カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

7.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(239-259頁)

7.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(239-259頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

7.「啓示の秘義――キリスト論の問題」(239-259頁)
 「神の啓示の秘義」――すなわち「まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストという命題・定式」は、換言すればご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在し(それ故に、われわれ人間は、神の不把握性の下にある――下記の【注】を参照)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業・働き・行為、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)としての「まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストという命題・定式」は、第一に、十字架の死を包括し止揚し克服したイエス・キリストの「甦えり」(復活)において啓示された、「神の永遠の言葉が、ご自身と一つとなるために、人間的な本質と存在を選び、きよめわかち、取り上げたということである」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! ……しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)、ギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」は主格的属格として理解されるべきものである、すなわち神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある「イエス・キリストが信ずる信仰」による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)そのものとして理解されるべきものである。また、それは、第二には、イエス・キリストが、「神によって人間に語りかけられた和解の言葉であるということから成り立っている」。また、それは、第三には、啓示の秘義の「しるし」、「彼が聖霊によってみごもり、処女マリアより生まれ給うたという彼の出生の奇蹟である」ということから成り立っている。

 

【注】イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。この「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。

 

(1)「啓示の客観的可能性」を問う問いに対する答えは、「厳密に、本来的」には、「旧約聖書的待望および新約聖書的想起の対象」(「成就の待望と成就の想起の対象」)としての「神がわれわれのために持ち給う時間」・「成就された時間」・「キリスト復活40日(使徒行伝1・3)」・「甦えりの出来事」(「まことの現在」)――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「啓示ないし和解の実在」そのものと、「甦えりの使信」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「新約聖書において聞く啓示、和解」(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)としての「啓示の客観的実在にある」。したがって、バルトは、「先ず第一義的に優位に立つ」「啓示とともに、(≪それを起源とする≫)聖書および(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配とする≫)キリスト教の宣教は立ちもすれば倒れもする」し、それ故に教会の一つの機能としての教義学(神学)も「立ちもすれば倒れもする」と語るのである。イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、前段で述べたような三位一体の神として自己啓示されたのであるから、この啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、教会の宣教、教会の一つの機能としての教義学(神学)が、この「認識原理」に基づいて、「自分を原則的にキリスト論として理解しない時、そしてまた理解させることができない時、その教義学は必ずや何らかの疎遠な力の支配のもとにおちいっているのであり、その時それは確かに既に、教会教義学としてのその性格を失っている」とバルトは語るのである。何故ならば、「教会の宣教の批判と訂正」が、三位一体論に即して行わなれないならば、すなわち三位一体論を「啓示の認識原理」として行われないならば、すぐに神性否定のキリスト論、半神・半人キリスト論、三神論に埋没していく以外にないからである。そして、バルトは、この場所において、「われわれは、概念の特別な意味でのキリスト論の領域に足を踏み入れることになる」と述べている。

 

 この「甦えりの出来事(歴史)」・「キリスト復活の出来事」(顕現、高挙、啓示、和解)と「切り離せない仕方で結びついているのは」、「近づいたみ国のしるしおよび啓示」、「イエスの甦えりの告知」における、キリストの十字架(死)でもって終わる「受難の歴史」、「それに先行するイエスの生涯全体の歴史」である。しかし、この「神が人間となる」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、神性の「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。

 

(2)バルトは、「近代において教会教義学は、すべてを荒廃させてしまう自然神学の侵入のもとで崩壊してしまった」が、この自然神学の侵入による崩壊は、「既に、正統主義の時代に、いや、部分的には既に中世のスコラ哲学の中で、そして教会教父たちのところで、……はじまっていた」と述べている――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、(≪自然神学の段階における宗教理解として≫)本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。彼らは、「ヨハネ1・14をもはや本当には理解することができなかった」。近代主義を骨肉にまで受け入れた教会の宣教、教会の一つの機能としての教義学(神学)は、「むしろ」、「第一戒」と「キリストの啓示」を「先ず第一義的に優位に立つ原理」として第一次化するのではなくて、「人間学の後追い知識」として人間学的な哲学原理・認識論・世界観、歴史学・心理学・教育学、近代的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍を第一次化するという仕方で、「マタイ6・24で述べられている」「二人の主人に兼ね仕える」ことをはじめたのである。

 

 人間中心主義的な近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」場合、それは、「視覚的錯覚に陥っているからである」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからである、先に述べた【注】におけるイエス・キリストを認識できないからである。しかし、その場合、「和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体」が、自然神学的な「思弁でしかないものである」。そのような認識においては、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」、「最高の理想」(八木誠一の『イエス』によれば、イエスは、「人間存在の根底を語り続けた」・「ただの人の真実のあり方を告げた」ただの人間である)等の「空虚な概念でしかなくなってしまう」。ほんとうは「キリストの神性についての教義こそ」が、一切の近代主義、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に、「神的啓示と人間的な信仰の間における幻想性」に、その「形而上学」性に抗することができる教会の宣教における・その補助的機能としての教義学(神学)における思想的な「武器」なのである。このことに対する認識と自覚が欠如している場合、シュライエルマッハーの「浪漫主義的な歴史理解」と「キリスト中心的な努力」との混淆神学(自然神学)、リッチュルの「カント的な形而上学」と「キリスト中心的な努力」との混淆神学(自然神学)等々に埋没してしまうのである。

 

(3)このことは、第一段落目で述べたことと関係するのであるが、バルトは、教義学が「教会的になる」ためには、「特別なキリスト論」、「イエス・キリストの位格についての、明瞭な教説を必要とする」、すなわち「明瞭な三位一体論的――キリスト論的認識を必要とする」と述べている。それは、第一に、内容的には「イエス・キリストの中で神と人間が一つになり給うたというキリストの両性」についての明瞭な認識と教説(先に述べた【注】を参照)であり、形式的には「イエス・キリストが処女マリヤから生まれ給うたというクリスマスの奇跡」についての明瞭な認識と教説である。これら二つの主題について考察するための基本的な事柄は、次の点にある。

 

(ア)キリストが「神性」を本質とするとは、彼は、「自己を覆い隠す」・「隠蔽」性・「聖性」の「神から由来する」ということである。何故ならば、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在し「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・起源としての父は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」・起源であり、その区別された子は「父が根源」・起源であり、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」・起源であり、この神は「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」からである。バルトは、「M・グリューネヴァルトによって描かれたイゼンハイムの祭壇の主要な画像の対象」について、教会は、「恵みとまことに満ちた父のひとり子の栄光を見ている……。しかし、その神性性は隠されており、ただ(≪その神性性を≫)間接的に見ているだけである」(先に述べた【注】を参照)、すなわち「直接的」には(≪可視的な≫)「その人間性」における「幼児イエス」を見ていると述べている。教会(すべての成員)の宣教は、このような仕方で、神をキリストにおいて「信じ、また認識する」。詳しく言えば、教会(すべての成員)の宣教は、キリストにあっての神を、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で聖霊によって更新された人間的理性に与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)において「信じ、また認識する」。このことは、神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が神とわれわれ人間とを架橋されないならば、「全く不信仰で罪に穢れたわれわれ人間」は、また「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいないわれわれ人間」は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことはできないということを意味している。このように、バルトにおいても、「教義学的な合理主義は明確に否定されている」のである。教会の宣教における思惟と語り、その一つの補助的機能としての教義学(神学)における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。「第一戒」や「イエス・キリストの啓示の事柄に疎遠な副次的な中心を立てる」ことは、「誤謬が必然」となる自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥ることになるのである。したがって、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示ないし和解の実在」(起源的な第一の形態の神の言葉)そのものであるイエス・キリストと共に、「教会の宣教における原理」・規準・法廷・審判者・支配者であり、「教会に宣教を義務づけている」第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)である「聖書こそ」が、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会を支配する」のであって、教会が「聖書を支配してはならない」のである。

 

(イ)キリストの「両性」の命題――すなわちキリストにおいて「神性と人間性が一つである」という命題は、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストにおける神の啓示の秘義を言い表している」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」)を起源とする第二の形態の神の言葉である新約聖書の証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)は、「徹頭徹尾」「そこから由来して」いる。したがって、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義も、「徹頭徹尾」「そこから由来して」いる。したがってまた、「人は……(≪そこを≫)出発点として述べることができるだけである」。何故ならば、キリストの「啓示は、例証されようとせず、解釈されることを欲する」し、「解釈するとは、(≪それぞれの世紀においてそれぞれの世代がそれぞれの資質や現実や時代状況に強いられて≫)別の言葉で同一のことを言うことである」からである。このことは、キリストの啓示は、「啓示に固有な証明能力を持っている」から、第三の形態の神の言葉である教会の教説(教会の<客観的>な信仰告白および教義)は、「既に福音記者と使徒たち自身(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉≫)のところで措定されているのを見るような仕方で、措定しなければならない」ということを意味している。ここに、キリスト論の「目標」はあるのであるが、しかし最善最良の「教義学」も、その「教会的な教義」も、それがわれわれただの人間の営為である以上、「啓示自身からの命令を完全に一義的に厳守することはできない」。この「限界」概念は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とするキリストにあっての神は「隠蔽性・秘義性」において存在しているから、「神の不把握性」ということを意味している。このキリストにあっての神に対して、生来的な自然的な人間の理性は、「全く闇に閉ざされた盲目」性の下にある――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。したがって、この神の不把握性は、「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理、信仰の真理ということを意味している。

 

 キリストにおいて「神性と人間性が一つである」という「キリストの両性の秘義」は、「三位一体の秘義につぐ最高の秘義である」――「ソレ故ソレハ人間ノ理性デモッテハ教エラレ、受ケ入レラレルコトハデキナイ。ナゼナラバソノコトヲ確実に保証スルヨウナソレノ完全な実例ナドハ自然全体ノ中ニ存在シナイカラデアル。……ムシロソレハ神ノミ旨ニヨリ、聖書ニヨッテ教エラレ、確証サレ、信仰ノ目デモッテ受ケ入レラレナケレバナラナイ(ニッサのグレゴリオス)」。「まことの神」にして「まことの人間」イエス・キリスは、「聖霊ニヨッテ宿り処女マリヤヨリ生まれの言い換え」である。このように、古代教会のキリスト論の主要命題は、「キリストの神性性の秘義」を保持している。そこから「出発」している。何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」からであり、そのような仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからである。したがって、古代教会は、「啓示の秘義」を「自ら自由に処理することができるとは考えなかった」。古代教会は、そのキリスト論――すなわちキリストの「神性」と「人性」という「啓示の秘義」から出発した。したがって、キリストの「神性」だけでなく、その「人性」の側面である「肉におけるキリストの啓示」は、牧会書簡のTテモテ3・16におけるように、それは、「ただ単に事実的だけでなく、信仰告白としても、教会の『大いなる礼拝の秘義』」としてもあった。「キリストの両性の命題」は、「仮現論的偏見」や「エビオン主義的偏見」に対して、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の信仰・神学・教会の宣教に対して、根本的包括的に原理的に抗することができる第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての教義学(神学)における思想的武器である――「聖書註解者は、だれに対して、誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべきなのか?」、「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、歴史学・心理学・教育学、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に対してか? 「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である。「われわれは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを、認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)。

 

(ウ)バルトは、次のように述べている――「キリストの両性」についての、「カルケドン会議で解決をみた定式」は、「啓示の秘義」を後景へと退け捨て去ることを意味してはいない。古代教会の「努力全体」に基づく「キリストの両性」の教説は、「啓示の秘義」を「守る術」であり、教会的教義的な「武器」であって、それ故に彼らは、そこからの「出発」したのである。したがって、近代以降の現代を生き思惟し語ったバルトも、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連帯して「キリストの永遠のまことの神性の告白」、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができる、教会の宣教、その一つの補助的機能としての教義学(神学)における思想的「武器」であると述べたのである。しかし、そのバルトが、「古代教会のキリスト論にあるそのほかの点での過ち」と言うとき、それは、「理性的霊魂と肉体とからなる真の人間」という規定にある。何故ならば、その規定においては、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を後景へと退かせ捨て去るという「過ち」、聖霊と人間的理性とを混淆・混合させるという「過ち」を生じさせるからである。したがって、バルトは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、次のように述べるのである――「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちに」「神の人間性もわれわれに出会う」(「神の人間性」、「まことの人間」は、神性を本質とする内在的な三位一体の神の「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方のことである)(『神の人間性』)、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された人間の理性も、聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)、と。

 

(エ)古代教会のキリスト論に対して、それは「主知主義であるという非難を行った代表者は、J・G・ヘンデル」であり、またその「19世紀および20世紀における後継者であるA・リッチュルおよびその学派の歴史家……A・v・ハルナック」である。自然神学の段階で思惟し語る18世紀のヘンデルは、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを、「人間イエス」(われわれと同じただの人間)へと偏向させて、次のように述べている――古代教会のキリスト論は、「ギリシャ的な僧侶の妄想とその僧侶くさい言葉に基づいて、理性的に定義できないことを定義したものである」、それは「スコラ的なへ理屈である」。プロテスタント教会は、それらと「何らかかわりがない」、「パウロおよびすべての福音記者が、キリストはわれわれと同じようなひとりの人間であり給うた、と語る時」、「すべての使徒が、最も困難な戦いを戦い、キリストを模倣しつつ徳の道の上で主にしたがうようにわれわれを義務づけている時」、「すべて」のキリスト者や神学者にとって、「人間キリストは、……雲の上の仙人ではなく、……地上における模範なのである」、「この模範、地上における最も純粋な人間の姿を歴史的に展開し、道徳的に言い表わしている書物はすべて、福音的な書物なのである」(否定的媒介契機として自然神学について批判的に述べている、先に述べた『カント』の引用文を参照)。ここでの「非難」は、「教会教父、スコラ学者、宗教改革後の正統主義者たちのキリストの両性」(「マコトノ人ニシテマコトノ神」)に対する「非難」である。バルトは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義に連帯しないこの恣意的独断的な「非難」を「形式的な非難」と述べている。

 

 「新約聖書のキリスト証言を通して立てられた問い」――すなわち、キリストの「両性という啓示の秘義の告白」は、それを、「ただ一度だけでも自ら見てとったものにとっては……重みを持った意識的な鋭さの表現以外の何ものでもなかった」。「史的イエス」の偏見(下記の【注】を参照)や「仮現論的な偏見」や「エビオン主義的な偏見」によって「混乱させられないで」新約聖書を読めば、あの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、「パウロとヨハネがイエスはキリストである」という命題を立てた時、また「共観福音書記者たちが、イエスはキリストである」という命題をたてた時、それは、彼らにとって、キリスト論の重荷を担ったところの、「重みを持った意識的な鋭さの表現以外の何ものでもなかった」ということを知ることができる。このような訳であるから、「キリストの両性という啓示の秘義の告白」に対する「主知主義」という「非難」は、客観的な正当性と妥当性を欠いたものなのである。したがって、ヘンデルの「非難」は、恣意的独断的な「傍観者的な非難」でしかないのである。したがってまた、このヘンデルの道徳主義的理解の単純さは、「聖書」に基づくことをしない恣意的独断的な理解に起因しているのである。

 

【注】。バルトは、次のように述べている――「歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、「相互排除の関係」にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。何故ならば、啓示は、人間の類の時間性、「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある」。「史実的に正しい内容が重要なのではなく」、重要なことは、「聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラトと使徒信条」というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)」について語っているという点にある。だからとってバルトは、歴史的<事実>を否定してはいない、正直に素直に受け取っている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕に経済的基盤を置き自然を原理としていた人類史のアジア的段階における日本において、非農耕民は、天皇を含めて神人と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。
 詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、次のように述べている――「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(『信の構造2――全キリスト教論集成』)、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっている(≪自惚れている≫)やつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」)、「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(《文芸批評あるいは思想》)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです」(『<非知>へ―<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」)。

 

(オ)人間中心主義的な近代主義的プロテスタント主義的キリスト教を志向するヘンデルやリッチュルは、キリストを「地上における最も純粋な人間の姿」として、「何らかの名目上救いになるといわれている倫理学の図式にしたがって、模範として表示すること」(「模範キリスト論」・道徳主義)をキリスト論の課題としていたが、古代教会のキリスト論はそのようなことを課題とはしていなかった。古代教会は、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して「ただ倫理的にだけ」キリストに興味をいだくことはしなかった。また、「救いについてもっていた古代教会のキリスト論の概念は人間の肉体〔物体〕も包含しており、その希望は身体の甦えりを含んでいた……」(近代以降の現代において生き思惟し語ったバルトもそうであった――『カール・バルト著作集17 説教集<下>』「主を見た時ヨハネ」、『バルトとの対話』参照)。また、古代教会のキリスト論は、「神の性質」を、「道徳律法を与えるもの、あるいは保証するものとして……考えなかった」。ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在し「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子――啓示・語り手の言葉・和解者、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>について考えた古代教会のキリスト論は、「内面的なものと外面的なもの、からだと精神としての人間の現実存在、倫理的な問題と肉体的な問題のことを考えた……」。すなわち、古代教会のキリスト論は、キリストにあっての「神と神的な救い(≪神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある神的な救い≫)について」見・考えた。すなわち、「決定的なこと」は、古代教会のキリスト論は、「近代的な批判者たちのように」、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、「精神的――道徳的」、「精神主義――道徳主義的」、「倫理的に興味を感じていたわけでもなく」、身体的・「物体的に興味を感じたわけではなかった」。古代教会のキリスト論は、「単純」に「包括的」に、キリストを、「新約聖書における証言そのままの姿で」、「全人的な人間の主」――すなわちそのからだと精神の「現実存在に永遠の生命をもたらすもの」、その現実的な人間存在の「和解主として」見・理解した。したがって、古代教会のキリスト論は、それが持つ「危険や欠点にもかかわらず、健康であった」。すなわち、古代教会のキリスト論は、キリストの「人性」について語った時、その「単一性(≪「人性」≫)と全体性(≪「人性」と「神性」との全体性≫)の中でのこの人間存在」について告白し、キリストの「神性」について語った時、その「単一性(≪「神性」≫)と全体性(≪「神性」と「人性」との全体性≫)の中での神的存在」について告白したのである(第一段落目を参照)。したがって、「人がその信仰(≪古代教会のキリスト論の信仰≫)」を、……グノーシスに似た単なる真理とみなす」時、それは、一面だけを拡大鏡にかけて全体化した「視覚的な錯覚」に基づいているのである。

 

 バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」に包括された「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「存在的なラチオ性」に包括された「認識的なラチオ性」と言う総体的構造の中で「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る「責任ある証人」となる場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に、「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。

 

(カ)古代教会のキリスト論を「主知主義」だと「非難」し、「自然主義だと中傷した」近代のキリスト論は、古代教会のキリスト論とは「まったく別の何ものかを語ろうとしている」、とバルトは述べている。まさに自然神学そのものの段階にある近代主義的なキリスト論は、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」という定式で語られていることを語ろうとはしない。言い換えれば、われわれ人間は理性的にだけあるいは道徳的にだけ生きているわけではないのであるが、近代主義的なキリスト論は、キリストを、人間の自由な「理性」・自己意識・思惟の類的本質を媒介させた反省概念としての現実性、すなわち「最高の現象」として、また人間の「道徳」性を媒介させた反省概念としての現実性、すなわち「最高の現象」として、考え・語ろうとしているのである。したがって、その場合、「キリスト教的思惟と語りの始まりは、キリスト自身の中にあるのではなく」、それ故に第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の中にあるのではなく、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を後景へと退け捨て去った、人間自身の自由な自己意識の中に、人間中心主義的な人間に内在する神的本質の中に(神の人間化あるいは人間の神化の中に)、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の中に、人間自身の「判断能力の中に」、あるいは「われわれ自身の体験能力の中に、ある」ということになる。その場合、「キリスト教的思惟と語りの始まり」は、まさに自然神学そのものの段階の中にあるのである。近代主義的なキリスト論は、近代の宗教的形態である科学主義、理性主義、人間中心主義に対して、またその対極にあるエコロジーやその極限にある天然自然主義に対して、また人間学的な哲学原理・認識論・世界観に対して、また歴史学・心理学・教育学等に対して、また近代的な人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に対して、「おそれてしりごみ」し、常にそれらの顔色を窺い、それらに対して追従的・後追い的で「謙遜」である分だけ、「イエスのからだをもっての甦り」や「処女からの生誕の奇蹟」に対して「全くの説明なし」の、素直な告白や証しや宣べ伝えができず、「精神主義的な道徳主義の過ち」の陥穽に陥ってしまったのである。

 

 このような訳で、近代主義的なキリスト論は、「新約聖書のキリスト証言の秘義」、「啓示の秘義」を後景へと退け捨て去ってしまって、人間一般の「道徳的な判断と宗教体験の似かよった告知として示される限りにおいて、聖書の使信を受け入れ」、人間の「悟性あるいは良心、あるいは感情の中に既に持っている神概念から」、人間は「聖書のキリストについての『価値判断』あるは『価値感情』にまで到達し」、その「価値判断」・「価値感情」を通して、「キリストに対して」、「精神主義」的・「道徳主義」的な「賓辞を与える」のである。まさに、それは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞しているものなのである。すなわち、近代主義的なキリスト論は、そうした客観的な正当性と妥当性を持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、また仮現論的、エビオン主義的キリスト論等の問題を、神学における思想の課題として、「真剣」さ・「重さ」・「辛抱強さ」をもって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、包括し止揚し克服して行こうとはしないのである――したがって、近代主義的なキリスト論においては、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの(≪「存在者レベルでの神」≫)以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

(キ)以上のことから、「われわれが教会的に意味深く、正当である唯一の道である預言者的――使徒的啓示証言を通して、啓示の出来事としてのイエス・キリストへと導かれたのであれば、『まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリスト』という命題」は、「そこから」・「さらにひきつづいてのすべての考察が出発しなければならない前提」である。言い換えれば、「われわれが教会的に意味深く、正当である唯一の道である預言者的――使徒的啓示証言を通して、啓示の出来事としてのイエス・キリストへと導かれたのであれば」、その命題は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(すべての成員)の宣教が、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち「啓示ないし和解」の概念の実在)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(このような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関におけるそれ)においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」へと必然的につれて行くようにできあがっている。その内在的な「失われない単一性」を本質とする「自己を覆い隠す」・「隠蔽」性・「聖性」の神は、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、自己啓示・自己顕現されたのである。そして、このイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「日付をつけることができる」時間のただ中の「出来事として」、『われわれと等しいひとりの人間』イエスの現実存在」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」(その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。この「啓示の秘義」に、キリスト論の場所がある。したがって、キリスト論は、この「啓示の秘義に固執しなければならない」。古代教会のキリスト論は、「そのほかの点で……過ちを犯していたとしても」、「啓示の秘義」に固執・固着して、「啓示の秘義」を後景へと退け捨て去ってしまうという「誤謬を犯さなかった」。したがって、彼らは、「仮現論的な道」や「エビオン主義的な道」における根本的包括的な原理的な誤謬を犯すことはなかった。