本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、はじめに(2−1)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 このサイトを立ち上げた理由について書かせて頂けば、それは次の点にあります。先ず以て私は、一般信徒と牧師が共に、現在から将来に生きることができるキリスト教・教会・信仰・神学を目指すことを切望する一キリスト者だからです。また、私は、不信とむなしさと不確かさと不安の蔓延した現在から未来に生きることができるキリスト教・教会の宣教・信仰・神学は、カール・バルトの「超自然な神学」におけるそれ以外にはないと考える一キリスト者だからです。これらのことを前提として、全キリスト教を単純にしかし根本的にそしてトータルに把握するためのキーワードは、自然神学の系譜に属するキリスト教・教会の宣教・信仰・神学と、「超自然な神学」におけるキリスト教・教会の宣教・信仰・神学にあります。すなわち、一キリスト者であれ一般の誰であれ、全キリスト教を単純にしかし根本的にそしてトータルに把握することは、ほんとうは難しいわけではありません。わざわざ難しそうにしているのは、大学社会の神学者・著述家・それに類する人たちなのです。私は、そうした事態を無化したいと思い、このサイトを立ち上げることにしました。したがって、私は、バルト自身とバルト賛同者(バルト学派・バルト主義者を含む)・批判者(悪意ある批判者を含む)との根本的かつ究極的な差異性を際立たせ明確にするという方法、すなわち両者を比較考量するという方法を採りました。しかし、このサイトは、先ず以て批判することを目的に書いたわけでは全くありませんので、それにもかかわらず、もしもこのサイトの主調音が批判的であるとすれば、その根本的な批判あるいは究極的な差異性の強調は、バルトの「超自然な神学」に立脚した場合に不可避に生じてくるそれである、ということです。このサイトを訪問された方には、このことを分かって頂くことができれば幸いです。それから、内容も含めてメニューも、少しずつではありますが豊富化させていきたいと考えています(少なくとも月に1回)。ただ、私は何分持病のある定年退職者ですから、どこまでやり切れるのかは正直全く分かりません。
 さて、ミシェル・フーコーは、「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。近代以降において世界普遍性を獲得した西欧、「普遍性誕生の場」、西欧思想、革命・人間・社会という西欧概念の危機の中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」、と述べています。だからこそ、私は、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」(吉本隆明)る学者や著述家の知識およびメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしないで、世界思想的に最も優れた良質で自立的な知識人・思想家であるバルトや吉本やフーコーに耳を傾け依拠した方がいい、と考えています。したがって、私は、正直に書くのですが、私自身の信仰・信仰体験・神学を介しながらも、「法然にだまされて、念仏して地獄におちたからとて、すこしも後悔はしない」(『歎異抄』)と唯円に述べ、機縁による一念義に生きた親鸞のように、私の神学については、終末論的限界(この概念については、後述しています)の自覚の下で、徹頭徹尾全面的に、バルトのその神学の認識方法および概念構成に依拠したいと思いそうしています。また一方で、私は、この意味において、人間学については吉本やフーコーの思想に依拠しようと思い、そうしています。その場合、それはあくまでも、自然神学的な人間学的神学におけるその人間学の水準を確定するためなのです。私は、自然神学の系譜に属する教派や教会の宣教や信仰や神学や神学者、ローマ・カトリック主義的な教会の宣教・信仰・神学、近代主義的プロテスタント主義的な教会の宣教・信仰・神学、アジア的日本的な自然原理に依拠した近代主義的プロテスタント主義的な教会の宣教・信仰・神学、中世スコラ哲学の「キリスト啓示・自然啓示二元論」、「中世末期の人間の行為義認論」、「それにプロテストはしたがその自然神学をその根本において止揚できなかった宗教改革者」、「宣教は人間の側に『結合点』を求めなくてはならず、また『結合点』を前提しうる」としたブルンナー理論(『バルトの生涯』)、アウグスティヌス→トマス・アクィナス→ルター→シュライエルマッハー→ブルトマン、滝沢克己等々を、その神学の認識方法および概念構成において、根本的に批判し包括し止揚して、「超自然な神学」へと超出したバルトを首肯します。また、私は、、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べた、吉本を首肯します。バルト自身も神学領域で、次のように述べています――「《私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この》)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(《学派・教派・思想傾向・時流や時勢・一切の国家・政治的権力・社会的政治的な言説や運動》)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。
 ここで、バルトの「超自然な神学」におけるキリスト教・教会の宣教・信仰・神学と、自然神学の系譜に属するキリスト教・教会の宣教・信仰・神学との根本的な差異性の詳論については拙著に書いたのですが、このサイトでは、その事柄について簡潔に書いていきたいと思います。したがって、ここでは取り敢えず次のように規定しておきたいと思います。
1)バルにとって、神と人間との無限の質的差異が、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨」です。バルトは、一切の近代主義・自然神学的なキリスト教・教会の宣教・信仰・神学を根本的に批判し包括し止揚してそこから超出するために、この立場に固執しました。
2)バルトは、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執しました。すなわち、バルトは、ローマ書3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格(所有格)を、目的格的属格(イエス・キリストを信ずる信仰による神の義)としてではなく、確信を持って主格的属格(イエス・キリストが信ずる信仰による神の義)として認識し・信仰し・神学しました。言い換えれば、バルトは、「イエスの信仰」を、確信を持って、神性・単一性・永遠性を本質(神の「存在の本質」)とする、その神の人間へと向かう「存在の仕方」・「神の言葉」・「神の子」・「性質・行為・働き」=「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」として認識し・信仰し・神学し、その神の側の真実=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執しました。しかし、それに対して、近代主義的で自然神学的な旧来訳聖書は、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に依拠して、神の側の真実だけでなく、人間の自主性や自己主張・人間的契機の直接性にも信頼し固執する目的格的属格理解(啓示の主観的現実性)に基づいて「それは、イエス・キリスト信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」と、また新共同訳聖書も「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」と認識し・信仰し・神学しています。
3)バルトは、人間の側におけるイエス・キリストにおける啓示の主観的現実化の根拠である「父ト子トヨリ出ズル」「聖霊は、人間精神と同一ではない」。「人間が聖霊を受けることを許され、持つことを許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、と述べています。
 バルトにとって、1)から3)までの概念は、神性を本質とするイエス・キリストにおける神の側の真実(啓示の客観的現実性)だけでなく、天然自然や人間的自然、人間の感覚や知識を内容とする経験、感情・理性・意志・実存等の人間的契機の直接性、時流や時勢、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観にも信頼し固執する神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づくヘーゲル哲学や自然神学的なキリスト教・教会の宣教・信仰・神学を根本的に防ぎ・それらを根本的に批判し包括し止揚することができる神学における思想的な武器なのです。