本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、神学・知識の課題(3−1)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 この課題は、言い換えれば、「すべての大学社会の神学、何らかの抽象を以って始められ何らかの空論に終わるところの神学」(バルト)、それに類する神学、すなわちリアリティなき神学に依拠した神学者や牧師や著述家によるバルト論において、根本的なところで曲解され続けているバルトのその信仰・その神学の認識方法および概念構成を、単純にしかし根本的にそしてトータルに解明することに繋がっています。正直に言えば、全キリスト教における神学者・牧師・著述家のその発言や言説が、根本的に決して正しいわけではない、ということです。誤謬と空論に満ちている、ということです。すなわち、そうした人たちが、多々平然と尤もらしく、「上から目線」で、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っているだけのところがある、ということです。したがって、一キリスト者・一般の人たちである私たちは、彼らのそうした神学・知識を、単純にしかし根本的にそしてトータルに批判し包括し止揚できる視座・神学の認識方法および概念構成を獲得する必要があるわけです。その場合、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識、それを通した人間の自己認識は、先ず以て、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性・時間的連続性に連帯する点にあるわけですが、しかしそれは「啓示の実在そのもの」ではない以上、思想としての神学・知識の課題は、時流や時勢、人間学との混淆・共働、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙等によらないところで、その神学・知識のリアリティと反体制性をどのようにして獲得できるのか、という点にあります。「人間の生き方、存在は等価だとすれば、その等価の基準は、大衆の<常民>的存在の仕方にあると思います。(中略)一般的には、生まれ、成長し、婚姻し、子を生み、……賃金を獲得し、(≪子を育て≫)、老い(≪て死んでいく≫)という生涯について、人々は<空しい生>の代名詞として使おうとします。けれど、(中略)どんな時代でも、こういう平坦な生き方を許しません。大なり小なり波瀾はどこにでも転がっていて、個人の生涯に立ち塞がってきます。だから、人間は大なり小なり平坦な生き方の<原像>からの逸脱としてしか生きられません。この逸脱は、まず、生活圏からの知的な逸脱としてあらわれ、また、強いられた(≪自分の意志が通用するのは半分であって、あとは自分以外の向こう側から強いられてくる≫)生存の仕方の逸脱としてあらわれます。そうだとすれば、かつてどんな人間も生きたことのない<原像>は、価値観の収斂する場所として想定してよいのではないでしょうか」。吉本はこう述べて、この社会的存在の自然規定としての大衆<原像>に、知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を置きました。その理由は、次のように言うことができます――吉本は、自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかったからです。この体験思想を介した吉本の自立的知識人論は、次のように言うことができます。
1)世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことが必要である。
2)庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「〈家〉からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる思想の往還(往還思想)が必要である。そして、そのためには、「支配の制度」がある限り、神学・知識のその認識方法および概念構成において、知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像に置くことが必要である。なぜなら、知識人は、この価値としての大衆原像から知識的に上昇し逸脱していく神学・知識の自然的な往相過程に成立する概念だからである。したがって、知識人の自立的思想は、その神学・知識の自然的な上昇過程から再び意識的に下降する還相過程において、価値としての大衆原像を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、その時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの神学・知識に繰り込み包括していくところに成立する。また、この時はじめて、観念としての神学・知識は、そのリアリティを獲得することができるのであり、反体制的でもあり得る。したがって、この神学・知識の往還は、時流や時勢への迎合・同化、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは全く違う位相にあるものである。
 また一方で、吉本は、敗戦時に自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見ました。この吉本に依拠して言えば、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の神学・知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要である、と言うことができます。
 それでは、大衆が知的大衆化した現在はどうでしょうか? 吉本は次のように述べています――現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまった。言い換えれば生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった。とは言え、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準であって、時代状況によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、自らの神学・知識に繰り込み包括していくところに知的大衆や知識人の自立思想は成立するのであり、その神学・知識のリアリティを獲得できるのであり、その神学・知識が反体制的でもあり得るのである、と。言い換えれば、自分のその神学・その知識・その行動は反体制的である、と宣言し行動すれば反体制的となるわけではないのです。信と不信、キリスト教と非キリスト教(無神論・反神論・無関心)、知と非知、個・現存性と類・歴史性とを架橋する思想の往還が必要である、と言うことができると思います。