本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その8 まことの神にしてまことの人間)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(イエス・キリスト――その8 まことの神にしてまことの人間260−338頁)

 

 

はじめに――
 この、イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人間」であるという「新約聖書的――キリスト論的命題」は、『神の人間性』においては、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」というように表現されている。「まことの神にしてまことの人間」という命題は、「ひっくり返すことのできない」「ひとつの等置」である(267・268頁)。すなわち、神と人間との無限の質的差異において、「つねに等しくないものが等置されることとして理解されなければならない」(268頁)。この命題について、バルトは、次のように述べている。
@この命題は、「イエス・キリストは誰であるかのか」という問いに対する答えである。また、この命題は、「ヨハネ1・14の『言葉は肉(体)となった』という、新約聖書の中心的な命題の言いかえ」である(260頁)。

 

A「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、神の啓示の隠蔽性・秘義性として、すなわち「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それは」、神の顕現性、すなわち「メシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい。「神の子あるいは神の言葉が肉となり給うた」という受肉(261頁)・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。

 

B第一に、「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が人間、ナザレのイエスである」。第二に、「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉である」。このイエス・キリストの名で語るべき「最初にして最後のこと」・「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「まことの神にしてまことの人間」であるというその「存在の仕方」(性質・行為・働き・業、啓示・和解)・神の子・神の言葉にある。したがって、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」、神性の変化や神性の放棄や神性の減少ではない。その答えは、「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という区別を包括した同一性、すなわち「マコトノ神」と「マコトノ人間」が「一つ」であるというイエス・キリストにおける「両性の単一性」についての規定である。すなわち、ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、三位一体における神の単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする、それゆえに「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の<永遠>のみ子」である、「まことの神にしてまことの人間」イエス・キリスト(人間へと向かう神の第二の「存在の仕方」、神の子・神の言葉)のことである。これは、「三位一体論的――キリスト論的」表現である。「福音主義神学になるために」は、「つねに静的な原理」――「存在的な原理」と、「動的な原理」――「認識的な原理」が、相互規定的に同在・「両立」していなければならない。すなわち、「均衡状態の中でではなく」、「相互的な呼びかけおよび問いかけとして並んで存在」していなければならない。

 

 この新約聖書の中心的命題は、一切の近代主義、一切の<自然神学>の段階の属する信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に止揚し超克でき方途である。また、これは、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、すなわち啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性のことであり、それゆえに啓示に固有な証明能力に基づいた啓示認識の可能性の根拠である(336−338頁)。

 

 「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とするまことの神でありまことの人間である「イエス・キリストの名」だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の第二の「存在の仕方」なのである。そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(神の第二の「存在の仕方」、その性質・働き・行為・業)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である単一性・神性・永遠性が「啓示と和解を生じさせる」のである、それゆえに「人々を神の子とならせる力を持っている」のである(261頁)。「赦す神」はたとえその人がまことの人間であってもその人間性・人間存在に内在することは決してないのである。このイエス・キリストが、教会の信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。

 

 聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との「協力」論・混淆論・「共働」論・折衷論という<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論の陥穽に埋没していく以外にないからである。

 

C第一に、三位一体論を「静的な原理」――「存在的な原理」で言えば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」として、<自在>しているということである。すなわち、神と人間との無限の質的差異の下で、神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、その「存在の本質」においては、自分自身が根源である父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。また、キリスト論を「静的な原理」――「存在的な原理」で言えば、キリストは、先ず以てその「神の神性において、」あるということである。

 

 第二に、三位一体論を「動的な原理」――「認識的な原理」で言えば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、すなわち他在であって自在という完全に自由なる――この自由は、先ず以て、神自身においてのみ「実在であり真理」である――神は、その<他在>において、すなわちその「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において、「三度別様」に父・子・聖霊なる神であるということである。また、キリスト論を「動的な原理」――「認識的な原理」で言えば、神性を本質とするまことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストは、人間に向かって語れた神の自己啓示、神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、啓示・和解)、唯一の一回性・独一無比性の啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性である、ということである。

 

D言い換えれば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがって、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」性と「顕現」性において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。

 

 バルトは、これだけのことを述べるために、邦訳で70頁以上を割いている。神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリスト――神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」を根拠・原理とする啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性――と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復してそうしている。もっと具体的に言えば、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」ることにおいて、そうしている(『啓示・教会・神学』)。また一方でバルトは、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んでいる。このようなバルトの書物は、三位一体論的――キリスト論的な一貫性においてその「同時」性・同在性・構造性において読み切らないと、単純にしかし根本的にそしてトータルに理解することはできないのである。「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」を書いた牧師は、恣意的独断的に「神性において、」というバルトの言葉を棄揚してしまった。『神学者カール・バルト』の訳者の蘇光正は、時系列性に依拠して「『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)」を拡大鏡にかけて、恣意的独断的にバルトから「父の霊」を棄揚してしまった。バルトの自然神学批判について、冨岡幸一郎は、バルトの『カント』や『教会教義学 神の言葉』を媒介しないで、恣意的独断的に高校の倫理レベルの知識で論じてしまった。バルトの本を推奨しながら佐藤優は、「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとうに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」――このような神、このような神への信仰は、まさしくフォイエルバッハが正当性を持って根本的に批判した宗教(恣意的独断的な佐藤教)そのものである。ハイデッガーが揶揄・批判した「無理やり捏造された敬虔さと結びつい」た「存在者レベルでの神」・その神への信仰そのものでしかない。そのような神・信仰に対してハイデッガーは、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と述べた。これらの正当性のある根本的な宗教・キリスト教批判を、自らの信仰・神学の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に止揚し超克していくことが、神学における思想の課題なのである。バルトは、その課題を認識し自覚的に担ったのである。このことが、佐藤には分からないのである――と、恣意的独断的に述べていた。等々――

 

 

 さて、ここからは、バルトの論述に沿って述べてみる。
(1)「啓示の秘義」――「言葉は肉となった」という命題、すなわち神の存在の本質としての父・子・聖霊という単一性・神性・永遠性における神の第二の存在の仕方である「神の子あるいは神の言葉が肉となり給うた」という命題は、その神の「言葉」は、その神の言葉の「出来事」の運動において、その啓示に固有な証明能力の運動において、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性――具体的には聖書、すなわちイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」という「新約聖書において聞く啓示、和解」)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事の運動において行動する、ということを意味している。このことを、ここでは、バルトは、神の「言葉が、言葉について語られているなるということ(Werden)の中で行動する」と述べている(263頁)。神の言葉は、具体的には、神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえに人間の自己意識・理性・思惟等の自由事項となるものとしてではなく、啓示に固有な証明能力に基づいて、「聖書は神の言葉となる」ところで「聖書は神の言葉なのである」というように述べている。したがって、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する(認識し信仰する)のである。また、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する(認識し信仰する)のである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する(認識し信仰する)のである。したがって、その神の言葉は、「人間の歴史の内部から出ているもの」・「人間の歴史から由来するものとして、理解することはできない」のである。したがって、それは、「創造と関連づけられることはゆるされない」のである・「被造物のもろもろの発展可能性のうちのひとつとして理解されることはできない」のである・また、それは、「神によって造られた世界が段々高く〔進化〕発展していって、ついに神ご自身の言葉を、世自体の実体のもろもろの要素のうちのひとつの要素として生じさせようになるということは、万一堕罪が起こらなかったとしても、全く不可能な考え方」なのである・「人間と人間の歴史が堕罪を通して刻印され、特徴づけられている時には、なおさらそうである」。「言葉が肉となったということは、……決して被造物そのものの運動ではない。そのことは、創造そのものがそうであるように、あくまでも主の主権的な行為であり、しかもそのことは、創造とは、異なった主の新的な支配の行為である」(263・264頁)。このことは、次のように言うことができる。

 

 第一に、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造における神の愛を意味している。それは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」(性質・働き・行為)である、ということである。それは、「神的な愛の力」であり「和解の力」である。イエス・キリストは、神性を存在の本質として、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、自由な神の自在性における「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、自由な神の他在性における「存在の仕方」の差異性を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。

 

 第二に、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」と述べたエーバーハルト・ユンゲルを、「バルト後を確定した」、「バルト後の誰もが無視できない一つの流れ、誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」とユンゲルの本の「訳者あとがき」で恣意的独断的に書いた神学者・大木英夫は、ユンゲルと同様に、神学における思想の課題も、批判の本質的な在り方も、「断続性と連続性」の構造としてある<段階>概念も、持たない、「すべての大学社会の神学」村落共同体における<自然神学>の段階に停滞しその中を循環している神学者でしかないのである。だいたいが、バルトの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体を、根本的包括的に止揚もせずに、どうして「バルト後を確定」できるのか? できるわけがないのである。次の新たな段階への移行は、全く不可能なのである。

 

 第三に、「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念によって、「終末論」と「歴史」とを結び付け、「終末が歴史となり、歴史を動かしている」と考えて、「救済史と普遍史」との「協力」論・混淆論・共働論・折衷論に基づいて神学的な三段階的進歩史観を構想したモルトマンは、神学における思想の課題も、状況論も、持たない、空想的な人間学的神学者でしかないのである。神学における思想の課題と状況論を持って、「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない、と述べたバルトは、空想家・夢想家では全くないのである(『ヘーゲル』)。

 

 第四に、「二世紀に多く存在していたグノーシス主義者の先例」、「またJ・スコトゥス・エリウゲナおよびドゥンス・スコトゥスの先例に従」ったシュライエルマッヘルのキリスト論に対するバルトの「主要な異論」は、シュライエルマッヘルが、@キリストを、「単に、人間の創造とともに始まった発展、神意識を強める方向に向かってすすむ発展、の継続と完成」とみなしている点にある、A「イエス・キリストを通しての救済」を、「(聖書にしたがって)神の自由な主権的行為とみないで、神の言葉を救済の行為の中での主体(≪神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和≫)として真剣に受けとらずに、世界の過程の諸要素の中の一つとして理解している点にある」(264・265頁)。

 

(2)神の言葉が肉と<なる>、ということは、「神の〔ひとつの〕奇跡の行為、憐れみの行為」・「神の愛の業が問題」であって、それは、神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在としての「神的な自由の中で起こる」出来事である。神が「意志シ給ウコトハ、確カニ必然的ニソノママ成ルノデアル」(267頁)。したがって、決して、私たち人間の自由事項とはならない。

 

(3)言葉が肉となった、他在であって自在としての自由な神の言葉が、<となる>ことができる自らの「力の故」に、「肉は言葉となったのである」。神の自由な決断において、「言葉が語り、言葉が行動し、言葉が勝利をおさめ、言葉が啓示し、言葉が和解させる」のである。「しかし、あくまでも言葉がそのようにするのであって、肉がするのではない。言葉は、それが肉であるという以前においても、それが肉であることなしにも、それが現にあるところのものである」。すなわち、それは、「肉」において持っているのではなく、「父および自分自身」において持っているのであって、単一性・神性・永遠性においてあるところのものである。また、「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」という下で、ひっくり返すことのできない「まことの神にしてまことの人間」であるイエス・キリストが「生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」、すなわち「神が歴史の中で行動されるということに基づいてのみ、歴史は啓示」、イエス・キリストの啓示の出来事の「場所」なのであり、それゆえにその「啓示」が「信仰の対象なのである」。したがって、「イエスの人間的な性質そのもの、イエスの歴史的――心理的現象そのものを、崇拝の対象としようとするところのすべてのキリスト論、あるいはキリスト論的教えと実践は必然的に拒否されなければならない」のである(269頁)。

 

 神の「言葉」は、神性を本質とするイエス・キリストである。このことから、「イエズス会……のもとで起こり、ひろがった」「言葉の神性を回避する」「聖心の信心」だけでなく、近代プロテスタント主義のキリストの神性を回避してなされた「史的イエス」も、「問題とならないもの」である。なぜならば、「史的イエス〔なるもの〕は、神学における思想の課題としての、一切の近代主義、一切の<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚して超克していく方法としての三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」を媒介せず、直接的無媒介的に、「人間的な判断と体験の形で一般的に理解」された・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間学的な哲学原理や認識論や世界観によって理解された・「イエス・キリストの神性を回避しつつイエス・キリストに接近してゆく」方法で理解された、まさしく人間自身の対象化された自己意識の類的本質(意味的世界・存在者)に過ぎないからである。この在り方は、言い換えれば、イエス・キリストの<人間存在>・<人間性>を拡大鏡にかけて取り出し、それゆえに「キリストの人間性そのもの」を・人間イエスを「抽象的に、直接、信仰と崇拝の対象」とすることは、人間自身よる「被造物の神化として拒否されなければならない」ことなのである。神の「言葉」は、「神の神性において、」「マコトノ神」と「マコトノ人間」とをひっくり返すことのできない神性を本質とする、「まことの神にしてまことの人間なる」イエス・キリストである(270・271頁)。

 

(4)神の「言葉の受肉についての教説の正しい理解」のためには、ローマ・カトリックの<自然神学>的なマリヤの「神の母」論の根本的包括的な止揚と超克が不可避である。
ア)「福音書は徹頭徹尾イエスの神性を前提としており、証言して」いるのであるから、「主の母として記述されているすべての箇所」のマリヤについて、その「前提」・「証言」に基づいて、すなわち、「聖書的に基礎づけられ、キリスト論的関連」に基づいて、考察され認識されなければ根本的包括的な誤謬を犯すことになる。すなわち、「神の母」という呼称は「意味があること」であるが、その場合、あくまでも「キリスト論的な補助命題として許されると同時に、必然的なもの」である、という認識と自覚を必要とするのである。このキリスト論的な補助命題は、「神の永遠のみ子自身である」<神性>を本質とするイエス・キリストは、@マリヤという「母を通して実際に人間」・「マコトノ人間」・歴史的な人間存在となったということを、またA「マリヤが生んだところの方は、実に神の子であった」・「マコトノ神」であったということを、指示している(272頁)。このイエス・キリストは、『神の人間性』においては、「神の神性(≪神の存在の本質≫)において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も(≪その性質・働き・行為・業としての神の存在の仕方、神の言葉・神の子、啓示・和解≫)われわれに出会う」と表現される。「時間の中で生まれた方は、永遠に父から生まれた方と同一である。ここでは人間存在が、永遠の神の子の現実存在と同一であるということの中で現実存在を持っている。したがってこの面からしてこの命題は、マコトノ人間との単一性の中でのマコトノ神を明らかにし、強めている」(272頁)。「ルターは言う、(中略)『永遠カラシテ神カラ生マレ給ウタソノ同ジ方ヲ彼女(≪マリヤ≫)ハ時間ノ中デ生ンダノデアル』」(273頁)。
 したがって、「啓示」・「神の言葉」・「神ご自身」は、「処女マリヤから生まれた方以外のところで尋ね求められるべきではなく」、それゆえに「処女マリヤから生まれた方」においてのみ「尋ね求められ」るべきである(273頁)。

 

イ)「聖書的に基礎づけられ、キリスト論的関連」に基づいて考察され認識されることのない、<自然神学>的な「ローマ・カトリック教会のひとつの特徴的なくわだて」――すなわち「独立したひとつの教説」であるマリヤ論は、「その形式的な勝手さ」や「事柄からみての内容的な疑わしさからいっても、……福音主義の立場から」、「神学的思惟の贅肉」・「病的な形式物」として、「断乎として」「取り除」いてしまう必要がある(274頁)。
@新約聖書は、「エペソおよびカルケドン会議がそうであったように、マリヤの人格に対してただひたすらキリスト論的な興味を示している」だけである。すなわち、前述したア)のような興味を示しているだけである(274頁)。

 

A前述したア)の意味において、「マリヤは洗礼者ヨハネとともに、旧約聖書の中に突出してくる人格的な尖端であると同時に、また最初の新約聖書的な人間である」――「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12・48以下)・「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1・38)。使徒としての「パウロ、ペテロ、あるいはヨハネ」のその役職は、「キリストの役職との関係において、ひとつの教説の対象となることができる」のであるが、その場合「彼らの人格が教説の対象となるではない」。したがって、「旧約聖書的であると同時に新約聖書的である人間自身を代表することができるだけであるマリヤの人格は、なおさら教説の対象となることはない」。したがってまた、<自然神学>的に人間自身のマリヤの<人格>に対して相対的にしても独立した救済史的「役割」を与えることは、「啓示の奇蹟に対する侵害行為である」(275・276頁)。「エペソ会議での神ノ母も決してマリヤに対して、『神的救済の業の中でのどういう協力的な働き』をも帰していない」(277頁)。すなわち、その「神の母」論において、<自然神学>的な神と人間との「協力」・混淆・共働・折衷は行われていない。「神の母」は、本来的には、「キリスト論への付属物」――「キリスト論的な補助命題として許されると同時に、必然的なもの」である。

 

Bローマ・カトリックにおける、マリヤの「無原罪の受胎についての教説」、また「救い主の母」としてのマリヤは、「われわれの救いの女仲保者」――「キリストご自身が私たちのために、『義ヲモッテ』立てた功績を、……私たちが『フサワシク』受けることができるようにした」女仲保者・「神とわれわれの間の和解の女仲保者」――であり、そのような者として「自ら恵ミノ母」であり、「ワレワレハキリストノミモトニアッテノソノ女仲保者ノトリナシを頼リトシテイル」であり、「マリヤが崇拝されないところ、そこには教会は存在しない」というマリヤ論・「神の母」論は、神の側の真実としてのみある神性を本質とするイエス・キリストにおける唯一の一回的独一無比な「救イノミ業」を揚棄してしまって、<自然神学>的な「救イノミ業ニオケル」神と人間との「協力」・混淆・共働・折衷を目指すものであって、それは、「新約聖書の証言」の恣意的独断的組織的な「曲解」・「贋造」でしかないものであり、「キリスト論的に事柄にかなった伝統」(三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」)の恣意的独断的組織的な「曲解」・「贋造」でしかないものである(278・279頁)。

 

Cバルトは、このような<自然神学>的な教説に対して、それゆえに本来的な「断乎とした福音主義的な宣言」として、「マリヤが『崇拝される』ところ、……この(≪上記Bの≫)教説全体とそれに対する帰依がまかり通るところ、そこではキリストの教会は存在しない」、と述べた。「ローマ・カトリックのマリヤ論的教義が述べている『神の母』」は、神性を本質とするイエス・キリストにおける唯一無比な救いに対して、その「先行する恵みに基づいて奉仕しつつ協力して働く人間的被造物」の「原理、原型、総内容であり、……そのようなものとしてまた教会の原理、原型、総内容」である。「カトリックの見解によれば、『マリヤは、新しく生まれ変わらせる恵みに対する生ける、受動的および能動的な受容能力を代表している』」。したがって、その「原理、原型、総内容」は、まさしく、対象化された、人間的被造物の、その自己意識の、類的本質・意味的世界・・存在者・その存在者への信仰・人間的被造物が管理するプログラムでしかないものである。カトリックの「存在ノ類比」は、「理性的被造物をその存在の無力さという無限のへだたりから、また罪の深淵的な失われた状態から神的生命の充実にまで高め、まさにそのことを通して……本質的に被造物としての被制約性を保持しつつ……救いの業に協働する能力を与えるということが、救いの最も深い意味であり、また最大の富である」、「世界に内在する神的知恵」、「神的救いの活動の主体」としての人間的被造物、という認識・原理に基づいている。したがってまた、その「原理、原型、総内容」は、決して、人間に内在しない、それゆえに人間の自由事項となることのない、啓示に固有な証明能力、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰におけるそれではなく、神と人間との「協力」・「協働」・混淆・共働・折衷に基づくそれであり、それゆえにそれは、フォイエルバッハやハイデッガー等が揶揄・批判した宗教そのものであり、「存在者レベルでの神への信仰」そのものでしかないものである(281−285頁)。

 

Dカトリックの教義学が「マリヤに対して与えている尊称の一つである」「教会の母という称号」は、マリヤが「すべての信者の母」である・「すべての救われた者に相対してマリヤが母である」ということを意味しているだけでなく、「聖体の秘蹟のキリストを念頭においてまた、キリストに相対して、教会が母である」ということを意味している。すなわち、マリヤが教会の母であることと教会が母であることは「相互内在性」・「内的結び付きと類似性」における関係にある。ここでは、<自然神学>的に人間自身のマリヤに対してだけでなく、人間的側面を持つ教会に対しても、相対的にしても独立した救済史的「役割」を与えられる。このことは、「啓示の奇蹟に対する侵害行為である」。教会は「キリストから生まれるだけでなく」、「教会の生命活動の秘蹟的な中心のところ」で、「キリストも教会から生まれる」・神的側面と人間的側面を構造とするイエス・キリストを頭とする「教会がキリストを必要としているだけでなくまた全く真剣な意味でキリストも教会(≪人間的側面としての人間の組織性≫)を必要としている」・「ちょうどマリヤが『取りなしをなす全能』の力をもつものとして、人間の救いのために、……働くように、そのように秘蹟の遂行を通して教会はともに働くのである」。言い換えれば、これらのことは、<自然神学>的な、人間の・人間的なものの・人間的自然の<神>化を、神と人間との「協力」・「協働」・混淆・共働・折衷を意味しているのである。「ピウス九世の生涯の働きの中での関連性」――すなわち1854年の「無原罪ノ受胎の宣言」と1870年の「教皇無謬性の宣言に至るまでの」、「そしてその同じヴァチカン公会議においてなされたトーマスの意味での自然神学を正式の教義とするという宣言に至るまでの」「関連性」は、「全く首尾一貫したものであった」(286頁)。

 

 このような「マリヤの教義に反対して唱えられるべき福音主義的信仰命題」は、神と人間との「相互的な互恵主義とか相互作用というようなもの」――すなわち、神と人間との、神と人間的なものとの、神と人間的自然との、「半分だけの」神の「恵み」の契機と「半分」は人間的契機との、「協力」・「協働」・混淆・共働・折衷は、神と人間との無限の質的差異において決してあり得ない、という点にある(287頁)。この「マリヤの教義に反対して唱えられるべき福音主義的信仰命題」は、ローマ・カトリック主義の原理に対してだけでなく、それと同じ次元にある、すなわち、神だけでなく人間の欲救・自主性・自己主張もという、同じ<自然神学>の段階に属する近代主義的プロテスタント主義・アジア的日本的な自然思想への復古性に依拠したアジア的日本的な近代主義的プロテスタント主義、またアウグスティヌスやトマス・アクィナスやルターやシュライエルマッハーやブルトマン等々の原理に対しても妥当するものである。

 

(5)神の「言葉が肉となった」とは、単一性・神性・永遠性を存在の本質とするその言葉が、人間へと向かう神の第二の存在の仕方として「まことの実在の人間」となった・「まことの実在の人間」であったということ、私たちと「同じ人間的本質と存在」・「人間的性質と形態」・「歴史性にあずかるようになったということ」、である。こういう仕方で、「われわれに対する神の啓示は出来事として起こる」。したがって、こういう仕方においてのみ、私たちは、啓示・和解を理解することができる。「福音記者と使徒」は、「まことの人間イエス・キリスト」におて、「啓示そのものの本来的な行為」・「四十日ノ福音」・「甦えり」・復活・「神の国」を宣べ伝えた(288頁)。したがって、バルトは、『福音と律法』において、次のように述べた――@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだということである>(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである。A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。B「(≪先ず以て、徹頭徹尾、全く、私たち人間の側の、義認のための信仰等、いかなる人間的契機を持たずに、その現にあるがままの姿において、≫)われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として(≪義認のための信仰という人間的契機を持つ者としてではなく、ただ神の側の真実によってのみ授与された義・義認に対する感謝の応答としての信仰を持つ者として≫)生きることを許される」。

 

 バルトと同じように、一切の近代主義、一切の<自然神学>の段階に属する信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に止揚して超克していくことが、現在から未来に生きる神学における思想の課題であると認識し自覚しているバルト者の私たちは、この@・A・Bの根拠・原理・原動力が「主格的属格」として「イエスの信仰」にのみあることを、すぐに理解することができる。

 

 「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」・「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねば成らなかった」(ヘブル2・14以下)。使徒信条において、「聖霊ニヨッテ宿リと三日目ニ甦エリの間にある告白の言葉、オトメヨリ生マレ、ポンテオ・ピラトノモトニ苦シミヲ受ケ、十字架ニツケラレ、死ニテ葬ラレは、それがそのほか意味していることと並んで、……マコトの人間を強調するということを意味」している(289頁)。
 聖書における啓示は、この「『肉をとって来る』ということ共にたちもすれば倒れもする」。「〔人間ノ〕精神ハ近ヅキ難イゴ威光ノ輝キノ中ニイマス神ヲソノママ見テトルコトガデキナイノデ、人間ノ姿デ現ワレ給ウタ神ヲ見、見ツツ認識シ、認識シツツ愛シ、愛シツツ最大ノ努力ヲ払ッテソノ栄光ニ到達シヨウト努メル(カンタベリーのアンセルムス)」(290頁)

 

(6)バルトは、神の「言葉が肉となった」・「人間となった」という場合のその「肉となった」・「人間となった」ということにおいて、現にあるがままの「人間そのもの」の現存が語られているのではなくて、その現にあるがままの「人間そのもの」の現存を、神と人間との無限の質的差異の下での、<本来的>な、「マコトノ」人間的な個体性、「人間的な本質と存在(Dasein)、人間的なあり方と性質、人間性……たらしめる」ということが語られている、と述べている。「人間的な本質と存在がそのまま言葉の本質と存在になった」、「一回性」において「個人的な、特定の」「マリヤの最初の息子」・「この具体的な実在こそが、それ自体、言葉の業であって、それは決して言葉の業の前提ではない」。「人間性は決して言葉と並んでの独立した現実存在をもっていない」・「すなわち、言葉が造ったものとして、自分自身言葉であるそういう人間の中で……だけ存在する」――これらのことは、繰り返しになるが、単一性・神性・永遠性を存在の本質とするその言葉が、人間へと向かう神の第二の存在の仕方(性質・働き・行為・業)、神の言葉・神の子、和解・啓示として「まことの実在の人間」となったということであり、『神の人間性』においては、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」というように表現されるのである。キリストが「人間トナッタ最初ノ瞬間カラ……彼ハ神ノミ子以外のホカノ方デハアリ給ワナカッタ(アウグスティヌス)」。キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」のである。和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身であり、したがって、その「存在の本質」は単一性・「神性」・永遠性であるがゆえに、イエス・キリストのその神の第二の「存在の仕方」における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。

 

 イエス・キリストの客観的実在とは、「神ご自身が自ら人格をとって行動しつつ肉の中に現臨されるということである」・「神ご自身が自ら個人的に、実在の人間的存在と人間的行動の主体であり給う」ということである。したがって、神性を本質とするイエス・キリストは「まことの神にしてまことの人間」として、「その存在と行動は純粋にまことに人間的存在であり、まことに人間的行動である」。したがってまた、イエス・キリストは、「決して半神ではあり給わない」・「天使ではない」・「理想的人間でもあり給わない」。「まことの神にしてまことの人間」であるイエス・キリストは、「われわれのもとで神のために仲裁され、神のもとでわれわれのために仲裁し給う。そのようにして彼はわれわれに対する神の啓示であり、神とわれわれとの和解であり給う」。このことは、『ローマ書』では、神性を本質とするまことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」、と表現されている。(292−296頁)。

 

(7)新約聖書における「『肉』という語」は、「一般的な人間」を意味しているだけでなく、それは、「神の判決と裁きのもとに立って」いる、「神を認識し愛することができなくなった」、「神に対して罪を犯した」死すべき「現実存在となった人間」である。「肉」は、「アダムの堕落の徴」・「人間的性質の具体的形態」であり、キリストの十字架の死と復活の出来事に基づいて言えば「古き世全体の具体的形態」であり、それゆえに「あらためて神と和解させられなければならない」その現にあるがままの「人間の本質と人間存在の形態」・「断罪され、失われた罪人」・「それ自体よい人間的性質ではない」人間・「堕落した性質」の人間のことである。このことから、「言葉は肉となった」というこの神の言葉は、「自分自身の敵対者……の味方となり給うたということを意味している」。「インマヌエル、――神われらと共にいます」、ということを意味している。このことは、『福音と律法』においては、次のように表現されている――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」。このように、単一性・神性・永遠性を存在の本質とするその神の第二の存在の仕方(性質・働き・行為・業)・神の言葉・神の子であるイエス・キリストは、「われわれに対する神の啓示であり、神とわれわれとの和解」である。しかし、「闇、世」は、「啓示の光」としての「理解を絶した」「神の現臨」を、「受け入れようと欲し」なかった。ここに、「古い世全体の具体的形態」、その現にあるがままの「人間的性質の具体的形態」・「人間の本質と人間存在の形態」がある。すなわち、そのような神に対する、人間自身の、欲救・自主性・自己主張・無神性・真実の罪がある。

 

 イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)」授与であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることである。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのであるが、また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる。また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。

 

 「万一(≪神の≫)言葉が人間でないならば、(≪神の≫)言葉は啓示ではないであろう。またもしも(≪神の≫)言葉がこの正確な意味で『肉』でないならば、(≪神の≫)言葉は人間ではないであろう」。神性を本質とするまことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストは、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり給うた(ピリピ2・7)」。「彼はわれわれのために呪いとなり給うた。彼はいかなる意味でも罪人であり給わなかった。しかし彼の状況は内的にも外的にも、罪深い人間の状況であった。(中略)彼はアダムが、そしてアダムの中でわれわれすべてが、しでかしてしまったことを、罪なくして身に受け給うた。彼は自由の中で、われわれの失われた現実存在との連帯責任性の中に、困窮をともにわかち合う交わりの中に、入り給うた。……ただそのようにしてだけ、……彼の中で、彼を通して、われわれに対する神の啓示が、神とのわれわれの和解が、出来事となった起こることが『できた』」・「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである(ヘブル2・18)」。「カレハ、神ノ子ガワタシタチノタメニ、ソノ天ノ栄光ノ高ミカラ、ドンナニイヤシク低劣ナ状況ニマデクダッテ来タカヲ、明示シヨウトシタノデアル。聖書デハ、人間ノコトガ軽蔑シテ語ラレル時ニハ、肉トヨバレテイル。ダカラ、神ノ言葉ノ霊的ナ栄光トワタシタチノ肉ノ腐臭ニミチタ汚穢トノアイダニ、カクモハナハダシイヘダタリガアルニモカカワラズ、神ノ子ハ、カクモ多クノミジメサニヒタサレテイルコノ肉体ヲマトウマデニ、ソノ身ヲイヤシイモノトサレタ」・「キリストハカギリナイ恩寵ニヨッテ、汚レタ、イヤシイモノノ仲間トナリ給ウタ(カルヴァン)」。(297−304頁)

 

(8)単一性・神性・永遠性を本質とする「神の子」・神の言葉・神の第二の存在の仕方の「人間存在の中では……神ご自身が主体」である。その存在の仕方において、神の言葉は「われわれの人間存在をとる」、言葉は「肉をとる」。言い換えれば、言葉は、「罪深い人間のもろもろの条件、呪い、刑罰のもとでの状態と状況の中で存在する」。なぜならば、もしもそうでないならば、その言葉の性質・働き・行為・行動・業は、「啓示する」それ・「和解させる」それ・全く「新しいものをもたらす」それ、全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和のそれ、ではないことになってしまうからである。「われわれのきよくない汚れた人間存在は、神の言葉」・神の子・神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストによって「受けとられ、取り上げられることによって」のみ、「聖化された、したがって罪のない人間存在である」。

 

 「受肉」・「マコトノ人間」の意味――「神はわたしたちのために彼を罪とされた(Uコリント5・21)」は、神は「罪を知らなかった方」を、「罪人の立場に置き給うた」ということである。無神性・真実の罪を本質とする「われわれのために神的犠牲をささげるという行為、罪に対する裁き、罪を取り除くことを意味している」。罪なき「彼ハ罪トサレ、ワレワレハ義トサレル。シカモソノ義ハワレワレノ義デハナク神ノ義デアリ、ソレハワレワレノ中ニアルノデハナク彼ノの中ニアル。ソレハチョウド彼ゴ自身ガ罪トサレタソノ罪ハ彼ノ罪デハナク、ワレワレノ罪デアルノト同様デアル(アウグスティヌス)」。「キリストノ中デハ(人間ノ中デハ罪ナシデハアリエナイ)肉ガ罪ノナイ仕方デ存在シテイル。ソコデ罪ガ取リ去ラレタコトヲワレワレハ確信スルノデアル」。

 

 それでは、キリストの「無罪性」・「服従」を、どこに見出すことができるのか。
先ず以て、新約聖書は、イエス・キリストを、「道徳的な理想的人間」として描いてはいない。すなわち、それは、「肉をとった神、罪人としての人間が担わなければならない重荷の神的担い手」の在り方に、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であった(ピリピ2・7−8)」という服従に見出すことができる。

 

 「イエスの無罪性」については、「倫理的な英雄であるということから成り立っているのではなく」、(7)で引用した『福音と律法』の言葉の内容において成り立っている。バルトは、ここでは、「彼が受肉の意味を告白すること、……アダムとは違って『第二のアダム』として、神のようであろうとは欲し給わないこと、神の前にあっての堕落した人間の状態と状況に対して告白し」、それに対する神の裁きを正しいそれとして「自ら身に負い……ご自分のものにし給う」というように述べられている。「アダムの子供として、回復の秩序に服そうとしない」人間は、「イエスの信仰」の目的格的属格理解を原理として、「自分が肉であること、裁きの下に立っており、ただ恵みによってのみ生きることができるということを理解し認めようとはしない……」、それゆえに「神がなし給う際、その傍にいて共に働きながら」、すなわち人間も神と「協力」・「協働」・混淆・共働しながら、「自分の生命を救おう(マルコ8・35)」とする。「イエスはそれと別様」である。イエスは、(7)で引用した『福音と律法』の言葉にあるように、主格的属格としての「イエスの信仰」という神の第二の存在の仕方において、「アダムが転倒させたことを、償い、修復し給うた」。イエスは、「和解の秩序を承認し給う」ことによって、すなわち罪なき「ご自分を罪人の場所におき、神の裁きのもとに服し、ただ恵みにのみ身をゆだね給う」ことによって、「肉にあって罪を裁き給うた」。このことが、「イエスの聖化であり、服従であり、無罪性である」。(304−311頁)

 

(9)神の言葉が、少しも「自分の神性を放棄」しないで、「言葉がなった」ということは、「啓示の秘義」であり、「奇蹟の行為」、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由なる神の人間へと向かう、インマヌエルとしての「神のあわれみの行為」である。

 

 「言葉があった、初めにあった、言葉は神と共にあった、しかも彼自身が神である(≪単一性・神性・永遠性を本質としている≫)という具合に神と共にあった(ヨハネ1・1−2)」。「万物は言葉によって成った」・「彼によってすべてのものが成った、なったもののうち彼によらないでなったものはなかった(ヨハネ1・3)」。したがって、洗礼者ヨハネも「言葉」・「光」・「啓示」ではなく、「啓示の証人」となるところの「『神からつかわされた人』である」。したがってまた、「彼の名を信じたものたち、そのようにして彼を受け入れたものたち」も、「生まれながらにして」「神の子供」ではなく、「ただ神の恵みによってのみ神の子供となるべき力を与えられたものたち」である。また、「言葉」についても「肉となった」と言われている(ヨハネ1・14)。この「言葉」と「なった」は、「同一の主体の規定」――すなわち神性を本質とするイエス・キリストの「同時」的・同在的規定である。すなわち、聖書が私たちに要請していることは、「聖書を通してわれわれにあらかじめ与えられている」証言・証しにおける、神性を本質とするイエス・キリストの存在の仕方(啓示・和解)に対する感謝の「応答」であり、その「同時」的・同在的規定である「言葉」と「なった」とを「厳格に……同時に」「一緒に考え合わせる」・「同時」的同在的に考える、という点にある。

 

 この「言葉」と「なった」は、「啓示の秘義」であり・「奇蹟の行為」であるとは、次のことを意味する。
ア)まことの神にしてまことの人間におけるその「人間存在」・「人間性」は、独自的に「自分自身から……言葉の人間性となる能力、力、威厳を持っていない」。したがって、その人間性は、「そのまま」で・それ自体で、(≪神の≫)言葉の人間性となることができる存在ではない。すなわち、「言葉」と「なった」には、神性を本質とする神の「言葉」自身の「意志」・「業」・「働きかけ」・行為が介在している。言い換えれば、神の「言葉は、低くされたのではなく、(≪自らの自由な意志・決断において、すなわち神の側の真実において、≫)自分自身を低くし給うたのである」。

 

 したがって、受肉とは、次のような出来事である。すなわち、それは、単一性・神性・永遠性をその存在の本質とする「神の言葉」自身が、徹頭徹尾、その本質を保持したまま、人間存在「となった」人間存在――あくまでも、神自身が「被造物である人間存在を、それ自身の存在に加え」た・「永遠の言葉は人間を自分のものとしたのではなく、むしろ人間の性質、人間の存在を自分のものとした」・「受け入れた」・「取り上げた」という限りにおける「となった」人間存在――は、その自体性を持たないままで、人間へと向かう神の第二の存在の仕方において人間存在となることによって、「人間存在として神の言葉の存在となる」、ということである。このことを、バルトは、『神の人間性』においては、端的に、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べたのである。このバルトの三位一体論的――キリスト論的な「同時」性・同在性・構造性を理解しないままバルトを論じる場合、多くの神学者や牧師やメディア的著述家たちのように、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて、出鱈目な知識を、出鱈目な信仰・神学・教会の宣教を、平然と市場に出回らせてしまうのである。

 

イ)受肉は、「言葉は肉となった」ということであって、「言葉は肉をとった」のではない。すなわち、それは、「神的存在および本質と人間存在および本質」が結合して神でも人間でもない第三の存在が発生したことを意味しない、第三の存在に「変化」したことを意味しない。イエス・キリストは、「仲保者」であり、<神性>を本質とする「彼が(≪その存在の仕方、「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という区別を包括した同一性、すなわち「神と人間が一つ」であるという「両性の単一性」において≫)神でありまた人間であるという仕方で神人である。……それは、人間的存在と本質の行為ではない。むしろその神的性質の行為の中で、三位一体の神が行動されるのである」。イエス・キリストの人間性は、「ただ彼の神性の賓辞である」、人間へと向かう神の言葉の「賓辞」である。すなわち、その人間性は、自体的な人間性への「変化」・「変革」ではなく、その神性における人間性の「受け入れ」・「取り上げ」であって、それゆえに神の言葉が「われわれと等しくある……等しさを受けとられたということ」・「神の言葉がいまやわれわれのために」、「その人間存在の中で、尋ねて見出されることができるということ」である。

 

ウ)改革派キリスト論の「一様性」(両性の分離)でもルター派キリスト論の「肉ノナイ言葉とならんで肉ノ中デノ言葉を認める」「二重性」でもない、「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という区別を包括した同一性、すなわち「神と人間が一つ」であるという「両性の単一性」におけるイエス・キリストが、全人間・全世界・全人類の「主であり、その避け所でありその城であり、その神である」ということによってのみ、そこにおいてのみ、私たちは人間が人間的に所有する人間の・「それ自身」の人間的存在を持つことができる。したがって、このような仕方においてのみ、「説教の言葉および聖礼典……の中での恵みの現臨……信仰を通して選ばれ、召されたものたちの心の中での神の恵みの現臨」を人間的に持つことができる。それに対して、神性を本質とするイエス・キリストにおいては、神との単一性は、「人間的な語りが、水・パン・葡萄酒が、ただ単に神を通してだけでなく」、「切り放しがたい仕方で」、「神とともに実際に結び合わされているということを意味している」。

 

エ)新約聖書は、「われわれに対して」、啓示の客観的「実在」としてのイエス・キリストを、「疑いもなく、完了した事実についての報告として」・啓示と「和解」として・「成就された時間」として、「聞かれることを欲している」。

 

 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・「成就された時間」・「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」は、「新しい世」のはじまりである。この「新しい世」においては、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、キリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」それである。

 

 このように、「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。このイエス・キリストの現臨の出来事――すなわち、インマヌエルとしてのイエス・キリストにおける啓示の客観的「実在の時間」であり、「われわれのための神の時間」は、イエス・キリストの受難と死およびキリストの復活・「成就された時間」であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」であり、その「成就の待望」と「成就の想起」を持った時間であり、「この出来事についての証しの時間」である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」を待望する形においてある。また、まことの「未来」は、キリストの復活とともに初まり、ただキリストの復活を想起する形においてのみある。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。

 

 新訳聖書は、イエス・キリストについて、「その最後の言葉にいたるまで」、「永遠の言葉」と「人間存在がひとつに結び合わされた」「復活日と昇天から」、すなわち受肉・「実体的結合」・「低さ」・僕の姿・「謙虚」・受難・十字架・死を「その低さの中でのキリストの高さ」・「甦えり」・復活・高挙・「その人間存在の中での言葉の勝利」から、語っている。「パウロ的――ヨハネ的問い」に対して、キリスト教の使信は、「キリスト、神の子、は、まことにナザレのイエス」である、と答えている。

 

オ)前述したことに対して、ルターのキリスト論的立場は、神の「言葉はキリストの人間性の中に<のみ>存在する」という点にある。神の恵みは、「飼い葉おけの中で、十字架上」で、「神ご自身によってまさにこの人間存在」――イエス・キリストの「人間存在の中で<だけ>現われ」、「すべてのことがわれわれのためになされ、なしとげられ、……われわれの義認は遂行され、そのことは信仰の中でただそのまま受けとられるべきであるというパウロ的――ヨハネ的キリスト論の答えを……全心をかたむけてつかもうとした」ルターは、「言葉を肉に制限して」、「肉の中に<のみ>存在している」言葉という命題において、「わたしは処女マリヤより生まれ、苦しみをうけた方<以外>には、神について何も知ろうとは思わない」、と言った。

 

カ)新約聖書は、「われわれに対して『なった』」、神性を本質とするイエス・キリストにおける「完成された出来事」・「完了した行為的事実」によって、啓示の客観的実在を強調的に指し示している。「神が人間となった」ことによって、その「聖書の証言の中で」、「神の言葉」が「人間の目と耳の前で」可視的・可聞的になった、「約束から成就への、十字架から甦えりへの歩みの中で」「われわれが神と和解せしめられた」、ということを、客観的実在として強調的に指し示している。したがって、「われわれは(≪その啓示に固有な証明能力に基づいて≫)この進行のあとに続いてゆく」ことによって、その客観的実在を「認識」することができる。「キリスト論の関心」は、ここから「認識的な性格をえてくる」。

 

 新約聖書は、「徹頭徹尾復活日および昇天から」語られているが、次の事柄は重要である――「区別」されながら「関連し合っている」、イエス・キリストにおける卑下・「謙虚の中での人間」と高挙・「高揚の中での神」、隠蔽性における「神人」と顕現性における「神人」、この「神と人間の出会い」の中で、「マコトノ神ニシテマコトノ人間、が出来事として起こる」。したがって、「十字架につけられた方の甦えりは、この出来事の啓示として」・「その人間存在の中での(≪神の≫)言葉の勝利として、重要なのである」。なぜならば、キリストの「存在の本質」としての神性性が「啓示と和解を生じさせる」からである。キリスト教使信の「言葉は肉となった」は、このことを語っている。「ナザレのイエスはまことにキリスト、神の子である」――これが、共観福音書記者たちのその問いに対するキリスト教使信の答えである。肉は、言葉・啓示の隠蔽性の形態であり、秘義性の形態である。すなわち、言葉・啓示は、啓示に固有な証明能力に基づいて、そのように「把握され、信じられ、理解されることを欲している」。したがって、「ナザレのイエスはまことにキリスト、神の子である」という啓示の認識・「発見」は、「信仰」である。(312−335頁)

 

最後に――
 バルトは、『教会教義学 神の言葉』において――「確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである(≪「イシスとオリシスの受肉が、仏陀とゾロアスターにおける受肉が、存在する」(299頁)≫)。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階においては、非農耕民は尊ばれると同時に蔑まれる、神人、と呼ばれていた≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」、と述べた。バルトにとっては、この<神性>を本質とするイエス・キリストの名だけが、彼の信仰・神学・教会の宣教の、その根拠、その原理、その原動力であったし、そうあり続けた。したがって、バルトが、いつも、たえず、繰り返し、心を尽くし・精神を尽くし・信仰(認識)を尽くして、述べてきたこと・宣べ伝えてきたこと――それは、「私が(≪神学における思想の課題を認識し自覚的に担った≫)神学者として、そして(≪状況に強いられた不可避的な≫)政治家としてでも、語るべき最後の言葉は、<恩寵>といった概念ではなく、一つの名前、イエス・キリストなのです。……この方こそ、この世と教会とそしてまた神学との<彼岸>にある、<究極のもの>なのです……。(中略)この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、(≪根本的包括的な差異性・対立・分裂のただ中にあっても≫)共同体と仲間たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります」(『バルトの生涯』)、という急逝した年の1968年に述べたこの言葉、すなわち<神性>を本質とする「まことの神にしてまことの人間」であるイエス・キリストの名、なのである。