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20.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

20.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「神学の目標(証明)」(2)
 イエス・キリストにおいて自己啓示された「神」が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書の中で」(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」の中で)、またその「聖書」を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoの中で、ご自分の事柄をよくなし給うたかについての不安」、また「不信仰ないしは疎遠な宗教あるいは異端の存在を通して不安ならしめられること」、また「啓示の否定の可能性を真剣にとること」は、「アンセルムス的証明の前提には属していない」。何故ならば、アンセルムスは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」していたからである。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、あの存在的な必然性と認識的な必然性とを前提条件とした存在的なラチオ性と認識的なラチオ性という総体的構造において、われわれ人間に対して信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる授与能力を持っているということに信頼していたからである。このように、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」のである、神学を「一般的真理としてではなく、啓示から得られた認識」として思惟し語っているのである。

 

 このような訳で、アンセルムスの教義学的な作業は、「キリストの啓示を、それ故に彼自身の前提を、否定する者たち(≪「証明の受領者としての異邦人・ユダヤ人・……異端者」たち≫)を念頭においているということ」、「いや、彼は、そのような者と対立しつつ、そのような者に身を向けて、何かを語り、そのような者を少なくとも沈黙にいたらせようと欲しつつ語っているということ」――このことは、「疑いの余地がない」ことである。したがって、「アンセルムスの書物の内のどの一つも」、「直接的に外に向かって身を向けている者として、それ故に近代の意味での『弁証論的』なものとして……主張されてはならない」のである。すなわち、「アンセルムスが考えており、興味を感じている読者は、キリスト教の神学者たちである。もっと正確に言うならば、彼の時代のベネディクトゥス派の神学者たちであった」。「それにも拘らず、アンセルムスの神学は、密教的な知恵ではない」。すなわち、アンセルムスの神学は、「『私タチノウチニアル希望ニツイテ理由ヲ求メル者スベテ』に対する弁明として展開される」、換言すれば「キリストの啓示を、それ故に彼自身の前提」を「否定する精神の(≪自分の立場からする≫)否定である」、「否定する精神」を自らの立場において包括し止揚する精神(神学)である――「私ガ本論デ論駁シタアノ『愚か者』」、「不敬虔ナ者タチニハ、ワレワレノ信仰ハ道理ヲ尽クシテ理性的ニ擁護サレネバナラナイ」。したがって、この時、アンセルムスが、そのような「否定する精神」やそのような「者の地盤の上に身を置かなければならなかったとか、実際に身を置いたということは、決して語られていない」し、彼は、「そのようなことはなすことができなかったし、そのようなことをしなかったのである」。

 

 このようなアンセルムスの教義学的在り方を、牧師であり神学者であり神学における思想家でもあるバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、われわれは、自己自身である神としての自己還帰する対自的あって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、宗派、学派、思想傾向、様々な主義等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と述べている。このバルトは、アンセルムスと共に、キリストの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」――すなわち「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「認識的な必然性」――すなわち「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)と「認識的なラチオ性」――すなわち聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性という総体的構造において与えられる、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事について論じている。したがって、バルトは、次のように言うのである――第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(すべての成員)の思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にわれわれの思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪「祈り」の≫)人間的態度に対し神が応じて下さる≪「祈りの聞き届け」≫ということに基づいて成立している」、と。このバルトの思惟と語りは、フォイエルバッハやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的になしたキリスト教批判を包括し止揚している思惟と語りなのである。詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』で、二元論的に、党派主義的に、多元主義的に、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」と述べている。また、吉本は、『カール・マルクス』で、「思想は物質ではなく外化された観念である」し、その「観念の運動は観念によってしか埋葬されない」から、「甲の観念は、乙の観念が(≪自分の立場において≫)それを包括し、止揚することによってしか……亡びない」と述べている。

 

 アンセルムスは、「論争的・弁証論的なプログラム」を、「馬鹿ゲタ質問ニ賢明ニ答エルコト」であり、「彼ら(≪「否定する精神」、「不信者」≫)がイカニ非理性的ニワレワレヲ侮ッテイル」かについては「理性的ニ示サレルベキ」であるというように表現した時、すなわち先ず以てその彼らは「『不条理ニモ知ラズニイルモロモロノコトニ理性的ニ到達スルコト』へと指導されなければならない」というように表現した時、あるいは「理性ヲモッテ自己弁護ヲシヨウト努メル彼(スナワチ、不信者)ニ対シテハ、ソノ誤謬ガ……立証サレナケレバナリマセン」というように表現した時、そこでは「対話の相手たち」が、「知恵と愚カサ、理性的デアルコトと非理性的デアルコトの対立そのもの」の「二つの……違った平面の上に身を置いている」こととして指し示している。この時、「人は、……アンセルムスが、……急に、不信者に対して(それに加えて、自分自身に対して)存在的なラチオ性によって条件づけられることのない認識的なラチオ性」を、換言すれば先行する客観的な「存在的なラチオ性」によって条件づけられることのない主観的な「認識的なラチオ性」を、「最高ノ真理によって最後的に条件づけられることなしに」、それ故に「啓示、恵み、信仰なしに」、換言すれば神のその都度の自由な恵み決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」なしに、「認識的なラチオ性を認めたと……言い切ることは不可能でなければならない……」と言わなければならない。「アンセルムスにとっては、そもそも自己救済は存在しないように、また非ラチオ性からラチオ性への、愚カサから知恵への自己救済は存在しない」――「コノヨウニ多クノ、マタコレホドノ打チ傷ニヨッテモ、苦シミニヨッテモ、私ハ自分ヲアナタニ向ケルコトハデキマセン。ソシテ、死ニヨッテハ、私ハ押エツケラレ、無力ニサレルバカリデス。シカシ、アワレミ深イ父ヨ、ワタシヲ立チ帰ラセテ下サイ。ソウスレバ、私ハアナタニ向キカエラサレマス」。言い換えれば、神のその都度の自由な恵みの決断により「認識的なラチオが非ラチオ性から抜きん出つつ自分をあらわす時」、それ故に客観的な存在的なラチオ性を先行させた主観的な「認識的なラチオ性がマコトノラチオとなるということが起こる時に」与えられる理性的な信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、客観的な存在的なラチオ性を先行させた主観的な「認識的なラチオに対して、上から、自分自身からして(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動からして≫)、明るく照らし出す真理ノラチオ、すなわち信仰ノラチオそのものの業である」、「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした(「啓示と信仰の出来事」に基づいた)業である。

 

 このような訳で、アンセルムスの「〔ラチオ〕概念」は、「非弁証法的・主観的に理解するのではなく」、「動的な意味で理解することが適切である」と言うことができる。「そのことのために、人間の側で起こることができるところのこと」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員である自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味での「隣人愛」ではなくて、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくということである。何故ならば、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体に向かっての運動」において、その現にあるがままの不信、非知、非キリスト者、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)、またわれわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」。すなわち、われわれが「そうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく」、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されている)そのものである「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである(『証人としてのキリスト者』)。「不信者たち」は、「確かにキリスト教のCredoの使信を聞くが」、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義における使信を聞くが、彼らの生来的な自然的な「理性」にとっては、そのCredoの使信は、その理性に「逆らっているように見えるのである」――「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした「存在的なラチオ性」と「認識的なラチオ性」という総体的構造における「キリスト教信仰ガ(≪生来的な自然的な≫)理性ニ反スルト考エ、ソレヲ拒否スル異教徒……」、「多クノ人ハ、(≪生来的な自然的な≫)理性ニ反スルト思エルコトヲ神ガ欲スルトハ決シテ認メナイカラデス」。「不信者たちは、彼らが信じようと欲する前に、先ず第一にこのラチオ性について知ろうと欲する」――「コノ信仰ニ(≪生来的な自然的な≫)理性的説明ナシデハ近ヅクコトヲ全ク望マナイ人タチ」、生来的な自然的な「理性ニヨッテ立証サレナイコトハ何モ信ジタガラナイ人々」。言い換えれば、人間論的な自然的人間であろうが、教会論的なキリスト教的人間であろうが、誰であろうが、人間の生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によって』全く信じることはできない」のである(『福音主義神学入門』)。

 

 「この最後の点で、アンセルムスが彼らを助けようと欲することができないということは明らかである」。何故ならば、前述したように、「信仰は、(≪先行する神の≫)権威に対する服従」、「知解に先行しなければならない服従」――この「正しい秩序を解消させようと欲することはできない」からである。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」と主観的な「認識的なラチオ性」という総体的構造(「正しい秩序」)を解消させようと欲することはできないからである。したがって、「この服従が出来事となって起こらない時」、相互了解・相互承認が不可能となってしまう「アンセルムスとその議論相手の者たちとの間の深淵」は、「あくまで残るのである」、「説明することのできない可能性」は残るのである、「対話相手は愚カ者であり、愚カ者であり続けるという」可能性があくまで残るのである、それ故に「対話相手とのすべての議論は意味のないものであり、目的のないものであるという可能性があくまで残るのである」――「啓示の事実の不把握性に、予定の不把握性が対応している。アンセルムスは、『義ナル者ト不義ナル者ノ子供タチガソレゾレ洗礼ノ恵ミニ選バレ、アルイハ退ケラレル』のを見ている、そしてこの神秘と直面して、説明も忠告も知らないのである。『ナゼアナタハ最高ノ慈悲ニヨリ、同ジ悪人デモ一方ヨリ他方ヲ救イ、アナタノ最高ノ正義ニヨッテ、一方ヨリ他方ヲ罰スルカタハ、タシカニドノヨウナ理由ヲモッテシテモ、全ク理解出来マセン』」。「もしも……徹底的に、最後決定的に、(≪神学者、その者に≫)信仰が欠けているなら、(≪神学者≫)その者に対して、信仰の知解に関して、助けようと欲することは、ただ無駄であり得るだけである」し、「愚カシイ仕方デ尋ネルコトと知恵アル仕方デ答エルコトは、あるいは非理性的に軽蔑スルコトと理性的ニ示スコト」は、二元論的に、党派的に対立したまま「互いに並んで走るだけ」であるから、「一度そのことが見て取られる時には」、「助けようと欲すること」は「免除されてよいであろう」。このことは、人間学的領域においても言われていることである――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。(≪それが個人であれ、集団であれ、組織であれ、ただ主観的にだけ勘違いして≫)じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。