本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、神学・知識の課題(3−2)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 世界的な神学者で牧師で思想家でもあるバルトも、その神学の認識方法および概念構成において、吉本と同じ問題意識を持っていました。1948年バルトは次のように書いています―「600万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(《近代以降の、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に信頼し固執した自然神学的な神学群・神学者・牧師・著述家、またその教会の宣教》)」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」。まだあります。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった1933年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間―キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!―がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」。この言葉は、全キリスト教を根本的かつ究極的に宗教改革すべきである、と常に考えていた一切の近代主義・自然神学的な神学群や教会の宣教に抗するバルトの神学における思想的な言表なのです。
 また、バルトは一方で、知識的に上昇する往相的な教義学的知識の頂を極める道を歩みました。その道は、『教会教義学』等を完成させる道であり、そこには神学者としてのバルトの貌があります。しかし、他方でバルトは、その教義学的知識の頂から、その還相過程において、「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実的生活」・「貧しい、低きにいる民」にまで意識的に下降し、その時代水準と究極的包括的総体的永遠的救済の課題を、その神学の認識方法および概念構成に繰り込み包括していく道も歩みました。その道は、『福音と律法』等を完成させる道であり、そこには神学における思想家としてのバルトの貌があります。すなわち、バルトも、時流や時勢への迎合・同化、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙によってではなく、神学における思想の往還によって、その神学・知識のリアリティを獲得していましたし、反体制的でもありました。
 ここで例示的に、「超自然な神学」のバルトと自然神学の系譜に属する著述家・佐藤優(バルトについて論じています)の認識方法および概念構成とを比較考量してみたいと思います。
1)佐藤優は、こう書いています――「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(《知識》)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学(《知識》)が不可欠なのです。神学的な操作(《非神話化等の操作》)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」。この語り方は、佐藤が神学における思想としての本質的な三位一体論を持たないだけでなく、近代主義に抗しない近代主義的な自然神学的著述家であることの証左なのです。したがって、このブルトマンの非神話化論を模した語り方をする佐藤は、そのブルトマンの神・信仰は「存在者レベルでの神への信仰」であって、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がいい」(木田元)と述べたハイデッガーの正当性のある根本的な批判に対して、その批判を、根本的に包括し止揚する神学の認識方法および概念構成を持たないのです。また、佐藤は、自然神学的な人間学的神学における、神学的領域でも・人間学的領域でも、往還思想を持たないのです。ハイデッガーの正当性のある根本的な批判・バルトの根本的なブルトマン神学批判については、拙著では論じていますが、ここでは省略します。それよりも先ず、高等教育を受けない者は「神学がなくても信仰は成立」すると受け取ることができる語り方は、身の程知らずのとんでもない佐藤の驕りでしかないでしょう。また、なぜ信じられないことを口にしてはいけないのでしょうか? なぜ、振る必要があるのでしょうか? このことから、佐藤の神・神学は、その最初から近代主義に毒されてしまった佐藤の自己意識によって対象化された意味的世界に過ぎないものと言えるでしょう。したがって、私たちは、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なその佐藤の意味世界に耳を傾け聞くよりは、世界思想の水準にある吉本・フーコー・ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスや、賢治・太宰・漱石・ドストエフスキー等の自立的で良質な優れた意味的世界に耳を傾けた方がいいに決まっているのです。佐藤とは違って、「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトは、神学における思想の往還において、その神学の認識方法および概念構成に、不信・非知・非キリスト者をそのあるがままに包括して次のように語っています。それは、私自身の信仰体験・体験思想と重なり合って素直に私の心に響いてくる言葉としてあります。「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ9・24〕、その願いと共にのみであろう」。

 

 このバルトの質の良い言表の前で、質の悪い佐藤の知識人ぶった往相的発言は、完璧に色褪せてしまうでしょう。真の神学者・知識人で思想家でもあるバルトは、佐藤のようにわざわざ高等教育を受けたなどとくだらないことを言わずに、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格を、全く素直に確信を持って神の側の真実である主格的属格として認識し信仰し神学しています。カトリック作家の小川国夫も、吉本の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という質問に対して、「信じています」と答えています。高等教育を受けなかった人たちと区別して高等教育を受けた神学を持つ者という佐藤は、信仰的・神学的・知識的に、バルトや小川や、高等教育を受けなかった人たちよりも優れているとでも思っているのでしょうか? そうとでも言うのでしょうか?