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カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』:イエス・キリスト(その4)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その4 啓示の時間 神の時間とわれわれの時間 93−143頁)

 

 私たちは、この「神の時間とわれわれの時間」という概念が、神と人間との無限の質的差異の原理の下で論じられていることをすぐに理解することができる。言い換えれば、私たちは、この時間概念が、啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異の原理の下で、論じられていることをすぐに理解することができる――「人は、啓示の時間概念」の「探求」において、「啓示以外の、ほかのところで得られた時間概念」、したがって「われわれの時間」を神が創造したままの「時間」として「引き合いに出すことはゆるされない」。なぜならば、聖書によれば、「われわれの存在様式と神によって創造された存在様式そのものの間」には私たち人間の厳然たる「堕罪」の事実(創世記3・23以下、創世記6・5以下)が横たわっており、その「堕罪」した「『われわれの』時間は、決して神が創造し給うたままの時間」ではなく、聖書においては「神の時間」であり「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」、すなわち「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であるからであり、また常にそうあり続けるからである。このように、聖書によれば、「われわれの時間」は、「堕罪」した人間によって「惹き起こされ生じた時間」なのである。したがって、聖書によれば、時間概念は、第一に、「われわれにとって」隠蔽された「神によって造られたままの時間」(創世記1・14)と、第二に、「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」としての「われわれ自身の時間」と、第三に、神の時間・イエス・キリストにおける啓示の時間・実在の時間、としてある(96−98頁)。
 バルトにおける「啓示の時間」の命題――「聖書の中に証しされている」神の自己啓示、すなわち「イエス・キリストの現臨〔現在〕の出来事の中での神の啓示は、われわれのための神の時間」・「神がわれわれのために持ち給う時間」・固有な「啓示の時間」・「まことの実在の時間」である。この「神の啓示」は、@イエス・キリストの出来事そのものにおいて「成就された時間」である。しかし、この「神の啓示」は、また、A「待望の旧約聖書的時間および想起の新約聖書的時間として」、イエス・キリストの出来事についての「証しの時間」である。したがって、私たちは、この啓示の時間を、「啓示そのものによって教えられなければならない」のである。なぜならば、この啓示に固有な時間は、「ほかのところから得てきた時間概念では事実十分」にしか理解することができないからである(93・94頁)。その「例証」――
1)アウグスティヌスやハイデッガーにとっての時間概念は、「被造物である人間存在の自己規定」であり、「自分で時間を創造する」ことによって「時間をもつ」という位相のものである。したがって、アウグスティヌスとハイデッガーの時間概念は、「イエス・キリストにおける啓示の時間」・「実在の時間」から「攻撃された」「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」としての「われわれの時間」である。

 

2)ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解」した。すなわち、自分の意志とは全く無関係に投げ出された不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる。すなわち、個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができる。このことは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)・その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。アウグスティヌスの場合も、事情は変わらない。すなわち、アウグスティヌスは、『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」。しかし、『告白』では「過去、現在、未来は(≪人間の≫)精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。バルトは、このアウグスティヌスの後者の時間認識の在り方に、言わば「人間精神の行為の中で発生する時間」を原理とする時間認識の在り方に、すなわちその時間は「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「攻撃された」「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」・「問題的な、非本来的な時間」として理解しない在り方に、神と人間との無限の質的差異を揚棄した自然神学的な時間認識と時間概念を見て、神学における思想において根本的な批判を加えたのである(95・96頁および115頁)。

 

3)「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」――@アウグスティヌスは、現在は、過去・未来という「時間が発生する」「起源的なもの」・「基礎」と言うのであるが、その現在を固定し確定しようとするや否や、その現在は過去に移行してしまう。とすれば、また「つねにまだ未来」はないということになる。すなわち、この場合、「現在」は、「過去と未来の間の真中で消失しまっている」。したがって、この場合、私たちは、現在について、時間について、「実は何も知らない」ということになる。A「時間は始めと終わりのないもの」か「時間は始めと終わりをもっているもの」かという、カントの「純粋理性のの対立命題がもつ」「第一の二律背反」について、「時間のすべての始まりはそれ自身が再び過ぎ去った時間の終わりであり、時間のすべての終わりはそれ自身が再びこれからくる、未来的な時間の始まりでなければならないから」、「時間そのもの」は「始めも終わりもないもの」と理解しなければならない。また、「時間を有限なものとして理解することも無限なものとして理解することも等しくわれわれにとっては不可能である」。しかたがって、この場合も、私たちは、時間について「実は何も知らない」ということになる。Bシュライエルマッハーのように、人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を揚棄して、「永遠を時間の始めと終わりのところにおき」、時間の始めにおける「時間」を「永遠から……絶えず継続的に遠ざかってゆくこととし」、また時間の終わりにおける「時間」を「永遠に向かって絶えず継続的に近づいてゆくこととし」、そしてまた「永遠を、すべての時間の隠れた内容とし」・「時間を永遠のひとつの容器(うつわ)として」と考え・述べ・宣言することは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」の「幻想」でしかない、と言うことができる。人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を揚棄して、「アウグスティヌスやハイデッガートともに時間からその対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在様式として理解する」ことは、そして「過去」と「未来」を「現在の中」に解消してしまうことは、聖書によれば、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示神学においては、「幻想」でしかない、と言うことができる。神と人間との無限の質的差異、啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異を人間中心主義的に揚棄してしまって、聖書による三つの時間概念における神の時間・イエス・キリストにおける啓示の時間・実在の時間を考慮せず・「否定」して、「神によって造られた時間」と「われわれの時間だけを考慮に入れる」場合、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出することはできないのである。すなわち、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出するためには、神と人間との無限の質的差異、啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異、の原理と、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示神学における「イエス・キリストにおける啓示の時間」・神の時間・実在の時間・「まことの現在」概念のほかにはないのである。(99−101頁および108頁)
 バルトの『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――第一に、アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ。しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」、したがってまことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。第二に、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間・時間そのもの・実在の時間についての認識・概念が欠けている。神が、自由な決断において、「ご自身を啓示し給う」という命題は、神は、「満ち満ちている一切の神性」(コロサイ2・9)を本質とするイエス・キリストにおいて、「全面的に、全き仕方で」、「『われわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である(113・114頁)。この啓示の時間は、神の側の真実として「啓示そのものによって教えられなければ」その一部分でさえ認識することはできない。したがって、私たちは、イエス・キリストの出来事を「神の啓示として理解」する時初めて、イエス・キリストの現臨の出来事=イエス・キリストにおける啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時」に生起した「われわれのための神の時間」であることを認識し理解することができる、と。

 

4)神の自己啓示は、イエス・キリストの現臨の出来事のことであるが、その出来事を、「何の留保もなしに」、「われわれの時間の中で生起したというならば」、その理解は、その最初から誤謬の中にある。なぜならば、その出来事は、「われわれがいつもながらわれわれだけでわれわれの時間をもっていた時に、神がわれわれのために」、その出来事に固有な時間を、すなわち神は「われわれのためにご自分の時間を、もち給う」た・「生起」された出来事だからである。言い換えれば、神は、その出来事において、「未来と過去をもったところの現在、その成就の待望と成就の想起をもったところの成就された時間、啓示の時間」・神の時間・実在の時間、「そして啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間、をもち給うた」、ということである。神の言葉は、その「存在の本質」である神性性において「とこしえに変わることはない」(イザヤ40・8)、その「存在の仕方」において「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」となった・「肉となった」・人間となった・「時間となった」・「時間的な現在」となった・「時間的な瞬間」となった(ヨハネ1・14)。また、「新約聖書の証言全体によれば」、「その甦りにおいても肉でありつづけ、また父なる神の右にいます栄光の姿にあっても肉であるし、肉でありつづけるのであれば、永遠は、(ご自身を聖書の証言にしたがって啓示し給う神の永遠は)時間なしではない」・聖書における「啓示」は「確かに永遠的な実在であるが、……だからといって決して無時間的な実在ではなく、……時間的な実在である」・「時間を造り出す」実在である。したがって、私たちは、その啓示認識において、「神がわれわれのためにもち給う時間」は、神と人間との無限の質的差異、啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異、という聖書的原理の下で、「われわれの生成し消滅する時間とは違って、永遠の時間として理解されなければならないのである」(102−105頁)。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活・「新しい世」・新しい時間のはじまりへと向かっている。このキリストの復活・成就の時間(「あの四十日」――使徒行伝1・3)は、『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造(徹頭徹尾、神の側の真実としての、啓示の客観的現実性)におけるそれであり、「新しい世」・新しい時間のはじまりであるから、まことの「過去」とは「成就」の「待望の時間」であり、まことの「未来」とは「成就」の「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(キリスト復活の四〇日)を待望する形においてある。また、「まことの未来」は、キリスト復活の四〇日とともに初まり、それは、ただ「キリストの復活を想起する形」においてあるのであるが、またそれは、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末・救贖・完成を待望する時間においてもあり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の四〇日)に参与する。「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもある。

 

5)旧約聖書および新約聖書の啓示が、イエス・キリストの出来事において、「まったく時間的であり、それであるから時間的に規定され、時間的に柵をめぐらされ」、「年代記的記述」において証言され証しされていることが重要である。「言葉の受肉が何時起こった出来事であるのか述べ」られていることが、また「ポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケ」等と述べられていることが重要である。この時間的な実在の記述の在り方が重要である。この記述が、「近代の歴史学の標準」から言えば、「ただ『古譚』あるいは『歴史物語』であることができる」ような位相(水準)のものでも、重要である。「年、日、時間は、神の啓示についての聖書的証言から切り離してしまうことのできない概念であって、また聖書証言を説明する際」、「決して瑣事として取り扱ってはならない概念である」。また、「人が新約聖書の中で」、「いま」・「いまの時」・「時〔間〕」・「きょう」・「日」という「言葉に出会う時」、それらの言葉は、「時計が知らせる時間」・一回性を本質としている自然時間を意味しているだけでなく、「それの内容ゆえに特別な時間であるイエス・キリストの時間」・啓示の時間・実在の時間を「言い表している」。「多くのパウロ的あるいはヨハネ的聖句の中で、例えばUコリント6・2が特に注目されてよい」――「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。このイエス・キリストの時間と「われわれの時間」との無限の質的差異は、その時間から攻撃された失われた「われわれの時間」とは全く違って、イエス・キリストの時間は、「支配された時間」、しかもそのことにおいてこそ、「実在」の時間・「成就された時間」である、という点にある。この場合は、「現在」が「過去と未来の間の真中で消失」しまい、そして「過去」と「未来」は「現在の中」に解消してしまう、この「ディレンマは発生しない」。すなわち、この場合は、イエス・キリストの啓示の時間・成就された時間・実在の時間という「まことの現在が存在する」からこそ、「まことの過去とまことの未来が存在する」、と言うことができる。「永遠から……語られた」「神の言葉がある」。「このことはまた、肉となった、……時間となった、神の言葉についてもいえることである」。イエス・キリストの啓示の内容は、「インマヌエル」――神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」という事柄にあるからである。このイエス・キリストの啓示の時間・成就された時間・実在の時間は、第一の「われわれにとって」隠蔽された「神によって造られたままの時間」(創世記1・14)・「創造された時間からも区別」された、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の救贖・完成としての未来を包括した「現在」・「第三の時間」である(105−110頁)。 バルトによれば、聖書における『古譚』あるいは『歴史物語』は、「思弁の前形式」としての「神話」ではない、すなわち「人間自身の事柄」として、「歴史を意図しているのではなく」「空間〔領域〕や時間を超越して(無空間的に、無時間的に)」、「人間存在の基本的な諸関係についての物語の形で述べられた描写」である「神話」ではない。例えば、復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっているのである。したがって、聖書の歴史・「古譚」あるいは「歴史物語」・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともあるのである。しかし、バルトは確信を持って語る――@「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている。A歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをするのであるが、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にあるものである。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」ことになる。なぜならば、啓示(福音の歴史・神の時間)は、人間の時間・人間の「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである(『教会教義学 神の言葉』)。このバルトの聖書の歴史認識の方法においてはじめて、ブッシュも述べているように、「その後に続いて起る史実的出来事によって凌駕されて古くなったり、相対化」されたりしてしまうことはないのである(『バルト神学入門』)。言い換えれば、このバルトの聖書の歴史認識の方法は、今後も登場してくるであろう人間学的領域における歴史実証主義的研究等によっても、人間学の後追い知識としての人間学的神学・哲学的神学によっても、時流や時勢によっても、またそれらの盛衰によっても左右されることのない、自立した神学における思想なのである。このことは、純粋な人間学的領域でも述べられている――「日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえない」(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』)。「神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論)。また、フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じ、「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは≫)、全く重大なことではないのです」、と述べている(『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」)。

 

6)イエス「ご自身によって宣べ伝えられた『神の福音』の最初の言葉は、時は満ちたである」(マルコ1・15)。この「満ちる」「プレイローマ」は、「容器、計画、概念、形式をみたしているもののこと」でから、「内容、目的、意味、(形式の中で可能性として告げられている)実在」であるから、したがって「時が満ちる」とは、「言葉の受肉の中で、言葉の受肉とともに、神の国が近づいたことの中で、神の国が近づいたこととともに」、徹頭徹尾、神の側の真実として、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」こと・「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エペソ1・9以下)ことを通して、すなわちキリストが「天にあるもの地にあるものを、ことごとく更新する」ことを通して、「実在の時間」・「成就の時間」(「まことの現在」)が生起したことを意味している、と言うことができる。旧約聖書において、「神の名」は「わたしは、有って有る者」(出エジプト3・13)であるが、新約聖書の「黙示録の著者」は、その神の名を神と時間との関係において解釈した。すなわち、その著者は、神の名を、「わたしはわたし自身を現在化するもの」・「わたしは今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者」・「全能者にして主なる神」として解釈した。すなわち、神の名は、「わたしはわたし自身を現在化する」ことにおいて、「昔いまし、やがて来るべき方、アルパでありオメガであり、起源であり目標であり、初めであり終わりである」方として、言わば「成就の時間」(まことの現在)を「待望」する時間概念(「まことの過去」)と「成就の時間」を「想起」(終末・救贖・完成への待望を包括した想起)する時間概念(「まことの未来)の同在において、「生ける者、全能者であることが実証される」。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13・8)。新約聖書においては、徹頭徹尾、神の側の真実としての、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」であるその神の自由な決断としての、「イエス・キリストの現臨」・「イエス・キリストの現在」、イエス・キリストの生誕・苦難・死と復活、「成就された時間」(キリスト復活の四十日)・「まことの現在」において、そしてそのことに基づいた「現在意識」、すなわち現在化された啓示認識・啓示信仰・啓示知識、すなわち「まことの現在」をそれとして認識することにおいて、「まことの過去」をそれとして認識し、「まことの未来」をそれとして認識した。ここで、「イエス・キリストの現在」・「きょう」・「まことの現在」は、「まことの過去」と「まことの未来」という区別を包括した同一性においてある。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日(イエス・キリストの日)を定められた」(使徒行伝17・30以下)。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことがない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(Tペテロ2・10)。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5・8)。しかし、この場合、「まことの過去」の「消失」を意味しない。「まことの過去」は、「旧約聖書の中で」生きつづけている、「キリストの死の中で成就された時間をまち望む待望の形で、生きつづけている」。すなわち、キリストの復活・「成就の時間」・「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・福音の「勝利の行為」の時間(「まことの現在」)によって、人間の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、自主性・自己主張・無神性・不信仰・真実の罪の只中にある「完全な敗北者」である「われわれ人間」の「失われた」・問題的な・「非本来的な古い時間」・古い世は止揚され克服されて「そこにある」のであるが、しかし、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、そういうものとして依然として「敗北者」のまま「そこにある」のである。このことは、『福音と律法』においては、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」・「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」、と表現される――「成就された時間」によって「限界づけられ、規定された」「われわれの時間」は、「まことの過去」として「原理的に既に過ぎ去った」、そして「過ぎ去りつつある」、そしてまた「なお依然として現在的」でもある、「古い世の時間」・古い世・古い時間である。また、「まことの未来」が「キリストの甦えりとともに開始されることが確かである限り」、それは、終末・救贖・完成への待望を包括した「キリストの甦えり(≪復活≫)をおぼえる想起の形でのみ宣べ伝えられることができる」。すなわち、私たちは、イエス・キリストの復活を<想起>しつつ、イエス・キリストの再臨・終末・救贖・完成を<待望>するのである。(110−115頁および126頁)

 

7)少し重複するが、福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世(≪「僕の姿」≫)」・時間は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造におけるそれであり、「新しい世」・新しい時間のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・「堕罪の時間」・古い世は、それに対する神の裁きである神性を本質とする「キリストの十字架」(死)を通した「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・「成就の時間」であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる。キリストの復活・「成就の時間」・「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・福音の「勝利の行為」の時間(「まことの現在」)としての、「旧約から新約への、キリストの十字架でもって終わる古い世」・時間から、「キリストの甦えりトともに始まる新しい世」・時間への「移りゆき」が「啓示」、すなわち、単一性・神性・永遠性(隠蔽性)を本質とする、神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方としてのまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト(顕現性)の啓示である。この聖書における神の自己啓示は、「神の時間」・「まことの実在の時間」の中で遂行されたイエス・キリストの出来事における「和解の善き業」・「唯一」の「恵みの契約」のことである。そしてこの「契約の仲保者」は、神性を本質とする「人なるキリスト・イエスである」。したがって、啓示(福音の歴史・神の時間)につての「誠実な真理探究」は、「新約聖書自身が始めているところで始め」なければならないのである。もしそうでないならば、その認識・概念における神学は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」非学問的な神学としかならないのである。すなわち、「われわれがイエス・キリストの現在〔現臨〕を、時間の成就として理解する時、したがってわれわれが、イエス・キリストの時間は古い時間のまっただ中での、そして古い時間全体のための、新しい時間の光であるという時」、常に神を「主語」として、「神はご自身を啓示する」・神は自己啓示するという命題は、「一―三〇年の間」が「成就された時間」・「神の時間」である、ということを意味するのである。したがって、人間的な歴史を主語として、例えば歴史的イエス・史的イエスを主語として、「歴史は啓示となる」と言う場合、「聖書の中で証しされている啓示に関して」、それが「もっている唯一の独自な意味」を喪失してしまうから、「歴史は啓示となる」と言うことはできないのである。したがってまた、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示」は、人間の類の普遍性と相対性としての「歴史の賓辞」ではなく、「歴史が啓示の賓辞である」、という点にある。「啓示」は、人間的な歴史の「深い意味および内容」のことではない。ヘーゲルのように自由を自覚した西洋近代を人類史の価値的頂点とする歴史哲学ではない、人間によって空想されたユートピアではない、人間の管理するプログラムではない。すなわち、人間の歴史は、「神的自由の行為」としての啓示となることはできない。言い換えれば、神の側の真実である啓示の時間・福音の時間・実在の時間・救済史・永遠は、常に、人間が人間的に所有する人間の歴史・人間の時間の、<彼岸・外>にある。したがって、両者の混淆や共働は、本質的にあり得ないのである。
 ここで、私たちは、こう言わなければならない――ヘーゲルやシュライエルマッハー等々だけでなく、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・「福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」、と述べたヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルの場合、その最初から「誤謬は必然」である。また、神と人間との無限の質的差異を揚棄して、ヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪人類史的段階でいえば、自然にまみれた原始未開の段階≫)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(≪人類史的段階でいえば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない、すなわち自由を自覚でき得ていないアジア的段階≫)」、「自由・霊の国・神の友の状態(≪人類史的段階でいえば、自然から完全に超出し自由を獲得・自覚した西洋近代の段階≫)、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想したモルトマン(山崎純『神と国家』)の場合も、その最初から「誤謬は必然」である。そしてまた、「イエス・キリストの出来事(神の国の先取り)」および「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念と人間の歴史およびモルトマンの対象化された自己意識の意味的世界であるユートピアとの混淆論・共働論、すなわち救済史と歴史・「救済史と普遍史」との混淆論・共働論に基づいて自由・霊の国・神の友状態へと進歩発展していくモルトマンの歴史形成論に依拠して、「神の自己犠牲の愛の霊が十字架に基づけられた教会によって担われ、それによって歴史が進展し、この世が変革され、神の国を目指す」という喜田川信の神学的進歩史観も、その最初から「誤謬は必然」である。(116−122頁)

 

8)啓示は「時間的な、歴史的な啓示である」が、啓示は、徹頭徹尾、神自身においてのみ「実在であり真理」である<神の自由の行為>・「神的自由の行為である」から、常に神を「主語」となる、「神はご自身を啓示する」・神は自己啓示する、という命題の「唯一の独自の意味」とは、何か?
第一に、「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、不可避的な、「既に出来事として起こった支配の行為」として語られている、という点にある。その場合、「そのことを語る者」は、人間の「理性や力」によってではなく、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、「啓示の時間」、「主人」、を見い出し・持っている、と言うことができる。すなわち、その場合、「そのことを語る者」は、「支配する時間」となった「成就された時間」によって、「限界づけられ、規定された時間以外の別の時間をもはやもたない」。なぜならば、「そのことを語る者」は、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示「知識の中でこの成就された時間と同時的となり、この〔成就された〕時間の同時代人となり、それであるからイエス・キリスト、預言者たち、使徒たちと同時代人」となるからである。また、「そのことを語る者」は、その啓示認識・啓示「知識」の中で、「問題的な、非本来的な」人間の時間・自分の時間・「われわれの時間」と、本来的な「実在の時間」・「神の時間」・「成就された時間」との無限の質的差異を認識し・自覚するからである。このように、「成就された時間」によって「限界づけられ、規定された」「われわれの時間」は、「まことの過去」として「原理的に既に過ぎ去った」、そして「過ぎ去りつつある」、そしてまた「なお依然として現在的である」、「古い世の時間」・古い世・古い時間である。そして、そのことの中で、私たちは、イエス・キリストの復活を想起しつつ、イエス・キリストの再臨・終末・救贖・完成を待望するのである。(122−125頁)
 さて、神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」(「まことの現在・現臨」)において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」(『教会教義学 神の言葉』)。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、啓示に、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性に、連帯するのである。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、次のように語るのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している (『カール・バルト著作集14』「ローマ書」)。
第二に、「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた啓示認識において、すなわち神性を本質とするイエス・キリストは「啓示を遂行するみ子」として、「あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになる」と考え・行動する人間(マルコ12・7)・『罪人のこのような反抗を耐え忍んだ』方という啓示認識において(ヘブル12・3)」・「やみの中に輝いている」方(ヨハネ1・5)という啓示認識において、「成就された時間」に対する「堕落した人間」の「人間的反抗」・「抗争」を、また人間の自主性・自己主張・欲求・無神性・真実の罪を、自己認識させられる場所として語られている、という点にある。その場所は、「われわれ自身」・「われわれの時間」、全人間・全世界・全人類、「古い世」・「アダムの罪」・「アダムの罪……の全体性」が明らかにされ自己認識させられる場所である。言い換えれば、このように、不可避的に、全人間・全世界・全人類は、このイエス・キリストにおける啓示・啓示の時間に対して「『躓か』ざるを得ないのである」。またこのように、自主性・自己主張・自己欲求・無神性・真実の罪を本質とする全人間・全世界・全人類は、「われわれの時間が実際に『成就された時間』によって限界づけられ、限定され」ることが、原理的には「既に過ぎ去った世として特徴づけられ」ることが、「いわばその全体性の中で屑鉄として捨てられてしまわなければならない」ことがどうしても許せないから、「時間の中での神」・「歴史の中での神」に対して、「『躓か』ざるを得ないのである」。イエスの十字架における、全人間・全世界・全人類の「全権委員」としての「イスラエルの民」の「振舞い」は、全人間・全世界・全人類の自主性・自己主張・自己欲求・無神性・真実の罪を守ろうとする「自己保存と正当防衛の行為」であった――「躓きは必ず来る」(マタイ18・7)・「罪の誘惑が来ることは避けられない」(ルカ17・1)・「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづくであろう」(マタイ26・31)。したがって、「ここでまさに自分を例外だと見做すところのものこそ、『あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』(マタイ26・34)」。したがってまた、このような啓示認識・自覚に基づくバルトのような「超自然な」信仰・神学・教会の宣教・キリスト教においては「誤謬は可能」であるが、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教においては、その最初から「誤謬は必然」となるのである。
 神性を本質とするイエス・キリストにおける「イザヤ的――パウロ的『僕の姿』」は、「自己保存と正当防衛の行為」をなすところの、自主性・自己主張・自己欲求・無神性・真実の罪を本質とする全人間・全世界・全人類における人間的「自然に抗する」、神の隠蔽・「隠れ」である。したがって、イスラエルの民においてだけでなく、全人間・全世界・全人類において、「真剣な意味」で、「キリストの出現の時」としての神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示・和解の業・「神の大いなるみ業」を「まことの現在」・神の自己啓示の時間・実在の時間として認識し信仰しない場合、啓示なしの「全能な世界時間、世界実在」・「文化史、民族史、戦史、芸術史」、「宗教史と教会史」が、すなわち「『キリスト教発生』の時」を基軸とした「すべてのほかの時間と同じ時間である世界史が、発生してくるのである」。このような自主性・自己主張・自己欲求・無神性・真実の罪を本質とする全人間・全世界・全人類の「われわれの時間」の只中に、すなわち神に「反抗」「敵対」する「人間を拒否されず、むしろ」神は、「反抗を通して準備された隠れ」において、「われわれに対して現臨することを欲し給うというそのことこそ、神の啓示の深みである」。(126−131頁)。したがって、私たち人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみである。イエス・キリスト自身に対する私たち全人間・全世界・全人類の真実の罪のために、「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」。したがって、「福音の勝利、恩寵の勝利」とは、私たち人間の、「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」なのである(『福音と律法』)。この神の自己啓示は、私たち人間に対して、赦罪や和解や平和や救済について、私たち人間から「生ずる現実は何もない」、ということを私たちに自己認識させるのである(『教会教義学 神の言葉』)。このことは、また『福音と律法』においては、こう述べられている――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」。
第三に、「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、「時間的に歴史の中」で「神の行為の出来事として起こっている奇跡」として語られている、という点にある。この「奇跡は啓示に属している」。「啓示はただ奇跡の形でのみ理解されることができる」――このことは、すなわち「神の現実存在がわれわれの現実存在のためにそこにあるということ、神がわれわれのために時間をもち給うということ、われわれの時間のただ中に神の時間が存在するということ」は、また啓示は「死人の中からのイエス・キリストの甦えり」の出来事・死と復活の出来事であるということは、「奇跡なし」の「われわれの現実存在、われわれの時間と歴史」にとって、「躓き」となる。なぜならば、啓示・神に対して、「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて」聞こうとしない真実の罪の人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍にとって、「闇でしかないところの人間」にとって、盲目でしかない人間にとって、啓示は、「奇跡(≪「啓示の隠れ」≫)の形でのみ起こることができる」からである。したがって、「神はご自身を啓示し給う」ということを認識し・信仰し・告白し・証しし・宣べ伝える出来事が起こる場合、それは、聖霊の注ぎによる出来事である、と言うことができる。すなわち、この啓示認識・啓示信仰の「可能性の主観的側面」は、「聖霊論」と関わる事柄である。
 聖書の「歴史的――批評的考察」は、「イエス伝研究」のように、「神の自由な、特別な、直接的な行為」としての「啓示に対して終始奇跡の性格を帰している……聖書の証言から」、その「性格を取り除いてしま」って啓示を理解しようとする場合、その最初から「誤謬は必然」となる。したがって、「最も穏健な保守主義から最も空想力豊かな、あるいは最も空想力の乏しい『高等批評』に至るまで、あらゆる変種の中でくわだてられた」そうした「こころみ」も、そうである。なぜならば、彼らは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」「大学社会の神学」において、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまって、神性を本質とするイエス・キリストの証言・証しである新約聖書から、「単に人間としてのイエスの姿」・「史的イエス」を、自然時間としての「一―三〇年」における史的イエスを、「妄想に近い熱狂家として」・「また、崇高な、宗教的――道徳的人格として」・「また尋常ならざる、……独一無比の賜物を賦与された超人として」・「しかしまさに根本的には人間として」・「われわれの自身の時間に属する仲間として生きた」「史的イエス」を、裸形的に「むき出しにして表そうと」試みるだけだからである。因みに、八木誠一は、人間学的神学・哲学的神学において、「イエスは……『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と述べ、イエス・キリストの神性性を揚棄するだけでなく、さらにイエス・キリストの「存在の仕方」・神の子・神の言葉性も揚棄してしまった(『イエス』)。この八木に対して、バルトは、「人の子」語句について、「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」・「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい・受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している、と述べている(『教会教義学神の言葉』)。もちろん、啓示の「奇跡に対する告白」について、そのことは、このように聖書の中で「証しされている啓示の奇跡」は、「啓示の奇跡〔を指し示すところ〕のしるしでしかない」から、「聖書の中で物語られているすべての奇跡を盲目的にまことであると見做すことを意味していない」。「奇跡としての啓示を告白する」こと――「神はご自身を啓示し給う」という命題は、人間の自由な自己意識の無限性に基づいた命題ではなく、神の側から授与された啓示認識・啓示信仰に基づく「徹頭徹尾感謝の命題」であり、「弟子たちが甦えられた方と出会った時の驚き」の繰り返しとしての「全くの驚きの命題」である。神の啓示における「隠れ、僕の姿、躓き」は、「神には何でもできないことはない」から、「神にとって何の障害も意味していない」。また、神の啓示は、「われわれの洞察や技術という手段を通して起こるのではなく」、あくまでもその都度の神の自由な決断において出来事として生起する。すなわち、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、その啓示に固有な証明能力、すなわち神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて生起する。また、人間の自己認識は、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通して得ることができる。「われわれのための時間」である「成就された時間」・神の時間が「存在するということ」、「神の啓示が歴史〔出来事〕であるということ」は、「われわれの時間」にとって、それは、「ギリシャ人の無時間的な神々」ではない、「時間の中でご自分を啓示し給うイスラエルの契約の神」・「全く時間的に啓示される方であり給う」「永遠の神」の前で、「千年は一日のようである」、ということを意味しているのである。(131−136頁)

 

9)「われわれの時間」が「成就された時間」によって「規定され、また限界づけられている」ことは、次のように説明できる――@「本来的な時間」・「実在の時間」は、「成就された時間」のことであるから、「聖書」が・「聖書の使信の宣教」が、すなわちイエス・キリストにおける啓示の「概念の実在」(類と歴史性)が、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてイエス・キリストと「同時的」となる時、すなわち「われわれを(≪イエス・キリストにおける啓示の時間から攻撃され失われた≫)われわれの時間から」、「イエス・キリストの時間の中へと召し、うつす時」、「われわれの生にとって最も欠かすことのできない滋養の摂取」となる。A「時間が啓示を通して成就されるということ」は、「われわれが時間として知っており、もっていると思っている」時間が、実は、イエス・キリストにおける啓示の時間・「本来的な時間」・「実在の時間」から攻撃され・失われた時間であるということを認識し自覚させられる、ということである。この場合、この認識・自覚は、「一般的な時間」に「危機」をもたらす、すなわち「われわれの時間の中で実在するすべてのものの、終わり」の告知となる――「わたしの時はあなたのみ手の中に有ります」(ルター)。Bイエス・キリストにおける啓示の時間・「本来的な時間」・「実在の時間」からする、「われわれの時間」への攻撃と否定の規定にもかかわらずその時間を依然として持っているという場合、それは、「われわれの時間」が、「神の忍耐に基づいて」、「万物が避けられない仕方でわれわれの時間の終わりに向かって進む進行はひきとめられて」いる、ということを意味している(「神の忍耐」について、「人は出34・6、ヨエル2・13、詩篇86・15および103・8ならびに145・8……に注意せよ」・「ローマ2・3および3・25以下ならびに9・22に、……Tテモテ1・16に、(中略)Uペテロ3・9、15に、(中略)創世記8・20−9・29に注意を向けなければならない」)。啓示は、「和解」という概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成の概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。このイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖・完成の中間時が、私たち人間が現存する場所である。それは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間の現存する場所である。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとって<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである――啓示が、「まだ救済でない限り」・「神の国そのものが近づいたこと(マルコ1・15)である限り」・「キリストはまだ『父の栄光のうちに』(マタイ16・27)来たり給うたわけでない限り」・「神の新しい時間がまだ唯一の時間でない限り」・「成就された時間と一般的な時間がともどもに並んで保持されているということが起こっている限り」・啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)が「ともどもに並んで保持されているということが起こっている限り」、「神の時間」は、「神の恵み」・「いつくしみ」および「神の忍耐」における、「神がわれわれのためにもち給う時間である」。Cこのように、時間がイエス・キリストにおいて成就されたことを認識し自覚する時、すなわち啓示の中でその時間の「起源」と「目標」を見い出す時、私たちは、「神の忍耐」に基づいて依然として持っている「われわれの時間」を、無限性としてではなく、「有限な時間」としてだけ理解することができる。この啓示の言葉が「現臨する中で」、私たちは、「われわれが時間と呼ぶところのものが間断なく過ぎ去って」行き、永遠の・実在の「神の時間が同様に間断なくやって来ること」を認識し自覚することができる。このように規定された時間の中で、その「時間に対応する歴史にかなった形で、その時間意識は歴史的な、世界観的な、倫理的な、政治的な意識であるだろう。それはこの時間の中で出会って、決してそのほかの時間の中でではない」。「歴史的な、世界観的な、倫理的な、政治的な意識」を「有限な時間として理解する」ということは、終末論的限界を認識し自覚するということであり、したがって、神学における思想の課題、還相的課題、究極的な課題としては、イエス・キリストの啓示の時間から攻撃された・問題に満ち満ちた・失われた「われわれの時間」・歴史・国家・政治等は無化されるべき対象としてある、ということである――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪政治的なもの一切を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『教会と国家』「キリスト者共同体と市民共同体」)。「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の国家・政治的権力≫)のともがらと成ることができようか (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。イエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済と平和の場所において、国家や政治的なもの一切の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としては国家や政治的なもの一切の無化を構造化させているのである。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、国家・政治的なもの一切も無化されてしまうという観点を持っているのである。(137−143頁)
 私たちは、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、私たちは、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを承認し確認する(『教会教義学 神の言葉』)。