本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、神学・知識の課題(3−3)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

2)佐藤は、『右巻』で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、『左巻』では神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と尤もらしく聞こえる言葉で根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて断定的に述べています。私たちは、この部分を全体とする往相的な一面的形而上学的語り方には疑問符を付した方がいいのです。なぜなら、佐藤のその語り方は、往相的な緊急的相対的過渡的救済の課題のそれであって、還相的な究極的包括的総体的永遠的救済の課題を持たないからです。しかし、この佐藤とは違って、身近な農民の幸福のために身も心も尽くした宮沢賢治は、思想の往還において、全体と個との幸福・救済を考えた優れた思想家でもありました。純粋な革命の問題から言っても、政治的な観念的法的部分的な解放(往相的緊急的相対的過渡的課題)と、国家の無化を射程に入れた社会的な現実的人間的総体的な解放(還相的究極的総体的永続的課題)との構造において扱う必要があるでしょう。したがって、私たちは、宮沢賢治の根本的で良質な言葉の方に耳を傾けた方がいいことは当然でしょう。もう一つ例示すれば、佐藤は、トマスの「『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば神学の概略がどうなっているか理解できるはず」だ、と述べています。この佐藤の語り方も、救済の問題と同じように往相的な語り方であって、佐藤が神学・知識の課題を、往相的な信・知の上昇過程・「上から目線」(『ふしぎなキリスト教』)でしか考えていないことの証左なのです。すなわち、ここでも、佐藤は、その自然神学的な人間学的神学の神学的領域においても・人間学的領域においても、往還思想を持たないのです。
 バルトは、救済の課題について、次のように語っています――神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性こそが、神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)である、と。したがって、そこにのみ、徹頭徹尾全面的に、全人間・全世界・全人類の救済と平和がある、と。したがってまた、そこにのみ、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』とかの課題に対する唯一の解決の方途がある、と言えるでしょう。マタイ26・6― 13、マルコ14・3―9は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて神学における思想の言葉で言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけていると言えるでしょう。バルトは確信をもって語っています―「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(《そのあるがままで》)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(《認識》)していない」だけである、と。
 また、バルトは、神学・知識については、次のように語っています。
(ア)「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」。
(イ)「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている。
(ウ)「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである。
 そしてまた、教会の宣教については、次のように語っています。
(ア)教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、その教会の宣教が、「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示=イエス・キリストに、そしてその証し・証言・証人としての聖書に基づくことをしないところにある。また、人間論や人間学との混淆・共働を第一次化し、不可避な啓示の「概念の実在」の歴史性・時間的連続性に連帯しないところにある。
(イ)「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的―批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある。
 最後になりますが、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教(説教と聖礼典)を義務づけていますから、バルトは本来あるべき教会の宣教について、次のように述べています。「教会は、(《啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて》)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(《神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事=インマヌエルの出来事》)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する。(《したがって、そうでない場合は》)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」。