本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その9 クリスマスの奇蹟)――了――

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その9 クリスマスの奇蹟339−401頁)    ――了――

 

 

はじめに
 今回やっと、『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』の最後――「クリスマスの奇蹟」にまでやってきた。これまで、私は、バルトの『教会教義学』における三位一体論と今回のキリスト論を扱ってきたのであるが、そこで私がいつも実感し認識させられたことは、次のようなバルトの神学における思想の一貫性と開放性と包括性である。すなわち、それは、バルトが、いつものように、閉じられた時空の枠組みの中で停滞と循環を繰り返す「大学社会の神学」者たちやそれに類する者たちとは全く違った立場において、すなわち、「党派」性や党派的思想や党派的共同性や党派的多元主義に仕えるためにでは決してなく、それゆえに学派や教派や思想傾向や時流・時勢や大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙やさまざまな社会的政治的な言説や運動やある社会機構・経済機構・政治機構や特定の人種・民俗・国民やさまざまな<主義>に仕えるためにでは決してなく、徹頭徹尾、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事――「この一つの事柄に仕える」ためにのみ、それゆえに、啓示に固有な証明能力に基づいて、終末論的限界の下で・自己相対化視座を持って、その<啓示>に対する認識(信仰)・神学・宣教(教会)において、一切の近代<主義>、一切の<自然神学的なもの>を、根本的包括的に止揚し超克して・そこから超出していくために、<三位一体論的――キリスト論的>に、@神と人間との無限の質的差異、A神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等、およびガラテヤ2・19以下)、B聖霊は、人間精神や聖霊によって更新された自己意識・理性・思惟と同一ではない、という立場に立っていたということである、また、宮沢賢治が述べていたように「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」から、バルトは、「イエスの信仰」の主格的属格理解(啓示認識・啓示信仰)において、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)の立場、それゆえにその現にあるがままの不信・非知・非キリスト教(一切の他の宗教・無神論・無関心)に対する信・知・キリスト教の完全な開放性の立場、に立っていたということである、そしてまた、バルトは、神論・啓示の「認識原理」については、<三位一体論的――キリスト論的>立場に立っていたということである、さらにまた、バルトは、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰において、その不可避的な、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事――すなわち<神の言葉の三形態>であるイエス・キリストにおける啓示の実在そのもの、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するという立場に立っていたということである。

 

 

クリスマスの奇蹟
(1)聖書の「処女降誕」は、「約束されたメシヤが超自然的な出生という道を通ってこの世に生をうけるであろうなどとは全く予期して」いない古ユダヤ教の立場の可能性や、またマタイ1・18を「絶対的に新奇なこと」と考える「ユダヤ教的思惟」の可能性や、さらにまた「仏教的神話、エジプト的神話、ギリシャ的神話およびそのほかの神話……とは全く別な方向を指し示している」「マコトノ神ニシテマコトノ人間を、……一般的な真理に基づいて、最後的にはつねにいたるところ成り立っている神と人間がひとつである単一性の解釈として、あるいは表現および表象として、説明する可能性」に抗する「限界づけ」をしている。すなわち、「キリストの処女降誕の言葉」は、「異教的な神話の領域にもみられるような……もろもろの主張と同種の平行現象としてうけとろうとする試みを拒否」している。なぜならば、異教的な神話は、「せいぜいのところ神々……自然についての人間が感じとり経験すること、あるいは歴史についての人間の考察が実体化されたもの」にしか過ぎないからである。例えば、世界史的に言えば、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階においては、非農耕民は尊ばれると同時に蔑まれるところの<神人>と呼ばれていた・宗教者等、そして天皇もその内のひとりであったからである。

 

 「処女降誕」は、「その新約聖書の文脈の中において、あるいは決定的な個々の動機において」、そうした説明の可能性に対して、限界づけを行っている。新約聖書の証し・証言および教会の客観的な信仰告白・教義においては、「イエスの地上的――人間的な由来そのものが秘義であり、ただ一回的な、独一無比な神の行為として理解されるべきであり、マコトノ神ニシテマコトノ人間は、それとともに神の啓示は、決して精神的な実在としてではなく、むしろ霊的な実在として理解されなければならない」と、「全く特定の、他と区別された」事柄として語られている。啓示に固有な証明能力、すなわち神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事(客観的な啓示の実在)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の側から授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の主観化・主体化)に基づく、啓示の「概念の実在」としてのキリスト教に固有な類・歴史性は、キリスト教的な信仰・神学・教会の宣教にとっては、不可避性としてあるものであるから、それを経由・媒介・反復することを通してのみ、時代や個性を刻むことができる。したがって、人間的自然の直接性や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、また人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍を第一次化する存在の類比に依拠してしまう場合、その最初から「誤謬は必然」となるのであり、その最初から恣意的独断的な<自然神学>の陥穽に陥ることになるのである。(351・352頁、370頁、391頁)

 

 啓示の秘義、すなわちイエス・キリストは「まことの神の子」である、というこの「全く一致している」啓示認識・啓示信仰へと、「昔の教義学者」が「たどった足跡は、決定的な点において正しかった」と言うことができる。「処女マリヤより生まれ」の奇蹟も「クリスマスの秘義」の「指示」・「しるし」であるが、単一性・神性・永遠性を本質とする「聖霊ニヨッテ宿リ」という「奇蹟」は、啓示の「秘義」・「クリスマスの秘義」を指し示す「しるし」である。すなわち、このクリスマスの<秘義>の認識・証しは、この秘義のしるしである「聖霊ニヨッテ宿リ」という奇蹟を通した、啓示認識、啓示信仰、証し、信仰告白である。このように、「秘義は奇蹟を通して証しされる」のであるが、しかし「秘義は奇蹟に基づいている」のではなく、秘義のしるしである奇蹟が秘義を「証し」しているのである。したがって、イエス・キリストは私たちと「同じように人間」となった「神の子」であるという、この啓示の秘義は、「存在的に」ではなく「認識的に」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「聖霊ニヨッテ宿リ」という真理、すなわちその啓示認識、啓示信仰、証し、信仰告白「とともに立ちもすれば倒れもする」のである。なぜならば、「ナザレの人間イエスは、彼が聖霊によって宿り、処女マリヤアから生まれたが故に、まことの神の子なのではない」からである。すなわち、「永遠から父より生まれた(≪単一性・神性・永遠性を本質とする永遠の≫)子として」、それゆえにあの「しるしがなくてもまことの神の子」として、イエス・キリストは、「聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれ給うた」神の子である。したがって、イエス・キリストの「名」は、このような啓示の・クリスマスの「秘義の中で、認識され、……呼ばれるべきなのである」。すなわち、イエス・キリストの「名」は、単なる受肉論や神人論や「マコトノ人間」論においてではなく、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする、神の子、神の言葉、人間へと向かう神の第二の存在の仕方(性質・働き・行為・業、啓示・和解)、まことの神にしてまことの人間、イエス・キリスト、と呼ばれるべきなのである。

 

 神の第二の存在の仕方における「啓示と和解」が「キリストの神性」の根拠ではなく、単一性・神性・永遠性を存在の本質とするその「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。

 

 さて、バルトが、「昔の教義学者」が「たどった足跡は、決定的な点において正しかった」、と述べている時、私たちは、すぐに彼の次のような考え方と連結させることができる――神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち、人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける客観的な啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある、という考え方と連結させることができる。あるいは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、という考え方と連結させることができる。あるいはまた、もっと具体的には、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」るという仕方で、「神の言葉の三形態」と連帯する、という考え方と連結させることができる(『啓示・教会・神学』)。そして、一方で、私たちは、不可避な歴史的現存性のただ中で、バルトが、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだ、と言うことを知ることができる。

 

 私たち読者は、バルトの書物を読む場合、彼がこれらのことを、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」学者ぶった机上の空論として述べてはいないことをすぐに実感し認識することができる。なぜならば、バルトは、いつも、次のような問題意識を持って論じているからである――近代主義的プロテスタント主義神学・教会の宣教が、すなわち<自然神学的なもの>が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その原理、その認識方法および概念構成が、人間学的身体性・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・存在の比論・「視覚的錯覚」に依拠しているからである。その場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が<自然神学>的な「思弁」でしかないものなのである。そのような認識の在り方においては、神性を本質とする「まことの神にしてまことの人間」イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・人間的実存の範型・社会的奉仕活動の範型・政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう。すなわち、それらの概念は、その最初から、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとなってしまうし、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎないものとなってしまう。したがって、バルトは、「キリストの神性についての教義」・思想こそが、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>、ヘーゲル哲学に抗することができ、またそれらを根本的包括的に止揚し超克して、それらから超え出ていくことができるそれである、と述べた。すなわち、そうした神学における<思想>こそが、<自然神学>的な、「神的啓示と人間的な信仰の間」における、その「幻想性」を、その「形而上学」性を打破できる信仰的・神学的・思想的武器なのである。(399−401頁)

 

 

(2)「神の言葉の受肉」――神が「われわれ」と「世界」の中に「現臨し給う」というイエス・キリストにおけるインマヌエルの出来事、すなわち、ただ一回的な独一無比な神の行為、イエス・キリストにおける「われわれのための神の時間」である啓示の時間、イエス・キリストの受難と死および復活における「成就された時間」における、人間へと向かう神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示・和解は、その客観的な啓示の実在そのものの、単一性・神性・永遠性を本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」である「イエス・キリストという人格〔神人格、位格のこと〕」、「イエス・キリストの名」のことである。この啓示は、その客観的実在において、それゆえにその啓示に固有な証明能力(神性を本質とする、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)に基づいて、「神の言葉の三形態」に連帯することを通して、終末論的限界の下で、「われわれの直観と概念にとって把握しうるものとなる」――「啓示は、われわれがわれわれの経験およびわれわれの思惟が及ぶ範囲として、われわれが直観と概念をもって把握できる可能性として、理解することができることの<外部>で、われわれの直観と概念にとって把握しうるものとなる」・「啓示は、われわれ自身の能力に基づいてではなく、啓示自身の能力に基づいてわれわれの認識の対象となる」・「啓示は……ただ啓示そのものを通して……まことであるとして明らかになる」。

 

 「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。言い換えれば、イエス・キリストの啓示と和解についての啓示認識・啓示信仰を「贈り与えられた」者こそが、すなわち「キリストを信じる信仰の中で義とされた者こそが……自分は失われた罪人であることを知り告白する」ことができる。このように、啓示認識・啓示信仰は、神の自由な恵みの授与である。したがってまた、それは、人間の側からする意志的行為では全くなく――なぜならば、キリスト者を含めて人間は、無神性・不信仰・真実の罪・自主性と自己主張の欲求・不従順を本質とするからである――、それゆえに先ず以てそれを授与されたことに対する素直な感謝の応答である。この意味で、それは、素直な感謝の応答としてのみ成立するし・成立している。そして、私たちは、この授与と感謝の応答において、終末論的限界の下で、「啓示を認識する行為の可能性」を持つことができる。言い換えれば、徹頭徹尾、啓示が、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を・また「啓示を認識する行為の可能性」を「支配」しているのであって、決してその逆ではない。啓示は、私たち人間の自由事項ではないし・自由事項とはならない。啓示認識・啓示信仰を「贈り与えられた」者は、その「啓示を認識する認識の中でこそ、啓示はわれわれにとって秘義であり、秘義でありつづけ、繰り返し秘義となる」ことを承認し確認するし、イエス・キリストにおける客観的な啓示の実在そのもの、啓示の真理、神の時間、永遠、救済史、は、徹頭徹尾、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、人間の知識、人間の時間、歴史、の、彼岸・外、にあるし・そうあり続けることを承認し確認する。(339−341頁)

 

 (1)と(2)は、「キリスト論的基礎づけの結論」としてある。

 

 

(3)前述したような仕方で、「啓示と和解が出来事として起こったということ」が、「クリスマスの使信の内容である」。「神と世界」・「神と人間」が、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストの「人格〔神人格〕の中で出会う」という「クリスマスの使信」を「聞き手として語る場合」、私たち人間の「経験や思惟」における、その使信の秘義性・隠蔽性についても語らなければならない。なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下で、「われわれの経験と……思惟はここで、絶対的な外あるいは絶対的な上から限界づけられ、規定され、支配されている」からである。したがって、徹頭徹尾、神の自由な恵みの授与・「贈り与え」である啓示認識・啓示信仰は、イエス・キリストは「まことの神でありまことの人間である」、という素直な承認と確認、すなわちその「受認」とその表現としての告白である。この場合、「キリストを信じる信仰の中で義とされた者こそが……自分は失われた罪人であることを知り告白する」ことができるように、「神の尊厳さと世の不幸をともに受認し、ともに告白しなければならない」。なぜならば、イエス・キリスト(啓示・和解)において、究極的包括的総体的永遠的に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)からである。(341・342頁)

 

 

(4)「神の言葉の三形態」――神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在)と、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)において、「イエス・キリストが聖霊によって宿り給うた……処女マリヤより生まれ給うた」という「奇蹟」は、啓示の「秘義」・「クリスマスの秘義」を指し示す秘義の「しるし」であり、その秘義を「証し」しているものである。キリスト教的な信仰・神学・教会の宣教において、この不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としてある啓示の「概念の実在」について、バルトは、聖書の証言・証しとして「イザヤ7・14に出てくるインマヌエルのしるしが振り返りみつつ言及されているマタイ1・18−25とルカ1・26−38(特に34・35)」を、また教会の客観的な信仰告白・教義として「四世紀のローマ・バプテスマ定式……聖霊ニヨリオトメマリヤヨリ生マレ」、「使徒信条の定式……聖霊ニヨリテ宿リ、オトメマリヤヨリ生マレ」、「使徒信条およびニカイア・コンスタンティノポリス信条の東方的な定式」並びに「ニカイア・コンスタンティノポリス信条……聖霊ニヨリテオトメマリヤヨリ肉体ヲ受ケテ人トナリ」を、挙げている。そして、バルトは、この教義は、「近代にいたるまでカトリック信者のもとでも、プロテスタント信者のもとでも、大体一致して、自明的なものとして信じられ教えられた教義であったという事実は」、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べている。しかし、もちろん、この教義の中で、「われわれは(≪神の聖性・隠蔽性・不把握性において、終末論的限界の下で≫)……ただ教会の声を聞くのであって、啓示そのものを聞くのではない」。なぜならば、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないからである。したがって、そのキリスト教的語りは、啓示に固有な証明能力に対する信頼と固執に基づいて、終末論的限界の下で、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。したがってまた、バルトは、教会の一つの機能としての教義学は、「決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」・なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである・この意味で、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」・教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである、と述べたのである。(343・345頁)

 

 

(5)この処女降誕の「教義の必然性」は、「聖書的な基礎づけとしては……強固なものではないし、また明白なものでもない」から、「その注釈的な状況……を明らかにする方が適切なこと」である。

 

ア)事実的には――マタイ福音書もルカ福音書も、「イエスの幼年時代の物語が完結したあとは……処女降誕にふれ」てはいない。マルコ福音書とヨハネ福音書は、処女降誕を「あからさまに言及」していない。パウロも公同書簡も、「彼らが処女降誕について知っていたということをはっきりと述べている箇所がない」。使徒行伝においても、「処女降誕のことは……ケリグマを要約している記事の中で言葉に出して名ざされていない」。すなわち、イエスの現実存在の構成要素の一つであるにもかかわらず、処女降誕のことは、「イエスの苦しみと甦えりが規則正しく、しばしば言葉に出して言及されたように、口頭および文書による、伝承と宣教の、規則正しく繰り返され、言葉に出して言及された構成要素となるのに適していたわけではない」。「しかしそれだからといってマタイ一章とルカ一章」の処女降誕のことが、「自明的なこととして受け取られ、……すべての新約聖書の証人たちの周知の、論難することのできない前提となっていたということがあり得たという可能性は排除されていない」。(345・346頁)

 

イ)「ヨセフの系図を何とかしてマリヤの系図だとして解釈しようとする」「昔の教会の多くの註釈家たちがなした試み」は、「われわれとしてはむしろ断念してしまう方がよい」。むしろ、その二つの系図が、マタイ1・16とルカ21・23において、「イエスはヨセフの肉体的な……子ではなかった」という「言いまわし方を用いている」点に、注意を向ける必要がある。マタイは、「自然と歴史の<彼岸>にあ」る単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「神ご自身の啓示」を待ち望んでいた。したがって、ローマ1・3の「肉によればダビデの子孫から生まれ」は、「生物学的な子孫のことを言っているとは限らない」のであって、イエスの現実存在の構成要素の一つを指示している、と言うことができるのである。

 

 いずれにしても、「人は確かに、この処女降誕の教義が聖書の言葉の中に基礎づけられいる基礎づけ方は、いくつかの問題を含んでいることを否定することはできない」。この教義を、通俗的に、近代以降における宗教である科学<主義>や人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍から否定せざるを得ない・無視せざるを得ない、と主張することは簡単なことである。しかし、「該当する聖書の箇所の註釈からどうしてもあの教義を否定せざるを得ないなどと主張することは……できない」、ということも確かなことである。
 なぜならば――「処女降誕を主張している聖書的な証言(≪啓示認識・啓示信仰≫)がある」という事実を、「何人も否定することはできない」からである。そして、処女降誕についての聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義は、神の第二の存在の仕方(啓示・和解)である「イエス・キリストの人格〔神人格〕と関連してもっている何らかの内的、事柄的な正しさと重要性……を……第一に」置いているからである。したがって、処女降誕は、「文献的な研究……教義的な研究を通しても答えられることのできない事実の問題」として、「この事柄が持っている正しさと重要さ……を後から理解すること」が肝心なことなのである。その場合、処女降誕についての教義は、新約聖書的認識であるイエス・キリストの「内容的な教義」、すなわち「まことの神性およびまことの人間性についての教義」・「マコトノ神ニシテマコトノ人間」につての教義・「実在の、空間と時間の中で、歴史の中で歴史として起こっている出来事」――「啓示」と「和解」を証言・証し・告白・表示しているのではなく、その「内容的な教義を解明してゆくのに必要な形式的な教義」、すなわち人間へと向かう神の第二の存在の仕方における神の側の真実にのみ属する出来事として、説明なしの「際限のない驚き、畏敬と感謝の驚き」を証言・証し・「告白」・表示している。したがって、それは、啓示の「実在そのものを表示しているというよりも」、その「実在の秘義」性・隠蔽性を表示している、と言うことができる。したがってまた、この処女降誕の教義は、恣意的独断的なキリスト論に抗する、啓示に固有な証明能力に基づいた、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」という「霊的な理解(≪「解釈」、キリスト論≫)だけを可能なものとして残す」のである。(346−349頁)

 

ウ)処女降誕の教義は、「ただ一回的な、独一無比」の「イエスの地上的――人間的な由来そのもの」の「秘義」を、「精神的な実在」ではなく「霊的な実在」としての「神ご自身」の自己啓示である神の第二の存在の仕方である「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストにおける啓示の「秘義」を表示している。ここに、啓示に固有な証明能力の基づいた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・承認と確認・証言・証し・告白・表示における、すなわち人間的表現の限界における、この「教義の必然性」がある。したがって、外在的な「空の墓」の表示が、「キリストは甦えり給うた」という啓示の秘義を内容とする形式であって、それらは同時性・同在性・構造性において理解されるべき証言・教義であるように、イエス・キリストは「マコトノ神ニシテマコトノ人間」という「内容的な教義」(「内的なもの」・内部的なもの)とそのことを「解明してゆくのに必要な形式的な教義」(「可見的となり、聞えるようになる」「外的なもの」・外部的なもの)である処女降誕は、切り離してはいけないのであって、同時性・同在性・構造性において理解されるべき証言・教義なのである。(350−355頁)

 

エ)前述したようなクリスマスの秘義を否定する者たちは、「何らかの自然神学」との「関連づけ」に依拠してそうしている。シュライエルマッヘルは、処女降誕を説明するために、<自然神学>的に、合理的な概念、しかしながら人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍からすれば全く矛盾してしまう恣意的独断的な合理的な概念、すなわち一般的な「超自然的な出生」――「救済者の中に生まれながらの無罪性、神的なものと人間的なものの結合によってもたらされる新しい創造」・「超自然的な生殖」による「人類という種族の創造の完成」という人間学的概念を「要請」している。
 言い換えれば、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」に基づかない、恣意的独断的な理解と説明は、一切が<自然神学的なもの>の陥穽に陥ることになる、ということである。「『すべてのことが許されている』。しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている』。しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(Tコリント10・23)。バルトが『福音と律法』において「神に対する熱心さの無知」と呼んだ対象は、またトゥルナイゼンが『ドストエフスキー』において恣意的独断的に「実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」「神への『反逆』」と呼んだ対象は、一切の<自然神学的もの>のことなのである。なぜならば、「無知が役にたったためしはない」からである(吉本隆明『カール・マルクス』)。(355−358頁)

 

 

(6)クリスマスの秘義が表示しているものは、「特別」な、「ただ一回的な、独一無比」の「奇蹟」が「出来事として起こった」ということである。その特別な内容が、「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」である。

 

ア)この「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」という奇蹟は、クリスマスの秘義の秘義のしるしである。また、このしるしは、クリスマスの秘義と「認識的および存在的に類比的」である。すなわち、この「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」という奇蹟(クリスマスの秘義のしるし)の出来事は、あくまでも神の側からの・神の側の真実において、それゆえに「この世界の中で起こる……出来事の連続性から理解されることも出来なければ」その「連続性の中に基礎づけられているわけでもない出来事」・奇蹟という神と人間との無限の質的差異において、「被造物世界の領域の中で、したがって、精神的な肉体的なものの単一性の中で、時間と空間の中で、認識的な実在と存在的な実在の中で」起こった出来事である。すなわち、それは、「ただ神ご自身によってのみ、直接的に、働かれた、神の行為の自由と直接性、秘義として、来たりつつある神の国の先駆的なしるしとして〔だけ〕理解されることができる」出来事である。(358・359頁)

 

イ)「新約聖書の証言のほかのしるしや奇蹟と比べて」、「無比な、独特な」啓示の秘義のしるしである処女降誕の奇蹟は、「甦えりの証言が語っている」、「無比な、独特な」啓示の秘義のしるしである「空の墓の奇蹟」と「相互に関連し合っている」。この両方の奇蹟における啓示の秘義のしるしは、神性を本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストの「人間的――歴史的現実存在」である。すなわち、この両方の奇蹟は、「新約聖書の証言のほかのしるしや奇蹟と比べて」、「神ご自身が、神のみが……直接に、主体であり給い、それの時間的な実在はただ単に神の永遠的な実在を通して呼び出され、創り出され、条件づけられ、担われているだけでなく、むしろこの神の永遠的な実在と同一であるところの人間的――歴史的現実存在として、人間の歴史のそのほかの多くの現実存在の間で、そのほか多くの現実存在と並んで、その特徴を表示し、区別するという特別な機能をもつところの無比な、独特な(≪啓示の秘義の≫)しるしなのである」。「イエスの生の始めのところにある処女降誕とイエスの生の終わりのところにある空の墓」におけるこのイエスの「生は、すべてのそのほかの人間的生とは区別され異なっている事実、しかもわれわれの理解とわれわれの解釈を通してはじめて区別されるというのでなく、……それ自身を通して区別された事実」におけるそれである。そのイエスの生こそが、「われわれすべてがその中に落ち込んでしまっている死に対して勝利をしめる」。このことは、神の聖性・隠蔽性・不把握性、啓示の秘義性、という「限界の内部」で、啓示に固有な証明能力に基づいて、しかも終末論的限界の下で、「神の啓示の秘義として理解されることができる」。神性を本質とするイエス・キリストの誕生と復活は、「ワレワレノ性質ニアズカッテイルコトカラ遥カニ越エ出テイル……モシモキリストニツイテ報告サレテイルコトガ自然ノ限界ノ内部ニ留マッテイルナラバ、一体ドコニ神的ナモノガアルデアロウカ」。

 

 神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方で、顕現・自己啓示した。このことは、神性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・「聖性」・隠蔽性としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・その「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、すなわち神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・教義をさえ持つことはできないことを意味している。(359−361頁)

 

ウ)「神がイエス・キリストの中で、その神性の深い隠れから現われ出給う」た顕現化・「実在となり可見的となる」という「処女降誕」は「特に啓示の<秘義>」を言い表している。なぜならば、このイエスの中で、「神ご自身」が、「人間であるということの中に身をおとされ」た・「隠サレタ」・隠蔽されたからである。マタイ16・13のペテロ(教会の信仰告白)における「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。
 「神がイエス・キリストの中」で、「人間的な現実存在の最後的な困窮状態」の「死の手にゆだね給うた」顕現化・「実在となり可見的となる」という「空の墓」は「特に<秘義>の啓示を言い表している」。なぜならば、この「死人の中からのイエスの甦えり」・キリストの復活の秘義のしるし中で、「隠サレタ」・隠蔽されたキリストの神性が顕現化・「実在となり可見的となる」からである。

 

 処女降誕の奇蹟をしるしとする啓示の秘義は、空の墓の奇蹟をしるしとする「秘義の啓示」を「基礎づけている」。しかし、前者の秘義は、後者の啓示・和解(キリストの死からの復活・成就された時間)の秘義を通して、「力を発揮し、認識しうるものとなる」。和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身であり、したがって、その「存在の本質」は単一性・神性・永遠性であるがゆえに、イエス・キリストのその「存在の仕方」における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。「新約聖書の証人たち」は、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語るのである。「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪神の第二の存在の仕方としての啓示・和解≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。徹頭徹尾、人間の側の自由事項とは決してならない、神の完全な自由において、創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である。また恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。それは、父なる神と子なる神と「父と子より出ずる御霊」の三位一体論的な神自身の自己啓示、すなわちあくまでも神の側の真実における、神自身の自己認識・自己理解・自己規定である。神性を本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストにおける「神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。(361−368頁)

 

エ)バルトは、「処女降誕についての教説は受肉の奇蹟『の生物学的解釈』を意味している。いや、『生物学的好奇心』の表現である」・この意味で「信じることなしに、……知覚できる事実である。それ故に人は処女降誕に対しては、無関心であると宣言しなければならない」――と『仲保者』で述べた「自信過剰」の半減された「近代的精神」・人間的理性・思惟と神との「共働者」関係の再構築を目指すE・ブルンナーに対して、次のように根本的な批判を加えている。先ず第一に、処女降誕の教説は、信仰なしの・「無関心」のそれではなく、啓示に固有な証明能力に基づく、終末論的限界の下での、「信仰の中」における、すなわち啓示認識・啓示信仰における「事実そのもの」である。第二に、それは、確かに外在的には<自然>としての生理的身体・その性の問題として「生物学」の対象に属してはいるが、新約聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義においては――、「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」・「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである・したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけであるという復活の出来事と同じように、――「言葉に出して語ることができない」、すなわち人間的な思惟や「人間的な考察を限界づけている」、啓示の客観的な実在、その啓示の秘義――「マコトノ神ニシテマコトノ人間」の「しるし」である。このように、処女降誕は、事柄の「しるし」である。この「しるし」は、「事柄が説明できないこと」――すなわち「秘義としてのその性格」を明示している。

 

 したがって、「啓示のしるしを『信仰なしに知る』」場合、@「そのような知〔識〕は、甦えりの奇蹟」に対して「幻影を見たとか、瞞着されたとか、仮死の状態であったとかという仮説の形式」におけるそれである。また、A「クリスマスの奇蹟」に対しては、「実際の事実を信仰なしに知ることができると考えた、ユダヤ的な伝説の一つ」の「形式」のそれである。さらにまた、B啓示認識・啓示信仰の中での「この種の事実」に対して、人間の思惟が「愚直な世界観的超自然主義」的認識の段階にあって、「別に信仰を必要としない」で、「信じこませることを可能にした」・信じてしまうことができた人類史における認識の段階のそれである。

 

 バルトは、「N・ベルジャーエフの嘆息はまた私の嘆息でもある」と、次のように述べている――「ベルジャーエフはこう言っている、『わたしはブルンナーの書物を、途方もない興味をもって読んだ。(中略)しかしながら、ブルンナーが、イエス・キリストが処女から生まれたということを信じていない、あるいは少なくとも彼は処女降誕に対しては無関心である、と言っている箇所まできた時、わたしは悲しくなった、そして事柄は退屈にさえ思えてきた。なぜならば、あたかもすべてのことが取り消されてしまい、ひきつづいて述べられているすべては意味がないように思えたからである』」。吉本隆明の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、「信じています」と答え告白したカトリック作家の小川国夫のその説明なしの答え方・告白の仕方は、イエス・キリストに信頼し固執する小川の啓示認識・啓示信仰そのものなのである。この小川には、吉本のように、文学における思想において、人間や人類にとって部分でしかない近代以降の宗教と化した科学の主義化・絶対化・全体化(宗教化)はないのである。(362−364頁)

 

オ)処女降誕の教義の内容は、神の第二の存在の仕方における神性を本質とするイエス・キリストの「人格の秘義」、すなわち「マコトノ神ニシテマコトノ人間」という「秘義の特徴を、それと類似した奇蹟の出来事を通して言い表している」。私たち人間の思惟・考察は、この教義の必然性を証明することはできないから、「われわれが(≪その≫)必然性を肯定する」という場合、啓示を「先取りしたり、無理矢理に引き起こしたりすること」はできないから、ただその「対象によって強いられて語らざるを得ない」がゆえに、あくまでも、その啓示に固有な証明能力に基づいて、そして終末論的限界の下で、この「教義の個々にわたっての解明の中で、さらにひきつづいて確証を受け取ることができるし、受けとらなければならない」のである。(364・365頁)

 

 

(7)「クリスマスの秘義」のしるしである第一条項の「聖霊ニヨリ宿リ」の奇蹟は、そのもう一方のしるしである第二条項の「マリヤヨリ生マレ」の奇蹟を通して解釈されるのであるが、第一条項のそれは、「人間的な現実存在」となった「神の言葉」、人間へと向かう神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの単一性・神性・永遠性を言い表している。すなわち、「神の言葉が人間的な現実存在となるに当たって働いた神の同じ絶対的主権性を積極的な側面から言い表している」。この側面からすれば、第二条項の「マリヤヨリ生マレ」の奇蹟――「生物学的にみて、ちょうど死人の甦えりと同じように、(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に従えば、≫)はっきりさせることができない仕方で生まれた」・「女性の受胎能力(≪女性の生理機構≫)だけに基づいて、生まれた」という奇蹟は、前述した神の側の真実における「神的な行為の主権性」の「否定を言い表している」、と言うことができる。言い換えれば、この第二条項の奇蹟は、イエス・キリストの「人間的な現実存在」・「ナザレのイエス」・「人間的歴史的形態、イエスの名」のしるしとして、「クリスマスの秘義」を言い表している。すなわち、それは、神と人間との無限の質的差異において、そして神の側の真実において、「神の実在がここで人間的実在として一つになるということの中で示される神の絶対主権性を言い表してい」る。神の第二の存在の仕方において、神性を本質とする「イエス・キリストという人格」は、「彼の母のからだから、肉と血から生まれた息子」、「実在の母の実在の息子である……母にしても息子にしても、そのほかの母たちのすべてのそのほかの息子たちと場合と同じように実在の息子である」――「この完全な意味で、またイエス・キリストは人間であり給う」。「この完全な意味でそれからもちろん」、それゆえに、イエス・キリストは、「根本的」・「包括的」に、「完全性と真理性」を保持した「人間存在」であり、「ほかの母たちのほかの息子たちとは違った仕方で、人間であり給う」、神性を本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」である。したがって、私たち人間は、啓示に固有な証明能力による、神の自己啓示、神自身の自己認識・自己理解・自己規定である啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、人間の自己認識・自己理解・自己規定をなすことができるのである。

 

 この「クリスマスの秘義」のしるしである「マリヤヨリ生マレ」――ガラテヤ4・4「女から……生まれ」、「アタナシウス信条……『母ノ実体カラ、時間ニオイテ生マレタ人間』」――の条項は、「何らかの抽象をもって始められ何らかの空論に終わる」机上の論理ではなく、不可避的な聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義(キリスト教に固有な類・歴史性)への連帯における、不可避的に強いられた「グノーシス的――仮現論的」キリスト論に抗する<たたかい>から得られた教義的時間累積であり、それゆえに<自然神学>的な「グノーシス的――仮現論的な見方を防ぎ守るという……実際的な意味を持っていた」し・現在においても持っているのであり、それゆえにまたそれは、神学における思想として、現在から未来に生きるものなのである。(365−367頁)

 

ア)「インマヌエルがまこととなる時、人間の身に対して奇蹟が起るのである。主権的な神の行為の対象はこの出来事の中での人間である。ここでただ神ご自身……だけが主人であり、主であり給う」。このことは、<自然神学>的な「すべての神人協力説とすべての一元論に対していくら排他独占的に、いくら拒否的に強調されても、十分過ぎることはないであろう」(368頁)。イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し信仰し承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し信仰し承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し信仰し承認し確認する。

 

 「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである(これを言葉通り理解すれば、≪私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ≫ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。「(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵(≪神性を本質とするイエス・キリストの名≫)である」。(『福音と律法』)

 

 神の第二の存在の仕方(性質・働き・行為・業)、神の言葉、神の子における「啓示と和解」は、「無カラノ創造が問題なのではない」から、この意味で、それは、「新しい創造(Uコリント5・17)と呼ぶことができる」(369頁)。この「新しい、第二の創造は、古い、第一の創造を前提としている」。このことは、次のように言うことができる――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味している、と。また、次のようにも言うことができる――福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。この啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、すなわち成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰し承認し確認することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰し承認し確認することができる。

 

 「裁きと恵みを通して新しく照らしだされ、形成されるべき、それ故にわれわれによって、神とのその関係において(≪神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまって、人間的契機の直接性あるいは人間学的契機の直接性において≫)直接的に考察され、理解されるべき実在としてではなく(<自然神学>の成果としてではなく)」、「ただ裁きと恵みの認識の中で考察され、理解されるべき実在として」、「奇蹟的な仕方で働きかけられるところの現実存在として、古い、第一の創造を前提としている」。この認識と信仰と承認と確認と自覚は、「すべての自然神学に対して、聖霊ニヨッテ宿リという(≪秘義の奇蹟の≫)積極的背景をもった処女ヨリは必要なかんぬきをさしはさむであろう」。なぜならば、その「秘義は、もしもそこで処女マリヤヨリが繰り返し共に聞かれないならば、……否定されることになる」からである(369頁)。

 

イ)「神ご自身であり給う……啓示者の人間的な現実存在の生成、初め(マタイ1・1、18)」という「直接的に神によってたてられた(≪秘義の≫)しるし」の「ひとつの奇蹟」である「処女ヨリ」は、「われわれの世界の出来事であるが、しかしそれはこの世界の中での連続性の中に基礎づけられていないし、またそういう連続性から……理解されることができない出来事である」。しかし、「われわれはそれを(≪その秘義のしるしである奇蹟を≫)理解するためには」、「それの不連続性、それの『超自然性』を確かめるだけで終わってしまうことはゆるされないのである」。なぜならば、人類史の経済社会構成体を農耕に置いたアジア的段階においては天皇を含めて非農耕民は<神人>と呼ばれていたように、「異教的な宗教と世界観にしたがっても奇蹟が存在し、しかも聖書的な奇蹟、……まさに処女ヨリ生マレに大変よく似た奇蹟が存在する」からである。したがって、「処女ヨリが新約聖書の中で登場してくる際の現われ方、そしてそれが古代教会の中ではじめから説明されてきた際の説明の仕方」にまで遡及して考察する必要があるのであるが、そこでは、「処女ヨリ」において、神の「言葉が肉となる」ことによって・「神の子が『人性』をおとりになる」ことによって・「この人性に対して全く明確な限界づけが起こる」のである、すなわち「人間の性質に対して恵みが与えられるようになる」場合にはその「人間の性質がまた裁きのもとにおかれるということなしに、起こることはできない」、ということが語られているのである(370頁)。「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。

 

 「恵み」は、「裁きという狭い門を通り、狭い道の上を通って来るしかない」(372頁)。成就された時間であるキリストの復活における、キリストの「死と復活」、恵みと裁き、福音と律法――「ルカ1・28−38において」、「これら両方のことが問題であることは……明瞭となる」。すなわち、「天使の使信」は、先ず「おめでとう」・「恵まれた女よ」・「主があなたと共におられる」という言葉をマリヤに語る、それに対してマリヤは「戸惑い」・「心を動揺」させ・「胸騒ぎ」する、その彼女に対して「恐れることはない」・「あなたは神から恵みをいただいている」という言葉が語られる、そして「聖霊があなたに降り」という聖霊の注ぎによって・マリヤはその神の側からの助けで「躓きを克服」し、マリヤの人間的な意志によってではなく、おのずから「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答える。このように、先ず以て神の側から「その人間に対して恵みが与えられる」ことによって、そのような人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・その「肯定」と「是認」・「承認」と「確認」・「決断」を持つことができる。したがって、「処女ヨリ生マレはこれらのテキストによればただ単に生物学的な意味で、自然と出会っているというだけでなく」、「内容的に、それとしての人間の身に及んでくる純粋な出来事(≪神の側の真実のみからやってくる啓示の出来事と信仰の出来事≫)が問題である」。(371頁)

 

ウ)人間そのもののマリヤが「主の母」として、「神の啓示が人間の世界に入ってくる」「門」となるということは、「人間に対して下されたひとつの判決が含まれている」。したがって、すべての現にあるがままの「人間的な性質それ自身は、イエス・キリストの人間的な性質、神的啓示の場所、となる能力をもっていない。人間的性質は神の同労者(≪「共働者」・「協働者」≫)であることはできない」。なぜならば、現にあるがままの人間は、「もともと人間に固有な」「起源的な」「原罪」・無神性・不信仰・真実の罪・「不従順への奴隷的ナ意志」で存在しているからである、すなわち「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」ところの「不従順の中に存在している」人間であるからである。したがって、「人間的性質が事実、神の同労者となるならば」、神と人間との無限の質的差異の下で、前述した出来事に基づいて、ただ感謝の応答において、キリストの奴隷として、そしてキリストの奴隷における全き自由人として、マリヤのように「ワタシハ、主ニハシタメデス」・「お言葉どおり、この身に成りますように」、と「告白」し、「証し」し、「宣べ伝える」以外にないのである。(373・374頁)

 

 「イエス・キリストは聖書および信仰告白によれば、クリスマスの秘義、それとともにイエス・キリストの中で起こった原罪の克服」のしるしである「処女から生まれ給うた」という奇蹟は、「処女から生まれ給うたが故に、第二の、新しいアダム」を指し示しているのではなく、神性を本質とするイエス・キリストは「第二の、新しいアダムであり給うということ……が、……『あなたがたにわかるために』」なのである(377頁)。「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」(神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方)だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の第二の「存在の仕方」なのである。そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである

 

エ)自然としての生理的身体の「性的結合なしの誕生」である処女降誕は、「キリストの誕生を神の秘義として……特徴づけている」。したがって、「詩篇五一・七〔五〕の箇所、『見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました』は」、自然的な性的関係に対して「断罪することを意味していない」――「カルヴァンは、人間ノ出生ハソレ自体トシテハ汚レテモ、ソコナワレテモイズ、堕落ニヨッテ偶有性トシテ汚レガ生ジタカラデアル(『キリスト教綱要』……)と語った時」、それは、「スコラ学者たちもいだいていた一般的な見解を定式的に言い表している」。なぜならば、「イエス・キリストの人間的現実存在の起源として」、処女ヨリ、ということで自然的な性的関係が排除された時、それは、自然的な性的関係が罪であるということではなくて、人間が、「生まれながらにしてもともと罪人であるが故に」、神にのみ信頼し固執せず自分の欲求や自主性や自己主張を追い求め続けるがゆえに、無神性・不信仰・真実の罪・「不従順を生きぬくところの罪人であるが故に」、自然的な性的関係も「罪と結びついて」いるからである。したがって、このクリスマスの秘義のしるしである自然的な性的関係の排除における処女ヨリの奇蹟は、「イエス・キリストの無罪性を示すしるしとなるには、……まだ不適当なものである」。(376−378頁)

 

 「啓示と和解の秘義」は、「神がその自由、いつくしみ、全能」において、「人間となり、そのような方として人間に対して働きかけ給うということから……成り立っている。神のこの自由な「行為を通して罪は排除され、空しくされるのである」。この「恵み深い」神の自由な行為を、クリスマスの秘義のしるしである「処女ヨリ生マレ」は指し示している。したがって、この神の自由な行為は、「被造物自身」の直接的無媒介的な「自由の否定である」。すなわち、「被造物」は、「神の恵みによって生きる」ことができるという認識を得ることによって、直接的無媒介的な被造物自身の自由な「意志」的企て・「原罪の意味での罪」が「裁かれている」こと・「排除」されていることを認識することができる。クリスマスの秘義のしるし、すなわち神の「恵み深い裁きを指し示している」処女ヨリ生マレの奇蹟に対して、「人は、意志を働かせない、〔何事かを〕達成しようとしない、創造的でない、絶対主権的でない人間の形」において、「ただ単に受け取り、ただ用意していることができる人間、ただ単に何事かを自分の身に、そして自分とともに起こらせることができるだけであるところの人間の形」において、すなわち「処女マリヤという形」において「関係している」。ここにおいて、個としての「人間、処女」は、「肉をとった神の子の母となる」「可能性を手にいれるのである」。処女性が、その可能性の根拠ではない。イエス・キリストが「聖」であるのは、自然的な性的関係なくして生まれたからでもなく・処女ヨリ生マレたからでもなく・「人間的な父が欠けていた」からでもなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の「言葉が肉となった」からである(379・380頁)。

 

オ)「神的な恵みの裁きのもとに立っている」人間的な処女性は、「肉をとった神の子の母となる」可能性の根拠ではないし、それが「神的な恵み」との結合点を「形成すること」もできない。神の恵みは、「神的な恵みそのものを通して」、「処女だけを考慮に入れ」て、すなわち「神の同労者(≪「共働」者・「協働」者≫)としてではなく、その自主性のなかでではなく、生成すべきこと関して一緒になって自由に処理しつつではなく」、神の側の真実においてのみ「人間に対して働きかけ給う」、先ず以て神が人間に対して、自己を啓示し、「ご自身を……与えら」れることを通して、そして「神に向か」う「用意」を授与されるということを通して、「人間に対して働きかけ給う」のである。このように、「根本的に神は、人間に向かって恵み深くあり給う」ことによって、「肉にあっての罪を裁き給う」。「イエス・キリストの人間的な現実存在の起源として」、処女ヨリ生マレの奇蹟、すなわちクリスマスの秘義のしるしである「罪深い性生活が排除されているということ」は、自然的な性的関係やその罪深さ故にではなく、「すべての人間的な出生に際しては、また意志を働かせる、〔何事かを〕達成しようとする、創造的な、絶対主権的な人間が登場している」が故に、「恵みのこの秘義を指し示している」。「神の前での人間の否定ではないが」、「神的ないつくしみの尊厳さ以外のところを指し示す」、「意志を働かせる、〔何事かを〕達成しようとする、創造的な、絶対主権的な人間」における「ヨセフとマリヤの結婚」ではないところの、すなわち神との「同労」・「共働」・「協働」を目指す人間の自由な自己意識・理性・思惟・意志の無限性・直接的な人間的自然の「可能性、適性、能力の否定を意味している」マリヤの処女性――「ワタシハ、主ノハシタメデス」・「お言葉どおり、この身に成りますように」――は、「啓示の、そしてクリスマスの秘義の認識の、しるしである」。(381・382頁)

 

カ)キリストは、その単一性・神性・永遠性において、「父の永遠の子として母をもち給わないように」、人間的な現実存在において、「肉となったものとして父をもつことができない」。この後者の命題の背後には、キリストは、「人間としても、……ただ、神の言葉あるいは子の永遠の存在の仕方の中でのその神的な現実存在の故に、存在している」という認識が潜んでいる。すなわち、イエス・キリストは、神性を本質とするマコトノ神ニシテマコトノ人間である。『神の人間性』に即して言えば、イエス・キリストは、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という神の第二の存在の仕方である。完全な自由は、自在であって他在である三位一体の神においてのみ、「実在であり真理」である。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、自己表現する。そして、人間へと向かうこの神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的な実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある。このように、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。したがって、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との「同労」論・「協働」論・「共働」論という<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論の陥穽に陥っていく以外にないからである。<自然神学>の枠組みの中で、停滞と循環の空論を繰り返す以外にないからである。
いずれにしても、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、それゆえにその区別された子は父が根源であるから、「アガペーのしるしの中には、……特にエロスのしるしそのものだけでなく、まさに男〔性〕の機能」は排除されなければならないし、「主権的な人間」・神に対して「自主独立的な人間」・「エロスの感情を強く持って生きる人間」、すなわち「男性的な人間」である「人間的父親」は「欠如して」いなければならない。すなわち、このようなクリスマスの秘義のしるしは、「処女ヨリ生マレ」という奇蹟でなければならない。(382−383頁)。

 

キ)人類史の母型・母胎・原型である母系的なアフリカ的段階・縄文的段階における「宗教制度の政治支配の様式」や「宗教的な政治習俗」は、「王がその共同体とともに圧政的につくり出すものだともいえるが」、「人々もかつて王を神と呼んでいた」ことからすれば、「住民が自然につくり出すものともいえる」。この場合、王は、「自然の精霊の代理者として住民(臣民)によって据え置かれる」、と同時に、この絶対王政の王は、「疫病が猛威をふるったり、自然現象が度重なる異常な災害をもたらしたり、凶作と飢餓に見舞われたりすれば、……自然の精霊の代理者として降位させられたり殺害されたり」した。いずれにしても、日本においては、チベットのダライ・ラマのように「男性の宗教王(諏訪の大祝)である場合も、ネパールのクマリ(幼女の生き神)のように「女性の宗教王(卑弥呼や聞得大君)」である場合もあった、と吉本隆明は述べている。

 

 さて、バルトは、「母権制度があった」また「あるとしても」、「すべての民族、国家、文化の歴史的な意識は父権制度」・「男の行為でもって始まって」おり、「聖書的な啓示証言もまた、……そうであるということを前提している。またキリスト教会の考え方もこの聖書的な啓示証言の立場」と「同じ立場をとった」、と述べている。創世記3・16は、「男が女の主人となるであろうということは、まさに堕罪の結果、男と女に負わされた呪いに属している」ことを、またパウロのTコリント11・8以下は、男女の「上下の秩序」が「『創造にかなう秩序』としてではなく、「堕罪の領域において妥当する神の規定として」語っている。そして、「この規定の意味で、……創世記三・九で直ちにアダムが〔つまり〕男が、神によって語りかけられ、責任をとらせられていること」が「起こっている」。言い換えれば、「男も女も共通に罪に堕ちてしまった」ために、「そもそも上下の秩序については語られ得ない〔堕罪以前における〕関係から……ぬけ出てしまったことに基づいて」、「不平等」が生じ、また男が女の主人となることによって、父権制的な世界史の展開となった、と述べている。

 

 前述したことから、「今や反対のしるし」、すなわちクリスマスの秘義のしるしである処女ヨリ生マレの奇蹟、「イエスの人間的な父が欠けているというしるしがしるしとして理解されるものとなる」。すなわち、人間は神だけでなく人間の自主性・自己主張を欲求し欲求し続ける無神性・不信仰・真実の罪・「不従順」――人間は神だけを求めず自分の「意志を働かせ……〔何事かを〕遂行しようとする、創造的な働きを」しようとする「不従順」――を本質としているから、その最初から「神の業に与る参与者として問題となり得ない」、ということを理解することができる。この認識・理解は、直接的無媒介的な存在の類比を通したそれではなく、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比を通したそれである。この「不従順の状態にある人間こそが、ヨリ大事ナ面カラミテ男なのである」。言い換えれば、そうした状態にある男、人間、また彼の「行為」における「世界歴史」に対して、「恵み」の秘義が「抵抗」し拒絶しているのである。したがって、「イエス・キリストの誕生は、すべてのそのほかの人間の生成と違って〔真正面から対立しつつ〕徹頭徹尾男の歴史ではない」のである。したがってまた、イエス・キリストの「母は処女であり、しかもまさに自然的な母であり、それでいて自然的な能力あるいは力によってではなく聖霊により、ただ神のみ力によってみごもったのである(ルター)」とは、「人間とその罪」の「限界づけ」であり、「同時に、あの男の優位性」の「限界づけ」である。
 マタイ1章「イエス・キリストの誕生」にあるように、ヨセフは「全面的に背後にしりぞき、神がその代わりに登場され、……全くただ神として、奇蹟を行う創造者として新しいことを造り出し措定するという……仕方」においてはじめて、すなわち神の第二の存在の仕方における「罪のない神の子の人間的現実存在が、それとともにわれわれに対する神の啓示が、そして神とわれわれとの間の和解が可能となり、実在となる」。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、それゆえに、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。したがって、イエス・キリストの誕生において、神だけでなく人間の自主性・自己主張もという「男性としての人間のなす行為全体」・「人間的な生むことを排除している」のである。このような訳で、「処女カラ生マレなのである」。

 

 この「処女」としての女の本質は、人間としての女にもある、前述した意味で「神的な裁きのもとにおかれている」「罪深いものとしての男の基本的な素質」を「引き去った後に残る」、それである。したがって、ルカ1・38におけるマリヤの天使に対する答えは、人間的「自然」に属していることではなくて、啓示の出来事に対する聖霊の注ぎに基づいた信仰の出来事の授与(啓示に固有な証明能力に基づく、啓示の認識・啓示信仰・啓示の主観化主体化)に属している。「それ自身が既に奇蹟に……属している」。決して、マリヤに神性性があるわけではない。神と処女的人間・その人間の被造物性(人間的自然)との「同労」・「共働」・「協働」である、ということではない。なぜならば、処女マリヤも、「罪ニソマリ、罪ニオカサレタ」「人間の性質」を持っており、それゆえに「宿シ生ム力ヲ至高の神ノアノ寛大サニヨッテ与エラレタ」からである。このマリヤは、あくまでも「神のあわれみの秘義」・「神的な義認と聖化の行為」によって、その人間的性質にもかかわらず、「あの交わりにあずかる」ことができたのである。この「神のあわれみの秘義の中で、人間の性質は、罪深い人間の歴史を度外視して、……人間の性質そのものの破滅にもかかわらず、恵みからして、恵みの奇蹟を通して神的性質との交わりに、値するものとされる」。
 したがって、「人は……ローマ・カトリックのマリヤ論の痕跡をすべて消し去ってしまわなければならないだろう」・「堕罪にもかかわらず人間に残された、神のみ業に対する原理的な開放性であるとして理解することはゆるされないであろう」・「人間はエペソ2・3によれば、『生まれながらの怒りの子』である」・「堕罪は人間全体の(≪全面的な≫)堕落である」・人間は、「神に向かって」、徹頭徹尾「不従順である」ことによって、すなわち人間的な欲求・自主性・自己主張を持って「なすところのものである」。このような訳で、「処女マリヤヨリ生マレ」における女の本質は、「女が男とともに責任を負わなければならない罪にもかかわらず、地上において永遠の神ご自身を宿すものとして、神の母として、とり上げられるのである」。(383−388頁)

 

 

(8)クリスマスの秘義における、そのしるしである「処女ヨリ生マレ」の奇蹟は、その秘義の「否定的な面」、すなわち人間の無神性・不信仰・真実の罪・「不従順」、いわば人間的な欲救・自主性・自己主張に基づく神との「同労者」性・「協働者」性・「共働者」性に対する、否定を意味している。このことを、「第一の、積極的な定式、聖霊ニヨッテ宿リが証明している」。この積極的な定式は、「イエス・キリストの懐胎」が、マリヤからの誕生に「先行した」、神の第三の存在の仕方である「聖霊なる神のみ業であったということを語っている」。したがって、イエス・キリストの誕生は、「奇蹟的な誕生であったし、そのようなものとして永遠なる言葉の受肉のまことのしるしであった」。「処女ヨリ生マレ」という定式は、クリスマスの秘義のしるしであるその奇蹟・形式と形態を言い表しているが、「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、クリスマスの秘義のしるしであるその奇蹟・根拠と内容を言い表している。(388・389頁)

 

ア)「それ自身また言葉の受肉の秘義そのもの」の、神の第三の存在の仕方・性質・働き・「行為」である「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、「啓示と和解のあわれみ」の神の第二の存在の仕方・性質・働き・「行為」である神性を本質とするイエス・キリストの「人間的な現実存在」が、「聖霊なる神の最も固有な業であるということ」を語っている。

 

イ)クリスマスの秘義において、それと「もっとも近い関係にある」「聖霊ニヨッテ宿リ」は「事柄」を、また「処女マリヤヨリ生マレ」の奇蹟はそのしるしを言い表しているというように、「分けてしまうことはできない」。すなわち、その両方の定式は、その同時性・同在性・構造性において受け取るとる必要がある。なぜならば、「聖書の奇蹟についての報知」、すなわち「聖霊ニヨッテ宿リ」は、「マタイ一・一八あるいはルカ一・三五の直接的な引用」であり、他方「処女マリヤヨリ生マレは、(確かにイザヤ七・一四を想起しつつ)いわばそれを教義的に精密に言い表しているからである」。神的側面に属する「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、性を本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」「イエス・キリストの人格の秘義」のしるしの奇蹟、人間的側面に属する「処女マリヤヨリ生マレに属している」。

 

 「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい。受肉・「人間の歴史的形態、イエスの名」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。このように自己啓示する神は、「恵みそのものの秘義」、啓示の弁証法において、「まさにアラワサレタ神こそ隠サレタ神」である。

 

ウ)恵みの「秘義」・クリスマスの秘義のしるしの奇蹟「聖霊ニヨッテ宿リ」は、そのしるしの「形式と形態」である奇蹟「処女マリヤヨリ生マレ」の「根拠と内容である」。「キリスト教の啓示と教会の領域において聖霊」は、「神ご自身」を、「言葉の最も厳格な、全き意味での神」を、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方を、指し示している。すなわち、「父ト子ヨリ出ズル」聖霊は、「すべての主の主、……ご自分を通して主であるところの主……その方に人間はすべてを負うており、いつまでたってもすべてを負うたままであるところの主、……ただその方の約束の中でだけ人間の未来があるところの主である方」を意味している。イエス・キリストは、聖霊によって、「処女マリヤから生まれるために、人性という面で受胎された」。この啓示認識は、「異教的な神話の領域に見られるような……もろもろの主張と同種の平行現象として受けとろうとすることを拒否する」。また、それは、「われわれの人間的な世界観」を拒否する。そしてまた、それは、「何らかの自然哲学的思弁あるいは……多少とも純粋に自然科学的な認識をもって助けにおもむこうとするすべての試み」を「排除」する。なぜならば、啓示に固有な証明能力に基づいて、神の聖性・隠蔽性・不把握性と終末論的な限界の下で、「処女降誕のしるしの創始者」が「神ご自身」である「聖霊」であることを認識し信仰し告白するならば、すなわち「このしるしが実在であることを認める告白」をするならば、「はじめから、このしるしを自然的な可能性として理解することを断念」するだろうからである。また、人間的自然、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍から信じられないことであるとしても、近代以降の宗教である科学<主義>や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を含めてそれらのことを第一次的な原理・認識方法とすることを断念するだろうからである。奇蹟「処女降誕をクリスマスの秘義のしるしとするところのものは」、「聖霊ニヨッテ宿リ」という奇蹟、「聖霊の神性についての……厳格な理解――イエス・キリストが受胎された聖霊の神性についての理解」にある。(389−392頁)

 

エ)神の「第三の位格あるいは存在の仕方」である「聖霊を通してだけ、人間は神のためにその場におり、人間に働きかけ給う神の働きに対して自由であり、信じ、神の啓示の受領者であり、神的和解の対象者であることができる」。「ただ聖霊の中でだけ、人間は、彼が実際に神の啓示する、そして和解する行為に参与していることに対する証言と保証をもつ」。「ただ聖霊の力によってだけ、教会が存在する」。すなわち、「神の言葉に対して奉仕がなされ得る教会が存在する」。この聖霊自身の自由において、この聖霊の中での自由において、「教会の自由、神の子たちの自由」がある。このことは、「既に、(≪聖霊によって≫)神の言葉の受肉、神のみ子が人間の性質をおとりにな」ったことを根拠としている。「神の子との統一性の中に取り上げられる人間の性質の可能性が、聖霊である」。神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事・神の第二の存在の仕方・啓示と和解・神の子・「神の言葉」は、聖霊なしではない。聖霊は言葉と「ともにある共存である」。したがって、啓示は、啓示に固有な証明能力において、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と神性を本質とする聖霊の注ぎによる信仰の出来事を同在させている。このことは、全く「人間の性質そのものの能力による」のではない事柄として、そのことに基づいて、「神のために自由であるということ」が「実在となり」、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、証言・証し、教会の客観的な信仰告白・教義、啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)が可能となる(「ヨハネ一・一二以下、三・三以下」、「ヨハネ三・五以下」)。

 

 新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」――この神との出会いであるイエスとの出会いである「信仰の出来事」は、神性を本質とする聖霊の注ぎを必要とするのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。

 

 恵みの実現・キリストの処女降誕の秘義のしるしは、「聖霊ニヨッテ宿リ」という聖霊による懐胎の奇蹟である。新約聖書は、「二つの重要な平行記事をもっている」――@マルコ1・9以下の「ヨルダン川での受洗」である。「聖霊なる神がはとのようにイエスの上にくだった」における、「イエスの受洗」の秘義のしるしは、「聖霊がはとのように……くだった」という奇蹟にある。このことは、イエスは神性を本質としているのであるから、聖霊がはとのように下ったことによって「イエスは神の子となる」ということを指し示しているのではなく、聖霊が「はとのように……くだったそのものは、神の愛する子であるということを言っているのである(ヨハネ一・三二以下参照)」。Aローマ1・4の「イエスの甦えり」の秘義のしるしは、「聖霊」によれば「人間イエスが神のみ子と定められた」という奇蹟にある。「聖霊にまでさかのぼ」って、「人間イエスが神のみ子と定められることのしるしとしてイエスの甦えりが名ざされている」。(392−394頁)

 

オ)処女降誕のしるしを、「聖霊ニヨッテ宿リ」という聖霊による懐胎の奇蹟として、「聖霊が名ざされていることは、……二重の意味で特徴的である」。第一に、それは、「イエス・キリストの人間的な現実存在の秘義」を、三位一体論的な「神ご自身の中にある秘義」にまでさかのぼらせている点にある。第二に、それは、聖霊が、「われわれの和解が和解者の現実存在と関わっている」ことを指し示している点にある。すなわち、それは、啓示に固有な証明能力、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示と和解の客観的実在、「和解せしめる愛」)と神性を本質とする聖霊の注ぎによる信仰の出来事(その啓示と和解の主観化・主体化、「救済する知恵」)に基づく啓示認識・啓示信仰の授与と感謝の応答にある。「聖霊の業の……主要な実現に基づいて」、「人間が神に向かって用意ができていることが神ご自身を通してわれわれの身に起こることができる」。(395頁)

 

カ)「聖霊ニヨッテ宿リ」は、イエス・キリストは、「その人間的な現実存在という面で父親をもち給わなかったということを言っている」。また、聖霊がこの奇蹟において「男性の代わりとなり給うということ」は、人間的な「男性のなすところのことをなす」ということではない。「ジュピターおよびそのほかの、人間の娘たちを欲情をもってみた神々についての神話」があるが、神と人間との無限の質的差異において、「聖霊と処女マリヤの間に結婚のような何かが起こったかのように受けとる考え……は完全に排除されている」。なぜならば、「処女降誕についての新約聖書の箇所は、聖ナル結婚について語っているのでは……ないからである」。また、イエスが「聖霊によって受胎されたということ」は、イエス自身、単一性・神性・永遠性を本質としているから、「決してイエスが聖霊によって生み出されたということを意味していない」。(396頁)

 

キ)「聖霊ニヨッテ宿リ」における「処女がみごもるところの聖霊」は、「神化された男性ではなく」、「神ご自身である」。したがって、神と人間との無限の質的差異において、「その奇蹟的な行為は霊的な行為として理解されるべきであって、決して精神的――肉体的な行為として理解されてはならず、多少とも被造物的エロスの業と類似した行為として理解されてはならない」のである。「キリストの受胎が聖霊の業であると言われている時」、このことは、人間的自然の直接性、人間学的な哲学原理や認識論や世界観、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づく「存在の類比」を通した「すべての説明」を排除している。言い換えれば、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した「信仰の類比」・「関係の類比」を通した「説明」を求めている。(397−399頁)

 

 

 最後に、私たちは、バルトが、以下に引用することを念頭においていて述べていたことを実感し認識する――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)。