本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

佐藤優の宗教、神学、等々の、ほんとうの位相――余談の余談として

 さて、先ずは、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っている佐藤優の『はじめての宗教論 右巻・左巻』に対する、拙著での根本的な批判を整理しておきたいと思う。
1)佐藤の往還思想なき、一面的皮相的な形而上学的救済理解
 佐藤は、『右巻』で、「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、『左巻』では、神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と尤もらしく聞こえる言葉で根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて断定的に述べている。私たちは、この部分を全体とする往相的な一面的皮相的な形而上学的語り方には疑問符を付した方がいいのである。なぜならば、佐藤のその語り方は、一方通行的な往相的な緊急的相対的過渡的救済の課題のそれであって、他方に還相的な究極的包括的総体的永遠的救済の意識的課題を持たないからである。しかし、この佐藤とは違って、身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治は、往還思想において、全体と個との幸福・救済を考えた優れた往還思想の持ち主であった。
 もう一つ例示すれば、佐藤は、トマスの「『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば神学の概略がどうなっているか理解できるはず」だと、いかにも全部を読んだような大見得を切っているのであるが、ほんとうのところは、吉本の次のような言葉に誠実さと正直さと真実はあるだろう――@「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った」。「頭をひねりながら判読してみても、たった二、三行すら正確には判読できない」。また「ある程度以上のスピードで読める(正確に)ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない」 (『源氏物語論』筑摩書房)。A「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います」 (『幸福論』青春出版社)。
 まだあるのだ。「高等教育を受け」とわざわざ自分を差異化している佐藤は、『左巻』でも大見得を切って、恣意的にバルトの『教会救義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」と、述べているのであるが、バルト自身は、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊を、ある程度研究する必要がある」と述べている。ほんとうのところは、バルトが述べているように、1932年と1938年に現われた「『教会教義学』の最初の二冊」(邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4)を読み、「ある程度研究」して、バルトを単純にしかし根本的にそしてトータルに理解しなければ、邦訳『創造論IV』全四冊も根本的に理解できるわけがないのである。したがって、私は、バルトを単純にしかし根本的にそしてトータルに理解するために、T/1(吉永正義訳)から読みはじめた。したがってまた、私は、ここでも、感謝の念をもって、『福音と律法』を翻訳した井上良雄と同時に、『教会教義学』の最初の二冊の翻訳を完成させた吉永正義に敬意をあらわす者である。
2)佐藤の一方通行的な一面的皮相的な往相的信仰・神学・知識の在り方
 「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている教会の意識構造も、佐藤の高等教育を受けた者と受けなかった者とに分けて信仰・神学・知識の差異性を語る語り方も、まさしく未開心性として天皇制的な意識構造に通底していることについては、「日本の原像」(その2)等でも述べたので、ここでは省略する。ただ一つだけ述べておくとすれば、高等教育を受けた者には信仰にとって神学が必要であり、高等教育を受けない者は「神学がなくても信仰は成立」すると受け取ることができる語り方は、身の程知らずのとんでもない佐藤の驕りでしかないだろう、ということである。いずれにせよ、なぜ信じられないことを口にしてはいけないのか? なぜ嘘ぶる必要があるのか? この語り方は、バルトや私たちには全く理解できないことである。このように、佐藤は、宗教を語るにも、信仰を語るにも、神学を語るにも、知識を語るにも、事実と皮相的な知識の羅列において、政治屋的な調整と折衷において語るのである。言い換えれば、佐藤は、信仰、神学、知識の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、例えば信と不信、知と非知、キリスト者と非キリスト者とを根本的に架橋する、神学における思想を持たないのである。私たちは、ここで、佐藤に対して、次の言葉を置くことにしよう――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪観念の共同性を本質とする政治的なもの一切を究極的に無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか(カール・バルト『教会と国家』「キリスト者共同体と市民共同体」)。

 

 さて、佐藤の『神学部とは何か』(新教出版社)の副タイトルは「非キリスト教徒にとっての神学入門」となっている。フォイエルバッハの宗教批判やマルクスも登場するのであるが、やはり、その展開の仕方は、事実と皮相的な知識の羅列に終始している。その例示――
1)佐藤は言う――バルトの『教会教義学』のように、マルクスの『資本論』は読むに値するから、ぜひ読むべきである、と。しかし、佐藤がそこで述べていることは、皮相的な知識の羅列であって、現在の根本的な課題、現在を根本的に止揚する課題については、何も述べていないのである。また、マルクスや吉本やフーコーがいうように、国家の本質は、観念の共同的形態、共同の幻想、司牧システムが生み出す無意識の共同性にあるにもかかわらず、佐藤は、平然と皮相的知識において、国家の本質は「暴力」装置にある、と言うのである――「『国家の本質は暴力である』とレーニンもマックス・ウェバーも言ったがそれは正しい」・「国家を絶対化するのでもなく、拒否するのでもなく、国家とはあくまでも是々非々でつきあえ」(小見出し「マルクス主義とキリスト教」)。このように、佐藤は、革命の究極像の課題としてある、国家無化の思想的課題を放棄・廃棄してしまうのである。すなわち、この場合、佐藤は、皮相的な知識において、事実政治を政治の本質と考えている政治好きな政治屋でしかないのである。そしてまた、佐藤は、中国の易姓革命論についても述べているのであるが、その場合も、それが人類史的段階のどの段階に位置づけられるのかという、人類史的段階における革命概念(易姓革命と市民革命)の差異性の考察はしないのである。こういう即自的・皮相的な語り方に、佐藤の考え方・知識の本質がある、佐藤の語り方の特徴がある。
 佐藤とは全く違って、ほんとうは、こう言うべきである――マルクスの『資本論』が書かれたのは、西洋近代を頂点とする進歩史観が成立でき、資本主義も生産資本主義の段階にあった時期であること、しかし現在は西洋近代を頂点とする進歩史観は成立できず、資本主義も高度な消費資本主義段階にあること、そしてそれは行き詰まっていること、したがって次のような現在を止揚する課題がある、と。すなわち、@還相的な究極的永続的課題として、根本的に資本主義を包括し止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければ不可能であること、その可能性は、世界普遍性としてある人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的縄文的段階にまで遡及して考察し、その段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にあること、言い換えれば民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある、と。それができれば、経済社会構成体を資本制におく西洋近代を超え出て、次の段階に超出することができる、と。また、A往相的な過渡的緊急的課題としては、例えば「西武」や「電通」や「自民党の手先」であっても、優れたCM作家の優れたCMは評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた作品を創造する以外にない、と(吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』および『母型論』)。
 また、佐藤とは全くちがって、ほんとうは、こう言うべきである――マルクスにおける共同的宗教を起源とし国法を媒介とした国家の問題、すなわち宗教・法・国家(自由主義国家・政治的近代国家)の問題は、@プロイセン神聖国家においては、国家の問題は、キリスト教とユダヤ教の宗教対立が問題である。すなわちユダヤ人問題としてある。ユダヤ人は、キリスト教を宗教とする国家に対して、宗教的対立の中にあるからである。したがって、この国家の段階では国家の問題は、宗教的対立の問題として、政治的近代国家の問題とはなってはいない。Aそれに対してフランス立憲国家は、政治的近代国家への途上にあるキリスト教国家である。この段階での国家の問題は、天上の問題、宗教の問題、すなわち信教の自由という憲法(国法)の問題として、人間の観念的政治的法的部分的解放の問題であり、宗教的対立の問題と政治的法的対立の問題が併存している。Bまたそれに対して北アメリカ自由主義国家は、政治的法的に信教の自由が保証された政治的近代国家である。この段階において、国家の問題は、現世的問題、すなわち政治的近代国家の批判の問題となる。なぜならば、人間は社会的現実的に自由でなくても・解放されていなくても、観念の共同性・共同幻想である国家は自由主義国家であり得るからである。その場合、人間は恣意的に自由であり得るだけである。また、人間は、経済的社会的な不平等や格差があっても、法的には平等であり得る。このように完成された政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる。人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中で、その社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な共同的観念・法的制度によって現実的社会的諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時、人間は現実的社会的にと観念的政治的にとの二重の生活を強いられる。言い換えれば、具体的に私人として、市民社会の精神である「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのないような法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられる。完成された政治的近代国家は、人間の物質的生活に対する人間の類的生活(逆立した観念の共同性における観念的生活)を本質とする。宗教は、政治的共同体がまだ整備されていない段階では、自己を至上のもの(価値・第一義性)と考える人間の自己意識の表象であるが、政治的共同体が整備された近代国家では、宗教は、法(逆立した観念の共同性)を至上物と考える人間の自己意識の表象となって現われる。この完成された政治的近代国家における国家の問題は、観念の共同的形態である国家と個別的私的現実的生活の場である市民社会との問題として現われる。したがって、ここで、国家の問題は、人間の社会的現実的総体的永続的な解放の問題として現われる。すなわち、それは、一切の価値・第一義性を、対自的であって対他的でもある現実的な個の現存に自己還帰させる問題として、そしてその個を媒介とした社会の構成の問題として現れる。この国家の無化を伴う人間の社会的現実的な解放の問題は、思想にとって還相的な究極的総体的永続的課題である(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。
 もう少し、書いておこう。支配の側の制度としての官僚(法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体)・政治家・資本家は、諸個人の現実的な家族や市民社会の生活過程を決して第一義とはしない。なぜならば、彼らは、市民社会内部の官僚制・個別的な職業的人間の職能団体・部分的共同意志を媒介とするからである。言い換えれば、支配(法・政治的国家)の本質は、大多数の被支配としての一般大衆を逆立した鏡とする観念の共同性にある。なぜならば、ほんとうは第一義性・価値は、法・政治的国家を疎外したこちら側にあるにもかかわらず、その観念を自己還帰させることができない分だけ、第一義性・価値を、自らが疎外した法・政治的国家の側に移行させてしまうからである。また、思想にとっての価値としての社会的存在の自然基底である大衆原像、すなわち大衆の時代的水準(大衆像)とその大衆的課題をその知識やその知識集団の共同性がその還相過程において意識的に繰り込まない場合、いわばその知識や共同性が大衆から閉じられ遊離していく場合、その知識や共同性は、国家の共同性と同じように、書かれた歴史には登場しない大多数の生活者大衆を、騙し、裏切り、惑わし、扇動し、困窮させ、死なせる悪しき党派性や党派思想や党派的共同性を構成していくことになる。このとき、そうした大衆から閉じられ遊離した知識や知識的集団の共同性やメディアは、国家の共同性としてある法(的言語)や政策(的言語)を媒介として、観念の共同性を本質とする国家に加担していくことになる。具体的事例でいえば、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は徹頭徹尾全面的に制度としての官僚・政治家、すなわち事実的国家・実体的国家としての<政府>支配上層にあるにもかかわらず、知識人やその共同性やメディアは、その支配上層の責任に対する徹底的な追及はしないで、その責任があたかも一般大衆・一般市民にあるかのようにして責任転嫁し、消費税増税必要論(政策的言語あるいは法的言語)を媒介として、観念の共同性を本質とする国家に加担した。したがって、彼らは、そうした消費税増税は本末転倒もはなはだしい、と最も正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしも、片隅に追いやってしまった。これらの事態は、知識人やその共同性やメディアのベクトルが、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の全体の幸福に向いていないことの証左なのである。したがって、吉本も述べているように、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることはしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて自立した生活思想を構成し、そしてあくまでもその自らの生活実感と自立した生活思想によって、責任転嫁のはなはだしい支配上層の制度としての官僚・政治家・資本家に対して、またそうした国家に政策的言語(知識)や法的言語(知識)を媒介として加担していく知識人やメディアに対して、徹底した断固たる抗議の発言と行動をとる方がいいのである。
 さて、佐藤が、「『国家の本質は暴力である』とレーニンもマックス・ウェバーも言ったがそれは正しい」・国家の本質は「暴力」装置にある、と述べていることは先述した。しかし、これでは、何も言わないと同じである。このことで、佐藤は、外在的な事実的国家・実体的国家である、レーニンの官僚機構・軍事機構(暴力装置)としての国家――レーニンは、『国家と革命』で、経済決定論に基づいて、国家は、「帝国主義時代」に対応した「官僚的および軍事的装置」・「組織」・「中央集権的な権力組織、暴力組織」である国家権力として、成長し・強化される、したがって、「これまでの革命はすべて」、そうした国家機構を完成させてきたのであるが、「いまや国家機構を粉砕し……なければならない」、と述べている。このことから、プロレタリア前衛組織論が提起される――と、マックス・ウェバーの支配の正当性の理念類型における第一義性・価値性としての法を媒介とした服従と支配の依法的支配の正当性の概念に基づく近代官僚制国家――ミシェル・フーコーの言い方でいえば、西欧の外在的な理性国家(慣習、伝統、理性的認識を含む規則に従う「統治」技法)、というように言えるであろう――のことについて述べているのであろうが、その佐藤は、観念の共同性を本質とする国家の内的本質について全く理解しておらず、そのことについて全く無自覚なのである。したがって、佐藤は、事実と皮相的知識の羅列において、「国家を絶対化するのでもなく、拒否するのでもなく、国家とはあくまでも是々非々でつきあえ」と述べるわけだし、また後述するボンヘッハー等を評価するのである。そのヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの神学的実存の在り方は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」、という点にある。しかも、そのボンヘッファーの信仰・神学のベクトルは、この世における、キリストの許しの下での、人間と神との「共働」論に基づいた、キリストを範型(そう恣意的に思惟する人間の管理するプログラムを範型)とした事実的「行為」、イエスへの従順的な服従(そう恣意的に思惟する人間の管理するプログラムへの従順的な服従)という事実的「行為」、「正義」(そう恣意的に思惟する人間の管理するプログラムにおける「正義」)を体現する事実的「行為」にあった。そして、ボンヘッファーのそのイエスへの従順な服従行為は、彼にそう映ったところの、その事実的国家・実体的国家の象徴としての<ヒトラー>暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践にあった。このような、権力を事実的・実体的に考えていたボンヘッファーの権力闘争が成功しないことは、その最初から明らかなことであった。そのボンヘッハーの神学的実存は、バルトが言うように、全く無駄骨折りに終わること・全く徒労に終わることは、その最初から明らかなことであった。また、たとえそれが成功したとしても、それは、結局は新たな権力の構成でもって終わってしまうものでしかなかった。なぜならば、権力は実体ではないからである。例えば、フーコーにとっても、権力は実体ではなかった。それは、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」である。すなわちそれは、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態である。言わば、それは、権力的、強制的、弾圧的にではなく、司牧システムが生み出す無意識の共同性によって、その権力的在り方に服属させられる関係性のことである。したがって、ほんとうはこう言うべきである――吉本が述べているように、国家の暴力(暴力組織・暴力装置)に対しては暴力で、国家の理念(観念の共同的形態・共同幻想)に対しては理念(観念を本質とする思想)で、ということを、原則とすべきなのである。しかし、佐藤やボンヘッハーは、国家を一方通行的に皮相的に考えており、後者の課題については全く無理解であり無自覚なのである。いずれにせよ、革命における思想を持たず・革命の究極像を保持し自覚しない、佐藤や彼の評価するボンヘッハーのその思考・その実践は、革命の還相的課題としての、国家・政治的権力の無化を伴う人間の社会的現実的な解放という究極的総体的永続的な救済を、決してもたらすものでは全くないのである。また、民族国家が軍事部門を構成し一部上層の意思によって戦争が行われ得るという意味で、現在のところ戦争の可能性はあるのであり、もし私たちが本当の意味で、戦争が起こらないように決意したならば、その戦争無化の可能性である民族国家を包括し止揚し得る革命像の構築を必要とするから、そうした革命像を保持し自覚しない佐藤やボンヘッハーのその思考・その実践は、決して平和をもたらすものでも全くないのである。それに対して、バルトの場合は、神の側の真実である神性を本質とするイエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する説教や宣教の繰り返しの言葉が、「おのずから」、状況に抗する神学的実存へと駆り立てて行く、というものであった。すなわち、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実としてのみある、全人間・全世界・全人類の、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)を、言わば「イエスの信仰」の主格的属格理解(啓示の客観的現実性)を、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成に置いたバルトの場合は、そしてあくまでもそれを神学的実存の根拠・原動力としたバルトの場合は、ステパノの殉教の本質も、その苦難の「行為」にはなく、その福音にのみ信頼し固執する「言葉」にあったのである(『教会―活ける主の活ける教団』「証人としてのキリスト者」)。このバルトの在り方は、後述する「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」、という位相のものである。したがって、往還思想を保持したバルトやマルクスは、一方通行的で外在的で皮相的な佐藤や、彼が評価するボンヘッハーとは、その思想の質が全く違う位相にあるものなのである。

 

2)佐藤は、宗教や神学を語る場合も、事実と皮相的な知識の羅列に終始している。佐藤も、フォイエルバッハの宗教批判について論じているのであるが、フォイエルバッハの宗教批判の対象が、自然神学の系譜に属する<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教であることについて、全く理解していないのである(小見出し「信仰のない神学はありえない」)。また、佐藤は、ヘーゲルの人間に内在する神的本質を継承したヘーゲル主義者シュライエルマッハーをバルトが批判的に問題としたことを述べているのであるが、その正当性のある根本的な宗教批判を、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において包括し止揚すべき課題については述べないのである。ここでも、皮相的な知識の羅列で終わっている(小見出し「カール・バルト」)。そしてまた、佐藤は、小見出し「非キリスト教徒の神学は可能か」で、尤もらしく、「マルクスやフォイエルバッハの神学を非キリスト教徒の神学と認めることができる」・「ただし、非キリスト教徒の神学は、逆説であり、反転している。もう一度それを反転するとまっすぐな神学になる」、と言い切っている。しかし、これでは、何も言わないのと同じである。なぜならば、このような言い方では、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである自然神学の系譜に属する<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚して、そこからバルトのような「超自然」な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に超出することはできないからである。ここにも、皮相的な知識を羅列する語り方という、佐藤の特徴があらわれている。問題は、このことだけではない。佐藤には、こうした論理展開の問題以前に、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせた概念の使用の問題があるのである。それは、フォイエルバッハやマルクスの学は、純粋な人間学であるにもかかわらず、臆面もなく平然と、大見得を切って、言い切る形で、断定的に、彼らの学は「非キリスト教徒の神学」だ、と述べてしまう佐藤の使用する根本的な概念的誤謬の問題である。すなわち、佐藤の語り方には、論理展開の問題と概念的誤謬があるのである。ほんとうは、佐藤とは全く違って、正直に誠実に真実なことを語るとすれば、例えば、科学<主義>・科学<至上主義>は近代以降の<宗教>的形態であるという言い方は可能であるが、しかし、科学そのものは宗教ではなく人間学そのものの〈一つ〉であり、またフォイエルバッハやマルクスの哲学・学問も神学ではなく、まさしく自由な人間の自己意識の無限性の営みである広義の人間学の<一分野>としての哲学・学問、なのである。自由な自己意識を持った人間の精神的意識的な普遍的類的活動としての人間学の対象は、自然としての、自己や他者の<身体>であり、環界としての天然自然であり人間的自然である。したがって、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである、自然神学の系譜に属する信仰・神学・キリスト教も、その本質は、自己還帰しない人間の自己意識の類的本質そのものなのである。そして、マルクスの場合は、その自己意識における宗教の在り方・宗教性に対する批判は、法・政治的な近代国家そのものに対する批判としてあった、ということになるのである。このことからすれば、佐藤の語り方の特徴は、論理展開の問題と概念的誤謬を温存させたまま語る、また<主義>化して語る、語り方にあると言うことができる。また、7)でも指摘するのであるが、佐藤の語り方の特徴は、党派<主義>的に語る点にもある、と言うことができる。ここで、もう一言述べておくとすれば、前述したことにも関係しているのであるが、民族国家・政治的近代国家の過渡的課題と究極的な国家無化のヴィジョンを持たないところの平和<主義>・平和<至上主義>も、単なる宗教でしかない、と言うことである――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪民族国家・政治的近代国家が存在する限り、<不可避>なものとして≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」・「ボンヘッファーとその友人たちは、そのあとに(≪ヒトラー暗殺計画後に≫)何が起こるかについては明らかではなかった。あとの計画が具体的ではなかった。明瞭な積極的な立場がなかった。……実際的な可能性についての明らかなヴィジョンが欠けていた。彼らは夢想家だった」(『バルトとの対話』)。
 フォイエルバッハの正当性のある根本的な宗教批判を包括し止揚すべき神学における思想の課題を理解できない佐藤は、小見出し「日本人にとってのキリスト教神学」で、「神学は哲学から最も遠い学である。神学は哲学的な推論の仕方などを道具として使うことができる。しかし、神学の出発点を哲学に置くことはできない」・「哲学は神学の婢」として「哲学は神学にとっての補助学」である、と述べてしまうのである。したがって、ブルトマンのように前期ハイデッガーの哲学的原理・「哲学的な推論の仕方」を第一次化して「道具として使う」場合、そのこと自体が、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものに、またハイデッガーが揶揄し批判した「存在者レベルでの神」そのものやその「神への信仰」に、直通していくということが、佐藤には理解できないのである。したがってまた、その場合、その神学は、人間学の後追い知識として、すなわちフォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとして、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な人間学的神学としかならないのである。この佐藤の錯誤性は、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健と同じように、状況論なき思想なきその停滞した中世的思考にある、と言うことができるのである。
 フォイエルバッハは、次のように述べている。

 

  人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる。(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)
  もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である。 (前掲書)
  神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の無限性の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない。(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)
  人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である。(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)
  (中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。 (前掲書)
  (中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」……。(同書)

 

 フォイエルバッハによれば、自然神学の系譜に属する<全>宗教・キリスト教の意識は、自由な自己意識の無限性という人間の本質を、先ず以て神・無限者・至上のものとして外化するのであるが、その場合、自己意識にとっては、神が「第一義」性として自己意識の中に還ってくるから、それを外化した人間は「第二義」性となる。したがって、その場合、神は、「無限者であるとともに人間であるという両義性としてあらわれる」。それに対して、芸術の意識は、自由な自己意識の無限性という人間の本質を、神・無限者・至上のものとして外化せず、あくまでも「人間の現実的な本質を至上物として考える意識」が芸術「作品」として「外化」され、「それがふたたび自己意識」の中に還ってくるから、「あくまでも自己を至上のものとする意識の幻想性として一義性」に本質がある。すなわち、この場合、自然神学の系譜に属する<全>宗教・キリスト教の意識のような「両義性は存在しない」(吉本『カール・マルクス』)。 
 バルトは、次のように述べている――ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。なぜならば、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われるからである。この場合、啓示は、人間の直接的で理性的な自己認識と混淆されてしまう。したがって、バルトは、ヘーゲルにおけるその神・啓示は、人間の自由な自己意識の無限性が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と言うのである。バルトは、別にヘーゲル哲学が観念論だから、「受け入れ難く耐え難い」と言っているのではない。バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にある(したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、「自由、主権」は、神自身においてのみ「実在であり真理である」という概念を置くのである)。ヘーゲル哲学のその認識方法および概念構成は、神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づいた人間中心主義的な存在の類比にある。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。また、シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」、と言う。そしてまた、シュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。このように、神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。したがって、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の無限性・類的本質、意味的世界、世界観、自分自身が管理する恣意的なプログラム、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判である(『教会教義学 神の言葉』)。

 

  (≪神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまった、神と人間との混淆論・共働論において、人間の自己意識によって対象化された存在者、神、その神への信仰は≫)、……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を転倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……。(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」)
  市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の無神性は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである。……神と人間を同一視する神学(中略)「人間の中なる神について」の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。われわれは、かれと共に「その世紀の忠実な子」なのである。(前掲書)

 

3)佐藤は、小見出し「それでも神学は『役に立つ』」・「神学と人文社会科学との関係」で、神学の<実用性>について述べ、人間は死に直面し「自分の人生は何だったのか」と考えるとき、神学は「役に立つ」、と述べている。日本のキリスト教界の中でもてはやされているという自然神学的なキリスト教的著述家の、このような佐藤の薄ぺらで皮相的な知識の言葉は、比較すること自体その最初から無理があるのであるが、次のような親鸞論における梅原猛や吉本隆明の考え方・知識・思想・言葉と比較考量する時、佐藤のその質の低さは一目瞭然であり、明瞭となる。@梅原猛――親鸞は、恵心僧都源信以来の「死者の救済者」としての阿弥陀仏と、源信以来もっとも尊重された『観無量寿経』をしりぞけた。「『阿弥陀経』もあまり著書に引用していない」。すなわち、親鸞は、「正定聚」の境位の世界を重視した。「生者のための仏」・阿弥陀仏を重視した――「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終をまつことなしに、来迎をたのむことなし。信心のさだまるとき、往生また、さだまるなり。来迎の儀式をまたず。正念というのは、本弘誓願の信楽さだまるをいうなり。この信心をうるゆえに、かならず無常涅槃にいたるなり。この信心を一心という」(『末燈鈔』)。また、親鸞は、『大無量寿経』を中心的経典に置いた。すなわち、「本当の阿弥陀仏は、死においてではなく、生においてわれわれに語りかけてくる阿弥陀仏」である。したがって、「死においてわれわれの前にあらわれてくる阿弥陀仏」は、「真の阿弥陀仏の化身」である(『地獄の思想 日本精神の一系譜』)。A吉本隆明――親鸞にとって往相過程と還相過程を構造化し得る場所は、浄土と現世の中間、死後の浄土――この「真の〈悟り〉の世界」・浄土は、人間の意識が喜怒哀楽もない生死もない「無機物に移行したときの意識状態にいちばんよく似ている」――に対して現世における「化身土」・「仮仏土」へ移行したところにある「正定聚」の境位の世界にあった。この「正定聚」の世界は、「真仏土(阿弥陀仏の西方浄土)」・罪や穢れのない清浄な「真の〈悟り〉の世界」ではないが、そこへの入り口としての仮の仏土の世界・仏になり得る資格を有した世界である。またその世界は、生と死の「中間」の場所で、「生の方も照らし出せるし、死の方も照らし出せる場所」である。浄土が見えて、現世も見える「死の場所」である。また、親鸞にとって真実の信仰とは、一切の自力の計らいを為すことなく、「阿弥陀如来の光の中に」包摂され、そしてその「光の中に包まれたときに」、阿弥陀仏の「五却思惟の願」における第十八願が遂げられるところにある。ここに、形も色もなく「無」である阿弥陀仏の方からやって来る「信楽」がある。ここに、親鸞の最後の思想の「自然法爾」がある。それは、「おのずから」「弥陀の本願の光明」(無碍光)に包まれて称名念仏を為し得る場所である、ということになる。一念義でも、阿弥陀仏の「おのずからの計らいでみな浄土へ往生できる(『大無量寿経』)」。第十八願の信仰は、不可避的に、「向こうから来るという形でしか……成り立たない」。すなわち、それは、人間が意志してもたらすことはできない(『吉本隆明全仏教論集成』「親鸞について」・「親鸞の教理ついて」春秋社、『未来の親鸞』春秋社、『今に生きる親鸞』講談社、『最後の親鸞』春秋社、『親鸞復興』春秋社、『日本の原像』)。Bカール・バルト――神性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する。したがってまた、その神の側の真実である神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示(啓示の客観的現実性)の場所は、自然神学的な神学や教会の宣教やキリスト教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」こと等々が見渡せる場所でもあるのだ。言い換えれば、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、ということである。

 

4)佐藤は、小見出し「神学論争は積み重ねられない」で、「学問はたいてい議論の積み重ねによって進歩する。しかし、神学論争の場合は積み重ねで議論されないことが多い」。言い切りの形で尤もらしく述べられている佐藤のこの言葉は、ほんとうのところは曖昧な言葉なのである。すなわち、ほんとうのところは、次のように言うべきなのである――先ず、自然史の一部である人類史における自然史的過程にかかわる科学や技術やそれにまつわる学問・知識等は進歩発展を基調としている、と。しかし、それ以外は、学問もその本質が観念である以上、退化もあり得る、と。なぜならば、近代主義を骨肉にまで受け入れた人物であっても、未開心性を温存させていることはあるからである。また、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)。この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は言語、性(夫婦・家族)の概念に置き換え可能である。人は、ある歴史的現存生の中に生誕し、その環境の中で生き生活し思惟し喜怒哀楽し時代を刻み、人間の類(人類)の歴史の継起として死んでいく。この意味でオリジナルな思想というものはあり得ないのである。したがって、思想も、先行する世界思想を包括し止揚するという形でしか、現在から未来に生きることはできない。したがってまた、バルトも、不可避的に、啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に連帯するのである。このことをバルトの言葉に即して言えば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということである(『教会教義学 神の言葉』)。このことは、オリジナルな神学思想というものはない、ということである。したがって、「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトは、一方で、啓示の「概念の実在」(類・歴史性)を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(《客観的な信仰告白と教義》)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、それと連帯したのである(『啓示・教会・神学』)。また他方で、バルトは、現実と時代から強いられて、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んだのである。したがって、バルトは、神の言葉は、三位一体論の唯一の類比(啓示の類比)としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリストの名(啓示の客観的現実性)=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)においてある、と述べるのである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

5)佐藤は、小見出し「『教会の学としての神学』か『公共神学か』」で、神学は教会の学か、公共の学という議論があるが、「公共性の神学を主張する人は、思考が不十分であるか、不誠実であるか、双方」であるかのいずれかだ、なぜなら、公共性の場で行うのは、「宗教学」や「宗教社会学」や「宗教哲学」だからだ、と言うのである。佐藤は、ここでも、言い切りの形で断定的に、両者をその外在的な場所性で規定しているのであるが、大体、神学は公共圏のものか教会圏のものか、という論理の立て方自体がおかしいのである。ここでも、佐藤のその思惟の在り方は外在的で皮相的なのだ、その思惟には思想が全くないのだ。言い換えれば、佐藤とは全く違って、本質的に重要なことは、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、信を、知を、キリスト教(者)を、そのあるがままの、不信に対して、非知に対して、非キリスト教(者)に対して、完全に開いているか、あるいは、信が、知が、キリスト教(者)が、そのあるがままの、不信に対して、非知に対して、非キリスト教(者)に対して、完全に開かれているか、という点にあるのである。この信と不信、知と非知、キリスト教(者)と非キリスト教(者)との架橋に、神学における思想の問題はあるのである。
 馬鹿馬鹿しくて疲れてきたが、もう少し頑張ろう。小見出し「フロマートカ――私の卒業論文と修士論文」で、「バルトは神の前における人間の自己批判をということを真剣に考えた。しかし、人間は神の前にあるとともに、周りには隣人である人間たちがいるわけである。キリスト教徒には、非キリスト教徒たちを前にして本来の自分たちが果たしていなかったのではないかという自己反省、自己批判が不可欠だ。こう考えたのがボンヘッハーであり、フロマートカなのである」。ここでも、私たちには、佐藤は、ほんとうにバルトを読んだのかね、という疑念が湧いてくると同時、佐藤はほんとうはバルトを根本的に全く理解でき得ていないな、ということが分かってくる。それと同じように、佐藤は、フォイエルバッハもマルクスもほんとうは根本的に理解でき得ていないのだな、ということが分かってくる。「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」。このマルクスは、「ただ労働者への実行をよびかける活動こそ重要だというもっともらしいことをいう<目覚めた労働者>の使徒」に対して、「はっきりした基盤のうえにたたず労働者を扇動することは、馬鹿げた使徒と、それにききいる馬鹿げたロバをつくりだすだけだ」・「無知が役にたったためしはない」、と述べた(吉本隆明『思想家論』「カール・マルクス」)。佐藤は人間の救済、革命像の問題においても、往相的な緊急的相対的過渡的救済の課題だけを述べて、還相的な究極的包括的総体的永遠的救済の課題を持たないのである。したがって、佐藤は、革命の究極像としての国家を無化する課題も放棄し持たないのである。にもかかわらず、臆面もなく平然と、尤もらしく、「周りには隣人である人間たちがいるわけである。キリスト教徒には、非キリスト教徒たちを前にして本来の自分たちが果たしていなかったのではないかという自己反省、自己批判が不可欠だ」、と皮相的な知識を駆使して述べるのである。したがって、佐藤は、口先で「自己反省、自己批判が不可欠だ」と言いながら、人間の社会的現実的総体的永続的解放という思想的課題、還相的課題、革命の究極像としての国家を無化するという思想的課題も放棄し持たないのである。また、純粋に神学における思想の問題で言えば、全人間・全世界・全人類の救済・平和という神学における思想の課題、すなわち神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)である「イエスの信仰」の主格的属格(啓示の客観的現実性)理解を放棄し持たないのである。このように、佐藤は、純粋な、人間学的領域においても、神学的領域においても、思想を持たないのである。
 吉本隆明も、マルクスも、フーコーも、宮沢賢治等も、往還<思想>を持っていた。神学における思想家であるバルトも、持っていた――信が、知が、キリスト教(者)が、不信を、非知を、非キリスト教(者)を、そのあるがままに完全に包括できるためには、あるいは信を、知を、キリスト教(者)を、不信に対して、非知に対して、非キリスト教(者)に対して、完全に開くためには、バルトのように、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格を、神の側の真実としてのみ、神性を本質とする「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」としてのみ、すなわち主格的属格としてのみ認識し・信仰し・理解し・神学し・思想する以外にはないのである。バルトにとっては、ここに、現実と時代から強いられた神学における思想の課題があった。このことに、自覚的であったのは、神学における思想家、バルトだけだった。バルトは語る――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造におけるそれ(啓示の客観的現実性)であり、「新しい世」のはじまりである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、@「私がその人をその中に置くことによってではなく」、A「イエス・キリスト自身が(≪神性を本質とするイエス・キリスト自身が≫)、すでにその人をその中に(≪神の側の真実であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性の中に≫)置いてい給うことによってである」(『教会―活ける主の活ける教団』「証人としてのキリスト者」)。バルトにとって、神性を本質とするイエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、神の側の真実(啓示の客観的現実性)として、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から全く「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、そのあるがままの不信・非知・非キリスト教(者)に対して、全人間・全世界・全人類に対して、完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1「和解論の対象と問題」』)。

 

6)馬鹿馬鹿しくなるのだが、まだあるのだ。佐藤は、小見出し「神学書との出会い」で、『カール・バルト著作集』と『教会教義学』を「一生懸命読んだ」と書き、小見出し「カール・バルト」では、「私の希望は、本書を読んでおられる読者に、ぜひ『教会教義学』に取り組んでいただきたい」・「バルトという神学者は面白いし」、「役に立つ」・実用性がある、と述べているのであるが、出鱈目さもここまでくると、佐藤はほんとうにバルトを読んだのかね・どういう読み方をしたのかね、佐藤はほんとうにフォイエルバッハやマルクスを読んだのかね・どういう読み方をしたのかね、と言いたくなる。ここまでくると、大言壮語する佐藤のバルトやフォイエルバッハやマルクス読みの発言は、私には眉唾ものに思えてくる。この根拠のある、これと同じ思いと実感は、自然神学的なキリスト教的著述家・富岡幸一郎に対してもある。バルトを論じているにもかかわらず、冨岡は、臆面もなく、平然と、高校の倫理レベルで、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・アクィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と述べている(『使徒的人間――カール・バルト』)。しかし、バルトは、そのようには述べていない。すなわち、バルトにとっては、アウグスティヌスもトマスもルターもシュライエルマッハーもブルトマン等も、またローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義やアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した近代主義的プロテスタント主義の神学とその宣教も、すべて自然神学の系譜に属するそれなのである。このことは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べたバルト自身の言葉から明かなことである(『カール・バルト著作集12』「カント」)。また、バルトは、次のようにも述べている――「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」(存在の類比)に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、根本的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を媒介しない、ただ単なる人間の自己意識によって対象化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない、と。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」自然神学的な神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学の位相にあるものである、と。「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する(神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定を欲する)。このように、アウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にある。啓示は「啓示に固有な証明能力」を持っているから、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である(『教会教義学 神の言葉』)。しかし、富岡は、臆面もなく、大見得を切って、「あとがき」で、「本書が未来の思想に関与することができればと願う」と書いている。この富岡に対して、私たちは、はっきりと、次のように言うことができる――この富岡の本が「思想」として現在から未来に生きることは決してできはしない、と。すなわち、その本は、自然時空に死語化していく以外にない、と。なぜならば、富岡は、瑣末な誤謬ではなく、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語っているだけだからである。

 

7)佐藤は、「自分と異なる見解を排除するというのではなく、むしろ、神学は自らの教派的出自にとらわれるものなのだ。そういう考え方に踏みとどまる人たちがまっとうな神学者なのである」、と党派性・党派思想・党派的共同性を認めている。佐藤は、党派主義的多元主義者、と言ってもいい。いずれにせよ、ここでも、佐藤は、神学おける思想の問題に対して、全く無自覚である。なぜならば、佐藤は、その知識・その共同性において、党派的思想・党派主義・党派的共同性を包括し止揚して、そこから超出していくという思想の課題を放棄し持たないからである。ここでも、バルトをよく読んだという佐藤は、バルト読みのバルト知らずという実姿をさらけ出している。ほんとうは、吉本の言うように、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であるのである(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。バルトも、次のように述べている――「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・宗派・教派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

8)自由、人権、民主主義、観念の共同性を本質とする政治的近代国家・民族国家という近代的な概念は、自然神学的な「キリスト教という宗教の産物」であり・「神のアナロジー」であり、その意味でそのキリスト教は「世俗的な価値の起源」である、と橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』は書いている。このことは、それが自然神学の系譜に属するキリスト教を対象としているという意味では、正当性があるのである。また、佐藤は、「神学のない信仰は危険である」と書いているが、その佐藤の言う神・神学は、まさしく、橋爪の言う自然神学の系譜に属する<キリスト教>の神・神学なのである。なぜならば、自然神学の系譜に属する佐藤の神・神学は、佐藤の対象化された自己意識の意味的世界や佐藤の管理するプログラムとしての神(フォイエルバッハ)・「存在者レベルでの神」(ハイデッガー)・その神への信仰・神学でしかないからである。また、佐藤は、「インテリジェンス」は、「行間を読む」「営みだ」、「動物」や「人間」や「国家」が「生き残っていくために必要な事柄と結びついた能力ということ」だ、と述べている。言い換えれば、佐藤は、彼の書いていることに即して言えば、事実と皮相的な知識の羅列が、「インテリジェンス」だと言っているのである。すなわち、このように、大見得を切る佐藤の言う「インテリジェンス」とは、これまで述べてきたような位相のものに過ぎないのである。
 私は、これで、近くの図書館で借りて、佐藤の本を3冊読んだことになるが、いつも実感することは、佐藤の本を読んでみても、それは、神学としても、人間学としても、私の心に響いてくるものが何もない、ということである。まさしく「トカトントン」(太宰)なのである。やはり、佐藤の本を読むくらいなら、純粋な人間学的領域に属する、吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の本を読み、その言葉や言説に耳を傾けた方がいいのである。なぜならば、その方が、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な解放も慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できるからである。神学においては、私にとっては、バルトの神学のみがそういうものとしてある。私にとっては先ず以て、『福音と律法』は、全人間・全世界・全人類の、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)、すなわちバルト神学の核・原理である主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示の客観的現実性)を、自分自身に関わるものとして実感し認識し信仰し神学し思想することができるようにさせてくれる、神学書であって説教であり、説教であって神学書である。この『福音と律法』の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」という、訳者「あとがき」の優れた文芸批評家でもあった井上良雄の言葉はほんとうのことなのである。

 

9)佐藤は、「日本の牧師はあまり神学的訓練を受けていないし、コイネー・ギリシャ語をどれだけ読めているか怪しい」とも述べている。私に言わせれば、佐藤は、ほんとうに、バルトを読んでいるのかね、と言いたい。なぜならば、佐藤の本はどう読んでみても、バルトを単純にしかし根本的にそしてトータルに理解しているとは思えないからである。したがって、佐藤も、富岡も、大見得を切ることはやめた方がいいのである。私たちは誰であれ皆、高が知れた、ただの人間なのだ。この自覚が必要なのだ、この自覚が大切なのだ。終末論的限界を自覚することが必要であり大切なのだ。しかし、事実と皮相的な知識の羅列に終始している佐藤に、「日本の牧師はあまり神学的訓練を受けていないし、コイネー・ギリシャ語をどれだけ読めているか怪しい」と言われながら、そのように揶揄? 批判? をされながら、どうして、その牧師たちは、佐藤を根本的に批判しないのだろうか? その牧師たちは、どうして、そのような皮相的な知識の持ち主の佐藤を招いてまでその皮相的な知識の講演を拝聴するのだろうか? その牧師たちは、そのような佐藤の講演など拝聴しないで、たとえ拙くとも、どうして、自分自身で、徹底的に、「レンガを積み上げるように」、地道に、バルトを読み研究しないのだろうか? 時流や時勢に同化したり、軽率な明るさを求める前に、どうしてそうしないのだろうか? 私たちには、このことも、不思議でしょうがないことである!!

 

10)今、私は後悔している。なぜならば、時間を無駄に費やしてしまった、と思えるからである。すなわち、この時間を、たとえ拙くとも、バルトの『教会教義学U/1 神の言葉 中 言葉の受肉』――イエス・キリスト(その4 啓示の時間 神の時間とわれわれの時間)の読書と整理に費やすべきだった、と思えるからである。私は、拙著で、佐藤優の『はじめての宗教論 右巻・左巻』を論じたが、その場合、私は、身銭を切ってその本を購入して読んだわけではない。近くの図書館で借りて読んだのである。今回論じた『神学部とは何か』(サブタイトル「非キリスト教徒にとっての神学入門」)も、近くの図書館でタダで借りたものである。私の場合、その理由は簡単であって、それは、佐藤優の本を買うよりは、そのために身銭を切るくらいなら「甘(うま)いもの」を食べた方がいいからである。