ造ラレタリに相応しつつ、聖霊は父(と子)とともに創造の主体であることを指し示すことによって」、聖霊が「失われない単一性」・「神性」・永遠性を本質としていることを教えている。この点において、聖霊は、救済主であるだけでなく、和解の最後的完成が救済(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)であるという意味で「救済が和解と解消し難い相関関係」にある限り、聖霊は、「子とともに、子の霊として、また和解者であり給う」、また「父および子とともに創造主なる神でもあり給う」。この聖霊の「現臨と働き(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)は、ただ啓示の基礎(≪何故ならば、聖霊は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に関わるから≫)の上にだけ、また信仰の中でだけ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における「聖霊の注ぎ」の中でだけ≫)、認識され、告白されることができる」。
(ウ)「われわれは父と子よりいずる方、聖霊、を信ず」――この命題は、第一には、(ア)と同じように、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父と父が子として自分を自分から区別した父を<根源>とする子とを<根源>とする「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊は、いかなる被造物でもない」「神から『出てくる』ところのもの、それは再び神であることができるだけである」(それは再び自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「失われない単一性」を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であることができるだけである)ということを意味している、すなわち聖霊は「神の本質の(≪ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の≫)、一つの存在の仕方でのみあり得る」(われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方でのみあり得る)ということを意味している。したがって、第二には、外在的なその「失われない差異性」における愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊は、起源的な第一の存在の仕方である言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」(起源的な第一の形態の神の言葉)そのものである第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身に対する差異性を意味している。しかし、第一の定義から、「決して子の啓示と並んで霊の特別な、第二の啓示があるのではない」。すなわち、この両者の存在の仕方の差異性は、イエス・キリストにおける「ひとつの啓示の中で、子あるいは神の言葉は、神が(≪われわれのための神として「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において、≫)人間に向かって自分自身をさし出すという要素(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)を代表し、聖霊は神が人間によってうけとられ、自分のものとされるという要素(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的な側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)を代表している」という点にある。したがって、「ヘルマスの牧者が聖霊を神の子と呼んでいる」両者の存在の仕方における「失われない差異性」についての認識のなさと無自覚は、「全く孤立した変わった」見解である。また、自然神学の段階において、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」を語ったアウグスティヌスは、存在の類比において、「人間の魂」の中での「意志あるいは愛」が「思惟」に関係し、その「思惟」から「意志」が「出てくる」・「発出スル」ように、「霊は子からでてくる」と述べた。すなわち、アウグスティヌスは、「認識から生じてくる意志としての聖霊」を論じた。そして、アウグスティヌスは、「ワタシハ知ラナイ」という言い方で、「論議ニヨラズ、祈リヲモッテ閉じようとした」。
このアウグスティヌスに対して、バルトは、「われわれは(≪アウグスティヌスの≫)三位一体ノ像についての理論全体を受け入れることができなかった」ように、「霊に関しての問題」についても、「また、(≪その≫)三位一体ノ像……の理論全体によっては答えられない」と述べている。したがって、アウグスティヌスとは違って「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」を語るバルトは、(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した)啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を通して、次のように述べている――「ワレワレハ知ラナイ」。われわれは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「啓示の秘義」を、「神の秘義」を、「父、子、聖霊を定義することはできない」、「それらを相互に限界づけることはできない」。われわれは、ただ、その神のわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、換言すれば「ただ、啓示の中で自分自身を相互に限界づけている三つのもの(≪「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)が登場してくるということを確立しうるだけである」、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体が「登場してくるということを確立しうるだけである」、「われわれは神的な出ることと存在の仕方の事実を確立することができる」だけである、「神の啓示の中で登場してくるもの、それは、……父、子、聖霊である」。聖霊の「出ずること」は、「父と子からの聖霊の出ずることである」――聖霊は、ご自身の中での神としての三位一体の神の<起源>・<根源>としての父と父が子として自分を自分から区別した父を<根源>とする子とを<根源>とする「父ト子ヨリ出ズル御霊」である。それは、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする聖霊の定義である。この「出ずること」・「息を吹きかける」というこの概念は、「人が本質的に表現し得ないこと、人が彼の言葉でもって到達し得ないことを表現しようとする一つの試みである」、「どのように神の子が生まれるのであるか、どのように神のことばは語られるのであるか、われわれはそれを知らない」。したがって、「われわれの認識は、ただ、事実の承認あるいは受認であり得るのみである」。
さて、ご自身の中での神としての「前もってそれ自身の中での神的存在の仕方の実在」、すなわち「内在的三位一体(本質的三位一体)」(「三位相互内在性」・「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」)についての「命題全体」は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「啓示の中での神的存在の仕方(≪三つの存在の仕方≫)の実在」(客観的可視的に存在する、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)、すなわち「経綸的三位一体(啓示的三位一体)」についての命題を「確証するもの……強調するもの……あるいは内容的に……欠くことのできない前提として、明らかとなる」。したがって、三位一体の命題は、「聖書の証言にしたがって神の啓示における神の実在の中でわれわれに出会うところの」、「神の存在の仕方の相違と単一性に、あくまでもとどまらなければならないということ」を意味している、「神の存在の仕方の相違(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)と単一性(≪ご自身の中での神としての三位一体の神の内在的本質としての「失われない単一性」≫)に、あくまでもとどまらなければならないということ」を意味している。したがってまた、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に埋没していくほかないからである。
ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の「内在的」な「父ト子ヨリ」の表現は、「父と子の間の交わりの認識の表現である」。何故ならば、「ただ父の霊でのみあるのなら、その時、神と人間の間の霊の交わりは、客観的な内容と基礎」を、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事を喪失してしまうことになるからである。「聖霊は愛であり、その愛は父および子という神のこれら二つの存在の仕方の間の関係の本質である」。この「交わりの認識」は、「父と子の愛の交わり」が「啓示の中で聖霊を通してつくられるところの、神の人間との間の交わりの根拠である」(「ただ単なる知識」ではないところの信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて初めて終末論的限界の下で与えられるという)ことを意味する。それは、聖霊により授与される「賜物」である。そして、この第三の存在の仕方である聖霊(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)の認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする聖霊における「神ご自身の中での……交わり」、すなわち「神の永遠の愛が、認識されるようになる」、「すべての理性を凌駕した」、啓示の「秘義」として、「聖霊の存在の仕方(≪聖霊の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方≫)の中でのひとりの神(≪ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」≫)として認識されるようになる」。聖霊は、「啓示の中でのように、永遠においても、父と子の愛の霊であり、したがって、『父ト子ヨリ出デ』である」。内在的な「三位相互内在性」――すなわち「父、子、霊の働きの単一性」(「失われない単一性」)は、外在的なその「失われない差異性」における「三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」。これらの出来事は、神の自由事項・決定事項として、「神の中での出来事としてある」――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。「神は、永遠から自分自身の中で父でありつつ、永遠から自分自身を子として生み出す。神は、永遠から子でありつつ、永遠から、父としてご自身から生まれ出る。まさにこの永遠的な自分自身を生み出し、自分自身から生まれ出ることの中で、彼は自分自身を三度目に、……聖霊として、……神を自分自身の中で一つにする……愛として、自分自身をおく。神は、子を生み出す父でありつつ、愛の霊を生じさせる」。ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」。したがって、その区別された子は父が<根源>であり、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が<根源>である。このことは、ご自身の中での神としての内在的な自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「神の三つの存在の仕方の間の循環」、「完全な、……三位相互内在性」を、すなわち「ひとりの神の存在の仕方としての存在の仕方の三位相互内在性」を意味している。
このキリストにあっての「神は、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において≫)他者に向かっている。神は他者なしであろうと欲せず、ただ、自分を他者とともに、いや、他者の中に持ちつつ、自分自身をもとうと欲し給う」。これは、神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在なる神の完全な自由を意味している。この神は、「子とともに霊を、愛を、生じさせ、そのようにして自分自身の中で霊、愛である」・「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在(≪父なる神と子なる神の愛の霊としての第三の存在の仕方≫)であって、その逆ではない」。したがって、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間にも差異性がある。すなわち、後者のそれは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」であるということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において「第二の神的行為を遂行」したのである。この存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手≫)と言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉・子・啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、父と子は共に「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神として「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「失われない差異性」における存在の仕方の差異性を意味しているだけなのである。
先にも述べたように、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の定義は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」ということを意味しているのであって、「父と子からの霊の二重の起源を意味しているのではない」。また、「処女降誕の教義」は、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である人間の歴史的形態、イエス・キリストの名≫)人間イエスは、(≪ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の<起源>・<根源>としての父が子として自分を自分から区別した父を<根源>とする≫)神の子として、「いかなる父をももたないということ(……いかなる母ももたないように)を、言っている」。「キリストの降誕において聖霊に帰せられているところのこと」は、「処女マリアの中での人間存在」が、「神との単一性へ取り上げられる」ということである。言い換えれば、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊は愛であり、その愛は父および子という神のこれら二つの存在の仕方の間の(≪内在的な≫)交わりである」から、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神、まことの神であり、それからまた外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの人間である。内在的な「霊のこの働きは、神の子供たちにおける霊の働きにとって、原型的なものである」。外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、第二の存在の仕方である「啓示の中で、神と人間、創造主と被造物、聖なるものと罪人を(彼らが父と子供となるよう)結びつけるように、……(≪「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神としての≫)ご自身の中で、父を子と、子を父と結びつけるところの交わり、愛である」。この「神の第三の存在の仕方として、聖霊、愛が存在するということ、そのことを父と子は、共通にもっている」。聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である。
(エ)「われわれは、『父と子とともにおがみ、あがめられる』聖霊を信ず」。この最後の信条の条項も、(ア)と同じように、聖霊の「神性を定義している」。この条項は、「父が、また子が、ひとりの主であるように、また霊も一人の主である」という「第一の条項へと立ち帰らせる」。したがって、この条項の「ともに」は「『ならんで』という意味ではない」。「『とともに同時に』(中略)……父と子と『全く同じように』」という意味である。この聖霊は、外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「啓示において神(≪聖霊≫)と人間(≪聖霊によって更新された理性≫)の霊であり」、「神と人間の交わりの実現」としての、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の聖霊によって更新された人間の理性と人間の言語を用いての信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えるところの神の第三の存在の仕方である。したがって、聖霊は、徹頭徹尾、「人間精神と同一ではない」から、また「すべての造られた霊どもと違っている」から、神のその都度の自由な恵みの決断において「人間に対し内在しつつも、同時に、人間に対して超越し、あくまで超越し続け、また常に繰り返し超越するところのもの」である――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)。「義認と聖化」は、「われわれに父と子とともにおがみあがめられるべき」、「三位相互内在性」における内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする聖霊の「神的主体の行為である」。したがって、「それは、われわれの救いとなる」、ちょうど「三位相互内在性」における内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「キリストの永遠のまことの神性」が「啓示と和解を生じさせる」ように。
(『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』――了)